四国遍路ということに関しましては、2000年に「ある日、突然お遍路さん」といった本を出版させていただきました。いつ歩いた話かと言いますと、1993年ですので、こちらのお話をいただいた時にふっと考えたら、もう20年も前の話だったんだなあと思いまして、改めて時の過ぎる早さに驚いているんです。3年がかりで全部歩きまして、本の出版にこぎつけました。
その後、途切れ途切れに歩き続けました。とは言っても、2巡目が終わっていないような段階なので、歩き遍路に関してはずっとずっとみなさまの方が先輩ではないかなあと思うんです。
20年前の歩き遍路というのは、今とは全然環境が違ってまして、まだ携帯電話も持っている人がいたらビックリするような時代だったんです。宮崎建樹さんの歩き遍路専用の地図というのも、それほど知られてなくて、四国に来て初めて、「こんな地図出てたの」という段階でした。もちろんインターネットもそうそう普及していませんでしたで、全く情報がないまま歩き始める方の方が多かったような時代でした。
私も自分自身の力で歩き始めたわけではなくて、弟がアメリカの方で、日本にお坊さんとして移住してこらたというちょっと変わった経歴の方なんですが、その方にお先達していただいて歩き始めたということがあるものですから、何もわからなかったのですよね。
その時代のことを考えますと、今は携帯電話はありますし、スマートフォン開ければ、現在位置どこ、最近は目的地どこ、ルートこれ、どれくらいで行けますというのが全部、地図上で見られて、リアルタイムで歩きながら、車のカーナビと一緒ですよね。そういう風に歩けるような時代になっているもんですから、私の周りでお遍路にちょっと興味持っている若い方なんかも、車載カメラといって、タクシーにカメラつけてずーっと自分のドライブを写すという機能がありますけど、あれと同じものを自分のお腹につけて歩いて、動画で記録して、それをその後に編集して、動画サイトにアップするというのが目的で、ちょっとヘンロを考えている人が実際にいたりするぐらい、全然様変わりしているんだなあと思います。たかだか20年で、こんなに変わっちゃうのかなあと、驚いている次第です。
そうは言っても、人間そのものにそうは変わりはないというか、お遍路スピリットというものでしょうか、お遍路する者はそうは変わらないんじゃないか、状況が変わっても、かわらないんじゃないかなあと思っているんです。
私は1993年から歩いて、最後に歩いたのが2004年の春だった思うので、約10年間はお遍路のことばっかり。次はいつ行こうということばっかり考えていました。その時に得たものというのは、20年たって消えちゃったかというと、全然消えてないんです。その時に得たものというのは、大げさに言うと、自分の旅する力でもあって、旅する力というのは言い換えると、生きる力みたいな部分があります。今の現代生活で例えばボタン1つでお湯が出てくる。とても便利で、食べたいもの何でも買える。お風呂毎日入れる、食事も食べたい時食べられる。こういう生活を私たちは当たり前のようにしているんです。
これは100年前でしたら、王侯貴族にしか許されないような特別なぜいたくだと思うんですよね。それを本当にごく当然のごとくのように消費し、使っているということが、どれだけぜいたくなことなのかということを、私が感じられるようになったのは、四国遍路を歩いたからとしか言いようがないです。何か自分の立ち位置、どうやって生きていくのか、何がありがたいと思って生きていくのか、ということはお四国さんで教えてもらいました。それはどこにいても、何をやっていても、忘れたことはない、という気持ちではいるんですね。歩いてはいなくても。
当たり前に暮らせることのありがたさ
2011年に東日本大震災があったわけですが、私が歌先生とご縁ができたのは、その直後に雑誌の取材でヘンロ小屋プロジェクトを取材させてもらった最初です。その時、大震災から2カ月ぐらいで大阪に来たんですが、東日本は節電、節電で駅のエスカレーターは全部止まっている。駅の構内は真っ暗、どこへ行っても真っ暗という状態だったんです。駅の階段を、こんなに上り下りしなければならなかったのかと思いながら、必死になって大阪にたどり着いてみたら、エスカレーターもエレベーターもバンバンに動いているし、この違いは何なんだろう、と思ったりもしたんです。歌先生との出会いの中で印象づけられているんです。
その時も被災なさった方に比べたら楽な暮らしをしていたわけですけども、ガソリンがない、計画停電といってある地域で電力の供給がある時間ストップしてしまうという、現代生活が根底から崩れることも経験したんですが、その時もそんなにビックリしなかったんです。電気がなくても生きられるし、私たちが夏は冷房、冬は暖房と何でもかんでも電気という、ふつうに考えても人類史上ありえないようなぜいたくな生活をしているだ、ということも改めて感じさせていただきのも、お遍路の経験だったと思うんです。
当たり前に暮らせることのありがたさということになるかと思うですが、雨露をしのぐ家があって、1日の食べ物があって、明日明後日のことが保証できないという生活ではないんですよね。1週間2週間先、自分が生きているかどうかも分からないという状況で生きているわけではなく、1カ月後2カ月後おことも計画立てたり、人と約束したりして過ごせるという人生を自分は生きていられるということが、本当にありがたいことです。日々感じていると言えばうそになりますが、何かの折に感じることができるということができるというのが、お遍路スピリットというもので、経験者の方はみな持っていらっしゃると思います。
ヘンロ小屋は例を見ないプロジェクト
遍路は世界でもまれな不思議な巡礼のプロセスだといつも思っているんですね。それは循環するということ、始まりもないゴールもない、どこから始めてもいいし、途中でやめたからといって誰からも何かを言われるわけじゃないし、どんなスタイルでやっていてもいいしという、ものすごく懐の深い巡礼スタイルだと思ってます。
ここにさらに、ヘンロ小屋プロジェクトというのがあって、これは日本のどこを探しても、このようなたぐいのプロジェクトをやってますだとか、成功しています、というのは聞いたことがありません。歌先生を含めてすべてがボランティアで、お遍路への心がある人たちが集まって、これだけのことを成し遂げてきたということと、今成し遂げつつあるということ、確か今45軒目まで進んでいるとうかがっています。
私が2年前にうかがった時が41軒でした。本当に順調にここまでできているというのは、すごい事じゃないかなあと、今日こちらに来て、改めて思いました。(完成した小屋の)パネルを見ただけでも、びっくりしました。1つ1つが違うデザインです。もし、お金さえあれば小屋を造るということはできちゃうことだと思います。それを1つ1つ土地の人と話し、土地の伝統や歴史や文化を生かして、こういった形にしていくということは、心とかお遍路への思いがみんなの中で共有されていないと、できないことだと思います。そういう意味でも、ほかに例を見ないプロジェクトだと思います。
ちょっと最近の私自身の仕事についてお話させていただきます。文化財について取材する機会が結構増えてます。四国霊場にもたくさんあります。石手寺の仁王門は国法なんですよね。石手寺のほかのお堂なんかも、国の重要文化財であったり、昨年だと思うんですけど、善通寺が重要文化財に指定されただとか、日本各地に文化財というものがたくさんあるます。
文化財の宿で棟梁の思いに触れる
その文化財の中でも、私が取材する対象は文化財に登録されたりしながら、旅館として今も営業しているというところを、ここ最近は集中して取材させていただいているんです。つい先日うかがったところは、箱根にあります明治12年に建てられました萬翠楼福住(ばんすいろう・ふくずみ)というお宿です。国の重要文化財に指定されている旧館というのがあるんですが、こちらは今でも普通に宿泊ができるんです。
建てたのは当時の大工の棟梁さんですとか、お宿のご主人さんです。国の重要文化財に泊まると何を思うかというと、時を超えて、棟梁さんたちがどういう思いで造ったんだろうかと、思いをはせるんですね。
私自身は団地で育ったものですから、床の間も縁側もないというところで育ったものですから、床の間自体が勉強の対象なんですよね。床の間って何であるのとか、どういうものなの、誰が考えたの、何のためにあるの、と。私の世代でする、そうなので、今の若い方たちはもっと知らなくて、ほとんど外国人と同じ目線なのかもしれません。そこで、床の間のしつらえだとか、書院のサイズだとか、ここに桜の木を使っているだとか、何でこんなに天然のままドーンと床柱据えたんだろうかだとか、1つ1つ取材するんです。
取材するんで見ないわけにいかないで見てますと、この棟梁さんは何を伝えたかったの、と考えるんです。ここはワイルドな感じにしたかったのかなあとか。また、自分の技を見せるという考えがあったかもしれないし、こういう空間をつくって楽しんでもらいたいとか。普通の住宅ではなくて、旅館なんで、ちょっと非日常的に普通の住宅ではできないことをやってみせて、楽しんでもらいたいという思いがあったのかなあということを、つくづく考えているうちに、明治の棟梁さんと話がしたいなあと思うんです。私、こう思ったんですけど、何でこういう風に仕上げたんですか、と。
すごく落ち着く感じがするんですけど、床の間の横に上げ下げ窓がついていたりするんですね。もう明治ですから。これ、どこで習ってきたんですか、と。これどういうつもりでお付けになったんですか、とできたら聞いてみたい。
文化財は生きたものとして活用できたら
私は建築に関してはど素人なんですが、ふと考えたのは、建物の中にいて、建物を造った人の思いとコミュニケーションできるんだなあということです。それが文化財といわれるような一応お墨付きのついたような旅館に行くと、1つ1つ個性があって、文化とか歴史とかがその裏にあって、こちらがある程度勉強していないと、棟梁さんが何を言いたかったか受け取れないんです。それもまたコミュニケーションで、ただ一方的にもらうだけではなくて、自分も勉強して、それで聞けるところは聞いて、知らないちところは学んで、それでその建物を理解していく。その中で自分は包まれて、一晩静かに安らいで眠れるという体験をしながら取材しています。
文化財というのは、過去の遺物になってしまって、ありがたく遠くから拝見するだとか、お金払って拝観させてもらって終わるだとか、そういったものじゃなくて、もっと生きたものとして活用できたらいいのになあ、とつくづく思うんです。
重要な役割はたした泊まり屋
ここでいきなりヘンロ小屋に飛ぶんですが、高知県の宿毛市に、浜田の泊まり屋おイメージしたヘンロ小屋があります。浜田の泊まり屋というのは実は、オリジナルを取材したことがあるんです。
昔は若衆宿とかいう言い方をしたと思うんですが、集落の若い男性だけが、女人禁制で、集落を見張るような場所に高床式の小屋を建てて、そこで集団生活をする。青年期ですね、少年期が終わって中学を出て以降くらいかな。集団生活をしながら村のしきたりを習ったり、農作業について教えてもらったり、そのための一種の集会所で、寝泊まりするんですよ。
すごく面白いと思うんですけど。そのための小屋というのが、もともと宿毛市の集落にたくさんあったそうです。今唯一その遺構が残っているのは、オリジナルの浜田の泊まり屋です。これは文化財になっています。今は」もちろん泊まれませんし、こういう時代なので、鍵をかけて登れないようにしておかないと、誰がそこに登って何をするか分からないということで、外から眺めることしかできないんです。
それでも私が取材した時にその集落の、80くらいの方がお二方、実際に泊まっていた方が出てきてくださった。何とか兄ちゃんはここで、こういうことやったんだよね。それは、いついつだったよね、とか、学校の帰りに受験勉強をここで教えてもらってんだよね、と思い出話をすごく楽しそうにお話しされていたんです。電話のない時代は、そこに泊まっていて、村に急病人が出た時は、「泊まり屋のにいちゃん、先生呼んでんで来て」と言われて、お医者さんに走ったり、そんな役割も担っていたそうです。
↓写真=浜田の泊まり屋
ヘンロ小屋でコミュニケーションを
れだけ大切な役割を担っていたものでも、どんどん時代が変わってしまうと、ただそこにあるだけの、言い方が悪いかもしれませんが、過去の遺物のようになってしまって、それを活用するのが難しくなってしまうんですよね。浜田の泊まり屋もいつまであってくれるのかなあ、と思いながら帰ってきたんです。それが今、歌先生のヘンロ小屋10号として、美しく海辺に建ててあるということを、私は拝見しました。そのヘンロ小屋であれば、今でもみなさん使っていらっしゃるし、これからもずっと使われるとおもうんですね。
この泊まり屋に通りかかった歩きお遍路さんが、オリジナルの浜田の泊まり屋のことをもし知っていれば、ものすごく面白いと思うんです。そこで、その建物を建てた人、造って維持管理なさっている方の生活ですとか、暮らしですとか、これがどうしてここにあるのかという来歴ですとか、そういったことに思いをはせれば、ものすごくそこでコミュニケーションができると思うんですよね。土地の人ともコミュニケーションできるし、小屋ともコミュニケーションできる。それがヘンロ小屋1つ1つに、そういう思いがこもっていて、そこで休むことで何かしら自分が感じたり、造った人の思いを受け止めたりすることが、何百回も何千回も繰り返されていって、私たちの心の文化財という形で、これからずっと残ってくれれば、これほど素晴らしいことはないんじゃないかな、といのが私の思いなんです。
私はライターなので、だいたい文章を書いていりますし、自分が見聞きしたことしか書けないんです。見聞きして想像することしか書けないんです。それをまた、読んでくださった方にしか伝えられないんです。歌先生のヘンロ小屋は多分、歩き遍路の方が全員、どこかしらで利用なさると思うんです。その建物がある、形がある、利用できる。そこにあってくれることの奇跡的なありがたさを、再認識させていただければうれしいなあと思います。まだまだ、そうは言っても、道半ばということで、89軒目が完成するまで、私も微力ながらご支援させていただければ、いいなあと思っています。
↓写真=ヘンロ小屋10号「宿毛」