梶川伸・大阪経済法科大学客員教授(「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会副会長)「四国遍路と洞窟」

 《2013年5月21日、大阪経済法科大学の特別講義。一部は修正、加筆し、読みやすいように中見出しを入れました》

 
 
   ●空海の足跡をたどるのが遍路
 みなさんは若いので、遍路や四国八十八カ所のことを知らない人も多いと思います。まずその説明をします。奈良時代から平安時代にかけての僧侶に、空海(774〜835)という人がいました。弘法大師と呼ばれる人です。空海は四国の生まれで、若いころ四国でも修行をしましたが、その修行をしたといわれる寺や、ゆかりのあるとされる88の寺を回ることを遍路といいます。



   ●空海と最澄
 では、ここで遍路のスタイルに衣替えをします。(白衣を着る)これは白衣(びゃくえ)と言います。これを着て歩くのです。背中に「南無大師遍照金剛」と書いてあります。「南無」は接頭語のようなものです。「大師」は「弘法大師」などと使う尊称です。「遍照金剛」は何でしょうか。
 仏教はインドで起こりました。それが中国に伝わり、日本に伝わります。仏教の宗派の中に真言宗というのがあります。高野山が真言宗です。比叡山は天台宗で最澄がつくりました。空海と最澄は同じ時に遣唐使船で中国・唐に渡りました。2人にはちょっとした違いがあって、最澄は国費留学生ですが、空海は私費留学生です。
 空海は唐の国で、恵果という僧侶に師事しました。恵果は真言宗の第7世にあたる人です。恵果のもとには中国の僧侶がたくさんいたのですが、何と空海は恵果から真言宗の第8世を賜ったのです。その時にもらった名前が「遍照金剛」なのです。
 (数珠を手に持つ)みなさんの家にあるのは、もっと短い数珠だと思いますが、遍路の数珠は長いものを使います。
 (輪袈裟を首に巻く)。これは輪袈裟といいます。坊さんが着る袈裟の簡略版です。言ってみれば、携帯用ですね。



   ●同行二人ということ
 (金剛杖を手に持つ)これは金剛杖と言います。杖の頭の方には、4本の線が入っています。杖全体が5つの区分に別れるわけですが、これは五輪塔を意味しています。五輪塔とはお墓です。遍路の最中に行き倒れた時には、これを墓標にしてください、という意味合いもあります。杖には「南無大師遍照金剛 同行二人」と書いてあります。「同行二人」は「どうぎょうににん」と読みます。どういう意味かわかりますか? 「二人」とは自分と空海のことです。空海と一緒に、同じ行(ぎょう)とするという意味で、金剛杖は空海の身代わりなのです。
 (納め札を見せる)これは納め札と言います。寺は札所と言ったり、霊場と言ったりします。札所に行くと、本堂と空海をまつった大師堂の前で、般若心経を唱えます。(般若心経の最初の部分を実際に唱える)。般若心経を札所に納めたという印として、納め札を用意してある箱に入れるのです。その後、札所の納経帳というノートに朱印を押してもらいます。今でいえば、スタンプラリーですね。



   ●見つめ直しと蘇り
 まず、遍路というものおおまかに説明したので、これから本題に入ります。今日の話の結論から言います。自分の見つめ直しのために遍路に行く人が多いのです。これは蘇りの思想につながるのではないか、というのが私の見解です。
 それは太陽信仰にも関係するのではないでしょうか。日本はもともと、農耕民族なので、太陽をとても大事にするからです。霊場には洞窟がいくつもあります。空海は山の中でも修行をしました。また、修行は日常と離れた非日常の中で行う雰囲気があります。だから遍路にも、洞窟が組み込まれているのかもしれません。
 洞窟は母の胎内のイメージがあります。そこに入り、また出てくるわけですが、生まれ直す、生き直す、つまり蘇ることにつながるのではないかと、私は思うのです。



   ●四国遍路は循環の道
 ここで、本題に入ろうと思うのですが、もう少し遍路のことを話しておいた方がいいでしょう。歩く遍路道は約1200キロあります。歩いて40日から60日かかります。車だと、約1400キロです。歩きなら山の細い道も登れますが、車だと広い道路を通らなければならないところもあり、全体として遠回りになるからです。
 一番札所の霊山寺は徳島県鳴門市にあります。お遍路さんはここを出発し、時計回りに四国を回り、八十八番大窪寺は香川県さぬき市にあります。ここから一番霊山寺までは40キロほどです。案外近いのです。つまり、輪になっているのです。ここが四国遍路の面白いところです。一番に戻ってまた回る人もいます。循環型なのです。2巡、3巡する人も結構います。私も10ほど回っています。
 ヨーロッパにサンティアゴ・デ・コンポステーラというキリスト教の巡礼道があります。スペイン・ガリシア州に、聖ヤコブの遺骸があるとされる場所があり、ローマ、エルサレムと並ぶ3大聖地になっています。私は行ったことがありませんが、フランスから約800キロの道のりで、年間約10万人が巡礼をするそうです。これは出発点から目的地に向かう一方通行の道です。



   ●太陽と循環
 では四国の遍路道はなぜ循環型なのでしょうか。ここで太陽が登場します。太陽には2つの循環があります。1つは1日の循環です。太陽は朝に上り、昼を過ぎて夕方に沈みます。夜に太陽はなく、やがて朝になると、蘇ります。人の目にはそう見えます。四国遍路の循環と重なりませんか。遍路は目的地にたどり着くことが主眼ではなく、歩いていること、回っていること自体に意味があるような気がします。
 もう1つは1年の循環です。春になって太陽の恵みで暖かくなり、夏に太陽は力を増して暑くなり、秋には衰えを見せ、冬には力を落とします。ところが1年を過ぎて春になると、また輝きを増し始めるのです。冬の間にエネルギーをためて、再生を果たすのです。人間にはそう感じられます。四国遍路との接点があるのではないでしょうか。人間は時折、生き直す、生まれ直す必要があるのでしょう。そう考えると、遍路の動機に、自分の見つめ直しが多いのも、うなずける気がします。



   ●歩き遍路は若い人も多い
 遍路の回り方には、いろいろな方法があります。歩いて回るほか、車遍路もありますし、バスツアーもあります。全部含めて、遍路をする人は年間15万人前後です
 歩き遍路に限ると、年間4000人ほどです。年齢層で見ると、50代、60代以上の私たちの世代が半分です。定年を機に、新たな人生に踏み出そうとする時、それまでの人生を振り返り、自分を見つめ直して、再出発しようと思うのでしょう。実は、20代の若い世代が4分の1を占めます。じっくり考えてみる時間がほしいのでしょう。



   ●御厨洞
 ここから、洞窟と遍路の具体的な例に入ります。まず、高知県室戸市にある御厨洞(みくろど)です。室戸岬に近い場所にある洞窟です。国道を隔てた反対側は、海岸だという立地条件です。ここは札所ではありませんが、空海とゆかりのある場所として、訪れる人も多いのです。
 空海は讃岐の国(現在の香川県)に生まれました。24歳の時に著したとされる「三教指記」には、修行した場所として「阿国大滝の嶽」とともに、「土州室戸の崎」が出てきて、そこで「勤念す」と書いています。「室戸の崎」は室戸岬でしょうが、勤行をしたのはどこでしょう。修行の場として伝承されているのが、御蔵洞という洞窟です。
 空海は室戸の崎で、虚空蔵菩薩の真言「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おんありきゃ まりぼり そわか」を100万回唱えたそうです。三教指記では、「勤念す」の後、「谷響きを惜しまず。明星来影す」と続いています。このため、虚空蔵菩薩の真言を100万回唱えると、明星が口に飛び込み、虚空蔵求聞持法を修得した、となるわけです。
 空海はここで、人生の新たな段階に入ったという解釈が成り立ちます。「蘇り」まではいかないかもしれませんが、「生まれ変わり」の印象があるのは興味深いところです。
 仏教を志した空海にとって、室戸は重要な位置を占めます。三教指記で空海は、道教、儒教、仏教を比較して、自分は仏教の道を志す、と決意表明しているのです。そのきっかけの1つに、室戸での修行があったのかもしれません。
 空海は幼名を真魚といいます。やがて空海を名乗るのですが、そのいわれを御蔵洞に結びつける説もあります。洞窟の奥に座って外を見ると、空と海しか見えない。その修行中の体験から空海とした、という解釈です。

↓写真=御蔵洞



   ●四十五番岩屋寺の洞窟
 札所の四十五番岩屋寺は駐車場からでも、15分ほど歩いて登ります。本堂は切り立った岩山に寄り添うように建っていて、山岳信仰の色が濃い寺です。
 本堂の横には、岩の壁の5メートルほど上に、テラス状になった窪みがある。奥行きの短い洞窟で、そこには仏像が安置してあります。洞窟までは、木のはしごがかけてあり、参拝者はそのはしごを使って登っていきます。洞窟と札所が組み合わされた例です。

↓写真=岩屋寺の本堂の横にある洞窟



   ●七十五番善通寺の戒壇巡り
 札所の中には、地下などに戒壇という暗闇を設けている寺もあります。暗闇の中を歩くことで、それまでの自分を振り返り、罪を取り除くための精神修養の場です。これも生まれ変わりの儀式と言えるのではないでしょうか。明るい場所から戒壇に入る、これは昼から夜の世界に入るわけです。巡り終わり、戒壇から出ると、明るい世界が待っているわけで、新しい朝、新しい人生を暗示します。
 七十五番札所の善通寺(香川県善通寺市)は、大師堂を御影堂と呼びます。その場所で空海が生まれた、とされているからです。御影堂の地下に、戒壇巡りがつくられています。空海が生まれた場所、空海のお母さんの体内を象徴するかのようです。
 入り口から入っていくと、中には照明がありません。参拝者は左手で壁をさわりながら進みます。距離は約100叩E喘罎剖海と結縁する場所があり、ここには少し明かりがありますが、そこを過ぎると、また暗闇となるのです。
 明るい場所から暗闇に入り、また明るい場所に出てくる。これは昼から夜になり、夜を耐えて朝になる、日々の循環に近似していませんか。暗闇から戻ってくるということは、蘇りなのであろうと、私は考えるわけです。
 私が先達を努めた毎日新聞旅行の遍路旅の参加者の中に、娘さんを25歳の直前に交通事故で亡くした女性がいました。可愛い娘さんを失い、生きる喜びを失った中での遍路だったのですが、彼女は善通寺の戒壇で「娘に合った」と話したことがあります。以下は、彼女の言葉です。
 「戒壇の中は不安で、『あの子がいたら』と思うと、真っ暗な中で娘の姿が鮮明に浮かんできた。声もはっきり聞こえてきた。うれしかった」
 当然のことながら、亡くなった娘さんが見えるわけではないでしょう。強い思いが、娘さんのイメージを浮かびあがらせたのだろと思います。「明るかったら見えない。戒壇は日常では体験できない暗闇なので、自分の心の中で思っているものが浮かんでくる」と自らの体験を分析していていました。遍路が結願した時に話したもので、彼女はそれ以降、精神的な立ち直りのきざしを見せました。戒壇という暗闇が、彼女に再度生きる力を与えたともいえます。

↓写真=善通寺



   ●別格三番慈眼寺の穴禅定
 四国八十八カ所とは別に、別格二十霊場というのがあります。これも、空海にゆかりのあるとされる寺です。今からお話をするのは、別格三番慈眼寺(徳島県上勝町)です。その寺には、穴禅定(あなぜんじょう)と呼ばれる修行場があり、空海が修行をした洞窟として伝えられています。約2億5000年前に形成された細長い亀裂型の鍾乳洞で、それが空海伝説と結びついて、霊場になっています。
 三教指記の「阿国大滝の嶽」という記述が出てきます。四国霊場二十一番太龍寺(徳島県阿南市)は「空海が19歳のころ、境内から南西600辰亮某間屬箸いΥ箴紊如百日間の虚空蔵求聞持法を修行された」と案内しています。また、別格二十番大瀧寺(徳島県美馬市)も、「大滝」と「大瀧」の近似性を挙げて、アピールしているのです。いずれにしても、慈眼寺は「阿国大滝の嶽」から遠く離れているわけではなく、空海伝説が結びつきやすかった場所といえます。
 洞窟の奥行きは100辰曚匹任后7蠢議蠅寮菽が待っていて、参拝者はその人の案内で中に入っていきます。中は真っ暗で、参拝者はそれぞれ手にロウソクを持って火をつけ、それを明かりにして進むのです。洞窟の1番奥に空海をまつり、そこで般若心経を唱えて、同じ道を帰ってくる。先達が途中で見所を説明してくれますが、その説明を入れても、通常なら往復で40分ほどの時間です。
 しかし、洞窟の中の道は極めて狭い。以前、私と一緒に入った人が「世界1狭い場所」と言っていましたが、名言だと思いました。洞窟内の道の両側は岩の壁です。しかし、コンクリート壁のように垂直な平面ではありません。もともと人1人が通れるくらいなのに、いたる所で岩がこぶのように張り出して複雑な断面をつくり、最も狭まっている場所は20足辰發覆い里任后
 それではなぜ通れるのか。背中がこぶに当たれば、背は柔軟性がないので、通ることができません。ところが腹の方がこぶに当たれば、腹はへこむので通れます。また、左右の壁のどこかの高さに少し広い場所があれば、その部分に頭など変形がきかない部分を合わせて通すような工夫をするわけです。先達は「左肩から入って沈み込み、斜め前の方に立ち上がる」などと指示を出します。その指示に従わないと、体がつかえて前に進めないのです。このような体験が、お遍路さんには印象に残り、「四国遍路の中で1番よく覚えている場所」という人が多いですね。
 20人近くを案内した遍路旅の際、穴禅定に1時間半以上かかったことがあります。途中で3人が、体が引っかかって動けなくなってしまったからです。そうすると、先頭にいる先達がその場所まで引き返してきて、個別指導をして通り抜けさせる。その間、引っかかった人の後続の人たちは、狭さのために体をひねったような態勢のまま、暗い中で待たなければならなりません。
 不安が募り、ある人が「南無大師遍照金剛」という大師宝号(弘法大師・空海を讃える言葉)を唱え始めると、ほかの人も唱和し、洞窟の中に響いて異様の状態となりました。そのことが、さらにパニック状態を引き起こし、動けなくなった女性が「この岩、どけて」と大声を出すなどして混乱し、脱出までの時間を長くさせてしまいました。
 往復は同じ道ですが、出口に近い場所で1カ所違いが出ます。そこは2段構造になっていて、行きは2階部分を歩いて行きます。帰りは1階部分を通るのですが、狭いトンネル形になっていて、腹ばいになって進みます。先達はこの個所を「母の胎内」と案内し、「トンネルは産道で、通り抜ける時に悪いものを落とし、生まれ変わる」と説明します。ここでも体が詰まる人は多く、トンネルの出口側から、詰まった人の両手を持って引きずり出すこともあります。これも、出産のイメージに近いのではないでしょうか。遍路の中に、分かりやすい形で蘇りの思想を組み込んだのが、穴禅定だともいえます。

↓写真=穴禅定がある岩山



   ●小豆島八十八カ所
 四国八十八カ所霊場(本四国)を模した写し霊場(ミニ八十八カ所)が、江戸時代の1600年代後半から各地にできていきました。そのさきがけのような位置を占める小豆島八十八カ所(香川県)には、洞窟自体が札所になっている場所が10カ所もある。本四国には完全な洞窟になっている札所はありませんが、洞窟が札所や霊場の一部になっているケースはあり、洞窟が遍路において重要な役割を果たしていることは間違いありません。
 島の中に八十八カ所を整備したものを「島四国」と呼びます。島四国の代表が小豆島八十八カ所です。霊場会によると、小豆島八十八カ所が整備され、開かれたのは1686年(貞享3年)とされるそうです。本四国の定着から1世紀ほどの時期にあたります。
 小豆島八十八カ所は約150舛竜離があります。毎年2月や3月になると、白装束姿のお遍路さんが訪れ、小豆島に春を告げます。小豆島霊場会によると、年間の参拝客は3万人前後だそうです。 霊場会は、札所を寺院、庵、山岳霊場に分類しています。山岳霊場は、文字通り山岳地帯にある札所や、洞窟の中にある札所、洞窟と建物をセットにしたような札所です。ただ、霊場会の山岳霊場の分類は独特で、六十番江洞窟は山岳霊場と分類されているのですが、実際には海辺にあるのです。洞窟という共通性で、山岳霊場に組み込まれているのでしょう。霊場会の分類によると、寺院26カ所、庵50カ所、山岳霊場12カ所となります。



   ●七十二番滝湖寺の奥之院・笠ケ滝
 洞窟霊場の1つを紹介します。七十二番滝湖寺の奥之院、笠ケ滝です。石段を登り、さらに鎖場を2カ所よじりします。次に岩場に打ち込んだコの字型の鉄を、はしご代わりにして洞窟の入り口まで登ります。洞窟の中が霊場になっていて、外側に建物がはりついているような造りになっています。
 標高は約350叩にじり口のような小さな入口から中に入ります。そうすると、岩に仏像がたくさんはめ込んであります。本尊は不動明王。洞窟の中では、冷たい水が自由に飲めるようになっています。
 洞窟の中には、石の柱のようなものがあって、それに穴が開いています。穴は自然にできたもので、体がやっと通るくらいの大きさです。この穴をくぐると、幸せになれるそうで、私が訪ねた時も、幸せ祈願の若い女性に出会いました。この幸せ祈願は、若い人たちが勝手に広めたもののようだと、霊場の人が話していました。洞窟や狭さの体験を喜ぶのは、穴禅定に通じるものがあると思いませんか。

↓写真=笠ヶ滝の入り口



   ●蘇りとリフレッシュ
 いくつかの例を出して、遍路と洞窟の話をしてきました。本四国では、七十一番弥谷寺(いやだにじ、香川県三豊市)には、空海が幼いころに勉強をしたという洞窟があります。また三十五番清瀧寺(高知県土佐市)には、昭和時代に造られた人工洞窟の戒壇があります。五十一番石手寺(松山市)にも人工の洞窟があります。洞窟と遍路とは、結構関係が深いと言えます。
 四国八十八カ所自体が循環ということを基本にしていて、1周して結願するごとによって蘇るという考えが根底にあるからだと、私は考えています。笠ケ滝で若い女性が岩に空いた穴を通ることによって、幸せを願うということも、現代風な生まれ変わり志向のような気がしてなりません。
  そして、結願すると、また1番に戻り、次の循環へと進むお遍路さんは少なくありません。そのことから、遍路の地である四国のことを、お遍路さんはよく「お四国病院」と、冗談めかして言います。都会の暮らしに疲れた時、「四国にでも行ってみようか」と思う人たちです。お四国病院で、心や体を生き返らすのです。今風に言えばリフレッシュで、これは蘇りであり、遍路には蘇りのシステムがあると思います。



   ●お接待
 遍路と洞窟というテーマで話しました。最後にテーマとは離れますが、せっかくの機会なので、みなさん方と同じ大学生と行った遍路の話をさせてもらいます。話をするにあたって、「お接待」ということを説明しておきます。
 四国八十八カ所を回り、良い印象を持った人たちがよく口にするのは、お接待の存在です。四国遍路をする人、特に歩き遍路に対して、食べ物や飲み物、現金などを提供するもてなしのことを、お接待と言います。長い遍路の歴史の中で受け継がれてきたもので、それだけ四国の人たちと遍路の関係が深いといえます。これから話すのは、お接待の体験談です。



   ●あしなが育英会の学生との遍路
 あしなが育英会というものがあります。もともとは交通事故で親を亡くした子どもたちのための奨学金制度を設けた団体です。ただ、今は親の亡くなり方は交通事故だけに限りません。奨学金は寄付で成り立っています。
 あしなが育英会が設けた大学生寮が神戸市にあります。「レインボーハウス」という名前です。私はレインボーハウスの寮生の読書感想文を見て、時事問題について話をしていた時期がありました。寮生たちは苦労した学生ばかりで、そのために感謝の心や、支えられて生きているという気持ちの強い人たちです。
 寮生4人と遍路を案内して歩き遍路をしたことがあります。2泊3日で、途中からは寮の職員も加わりました。正午ごろ、17番井戸寺(徳島市)に集合し、まずお参りをして歩き始めました。



   ●1000円札のお接待
 地蔵遍路道という峠越えをして、バスのターミナルの建物で休憩しました。トイレがあるからです。そこで、学生たちは最初のお接待を受けました。バスを待っていたおばあちゃんが「お接待」と言って、あるものを差し出したのです。何だと思いますか? 1000円札です。むき出しの。
 見ず知らずの人間にお金。学生は驚きます。私は学生に、お接待を受けた時の作法を教えました。納め札に住所と名前を書き、1番上に「感謝」と書いて、お接待をしてくださった方に渡すのだ、と。
 歩いているうち、別の歩き遍路の男性と一緒になりました。十八番恩山寺(徳島県小松島市)を過ぎ、十九番立江寺(小松島市)まで一緒でした。そこで別れたのですが、別れ際に、彼がお接待でもらったお菓子類を、学生たちに「お接待」として譲ったのです。
 立江寺を出たのは午後6時を過ぎていました。その日は、あるお寺が地域の人たちのために設けたプレハブの建物「寿康寿康庵」をお借りして、寝る予定にしていました。学生たちは経済的に余裕がないのですが、そこなら無料だからです。夕ご飯用に、コンビにでおにぎりを買っていました。



   ●温かいカップラーメン
 暗くなり、懐中電灯を照らしながら歩いていて、ガソリンスタンド前を通りかかりました。スタンドの主人が声を掛けてきました。「今晩、どこで泊まるの」。私が「寿康寿康庵に泊めてもらおうと思っています」と答えると、「あと3舛曚鼻廚閥気┐討れました。そこまで20前幣緤發い討い燭里波茲譴討い襪里任垢、3舛箸いΦ離に少しホッとして、また歩きました。
 間もなく、スタンドの主人が自転車で追い抜きながら、「俺は秋祭りの打ち合わせがあるが、かみさんが後から軽トラックで来るので、それに乗っていきなさい」と告げました。言葉の通り、奥さんの軽トラックが止まりました。5人全員が荷台に乗り、寿康寿康庵まで送ってもらいました。疲れていたので、ありがたいお接待でした。
 プレハブに入ってしばらくすると、奥さんがまた軽トラックでやって来ました。カップラーメンを5つ持って来てくれたのです。徳島ラーメンは人気で、それをカップラーメンにしたものでした。具がレトルトパックに入っていたので、通常のラーメンよりは少し高いものでしょう。学生たちは喜びました。そのプレハブには、水道と電磁レンジがあったのです。
 奥さんは尋ねました。「お箸ある?」。私たちは箸を持っていませんでしたが、「何とでもなりますよ」と答えました。いったん姿を消した奥さんは、また箸を持って軽トラックでやって来たのです。ありがたい出来事でした。秋にしては震えがくるような寒い夜で、温かいラーメンは身にしみました。

↓写真=寿康寿康庵の前で記念撮影



   ●また1000円札
 2日目も歩きました。お遍路さんの接待所に寄って、コーヒーとお菓子類のお接待を受けました。道路の反対側から年配の女性が「お遍路さん」と呼びます。道路を渡ると、手づくりの布カバーをつけたポケットティッシュを、全員にいただきました。学生が驚いたのは、「あなたで、千○○○人目」と、ポケットティッシュを渡した人数を口にしたことでした。お接待が、その女性の日常生活の中に組み込まれていたのです。学生はまた、「感謝」の納め札を手渡しました。
 標高500辰△泙蠅瞭鷭夙崢疥啝に登り、さらに山を下りて、その夜は遍路宿に泊まりました。もともとは、道の駅の軒下にでも寝ようと考えていましたが、疲れていたのと寒さのために断念しました。3日目の朝に宿を出る時、女将からお接待がありました。また、1000円札でした。
 3日目の歩く予定でしたが、学生の1人に急用ができ、全員で早めに帰ることになりました。いったん徳島駅までバスで行き、学生はそこから神戸・三宮行きの高速バスに乗ることにしました。バスのチケットを買うと、出発まで15分ありました。



   ●あのカップラーメンがほしい
 1人の女子学生が、寮の同室の友だちにお土産を買いたいと言い出しました。お土産は何かというと、寿康寿康庵で食べたのと同じカップラーメンだというのです。彼女にとっては、よほど印象深かったからでしょう。
 私は土産物店を教えました。彼女は急いで買いに行きましたが、しょげて帰ってきました。普通の徳島ラーメンのカップラーメンはあったのですが、あのレトルトパックの具がついた少し高めのものはなかったのです。
 そこで、徳島駅の地下に徳島の名産品コーナーがあるので、私も一緒について行きました。ところが、奥さんが届けてくれた、あのラーメンはないのです。彼女はあせりました。あのラーメンでなければならないのです。
 バスの出発時刻が近づいてきます。私はもう1軒の土産物屋を教えました。彼女は走り出しました。名産品コーナーの出入り口は、横に滑りながら開くガラスの自動ドアでした。彼女は焦っていたせいで、出入り口が開く前にガラス戸に激突してしまったのです。それでも、彼女はまた走っていきました。
 結局、3軒目にも、あのカップラーメンはなかったのです。しかたなく、彼女はレトルトの具のない普通のカップラーメンを1つ買って、お土産にしました。
 これは、いい話だと思うのです。彼女はどうしても、寿康寿康庵で食べたカップラーメンがほしかったのです。自分が受けたお接待の温かさを、友だちに同じラーメンで伝えたかったのです。それは高くても、200円ほどのものでしょうが、値段は関係ないのです。彼女はきっと、四国で受けたお接待を一生忘れないことでしょう。普通の徳島ラーメンのカップラーメンを食べた同室の友だちも、彼女から話を聞いて、彼女がどれほどうれしかったかを感じ取ったことと思います。


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