《2010年3月20日に高知市立自由民権館の民権ホールであった「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会の第4回総会兼記念講演会・シンポジウムでの講演の詳細です》
ヘンロ小屋は39棟になりました。すごいスピードでできているので、歌さん(建築家、歌一洋・近畿大学教授=四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト主宰者)と話すたびに驚いています。89棟できるには20年30年かかり、私が生きている間には無理だろう思っていましたが、この分ではどうやら死ぬ前までに89を見ることができるのじゃないかなと思っています。
私はもともと朝日新聞の記者をしておりました。遍路は3回しました。1回目は44歳の時で、2回目が60代、3回目は70代の時に回りました。今日は第1回、36年前にお四国を回った時に感じたことをお話します。
このヘンロ小屋の運動は大変独自なもので、ある意味では遍路文化の中核的な活動になっています。古い伝統と新しい要素を付け加えている素晴らしい運動だと思いますけれども、こういう運動が出てくる基盤というのは100年、200年の歴史があるわけです。
36年前はちょうどはざかい期というような時期でした。1人で歩く遍路が減ってきて、バス遍路、団体さんが増えていきました。ばたばたと遍路宿が消えていき、お寺さんも宿坊があるけれどもこれも団体さんが使い、歩く人が少なくなっていきました。支えるというのか、支えられるというのか、その時分からだんだんすたれていって、支え合いという心が衰弱していった時期です。大都会ではそうでしたが、しかし、四国は違うという感じでしたね。
広島の31歳くらいのお坊さんと一緒に歩いていた時のことです。高知県の佐喜浜(室戸市)で、コンクリートの上を歩くので足が痛くなりました。お坊さんもいささかまいって、どうしようか、どこに泊まろうか、と思ったのですが、そのころは泊まるとこがなかったのです。雨が降ってきて、ずぶ濡れになって、どうしようかと考えていると、地元の方が「あそこに仏海庵というのがあるので、そこで頼めばとめてもらえるかもしれない」と言ったのです。
そういっては失礼だがバラックのようなところで、50歳くらいの小柄な女性の庵主さんが言いました。「このごろは、あまり人を泊めていないのですが、でも雨でずぶぬれで気の毒だからお入りなさい」。
通された部屋は4畳くらいで、泊めていただいて言うのもなんですが、異様な臭いがして、畳が2枚立てかけてありました。ちょっと足が不自由な方で、聞いてみるとご主人は事故で片手片足が不自由だとか。その当時は1人で住んでいて、熊のぬいぐるみを作る内職をしていました。
庵主さんは五右衛門風呂をたいてくださった。食事も出してくださったんですね。ご飯と野菜の煮付けというんですか、白菜とモヤシと油揚げを煮たものと沢庵が2枚。味噌汁もありません。無汁二菜。ありがたくいただいたんです。
後で見ますと、庵主さんは、私たちが食べた後の鍋にこびりついていたような野菜をを、自分のご飯の上にかけてお食べになっていていました。つまりご自分が食べる分を、闖入した私たちのために分けて、自分に食べるものがなくなったのです。それを見てしまい、すまない気持ちになりました。
東京で長い間住んでいて、そんな思いを抱いたことはあまりありません。自分が持っているものを分け与えることは、大変なお接待です。しかし、自分が失ってしまうものでも、人のために何のためらいもなく分け与えてくださった。慈悲の心というのはそういうののではないかと感じました。庵主さん申し訳ない。心を痛めるというか、ありがたいと思うか、つまり四国の一日一日はそういうものの連続でした。自分自身をいたく省みることの多い日々でした。
足摺に行って「タケマサ」という宿の女将さんにお会いしました。足摺岬は自殺者が多いんですね。中には遍路の方も少なくないということです。若い人も。
自殺のことを調べようと思って来ますと、「それはタケマサの女将さんに聞くといい」と教えられました。それまでに70人から80人の自殺者を救ったと聞きました。歩いている姿で分かるというんですね、若い子は。すぐホテルに連れて行って休ませる、寝させる。それでも黙ってしゃべらない子が多いそうです。
この人は頼りになる、信じていいんだとなるまで、黙って待つんですね。1週間でも10日でも。それで宿代とか食事代というものを心配するな、といって、請求するわけでもなく、話をするようになるのを待つ。夜中に急に足摺岬の灯台の方へ駆けていってしまうというような男性もいて、それを追いかけていって連れもどす、そんなことを繰り返ししているわけです。
自分が子どもの時非常に苦労をされてきたそうです。そこで、おかしな素振りの若い子を何か励ましてあげようとし、何とかなるんじゃないか、と考えるのです。これはやはり、お接待ですよね。つまり、人々の命を蘇らせるお接待をされているということでした。
私が何日歩いたか覚えていませんけども、私が今までいい加減な気持ちでやっていること、ただただ忙しがっていることを、「それがいったい何なんだ」と考えさせ、「お前の人生はそれでいいのか」と厳しい反省を迫るような体験をしたことが非常に印象に残っています。それで、またゆっくりと回ってみようということで、60代になり、70代になり、歩いているわけです。
70代になって歩いている時に、歌一洋先生やヘンロ小屋のことを知り、いくつもののヘンロ小屋を訪ねました。一つ一つのヘンロ小屋は開設される深い歴史があります。たくさんの人々がこれに参加しています。この運動は、いま日本人に一番欠けている「支える支えられる」ということの大切さを教えてくれるます。遍路をしている人だけでなく、沢山の人に教えてくれる運動だと思います。
ヘンロ小屋は見ただけでも美しいですね。こういう美しいものが根付いています。あと半分ちょっとものが、どのような形でできてくるかわくわくするような気持ちで見守っています。
四国は「お四国」という言い方があるように、「お」がつくところが素晴らしい。九州を「お九州」とは言わないでしょ。東京を「お東京」と言ったら、笑われます。四国では「お」をつけてもおかしくないんです。「お四国病院」という言い方がありますけども、「お」がつくことで四国を慈悲の島に変化することが素晴らしいと思いますね。
慈悲の心は、いくらお経の本、仏教の本を読んでも難しいけれども、四国を1日、2日、1週間、1カ月歩くことで、慈悲の心は一体何なんだと、というのを感じます。若い人が不審な素振りでいれば、お茶を飲ませ、眠らせ、宿を提供するj人がいします。何の得にもなりません。でも10人、20人、50人、100人と蘇らせる人が、四国にいます。
何で四国の人に、慈悲の心がいきわたっているのかとしきりに思います。私自身、東京の街を歩いていて、素振りのおかしい人がいたとして、自分の家に連れて行くことが果たしてできるかどうか。四国に来るたびに新しい発見があり、自分の生き方を根本から考えさせるものがあると感じているのです。