滝口伸一・前へんろ新聞編集長「へんろ新聞の取材メモから」

 《2018年3月3日、松山市、ひめぎんホール別館で開かれた「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会第12回総会兼記念講演会での講演です。読みやすいように、中見出しなどを入れました》



 ◆「遍路にでも」
 滝口と申します。よろしくお願いします。ご紹介いただきましたように、昨年の4月をもって、17年間続けてまいりました「へんろ新聞」を卒業させていただきました。

 17年間、自分で考えても、よう続いてなあと、そんな風に思っています。なぜ17年間も続けられたのかなとよく思うんですけど、答は簡単です。遍路が面白かった。面白おかしいといういみではなくて、非常に奥深い面白さがありありました。

 それともう1つは、いろんな人に出会いました。ほんとにお遍路は日本の縮図というか、いろんな人に出会いました。お寺の歴史とか、遍路道の歴史とか面白かったんですけど、いろんな人に出会えたのも私の財産だろうと思っています。今日はそのあたりのことを、少しお話をさせていただこうと思っています。

 私は平成11年に地元の新聞社を退職いたしました。私のイメージでは、退職後はバラ色でありました。しかし、考えが浅いというか、ものの2月もすると、毎日毎日をもてあましました。こんなはずではなかったと思ったんですけど、これはたまらんなあと思って、7月のことです、女房に「遍路でも行くか」と言ったんです。まさしく、「遍路でも」でありました。女房も「行こう」ということになりました。「必ずしも1番から行かなくてもいいよ」と誰かが教えてくれたと思うんですけど、最初は1番から行こうということで、7月26日でした、徳島へ2泊3日で出かけました。

 まず1番霊山寺の本堂に上がって、両手を合わせました。実は遍路については何も知りません。お経ももちろん読めません。納め札だけを持って、杖も持たず、数珠もせずに、そんな感じで出かけたわけです。

 霊山寺の本堂の前で両手を合わせたとたんに、今晩徳島に泊まるのに、どこに行って何を食べて、酒のさかなは何がええかな、と実はそんなことがチラッとひらめいたんです。これはアカンなあと。徳島というと、鳴門の鯛なんか有名でありますが、7月というのは鯛の1番うまくないシーズンです。産卵が終わった後で、やせていて。

 徳島は何があるんかいなあと、本堂で手を合わせたとたんひらめいて、これはいくら何でもだめだろうと思いました。次に大師堂に行って、それを打ち消すイメージが強くて、それが逆に作用して、また出てくる。2番に行っても同じでした。3番でも同じなんです。これはいかんなあと思って、初日、徳島は3番で打ち切りました。

 自分自身にがっかりして、どこに行ったかよく覚えていませんが、フラフラしたと思います。翌日は鳴門に行って観潮船に乗って、大塚美術館に行って、お参りは一切しませんでした。
 3日目に松山に帰ってくる途中、4番から10番までお参りしました。きちんとしたお参りはできていません。それで、3日かけて1番から10番。これは健脚者であれば歩いてお参りする距離なんですけど。自分の俗っぽさというか、そんなものにビックリしました。

 そんな遍路ですが、その年の12月に結願いたしました。とりあえず一巡したということです。そんな遍路ですから、ご利益なんかあるはずもありません。そんなこと望みませんしたが、「へんろ新聞を引き継いでくれ」というそんな話をいただきました。

 へんろ新聞の歴史というものも後でちょっとご紹介させていただきますが、初代のへんろ新聞を作りあげた私の大先輩が今日、かけつけてくれて、「つまらんこと言うんじゃないか」というような顔をして、聞いてくださっています。そういう遍路でありながら、そんなご縁をいただきました。そして平成12年6月から、へんろ新聞を引き受けることのなったわけであります。

↑講演する滝口さん


◆遍路バスからへんろ新聞へ

 大先輩が始めたへんろ新聞は、昭和59年4月ごろが創刊です。この遍路新聞というものは伊予鉄(伊予鉄道)が発行したんです。ここに写真をご紹介しております。今でこそ巡拝バスはポピュラーなお参り方法になっておりますが、実は昭和28年4月、巡拝バスいうのが全国で初めて走った第1号になります。この時、この巡拝バスの企画をしたのが、当時まだ若かった「ながのさん」という方です。係長だったそうですが、発案をいたしました。そしてその方が30年たって社長になって、その思い入れもあってできたのが、へんろ新聞であります。

 昭和28年の第1号は、先駆者なりのいろいろな苦労がありました。今でこそ面白おかしくご紹介できる話なんで、少し写真を見ながらお話ししたいと思います。

 昭和28年の4月、第52番大山寺から出発をしました。当時、今ほどの情報はありません。何を基準に道程を作ったかといいますと、国土地理院が出しておりました5万分の1の白地図で、いわゆる机上のプランです。実際にバスを運行して、ということではありません。白地図に線を引いて、実際には行ける所まで行ってみよう、そんなことであります。焼山寺などは、「さあ、ここから歩いてですよ」という時は、バスはもう方向転換ができなくて、運転手が30分、首を後ろに向けたまま、バックしたという話が残っています。13泊14日の予定でスタートしたんですけど、もう1日余分にかかりました。

 次は翌年のバスであります。初年度は1台走らせました。この年は3台走らせています。よく見ていただいたら分るように、このバスはボンネットバスです。今はほとんど見ることはありませんが、四国の巡拝バスとして伊予鉄が新しく用意したバスでありました。

 昭和28年というのは、終戦後8年たっていても、まだ食糧不足の時代でした。座席の下に、お米を積んで走ったそうです。行った先々で、お米がなかったら困るからです。


◆白装束の定着は昭和50年代後半

 もう1つ、お遍路さんが着ている装束を見てください。中に白っぽいものを着た人もいますが、今のような白装束ではありません。この伊予鉄の巡拝バスの写真はこの後もずっと残っておりますけど、巡拝バスの写真を見る限り、お遍路さんの白装束が定着したのは、昭和50年代の後半からです。

 これまでのいろんな記録や、江戸時代から残っている資料を見ても、白装束はあんまり残っていませんですね。明治に入って、写真集のいくつか出るようになりますが、それを見てもお遍路さんの白装束というのは、ほとんど出てまいりません。ですから、「白装束は死に装束」なんていう、そんなたわけたことを言う方もいらっしゃいますが、そんなものは後付けで、あんまり意味がないだろうと思っています。

 これは横峰寺へ上がるお遍路さんの写真です。これは雲辺寺へ登る途中の光景です。これは曼荼羅寺の不老松。私が12年に初めて巡拝をした時には、まだ健在でした。(その後、枯れて伐採)これは多分お分かりだと思いますが、鶴林寺から太龍寺へ、那賀川は当時、こういう形で渡し船でした。

 れは神峯寺へ登る道です。これも分るだろうと思います。36番の青龍寺へ向かう土佐大橋は当時ありませんでしたので、土佐市から浦の内湾を渡って、横波三里、スカイラインの方へいく渡しですね。この当時は明石寺から大洲へ抜けるトンネルはまだできていないので、これは法華津峠を越えていった写真です。そして結願が51番石手寺。当時は山門の前にこんな松があったという、そんな写真であります。


◆学生と遍路体験学習

 こういう苦労をして、巡拝バスが30年を迎えて、その記念にできたへんろ新聞。そして私が2人目の担当者として引き継ぐことになったわけであります。私はこの1年間に遍路の勉強をそんなにしたわけではありませんが、実は遍路の勉強をするきっかけを、その直後にいただきました。今治にあります明徳短大、以前から出入りしておったんですけど、へんろ新聞を引き受けましたという話を学長にいたしました。そうしたら学長が「自分も遍路の体験学習を計画しておる。ちょうどいいから、応援してほしい」ということでした。

 私の先輩からは「へんろ新聞を引き継いでほしい」。当時の先輩の「してほしい」とか「頼む」とかいうのは、これは命令でありまして、絶対的なもんでありますから、明徳のそちらの方も引き受けました。

 引き受けてから、生涯のうちで1番よく勉強したかなあ、と思っています。勉強嫌いな者がこの時期だけは勉強しました。そして明徳短大が遍路の体験学習というのを始めます。これが14年に始まりました。遍路の体験学習は2年目から正規のカリキュラムに取り入れられましたので、意外と多くの学生が参加してくれました。平均で15人くらい、多い時で20何人集まりました。


◆自立心を養う

 学長の「自立心を養う」というのがテーマになりましたので、計画も遍路宿などの交渉も含めて、すべて学生がやります。学生は若いですし、地図やいろいろな情報を集めて計画をするわけですけど、どうしても我々から見たら強行軍、厳しいスケジュールを立てていまいた。その結果、苦労もしたんですけど、都合7年と2日、合わせて37日で結願をいたしました。

 いうのは、毎年1年生が5日間ずつ歩く、というスケジュールで、そういうことで7年とちょっとかけて結願することになるんです。5日間歩く前に10回程度の講義を受けて、白装束を自分で縫って、そして歩くという内容でありました。


◆「仲間がいたから歩けた」

 極限に近い状態で歩いている子がいくらもいました。そして5日間歩いて帰ってきて、間違いなく、5日間でこれほど変わるのかというほど、こちらが驚くほど、感動するほど変わってくれました。

 彼ら、彼女ら学生が歩いた後にレポートを書くわけですけども、まず間違いなくレポートの中に入ってくる言葉が3つあります。1つは仲間意識というか、「仲間がいたから歩けた」ということです。歩き遍路は普通は単独というのが基本でありますが、学生は団体で歩くので、仲間がいたから自分は歩けたというのは、確かに見とっても分ります。

 いろんな子がおるんですけども、あまり足に自信がない子など、はたから見とっても分るんです。すると、元気な学生が荷物を持ってあげたり、杖で引いてあげたり、本当に助け合っているのが、見た目でもわかる遍路でした。それを学生らはまず、仲間意識を持って、仲間がいたから歩けたんだ、とそんなことを書いてありました。


◆「お接待に勇気づけられる」

 もう1つは、「お接待というのは勇気づけられる、元気づけられる」という風に書いてあります。今の若い人たちは、他人にものをもらうということに慣れていません。ですから、最初は例外なく戸惑ったようであります。9月に歩いていて、おミカンをたくさんもらったことがあります。9月というのは、夏ミカンとかそういう種類のおミカンで、重いんです。重たいものをもらったというので、最初はそういうことに対する不平不満のようなものが多かったです。

 しかし、2日目、3日目を歩いていると、そういうものが励みになるというか、元気が出てくるというか、知らん間にそういうのに気づいた、ということが書かれていました。もう1つは、物理的なことですが、コンクリートの道ではなく、地道が優しいなあ、ということを間違いなく書いてありました。


◆「人間は信頼してもいいもんだ」との気づき

 忘れられん学生がたくさんおるんですけど、その中の2人を紹介させていただきたいと思います。1人は女学生です。大学で廊下を向こうの方からゆっくり歩いてきて、こちらの姿を認めたら、顔を伏せて、物陰の身をひそめて、私が通り過ぎるのを待つというか、コミュニケーションを非常に苦手とする、そんな感じの女学生でした。

 その女学生がお遍路の体験学習の講義を受けて、5日間歩いて帰ってきて、その夏のことです。私が廊下を歩いていましたら、後ろから「先生」と元気な声をかけてくれました。他人に自分からあいさつをすることができるとは思えない子ではありましたが、その子が「先生」と声をかけてくれる。そして、「私を覚えてますか」と声をかけてくれる。「もちろん、覚えてるよ」と言うと、ニコッとして、小走りに去っていったんです。

 たったそれだけのことですけど、私はそれがすごくうれしかった。多分、私の推測ですけど、5日間歩ききれた、これだけのことがやりきれた、という自分に自信ができたんだろうと思います。

 もう1つは、どんな友だちの付き合い方をしていたか知りませんが、多分友だちと助け合ったことで、仲間意識がどんどん大きくなって、人間嫌いというか、そういうことを一歩超えたんではないかなあと思います。人は決して信頼できないものではない、信頼していいもんだ、ということを、お接待なんかも含めてですが、そんな心境の変化があったんではないか、という感じを受けました。そんなことも合わせて、よかったなあ、というのが1つであります。


◆「命も合わせていただきます」

 もう1人は男の子なんですけど、食物栄養コースの学生でした。彼は歩く前には、遍路宿で出てくる食事、そこからいただくエネルギー、カロリーと、遍路道を歩いて消費するカロリー、そんなものとの関係をちょっと考えたいということで、歩き始めたそうです。ところが、途中から考えが変わってきたそうです。

 そして、帰ってきてからの報告会で、「いただきます」と食事の前に手を合わすのは、今までは食べるもんのカロリーをいただきますと、そんな風に思っていた。しかし、そうではない。食べるものも直前までは命を持っていたいはずで、その命も合わせて自分はいただいている、そんま気になったというような話をしました。

 実はよく似た話を永六輔さんがその後、エッセイで書いていらっしゃいましたが、この学生は永六輔さんが書く5年か6年か前のことですから、それをまねしたということではないのです。
 何でそういうことになったかというと、これも私の考えなんですけど、「いただきます」に至るまでに、坂道を歩いとる。そしたら横を流れている谷川がサラサラという音をしたり、時には小鳥の鳴き声が聞こえたり、そういうものをが全部、自分をがんばろうと励ましてくれておる、そういう感じを受けたと言うんです。

 これが信仰のある人なら、お大師さんが頑張れと言っている、ということになるんだろうと思います。そういうことを通してその子は、自分だけで生きとるんではない、いろんなものによって、いろんな力によって、森羅万象が自分を生かしてくれておると感じたそうです。これはいい話だなあと思って、「どっかでまた使わせてもらうよう」と言ったら、「はい」と言っておりましたが、その子も忘れられない1人であります。

↑会場の様子


◆大量に廃棄される食べ物

 少し遍路から離れてしまうんですけど、私はこの前後に友人から、こんな話を聞いたんです。市会議員をしておる人ですが、あるPTAの会合で「うちの息子には給食費はちゃんと持たしとる。にもかかわらず、給食の前に『いただきます』と言わされている。これは不当ではないか」というようなクレームが父兄からあがってきたそうです。

 これは一時期、全国的に話題になりましたので、みなさんも聞き覚えがあるんじゃないかと思います。私はこの話を聞いた時に、その人に遍路を歩いてほしいなあと思いました。「命も合わせていただきます」というのを思ったり見えたりする学生は、食事を粗末にすることはないだろうと思いました。

 合わせて、私たちの食生活を考えてみました。14年から7年ばかり、JICA(国際協力機構)の仕事も合わせて引き受けていました。そのJICAのある会合で、こんなテーマが論じられたことがあります。今、日本でコンビニなんかで、お弁当なんかがあまれば、廃棄処分されますね。これが年間1100万トンあるそうです。1100万トンというのが、今飢餓に苦しむ人を世界中が支援しているんですが、その量が1100万トンというんですね。世界中が食料の少ない国に支援している、その総量と同じだけ廃棄している。これでいいのかなあと、そんなことも思いました。

 ちょうどそのころに、NHKの番組で日本の食品ロスが年間11兆円、アメリカの食品ロスも同じように紹介されてまして、年間4.3兆円でした。日本の2.5分の1。アメリカは人口が日本の2.5倍ありますから、人口1人あたりにしますと、日本はアメリカの6倍。あれだけの消費大国のアメリカの6倍もむだにしている。これは考えなければいけないなあと、ちょっと小難しい話になっておもしろくないと思いますけど、そんなことを考えたことがありました。


◆お接待の始まりは遍路の1世紀ほど前

 学生を元気づけたことの1つに、お接待ということがあるという話をいたしました。みなさんの前で、お接待ということを話すのは釈迦に説法というよなものですが、ちょっとお聞きいただければ、と思います。

 お接待の歴史は、遍路さんお歴史より少なくとも1世紀くらい前にさかのぼるべきであろうと思います。年表をつけておりますが、こらは後で見ていただいたらいいと思います。空海が生まれる70年ばかり前、ですから四国に遍路ができたといわれる、それが実際の遍路の起源かどうかは別にして、とりあえず数年前に1200年祭をやりましたが、遍路の歴史は1200年、さらにその1世紀前のことです。

 南海道は、紀州から淡路島を渡って四国4県、あわせて6カ国のことですね。その南海道の国府を結ぶ駅路、いわゆる道ができます。その駅路ができたことによって、熊野の奥の方を修行の場としていた修験者、あるいは修行者が四国の方に渡ってまいります。彼らは布教活動もするわけでありますが、布教活動に合わせてお寺を造ったりしています。役小役であったり、行基菩薩であったり、行基菩薩は88カ所の札所の中で29ほどお寺を造っています。布教活動の一環としてお寺を造ったりしています。

 しかし考えてみたら、修験道とか布教活動で食べていけるわけではありません。当然、四国の人たちが貧しい暮らしの中から、みんなで寄ってたかって、そのような人たちの生活を支えた、これが多分、お接待の初めであろうと思っています。

 お接待というのは、言うまでもなく見返りを求めないというのが約束でありますが、求めてはいないが、見返りというのはある部分あったかもしれないなあと考えております。これは見返りと言っていいのか、多分原初のころは修行僧とかそういった人たちのある種の見返りがあったかもしれませんが、その後もっと具体的な見返りというのが出てまいります。

 6番の安楽寺に古文書が残っております。それによると、阿波の和三盆というのがありますが、これを伝えたのは日向の国、今の宮崎県ですが、そこのお遍路さんだと記録が残っています。当時のことですから、和三盆の作り方や、そのための器具の持ち出しなどは国の法を犯すので大変だったと思います。そういうことを経て、徳島に伝わったということが、相当詳しく残っています。

 それほどの利益に直結する見返りは難しいんでしょうが、当時のことですから、少し離れた国のこともよく分らない、そういう情報を得る見返りというものは、四国の側にとってはそういう情報網は貴重であったんではないかなあと、そんなことも考えたりいたします。


◆今も続く和歌山からの接待講

 お接待は江戸時代に入って世の中が安定してくるころから、大師信仰をもとにしたお接待が定着してまいります。いろんな国・藩によって豊かさが違うので、お遍路さんへの対応が違っていますが、藩も支援しています。お遍路さんを大切にしましょう、というお触れを出したりしています。そういうこともあって、遍路に対するお接待も組織化されて、システム化されていきます。そういうものが今現在もいくらか残っていますし、少なくとも精神的には残っている部分はあるだろうと思っております。

 ここに写真があるので、簡単に説明いたします(映像)。これは和歌山にある有田接待講です。これは明治のころの記録でありますが、有田から、うたせ船に乗って霊山寺にやってきます。多い時は20艘くらい出たそうです。霊山寺でお接待をします。

 そういう講の組織がどういう風にして成り立っているのか。有田市に流れる有田川は、源流は高野山です、その有田川に沿って、有田接待講の支部があって、80あります。支部の役員が近所の人から寄進を募って歩くわけです。寄進を集めて毎年、霊山寺でお接待をするんです。

 実は昨年、有田接待講というのは200周年記念でありました。江戸時代にできた組織が今も残っているということです。1番の霊山寺の山門を入ってすぐ横の接待所、野上接待講と一緒になってこういう建物を造って、いまだに続けております。


◆うどん1000杯のお接待

 これは香川県に入って2つ目の大興寺での接待で、「ひゃっかうどん」というものです。毎年1月の第3日曜日かな、日を決めてお接待している風景です(映像)。大鍋に3杯だしを作って、うどん1000玉です。ここにいらっしゃるのが、齊藤さんというおばあちゃんです。一昨年亡くなられましたが、この当時97歳だったと重います。このおばあちゃんがリードしていましたが、亡くなった後も続いております。


◆カフェからサロンへ

 もう1つお接待の事例として、今日もお越しいただいている依光さんなんかが尽力されて高知に造った松本大師堂の接待所です(映像)。もともと壊れかけた松本大師堂を建て直して、こんなに立派なものを造りました。依光さんが来られるんであったら、もっと用意したらよかったと思っているんですけど。

 ヘンロ小屋プロジェクトの歌(一洋)先生の思い入れの通り運営をされている1番いい例じゃないかと思っています。取材に行く前の日に、高知市で(「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会の)総会がありました。大師堂の依光さんが発表してくださったんです。「毎月21日は松本大師堂がカフェ状態になる」という話を聞きました。お遍路さんと地元の方が一緒になってカフェ状態になっている。歌先生がまさに最初に思い描いたもので、ヘンロ小屋はこれだろうと思うわけです。

 私が行った時は多かったんですけど、午前中だけで21人のお遍路さんが立ち寄りました。会員のみなさんもたくさんいらっしゃって、お菓子やいろんなものを作って持ち寄ります。

 ヘンロ小屋の1番の泣き所はトイレだと思うんですけど、ここには実はトイレがあるんです。そのトイレを掃除するのは尻込みするんじゃないかなと思うんですけど、「トイレの掃除は自分がする」と進んで言ってくださる方がいらっしゃる。それぞれ持ち場を自発的に引き受ける方がいらっしゃる、そして、そういう方がお遍路さんと一緒になって親しそうにしているので、以前からの知り合いかなと思ったら、「今日が初めてです」。交流が実にスムーズなんです。

 これは素晴らしいなあと思って、依光さんい先ほど話を聞いていましたら、「今はカフェ状態ではなくサロン状態です」とおっしゃった。また一段上がったと思っているんです。気持ち、心が通うお接待です。お接待というと、お金やモノ、お菓子だとか、そういう物理的なものもあるわけですけど、そういう全てのものが心がこもっていてこそ伝わるわけです。当然、ヘンロ小屋自身も、そういう意味では大きなお接待だと思います。

↑写真を写しながらの講演


◆遍路道のごみ撤去

 これは気持ちの方が先行したお接待です(映像)。(遍路道沿いのごみの撤去なので)お接待に入れていいかどうか分りませんが、(21番)太龍寺から下りてきて、かつての遍路宿の坂口屋から下っていく道筋であります。これは徳島の一歩会が音頭をとって、当日は600人のボランティアが集まりました。

 この日は遍路道から撤去したごみは103トンです。古タイヤは何と850本です。行政の力があったからできたわけですけど、これは大変なことです

 お遍路さんから「(ごみがいっぱで)恥ずかしいことはないですか」という問いかけをされたそうです。会長である新開さんが行政も巻き込んで、地元の人たちも引き込んでやった結果、これだけのごみが遍路道からなくなりました。

 ただ、少しだけ残念に思ったのは、こういうことをしますという前日の夜、どうせ掃除するんだったら、うちのも持って帰ってもらおうというようなことで、古テレビをここに持ち込んだ人もいたそうです。はてな、という感じがいたしました。


◆7年がかりの小屋建設

 九州の若い女性の歩き遍路が8年ほど前のこと、(43番)明石寺から内子を越えて久万(久万高原町)へ抜ける途中、ひわだ峠とその前にある下坂場峠にさしかかるお墓の横に小屋があって、呼び止められるようなそんな気がしたそうです。そこは大師堂で、ボロボロに壊れたお大師さんがありました。その女性はこの小屋の建て替えを決意しました。実に7年かけて、140万円ほどの資金をつくりました。

 7年後に建て替えたいんだということを、内子町に申し出ました。地元の人も立ち上がって、立派な小屋ができました(映像)。お大師さんは目玉も抜け落ちて、肩もバラバラに抜け落ちていました。女性は見よう見まねで勉強して、見事に造りあげました。京都の大仏師、松本明慶さんの奥さんに見てもらうと、「立派です」とほめてもらいました。これになるとはたして、お接待の域を超えているかもしれませんけど、気持ちはお接待だろと思って紹介しました。


◆墓という究極のお接待

 これは遍路墓です(映像)。遍路墓もお接待だと思います。これは「うつみげんすけ」という人の墓でありますけども、実は2カ所に墓があります。なぜ2カ所あるのか、よく分かりませんけど。これらはみんな遍路墓です(映像)。

 昔はいくばくかのお金を、お墓のために持って歩いたそうです。しかし、そういう人が必ずしも多いわけはない。例えばこのあたりには自然石の墓があり、お墓代を持たすに亡くなられた方のために、地元の方が自然石をお墓にしました。それもお遍路さんへの、究極のおせったいではないかと思います。


◆道後温泉の4つ目の壷

 これは柴谷さん(柴谷宗叔・「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会役員=総会・講演会の司会)のはんちゅうになるんですけど、澄禅の「四国遍路日記」というのがあるりまして、その中にハンセン病患者が温泉が出てまいります。道後温泉なんですけど、こんな風に書いてあります。「安養寺を改め石手寺、これより十余丁行きて、温泉あり。ここに3壷にこしらえ、浴槽が3つあるということです、上中下というのがあります。傍らに壷があり、もう1つ浴槽があり、これは悪瘡かきの入る湯であると、という記述があります。

 悪瘡というのはたちの悪いはれ物、いわゆるハンセン病のことをさしております。これはどこにあったんかなあと探しておりました。これは四国名所図会(映像)という徳島の方の人が書き残したもので、これが道後温泉です。そして、ここに「ゆずきさ」というのがあります。伊佐爾波神社のことです。ここは道後温泉のすぐ右手に、今は駐車場になっている湯神社のある冠山、そしてこれが道後温泉であります。

 この位置関係からいったら、今の道後温泉の本館がある場所はそのままです。ここが(本館の入り口の前)、いわゆる悪瘡かきの入った湯だと、そんな風の思ったんです。これ見たら一の湯、二の湯、三の湯と書いてあるわけですけど、「傍らに壷ある」というのはここなんです。

 別の文献を見てみると、ここは家畜が入ったり、こんな表現をしていいのか分らないんですけど、家畜や貧民が入る湯であるという表現が出てまいりました。ハンセン病患者は、そんな言葉でひとくくりにするわけではないんですけど、人権問題もあるんだろうと思うンですけど、当時ハンセン病の方が入ってもいいというのは、彼らにとっては本当にありがたいことで、お接待をつきつめたらこんなことになるだろうかと思うわけです。

 これは江戸から明治にかけての竹本梶太夫という人形浄瑠璃の人が道後温泉に来た時の絵(映像)なんですけど、同じようなことが書いてあるので、これはちょっと飛ばします。


◆印象に残った2人のお遍路さn

 これは最後になるんですけど、いろんなお遍路さんい会いましたので、飛び抜けて珍しいというか、こんなお遍路さんがいたかという方を2人だけ紹介させてください。このおばあちゃん(映像)は東京からいらした林さんいうおばあちゃんでした、この当時、100歳。この遍路のグループはご詠歌mp歌っていますが、おばあちゃんは先達の横で大きな声で、よく通る声で歌うし、当然お経もあげるし、本当のお元気でした。

 46番の浄瑠璃寺なんですけど、県道から石段を登って浄瑠璃寺へ上がります。階段はお嬢さんが介添えに来てましたので、手を引いてもらって登りました。お嬢さんは76,77かなと思いました。このおばあちゃん、手を引かれながら何を言ったかというと、お嬢さんに「お前、大丈夫かや」。

 お嬢さんが言うのならともかく、おばあちゃんが言うんですね。これが四国遍路の世界かな、親子の世界かな、そんなふうに思って、いまだに忘れられません。

 この方は大分県のお遍路さんです(映像)。元気なころは自分でお遍路さんをしてたんですけど、筋萎縮性側策硬化症になって、自分で動かせるのは目だけなんです。呼吸器もつけて、何も食べられないのですから胃瘻で流動食を流す、そんなお遍路さんでした。この当時、余命半年と言われとったそうです。

 昨年は私が(へんろ新聞編集長)を引いておったので連絡をとってはいせんが、一昨年まで毎年春に連絡していました。「お元気ですか」とも言うわけにはいかないので、「ご活躍ですか」と言っておりました。一昨年の春まではご健在でした。半年と言われた余命、一昨年で7年でした。すさまじいお遍路さんでした。


◆遍路は社会が必要とする

 私は新聞社に勤めておりましたが、記者の経験はありません。42年間ずっと、総務・営業畑でありました。営業も、営業企画の時代が長かったんです。営業企画というのは常に景気、好、不況、あるいは流行、そんなものに影響されてきたんですけど、そんなことに全くかかわりなく、受け入れられた、支持されたもんがあります。

 1つは健康をテーマにする。もう1つは教育、子どもたちの教育、学びですね。もう1つは食生活、食べること。そんなことは、はやりすたりはありません。遍路の世界というのはこれら3つとも含んでいる。特に学ぶ、教育ということには、最高の条件を持った場だと考えています。ですからこの後も社会から必要とされるだろうと思っています。

 一昨年の8月に遍路を世界遺産に向けて登録の答申を出しました。まだ結果は出ておりませんが、その結果かかわらず、一時期のブームに終わることのないように、栄えて枯れるというようなことがないように、ぜひみなさんにも見守っていただきたい、そんな風に思っております。


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