梶川伸・大阪経済法科大学客員教授(「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会副会長)「四国遍路と洞窟・蘇りの思想」

 《2013年6月29日、日本洞窟環境NET学会総会での卓話。一部は修正、加筆し、読みやすいように中見出しを入れました》

 
 
 洞窟環境NET学会の紀要に、「四国遍と洞窟」という突拍子もない原稿を頼まれた縁で、同じテーマでお話させていただくことになりました。原稿を頼まれた時に、遍路と洞窟とどういう関係があるんや、と思いましたが、霊場や遍路の関係する所にも洞窟はあるので、私なりの考えをまとめてみました。これからお話をすることは、私の私見だとしてお聞きください。
 

   ●結論は蘇り、生き直し
 私は話すのが下手なので、最初に結論を申し上げておきます。それは、遍路における洞窟というものは、蘇り、再生、生き返り、生き直し、見つめ直しといった役割を果たしているのではないか、ということです。


   ●遍路は循環型
 お話を前提するとして、遍路というものを、その特徴を通して簡単に説明します。1つ目は循環ということです。1番霊場は徳島県鳴門市にあり、四国を時計回りに1周して、88番霊場は香川県さぬき市にあります。実は88番と1番は近いのです。遍路の終わりは初めにつながっています。実際に2巡目、3巡目を周る人は多く、何百回も周ってもいます。
 私は行ったことがないのですが、ヨーロッパにキリスト教の巡礼道、サンティアゴ・デ・コンポステーラがあります。この巡礼道は、フランスからスペイン・ガリシア州までの一方通行で、キリスト教の聖地に着くことが目的と言えます。これに対して四国遍路は、ぐるぐる循環するわけで、円を描いて回っていること自体が目的とも言えます。これが大きな違いであり、特徴です。


   ●辺地、辺路、遍路
 もう1つは「遍路」という言葉です。この言葉のいわれについて、次のような説があり、私はそれが当たっていると思います。
 平安時代に観音信仰がはやります。観音の浄土、西方浄土、極楽浄土にみんな憧れました。その浄土の周辺を「辺地(へち)」と呼びました。観音浄土には行けませんので、辺地を回ったのです。都から見れば、西にある四国は辺地に擬せられ、観音浄土の周辺を巡る修行が行われました。
 辺地という言葉で、想像することはないでしょうか。熊野古道の「中辺路(なかへち)」「大辺路」の「辺路」です。熊野古道は観音浄土に近づく道です。辺路がやがて遍路に変わったという説があるのです。
 熊野詣では白河上皇の熊野詣でが始まりといわれます。熊野詣では当初、平安貴族の間で大流行しました。後白河上皇などは33回も熊野本宮大社に参っていますつまり、行っただけではなく、また京都に帰ってきているのです。辺地に行って、リフレッシュして帰ってくるのが目的だったのではないでしょうか。このあたりが、生き直しにつながると思います。

↓写真=熊野古道・中辺路



   ●弥谷寺の洞窟は空海の勉強の場
 では、具体的な洞窟の話をします。45番岩屋寺(愛媛県久万高原町)は駐車場からでも、15分ほど歩いて登り、本堂は切り立った岩山に寄り添うように建っています。本堂の横には、岩の壁を5メートルほど登った所に、テラス状になった窪みがあります。奥行きの短い洞窟で、仏像が安置してあり、その洞窟までは、木のはしごがかけてあって、参拝者はそのはしごを使って登ります。
 71番弥谷寺(いやだにじ、香川県三豊市)の本堂は、洞窟を組み込んで建てられています。空海は幼いころ、この洞窟で勉強をしたという言い伝えがあります。こじつければ、洞窟は空海が勉強によって生まれ変わっていくための場であったと言えなくはないでしょうか。


   ●空海の名に結びつく御厨人窟
 次に札所以外で、空海にゆかりのある洞窟を紹介します。まず、高知県・室戸岬の御厨人窟(御蔵洞=みくろど)です。
 空海は讃岐の国(現在の香川県)に生まれました。24歳の時に著したとされる「三教指記」には、修行した場所として「阿国大滝の嶽」とともに、「土州室戸の崎」が出てきて、そこで「勤念す。」とあります。「室戸の崎」は室戸岬でしょうが、勤行つまり修行の場として伝承されているのが、御厨人窟御蔵洞という洞窟です。
 そこで空海は、虚空蔵菩薩の真言「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おんありきゃ まりぼり そわか」を100万回唱えたといいます。三教指記では、「勤念す。」の後、「谷響きを惜しまず。明星来影す」と続いています。このため、虚空蔵菩薩の真言を100万回唱えると、明星が口に飛び込み、虚空蔵求聞持法を修得した、となるわけです。空海はここで、人生の新たな段階に入ったという解釈が成り立ちます。蘇りまではいかないにしても、人生の新しい段階に入ったわけで、生まれ変わりの印象があるのは興味深いことです。
 仏教を志した空海にとって、室戸は重要な位置を占めます。空海は幼名を真魚といい、やがて空海を名乗るのですが、そのいわれを御厨人洞に結びつける説もあります。洞窟の奥から外を見ると、空と海しか見えない。その修行中の体験から空海とした、というものです。

↓写真=御蔵洞



   ●胎内と参道を体験する穴禅定
 次に、別格3番慈眼寺(徳島県上勝町)の話をします。四国八十八カ所以外に空海ゆかりの寺が、別格二十霊場会を組織しています。その3番目の寺です。その寺にあるのが穴禅定で、空海が修行をした洞窟として伝えられています。本来は、約2億5000年前に形成された細長い亀裂型の鍾乳洞です。
 洞窟の奥行きは100辰曚匹任后7蠢議蠅寮菽が待っていて、参拝者はその案内で中に入っていきます。中は真っ暗で、参拝者はそれぞれ手にロウソクを持って火をつけ、それを明かりにして進むのです。1番奥に空海をまつり、そこで般若心経を唱えて、同じ道を帰ってきます。先達が途中で見所を説明してくれ、その説明を入れても、通常なら往復で40分ほどです。
 ところが先日、十数人を案内して穴禅定に入りましたが、その時は全員が出てくるまでに1時間50分もかかりました。先達の話によると、6時間もかかった人もいたそうです。なぜでしょうか。
 洞窟の中の道は極めて狭いのです。私と一緒に入った人が「世界1狭い場所」と言いました。洞窟内の道の両側は岩の壁ですが、コンクリート壁のように垂直になっているわけではありまあせん。もともと人1人が通れるくらいのに、いたる所で岩がこぶのように張り出して複雑な断面をつくり出し、最も狭まっている場所は20足辰發△蠅泙擦鵝
 それではなぜ通れるのでしょう。背中がこぶに当たれば、背は柔軟性がないので、通ることができません。ところが腹の方がこぶに当たれば、腹はへこむので通られます。また、左右の壁のどこかの高さの所に少し広い場所があり、その部分に頭など変形がきかない部分を合わせて通すような工夫をします。先達は「左肩から入って沈み込み、斜め前の方に立ち上がる」などと指示を出します。その指示に従わないと、体がつかえて前に進めないのです。
 穴禅定全の中で、特に難所といわれている場所が5つあります。その1つに、上下2段構造になっている場所があります。往復は同じ道なので、場所は入口近くですが、それは出口の近くでもあります。行きは2階部分を歩いて行きます。帰りは1階部分を通るのですが、狭いトンネル形になっていて、腹ばいになって進むのです。先達はこの箇所を母の胎内と案内し、「トンネルは産道で、通り抜ける時に悪いものを落とし、生まれ変わる」と説明します。ここで体が詰まる人は多い。トンネルの出口側から、詰まった人の両手を持って引きずり出すこともあります。これも、出産のイメージに近いのではないでしょうか。遍路の中に、分かりやすい形で蘇りの思想を組み込んだのが、穴禅定だとも言えます。

↓写真=穴禅定がある岩山



   ●善通寺には人工洞窟、戒壇巡り
 札所の中には、地下などに戒壇巡りを設けている寺もあります。これは人工洞窟と言っても良いでしょう。暗闇の中を歩くことで、それまでの自分を振り返り、罪を取り除くための精神修養の場です。これも生まれ変わりの儀式と言えます。
 お遍路さんは札所につくと、本堂と弘法大師をまつった大師堂に参拝し、般若心経を唱えます。75番善通寺(香川県善通寺市)は、大師堂を御影堂と呼びます。その場所で空海が生まれた、とされているからです。御影堂の地下に、戒壇巡りがつくられています。入り口から入っていくと、中には照明がありません。真っ暗です。参拝者は左手で壁をさわりながら進んで行きます。距離は約100叩E喘罎剖海と結縁する場所があり、ここには少し明かりがあるが、また暗闇となります。
 明るい場所から暗闇に入り、また明るい場所に出てくる。これは昼から夜になり、夜を耐えて朝になる、日々の循環に近似しています。暗闇から戻ってくるのは、蘇りの思想に基づくような気がします。
 私が先達を努めた遍路旅の参加者の中に、娘を25歳の直前に交通事故で亡くした女性がいました。可愛い娘を失い、生きる望みを失った中で遍路だったのですが、彼女は善通寺の戒壇巡りで「娘に合った」と話したことがあります。以下は、彼女の言葉です。
 「戒壇の中は不安で、『あの子がいたら』と思うと、真っ暗な中で娘の姿が鮮明に浮かんできた。声もはっきり聞こえてきた。うれしかった」
 当然のことながら、亡くなった娘が見えるわけではありません。強い思いが、娘のイメージを浮かびあがらせたのでしょう。「明るかったら見えない。戒壇は日常では体験できない暗闇なので、自分の心の中で思っているものが浮かんでくる」と自らの体験を分析していました。遍路が結願した時に話したもので、彼女はそれ以降、精神的な立ち直りのきざしを見せました。戒壇という暗闇が、彼女に再度生きる力を与えたとも言えます。

↓写真=善通寺



   ●循環と太陽信仰
 遍路は循環の思想に結びつきますが、最後に2つのことを申します。1つは、人間自体が循環そのものだということです。人間の体の細胞は、目まぐるしい速さで新しいものに入れ替わっています。古い細胞が去り、新しい細胞になるという繰り返し、循環です。
 また、食べ物に関しても、循環という概念で説明できることがあります。福岡伸一さんの本「生物と無生物のあいだ」の中に、次のような言葉が出てきます。「生命は、食物に含まれている有機高分子の秩序を負のエントロピーの源の源として取り入れているのではないか。生物は、その消化プロセスにおいて、たんぱく質にせよ、炭水化物にせよ、有機高分子に含まれているはずの秩序をことごとく分解し、そこに含まれる情報をむざむざ捨ててから吸収しているのである」。
 体の中には、生命の本質ともいえるタンパク質が完全形であります。では食べ物というのは、わざわざ不完全形にして体内に取り込み、体内でタンパク質に再度作り上げていくのです。壊して再生するという循環の果てしない連続なのです。
 もう1つは、太陽との関係です。太陽は人間側から見ると、1日循環と1年の循環があります。朝、太陽が昇り、夕方沈む。1日の半分は夜で太陽は見えませんが、翌日また朝日として蘇ります。
 1年のサイクルで見ると、植物が芽吹く春から夏を過ぎ、秋の実りのあとは、枯れ絶える冬がやってきます。しかし、また春になり、新しい命として蘇ります。農耕民族であった日本人には、この循環性と蘇りは、人々の生活のリズムや考え方の奥底に根付いていたのではないでしょうか。四国遍路と洞窟は、そんな人間のリズムと生活のリズムを、色濃く反映した仕組みだと、私は考えます。


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