《2013年3月16日、大阪市中央区、歌一洋建築研究所「空の箱」で開かれた「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会第7回総会及び記念講演会での講演。読みやすいように、中見出しを入れました》
辰濃です。よろしく。
第3号の「阿瀬比」出ます?(第3号阿瀬比の映像を写す) 歩いていてヘンロ小屋があると、だいたい立ち止まるんです。阿瀬比は思い出があるんですよ。ここは平等寺に行く道ですよね。3人の青年がここで休んでいたんです。
この青年とは前にすれ違って言葉を交わしたんで、あの若者たちだなと思って、小屋の中に入ったんです。そうしたら、「おじいさん」と言ったのか、「おじさん」と言ったのか覚えていないんですけど、チョコレートか何かくれたんですよ、若者たちが私に。それがものすごくうれしくて、私が持っていた丸いチーズがあったから、ちょうどみなさんに配ってね、すごく喜ばれてね。
ヘンロ小屋に手を合わせた若者
見たらこんな大きな荷物を持っているんですよ。野宿して歩いている。その中に1人に、外国の人がいてね、アメリカの人だと思うんですが。その人が「持てるか」と言ったんです、日本語で。「そんなの何でもないよ」と言ったらね、「おじさんに持てるはずがないよ」と、もう1人の学生が言ったんです。僕が試しに抱えてみたら、ヨロヨロと倒れちゃうぐらいで、実際に倒れちゃったんですよね。
みんなに笑われてね、「おじさんに持てっこないよ、持てっこないよ」と言われたり、そんなことをやりながら、やっぱり若い連中はいいなあと思い、さあ立とうと思ったら若者たちも立ち上がって、手を合わせてるんですよ。まさか私に手を合わせるはずはない。彼らは建物に「ありがとう」の手を合わせてたんです。「休ませてくれて、ありがとう」と。
僕は学びましたね。僕はそれまでね、ヘンロ小屋を訪れた時に、ヘンロ小屋に「ありがとう」という思いがなかった。僕よりも60くらい年下の学生に教わりましたね。この連中が徳島からわずかここまで、22番の平等寺の前まで回ってね。おそらく周る前までは、ヘンロ小屋で世話になった時には「ありがとう」という感謝の気持ちを伝えたいということは、失礼ながらなかったんじゃないかと思います。それを、歩いていきながら、いろんな方にお接待をいただき、自分は何で歩いているのかと考えて、自分は1人歩いているんじゃない、人々の世話になって歩いているんだと感じ、こういうこともあった、ああいうこともあったといううちに、利他の心みたいなものを段々と身につけていったんじゃないか。
私は2回も3回も歩き遍路をしながら、おヘンロ小屋に「ありがとう」と手を合わしたことはなかったんですよ、それまではね。ありがとう、ということがどんなに大切なことかということを、私も3回歩いて、段々身につけてきました。
靴の裏を見て「ありがとう」
登山靴を履いて私は歩いているんです。若い人には「こんな思いものを履いて歩いていたら、疲れちゃうよ」と笑われるんですけど。長年の慣れで、重い登山靴を引きずって歩いているんです。
コンクリートの上に座って、ちょっと靴の裏を見ると、いっぱい小石が詰まってるんです。それを1つずつ取りながら、この靴は大変な思いをして、私が歩いている時に、私の足になって、小石をみんな取ってくれているんです。裸足で歩くことができないわけで、靴の裏を見ながら、「ありがとう」とは言わないけれども、ありがたいなという気持ちになるんですね。不思議でね、東京で生活していて、靴の裏を見て「ありがとう」なんて気持ち、ならないんですよ。
四国を歩いていると、歩いている靴の裏を見て、「ありがとう」という言葉は出さなくても、「お前のおかげで、歩いていけるのは、ありがたいことだなあ」という気持ちになるんですね。これはね、お遍路独特のものか、四国を回っているからそういうことになるのか。銀座を回っていると、まあコンクリートに座ることはないんですが、靴の裏を見て「ありごとう」という気持ちは、まあなかった。
それが四国を回っていると、靴と自分の足の間にはさまって守ってくれている靴下もありがたいなあ。雨降った時の傘、これもありがたい。杖、これもありがたい。段々段々、「ありがとう」が増えていくわけですね。レインコート、これもありがたい。
遍路をしていて、何を学んだかというと、靴の裏についている小石を取りながら、「これはありがたいんだ」ということを、段々気づいていく。おヘンロ小屋に止まって、そこで30分休んで、休ませてくれたヘンロ小屋はありがたいなあ、という気持ちになってくる。不思議ですよね。普通の暮らしで、靴下ありがとうなんて気持ちになかなかならないんです。
モノの中に心を見る
話がそれましたが、私がこの会にかかわるようになったのは、小田実さんというベ平連をやった方の手紙の最後に、「大阪に行くことがあったら、こういう人がいるんで、会ってみたらどうですか」というのがあったんです。亡くなる3、4年前ですかねえ。それが歌一洋さん(四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクトの主宰者。建築家、近畿大学教授)だったんです。それがなければ多分、歌さんに会う機会もなかったんじゃないでしょうか。歌さんというのは大切な人ですけど、大切な人に巡り会わせてくれた張本人は小田実さんなんですね。
お遍路をしている時に連絡をして、徳島でお会いしました。一緒にお寺に行きました。雪の中、歌さんが車を運転してくださって。後は山道登って、私はそのお寺に泊まって、歌さんは大阪に帰られたということがありました。
本人を前にして言うのもおかしいんですが、体は小さいですが、非常に大きな人、素晴らしい人だと思いました。四国という土地に大掛かりな曼陀羅を描こうとしている、建物という曼陀羅を描こうとしている、と。
今みなさん、ご覧になってすごいでしょう、(ヘンロ小屋は)みな1つ1つ違うんです。違うんだけど、どこかで統一されている、曼陀羅を描くように。1つ1つ違うけど、全体として歩くこと、見ることによってあるメッセージが伝わってくる。この場合はふる里の芸術であり、ふる里の美術であり、ふる里の伝統であり、思想であり、いろんなものが1つ1つの建物に詰まっている。それが88の曼陀羅になっていく。
私は歌さんにお会いして、これからこういうことをやろうと思っているんですよ、と話を聞いて、ものすごく楽しみになりました。その土地の伝統とか生産とか、人々のつながりをこういう風にしていくんですよ、というのを聞いて、大きい人だなあと思いましたね。そういうことを発想する人がすごいと思うんです。
私はちっこい人間ですからね、なかなかそんな大きな発想はできない。だからこそ、小田実さんが「お前さん、少し勉強してこい」と言われたんじゃないかと思います。
「施す」と「施しを受ける」
私は80までは病気というものを一切したことがありませんでした。薬なんかもほとんど飲んだことがない暮らしをしてたんです。俺は大丈夫なんだと。ある日、お遍路していて泊まったら、泊まったところのおばさんが「お遍路さん、よかたら下に下りてらっしゃい」と言うんです。下りていったら、巡回保健というのがあって、おしっこをして紙をつけて色を調べるのをやっていました。「よかったら調べてもらったろどうですか」と言うんで、3、4人みんな調べてもらったんです。
私は自分が丈夫だと思っていますので、何もないよと思いながらやったらね、色が悪い色に変わったんです。「糖尿のけがあるので、帰ったらすぐ精密検査をしてもらった方がいいですよ」と言われました。それが70代の1番終わりかなあ。戻ってきたら、やはり血糖値が高い。そうこうしているうちに脳梗塞になりまして、食道炎になったり、今でも2年半かかっても治らない病気もありまして、原稿は2年数カ月書けない状態でした。今は3、4枚の短い原稿なら書けるようになりました。
治療で通っているところは、麻酔薬の注射を打って、記憶の中からしばし痛みを取り除くというブロック療法をやっているんです。施無畏クリニックというんです。施無畏は観世音菩薩のこともいうんです。施無畏クリニックは観世音菩薩がやってくださっているクリニックだということです。畏れをなくすよう施す、痛みとか心配とか、人間が取り付かれている悪いものをポジティブな方向に持っていく。それが施無畏クリニックの精神なんです。
私は四国遍路をする前は、施すという言葉は嫌だったんですよ。何か偉い人が自分の持っているものを施すというようなイメージがあるんですよね。もらう方も何か初めは、お接待でいただいてもいいのか、私はそんな大したこともしていない人間なのに、と躊躇がありました。段々それが、ありがとう、に変わっていくんですが、その過程が大事だなと思っています。四国遍路は一言で言えば、「ありがとう」を学ぶ、「ありがとう」を実感する、その修行の場です。いろいろ学ぶことはあるんですが、私にとって1番大きいのは「ありがとう」を学ぶことだと思っています。
患者の便を取った看護婦が「ありがとうございました」
話が飛んで恐縮ですけど、病気の話をした時に話そうと思ったことがあるんです。それは日赤の武蔵野病院に入院した時の話です。3週間から4週間ほど入院したんです。ある夜、「ありがとうございます」と看護婦さんが言っているんです。びろうな話ですので、こういう席ではあまり言いたくないけども、言いたいんです。
便秘が患者に多いです。私と同じ後期高齢者で、あるいは末期高齢者で大手術をしたらしくて、言葉もあまり出ない人が寝たきりになっていらっしゃる。夜になって、大きな声で看護婦さんが言っている。大きな声でなければ聞こえないんですけど。「じゃあ、私が取りましょうか」と言っている。便秘で取るということです。想像していただきたいと思うんですが。大きい声なんでみんな聞こえるんです。実況中継みたいに。いやでしょう、便秘を取るなんて。「もう少しこうして、ああして」とか、「それじゃあ、取れないわよ」とか。大きいのと小さいのとがあって、「大きいのが奥の方だから、どうのこうの」って、細々と実況放送されて、看護婦さんは大変だなあと思いながら聞いておりました。
30代の看護婦さんでしたね。結局、小さいのしか取れなかった。看護婦さんは「ごめんね、ごめんね」と謝っている。でも「これだけは取れた」と言っているので、少しは取れたんでしょうね。患者の方は「あー」とか「うー」とかしか言えないんですね。
終わって最後に看護婦さんが「ありがとうございました」とおっしゃったんですよ。僕はねえ、そのころ病気で弱っていましたから涙もろくて、思わず涙が出ちゃったんですね。老人の便をとるのは、普通の人は嫌がるし、大変なことだと思うんですけど、最後に「ありがとうございました」と看護婦さんがおっしゃったんですね。こりゃ、何だろう。
看護婦さんというのは結局はみなさんの病気を良くするために働いているので、少しでも良くなればありがたい、そのことに協力して私に便を取らせてくれたから、そのことについて「ありがとうございます」とおっしゃったのか、いろいろ意味を考えました。いずれにしても、その時に言った「ありがとうございました」という言葉は、ずっと心に残っているわけです。「ありがとう」というのは大変な言葉なのだなあ、と思います。
「ありがとう」という言葉は何かをしてもらった時に「ありがとう、ありがとう」とつい言うんですが、本当の意味で「ありがとう」と言っているのか、ただ習慣で言っているのか。そのことがどういう意味なのか。どういう感じから「ありがとう」と言っているのか。本物の「ありがとう」はどういうものなのか。それはお遍路することによって分かることではないか、という事を言いたくて、あれこれの話をしてるんです。
日常茶飯事のようなお接待
足摺岬から北に上がってくるところで、田んぼの多い地域に入って、のどがカラカラになっちゃったことがあるんです。運悪く、準備していた飲み物が少なかったのかなあ、飲んじゃったんです。都会だったらその辺で水をとったりできるんですけど、店もないんです。困ったなあ、どうしようか、熱中症になったら困るな、と思っていたら、小型トラックがきて止まったんです。止ったのは私がいたからではなくて、そこの家に入って用具か何かを取りにいったんです。
私が小型トラックのおじさんに、「どっかこの辺で、雑貨屋さんありませんか」と聞いたんです。雑貨屋には水を売ってますからね。「雑貨屋は2、3時間行かないとないよ」と言うんです。「2、3時間じゃちょっと困ったな」と、そんなやりとりをしていたんです。そうすると、おじさんが「コーヒー飲む?」って言ってくれたんですね。私があまりにも、心細そうな顔をしていたからでしょう。
農家の人は出掛ける時に、ポットにコーヒーなんか入れて持っていくわけです。そのポットを出してきて、コーヒーを茶碗に入れようとするんですよ。私は「待ってください。こんなのいただけない。あなた方が昼飯に、あるいはお茶の時間に飲むためのもので、そんなもの、とてもいただけませんよ」と言ったんです。「いいよ、いいよ。俺はただ、お袋や親父がずっとやってたことを、そのままやってるだけだから。小さい時から親父がお遍路さんに、お米をお接待したり、それを見て育ってきた人間なんだから、蓮慮するな」という理屈をおっしゃって、コーヒーをくださった。
私はその時に、四国の方々のお接待というものの厚みを感じました。くたびれながら倒れながら歩いているお遍路さんを助けてやろうというのもあるでしょうが、自分の親やそのまた親や代々、お接待が当たり前のようにされてきた。それは伝統ですよね。だから、水がなくて困っているじいちゃんがいたら、お接待でコーヒーをいれてやる。それをごく、当たり前に、自然にやっていらっしゃる。これも非常にありがたいことで、毎日のように私にもありました。
おばあさんが「どこに行くの」と訪ねてきて、「ここに行く」と言ったら、「そっちの道を行ったら大変で。日が暮れちまう。近道教えてあげる」と言って、90度腰を曲げているおばあちゃんがスタスタ歩いていかれて、「こっちの方が近道だよ」って、80メートルか100メートル歩いて教えてもらったことがあります。そういうことに何回も遭いました。場合によっちゃあ、自転車に乗った人が、わざわざ自転車を降りて、自転車を押して歩いて、別れるときに、買ったばかりのパンでしょう、いくつか出してきて、「2つ、3つ食べていきなさい」言ってくださる。そういうことを、日常茶飯事のようになさる。
レストラン入って食べて、出ようとすると、ゆで卵を3つ4つ入れたものをくださって、「どこかで休む時に食べて」とおっしゃる。ありがたいということは、滅多にないことだから「有り難い」ですけど、四国ではそうじゃないんですよね。ありがたいことはたくさんあるんです。
東京の「ありがとう」と、大阪の「ありがとう」は違うんじゃないかと思います。こう言うと東京の人は怒るかもしれませんが、大阪で「ありがとう」は温かみがある。第1、「ありがとう」は大阪の方が多いんじゃないでしょう。梶川さんでしたっけ、そうおっしゃったのは。
<会場の梶川伸・「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会副会長=大阪の人は、例えばお買い物をして、買った方が「ありがとう」という。東京から来た人は、それが1番最初に違和感を覚えるそうです。東京の人は照れくさくて「ありがとう」と言えないんじゃないですかね。
ヤクザの方もいました。左手の指がなくて。指を見てたら「ヤクザやってたんですよ」って。すごい怖い顔して、歯が3つ4つ欠けていましてね。「ヤクザやってて、人を地獄に追い込むようなことをやってたんですけど、今はお遍路をやっている」と言う。「1番から回り始めて88番まで行ったけども、こんなに人に対して悪い事ばかりしていた俺に、『うちに上がっていけ』とか『風呂に入れ』とか『ご飯食べていけよ』とか、こんな世界があると、俺は知らなかった」と言うんです。
「ありがたかった、けど、辛かった」
88番まで行って、今度は逆打で回ってきて、71番の弥谷寺まで戻ってきたところで、私は会ったんです。すごいことを言ったんです。「この荷物の重さは、罪の重さだ」というようなことを。できすぎだな、と思いながら聞いていましたけど。ただ、私の印象では、ヤクザのふりをしながらというインチキな感じではなくて、正真正銘のヤクザだったと思いますけどね。その人が自分に対していろんなことをしてもらって、「ありがたかった。けど、辛かった」と言ったんです。
これは本物じゃないかなと思いました。その人が「生きる」ということを真面目に考えていれば、どんなにひどいことをしでかした人でも救いがあるんだよ、ということでしょう。1番から88番まで回ってまた戻りながら、つらつらきちんと考える機会もあるだろうし、本当に「ありがとう」と素直に言えるようになるのかどうかを考える機会でもあるでしょう。その人は、何か遍路に関係のあることをやりたい、と言っていました。
土を踏み風に吹かれて、ありがたさを知る
私が言いたいのは、ヤクザさんにも、「ありがたさが辛い」と言わせるようなことが、遍路道にはあるんじゃないかということです。1番最初に靴の話をしましたが、靴が靴下になり、靴下が笠になったり杖になったり、いろんなことに広がっていく。ということは、次には土を踏みしめて道をつくっていってくださった人、町石を運んで1町おきに置いていってくださった人というように広がっていくんです。
休んでしる時に風が吹いてくる。その風に対するありがたさ、「ああ、いい風だなあ」という。水が流れている。その水をすくって飲む時のうまさ。水に対するありがたさ。段々段々と深まるというか、広がるというか、ありがたさの次元が宇宙的になるというか。空風火水地に対するありがたさですね。空気のうまさ、風の清らかさ、お日様の光のありがたさ、水のうまさ、大地の素晴らしさ。そういうもののありがたさに、段々段々と心が広がっていく。これも四国遍路の修行の1つじゃないかと思います。
おばあちゃんからいただいた100円玉もありがたい。どちらが上とか下とかない。休憩している時に吹いてくる風の清らかさ、これもありがたい。自分が履き古した靴、これもありがたい。