「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会副会長、梶川伸「出会いの魅力」

 《2019年3月7日大阪府吹田市、吹田市メイシアターで開かれた大阪府北部コミュニティカレッジ第5回卒業式での記念講演です。話に修正・加筆せ少し手を加え、読みやすいように、中見出しや写真などを入れました》




 みなさん、コミュニティカレッジの卒業おめでとうございます。みなさんを見ますと、私と同じくらいの年齢の方が多いようですが、勉学の意欲の高さに敬服いたします。

 それにひきかえ、のんべんだらりと生活している私などが卒業式の席でお話しするなど、おこがましい限りです。そのうえ、話が下手ときているので、聞く方は大変でしょうが、私などを選んだ間違いで、うらむならコミュニティカレッジの理事長をうらんでください。


◆循環の大切さ

 話が下手なので、先に結論を申しておきます。2つあって、1つは、循環することの大切さ・楽しさです。これは「蘇りの思想に通じるものがある」と私は考えています。

 人間の体の細胞は60兆個もあって、約3カ月で入れ替わるそうです。つまり、いつも新しいものに入れ替わっている。そうすることによって、梶川は梶川であり続けられるのです。

 生物学者、福岡伸一さんは著書「生物と無生物のあいだ」の中で、「生命とは何か?それは自己複製を行うシステムである」と書いています。常に入れ替わって自分を複写することによって初めて、生命を保っているということでしょう。

 コミュニティカレッジの理事長にお話をうかがうと、みなさんは今日卒業しても、新年度でまた講座を受講する人が多いということでした。1年ごとに新しい知識を入れていく循環を繰り返しているわけで、それが生命、言い換えれば若さを保つことに結びついているような気がします。その原動力が、知的好奇心というのも素晴らしいですね。


◆出会いから共同体へ


 もう1つが出会いの大切さです。写真家の星野道夫さんのエッセイの中に、次のような文章があります。「人生はからくりに満ちている。日々の暮らしの中で、無数の人々とすれ違いながら、私たちは出会うことがない。その根源的な悲しみは、言いかえれば、人と人が出会う限りない不思議さに通じている」

 出会いは奇跡なので、大事にしたい。そんな風に私は解釈しています。このことは、みなさんもカレッジで学び、感じていることでしょう。

 出会いは共同体へとつながっていきます。これが大事です。

 いま、世の中では、さまざまな共同体が崩れていっています。地域共同体や学校を核にした共同体も、崩れ始めているような気がします。家庭という最小単位の共同体ですら、ほころびを見せているケースがあります。

 そんな中で、私たち新聞記者が規模を寄せたのはヨーロッパ共同体でした。隣国同士で戦争を繰り返し、それではいけないと、100年かけてできたのがヨーロッパ共同体です。ところがイギリスが共同体からの離脱を決め、ほかの国でも「自国ファースト」の勢力が伸びているのです。

 一方で、みなさん方のコミュニティカレッジのように、新しい共同体が生まれてきています。趣味なと、緩やかな結びつきを基盤にした共同体です。これまでのガチガチの共同体ではなく、緩やかな共同体です。共同体が崩れていく中で、このことは貴重な流れだと思うのです。


◆何も知らずに遍路へ

 今から具体的なお話をしますが、中身はみなさん方が経験し、そう思っていることを、再確認してもらうためのものです。そのことを私は、私自身の遍路の体験を通してお話してみようと思っています。2つの結論のうち、最初は出会いと共同体についてです。遍路をしながら、そのことをつくづくと感じたからです。

 私は1995年の末に、初めて遍路をしました。阪神大震災があった年です。きっかけは何かというと、酒の勢いなんです。

 その年の秋、友人でノンフィクション作家だった柳原和子さんと酒を飲んでいました。柳原さんは取材して書く作家でしたが、自分ががんになり、自身のがんをテーマに書くようになりました。「がん患者学」という、患者側からの書いた本が売れたので、あるいは知っている方がいるかもしれません。2008年に亡くなってしまいましたが。

 酒飲み話の中で、柳原さんが若い時に歩き遍路したことを明かし、「とても印象に残った」と話したのです。私は酒の勢いで、「僕も行ってみるわ」と言いました。私は約束を守る方なので、しばらくして遍路に出ました。

 まだ毎日新聞の現役記者だったので、取材名目で2泊3日ずつ自転車で。先輩記者が体力作りのために自転車に乗っていたのですが、新しい自転車を買ったので、古い方をくれたのです。それを活用しました。

 遍路のことは何も知らず、勉強もせずに出かけました。ひどい話です。何せ、第1番・霊山寺に着いて、「あっ、みんな数珠を持っている」と気づいたくらいですから、不届きな遍路です。もちろん、経本も持っていませんし、般若心経も唱えることなどできません。

 霊山寺から2番・極楽寺に向けて自転車をこいでいると、道端に数珠が落ちていました。これ幸いと、その数珠を拾って使うことにしました。最低の遍路ですね。


◆虚往実帰

 もう1度、霊山寺に戻ります。私は自分の体たらくを芳村超全住職に話しました。残念ながら亡くなってしましましたが、話の好きな住職でした。住職が教えてくれた言葉に、私は救われました。「虚往実帰」という言葉です。これは空海が唐の国に渡った時のことを表現しているのだそうです。 

 空海は遣唐使の一員で、最澄と同じ時に唐に行きました。最澄が国費留学生だったの対し、空海は私費留学生という違いがあります。

 「虚(むな)しゅう往(ゆ)きて、実(み)ちて帰る」。住職はそう読んで、説明をしてくれました。「空海は何も持たずに唐へ行き、たくさんの物を持ち帰った」。私も何も持たず、何も知らずに遍路に出たのですが、遍路をしているうちに、たくさんのものを得るだろう。そう教えてくれたのです。

 つまり、何かを始めてみることが、大事だということでしょう。確かに遍路を経験して、たくさんのものを得たような気がします。もちろん、空海には及びませんが。

↑1番・霊山寺


◆遍路道にある「心の共同体」

 回っていて感じたのは、さまざまな出会いを通じて、遍路道には「心の共同体」がある、ということでした。四国には昔から、「お接待」という風習があります。お遍路さんをもてなすことです。

 お遍路さん側から言えば、食べ物や飲み物を頂くことになります。私のような都会の人間がお接待を受けると最初、「なぜ見ず知らず人間に」と驚いてしまします。やがて、お遍路さんの後にいる弘法大師=空海=へのもてなしに裏打ちされていることを知りますが。心の共同体を形づくっている大きな要素が、お接待であることは間違いありません。

 四国の人はお遍路さんによく声をかけてくれます。これもお接待の1つの形でしょう。歩いたり自転車で走ったりしていると、その声が力を与えてくれます。

 子どもたちの声なら、なおさらです。「お遍路さん、こんにちは」「お遍路さん頑張って」。これで勇気百倍です。

 都会では子どもたちは、「知らない人に声をかけてはいけない」と教えられます。あいさつを禁止したマンションが、ニュースになっていましたが、ここまできたのか、という感じです。

 四国では違います。子どもたちはお遍路さんによく声をかけます。お遍路さんは「知らない人」ではなく、初対面であったとしても、「心の共同体」に入ってきたメンバーなのです。


◆「学生さん」の一言で

 私の声に関するエピソードを披露します。遍路の最初の難関は12番・焼山寺です。標高800メートルの山に位置します。歩きの遍路道は「遍路ころがし」と呼ばれる急な登りです。自転車は30キロほど遠回りして登ります。

 私は自転車も素人だったので、不安でたまりません。そこで、出会った何人かに「自転車で登れるでしょうか」と訪ねるほどでした。

 9番・法輪寺に着きました。そこで、店を出していたおばちゃんに声をかけられました。「学生さん! お接待」と、売り物の鳴門金時の焼きイモを差し出したのです。焼き芋もうれしかったのですが、「学生さん」の一言の方がもっと元気が出ました。

 当時49歳。自転車なので、後から来る車にぶつけられないよう、少し派手目の服装をしていましたが、それにしても「学生さん」とは。「よし、登るぞ!」の気持ちがわいてきて、フーフー言いながらも登ることができました。

◆お金のお接待も

 遍路の最中、何度もお接待を受け、心の共同体にいることを実感しました。さきほどと同じ遍路ころがしですが、今度は歩いて登る前に受けたお接待の体験をお話しします。

 焼山寺への遍路ころがしは、11番藤井寺の境内からの道です。藤井寺の直前で、おばあちゃんに声をかけられました。「お遍路さん! お接待」。そう言って、1000円札を差し出しました。

 お金のお接待は3度経験しましたが、この時が初めてだったので、びっくりしました。そんなことは考えたこともなかったからです。ただ、それも私に背後にある弘法大師へお金なのでしょう。「お線香代に」と話していましたが、「私は年をとって回ることができないので、私の代わりに回ってください」の思いがあったかもしれません。

 それにしても、見ず知らずに人間に対してのお金です。これも、共同体という意識があるからではないでしょうか。

↑12番・焼山寺へ登る「遍路ころがし」の道


◆善根宿の一夜

 お接待の神髄は、善根宿(ぜんこんやど)ではないでしょうか。お遍路さんに、寝る場所を提供する家がありますが、それを善根宿と言います。

 最初の自転車遍路の際に、高知県で泊めていただいた善根宿のお話をします。そこは農家で、母屋から離れた納屋を改造して、お遍路さんのために2部屋を造っていました。無料で泊めてくれるのです。

 部屋に入ってしばらくすると、「お遍路さん」と声がかかりました。ふろが沸いたと言うのです。家族よりも前に、入れてもらいました。

 また、声がかかります。夕食ができたのです。母屋の座卓で、家族と一緒に頂きました。恐縮していると、主人がいいました。「うちは農家なので、食べるものはある。家族4人で割るのを、5人で割ればいいだけで、気を使う必要はない」

 確かに農家なので、食べるものはあるでしょう。しかし、裕福な農家ではないので、「食べるもの」といっても、米と野菜くらいです。

 裕福ではないと実際に分かったのは、泊めてもらって何年もたってからでした。その家の主人とは、年賀状のやりとりを続けていました。ある年、返事が2カ月ほど遅れて届きました。文面に「高松に出稼ぎに行っていた」の文字がありました。農業だけでは、生活が苦しいのです。それでも、お接待をしていたのです。

 泊めてもらった日、主人は気分が良かったのでしょうか。「わしゃあ、遍路と酒を飲むのが好きじゃきに」といったような言葉を口にし、日本酒まで一緒に飲ませていただきました」


◆ノートの表紙に、お接待の究極

 朝ご飯もいただきました。出発する時には、奥さんがおにぎり2個を持たせてくれました。

 部屋にはノートが置いてあって、泊まった人は住所と名前を書くことになっていました。私が泊めてもらったのは1996年ですが、その前年に泊まった人の合計が書いてあり、確か192人だった記憶しています。

 見ず知らずのお遍路さんに、これほどのお接待を続けているのです。ノートの表紙に書いてあった言葉に心を打たれました。「本日家族 増員名簿」。お接待の神髄、究極の心の共同体ではないでしょうか。

 嬉しく、楽しい善根宿でしたが、恥ずかしいことが1つありました。食卓の席で主人が「般若心経を唱えましょう」と言いました。実は私はいつも経本を見ながら唱えていたので、完全に暗記はしていなかったのです。

 経本を見ながら唱えるのは正しいのですが、問題は覚えていないということです。食事のときは、経本は納屋のリュックの中に入れたまま。このため、主人の心経についていけません。その時、いい加減に遍路をしていたことを思い知りました。反省して、次の遍路からは心を入れ替えました。そうなって初めて、心の共同体に加えてもらえたような気がします。


◆祈願から感謝へ

 ちょっと視点を変えて、私の知り合いで三味線を弾く女性の体験談です。その女性は大学を卒業した機会に、札所で奉納演奏をしながら、歩き遍路をしました。最初のうちは、札所で手を合わせ、「三味線がうまくなりますように」と祈願して回りました。

 ところが高知県の途中から、手を合わせた時に唱える言葉が変わったそうです。それは、「今日も歩かせていただき、ありがとうございました」です。

 私も含め多くのお遍路さんが感じるのは、「歩かせてもらっている」ということです。自分の力で歩いているのではありますが、励ましの声やお接待の気持ちが、後押しをしてくれているのを知るのです。それが分かった時に、「歩かしてもらっている」となり、心の共同体に感謝する気持ちが生まれます。


◆農業と遍路

 なぜ遍路道周辺には、心の共同体が存在するのでしょうか。独善的だと言われるかもしれませんが、私は農業と関係しているのではないか、と考えます。

 日本全体を考えると、1次産業は衰退の一途をたどっています。これに対して、四国にはまだまだ残っています。農業もそうです。

 農業の核となる米作りを考えてみます。田んぼで米を作るのは大変な作業です。ところが、3カ月か4カ月かけて作って、収入はそれほど多くはありません。農作業は非効率なのです。

 遍路はどうでしょう。歩きの遍路道は約1200キロあります。お遍路さんは苦労をして、30日から50日かけて回ります。しかし、結願しても経済的に得る物ありません。究極の非効率なのです。米作りと似ているのではないでしょうか。

 農業と遍路の共感が、お接待の根底に潜んでいるような気がします。「大変なのに、よう歩いているな」と農家の人は思い、「しんどい農作業で、私たちの食を支えてもらってありがたい」とお遍路さんは感じるのです。お互いの地道な努力を認め合うのです。

↑狭い土地を利用した愛媛県宇和島市の遊子の段畑。農業は苦労が多く、非効率な面が多い


◆日本を支えてきた思想と反対の思想

 戦後、日本は驚異的な経済成長を遂げました。それを支えた根本的な思想の1つに、「効率化」があります。少ない投資で、大きな利益を得る、という考え方です。その思想は今も続いています。

 それどころか、金融資本主義の波にのまれて、その傾向は一段と強まっているように思います。金融商品によって、1日で何百万、何千万、何億円ももうけるケースもあります。

 農業はその対極にあるのではないでしょうか。米を作るとすると、3カ月、4カ月をかけて1反で得るのは、たかだか数万円です。地道な努力は、基本的な思想と正反対ですが、それでいいのでしょうか。実は地道な努力の方こそ、評価されるべきではないでしょうか。

 「安全・安心」も最近のはやり言葉で、日本が目指してきた方向です。山の中の遍路道は、決して安全・安心とは言い切れません。農業にも似たようなところがあるのではないでしょうか。

 では、今の社会が万全なのかというと、そうでもないようです。今の生き方に疑問を感じている人も少なくないような気がします。「都会の生活に疲れると、遍路に出る」という言葉を何度か聞きます。四国にある心の共同体を求めているのです。


◆1人にさせてもらえない四国

 高知県の31番・竹林寺の海老塚和秀住職から聞いた話も、示唆に富んでいました。ニートで家に引きこもっていた男性が寺を訪ねてきて、住職に語った内容です。

 男性は「このままではいけない」と考え、一念発起して歩き遍路に出ました。歩きながら、この先の人生をゆっくりと考え直そうと思ったのです。

 その男性が住職に話したのは、「四国の人はうるさい。私を決して1人にはさせてくれませんでした」ということでした。道を間違えば、「お遍路さん、こっち、こっち」と声をかけてくる。「お遍路さん、お接待」と言って、何やかや差し出すし、さまざまに気を使ってくれる。「1人でゆっくり考えたかったのに」

 その男性は結願すると、社会復帰したそうです。心の共同体が、いかに心地よかったかを物語っていると思います。

↑竹林寺の説明をする海老塚和秀住職(1番右)


◆新聞記者と行く遍路旅

 これまで、お遍路さんと四国の方々の共同体についてお話しました。次は遍路同士の共同体です。

 私は2003年から、毎日新聞旅行の遍路旅の先達(案内人)をしています。1泊2日ずつの遍路で、良い遍路道は歩き、後はバスで移動するという虫のいい遍路です。

 当初、遍路のバスツアーはブームでした。最大の要因は、明石海峡大橋の開通(1998年)です。橋の完成により、関西の大手の旅行会社がドッと遍路バスツアーに参入しました。

 毎日新聞旅行はマイナーな旅行会社ですが、遍路旅には歴史がありました。しかし、大手の参入で過当競争になりました。旅行部門は毎日新聞の関連会社が行っていて、社長を毎日新聞で同期入社の男が努めていました。

 その彼がある日、「新聞記者と行く遍路という企画をするので頼む」と言ってきたのです。過当競争の中で、区別化をしたいというのですが、新聞記者と行ってどういう意味があるのでしょう。新聞社の旅行だから新聞記者、という全く安易で、いい加減な発想です。

 私は遍路を好きになっていたので、ありがたい話です。好きな遍路のプランも立てることができ、実際に行って、しかもわずかではあるのですがアルバイト料ももらえるのですから。私の方もいい加減なもので、こうして奇妙な遍路が始まりました。

 最初のシリーズは、1泊2日ずつ11回で1周しました。募集による参加者で、毎回25人から35人が集まりました。11回全てを参加した人もいれば、1回だけの参加の人もいました。

 夫婦が2組、友人同士が1組がいましたが、大半は初対面から始まった仲間です。それがやがて、緩やかな共同体に変わっていきます。遍路という共通点があるうえ、一緒に歩き、夜は何人かの相部屋だったからでしょう。


◆誕生日の6日前に

 Sさんという女性を中心に話を進めます。シリーズの中の4回目で初めて参加した女性でした。

 Sさんは娘さんを交通事故でなくしました。25歳の誕生日の6日前でした。

 Sさんは学校の教師で、そのころは文化祭の準備で、帰宅が遅くなる日が続いていました。そんな時は娘さんが買い物に行き、家族の夕食の準備をします。その日、たまたま早く用事が終わり、「買い物に行かなくいいよ」と電話をしようと思い、受話器を手にしたのです。しかし、マイカーに乗れば家まですぐなので、電話をかけるのを思いとどまってしまいました。

 家に向かう車の中で、救急車やパトカーのサイレンを聞きました。帰宅すると、娘さんはいません。きっと買い物に行ったのだと思いました。やがて警察から連絡がありました。「娘さんと思われる人が事故で亡くなったので、確認してほしい」

 Sさんの悲しみはいかばかりだったでしょう。そのうえ、娘さんの死は自分のせいだ、と責任を感じたのです。「電話さえかけていれば、買い物に出なかっただろうし、事故で死ぬことはなかった」と。


◆瀬戸内寂聴さんの勧めで
 悲しみのどん底で、学校もやめ、2キロ離れたお墓に毎日お参りをしました。私は日記帳を見せてもらったことがあります。そこにはお墓参りのコーナーが作ってあり、毎日○が書いてありました。

 やがて初盆が来ました。お寺さんは悲しみの中の彼女のために言いました。「いつまでもくよくよしていると、娘さんも浮かばれませんよ」

 この言葉で、さらに悲しみと苦しみが増します。「私のせいで亡くなったうえ、私が足を引っ張って成仏もできない」。そう考えてしまったのです。

 そんな悲しみを抱えた時、女の人は助けを求める最後の手段として、瀬戸内寂聴さんに会いに行くのです。彼女も京都・嵯峨野の寂庵を訪ねました。

 「悲しいわよね。お墓に参らなくてはいられない気持ち、これだけは治す薬はないの。泣きたいだけ泣きなさい。そのことで娘さんが成仏できないことはない。ただ、お墓には燃えかすが入っているだけよ。霊はあなたのそばにいるの」。そう言ったうえで、寂聴さんは四国へ行くことを勧めました。


●写真と歩く

 初参加の回、彼女は泣きながら遍路道を歩きました。その回だけ参加した母子がいました。丁度、彼女と娘さんと同じ様な年ごろでした。その2人は、遍路道を楽しそうに話しながら歩いています。「私は娘の写真と歩いている」。そう比較すると、涙が止まらなかったのです。

 その夜の宿で、同じ部屋の参加者に娘さんの写真を見せて、涙を流しました。すると、「泣きたいだけ泣けばいいじゃないの」と言う人がいました。

 の時から、遍路旅はSさんを中心に回るようになりました。「この人の涙はいつになったら止まるのだろう」と思った人が多かったからでしょう。見ず知らずの人たちの間に、心の共同体が生まれたのです。


●みんなは1人のために、1人はみんなのために

 娘さんの命日の直前に家を訪ね、仏壇に手を合わせに人がいました。唯一友人同士で参加した2人組の女性です。その2人は次に彼女を自分たちの方に呼び、近くに住んでいる仏像の彫刻家を紹介しました。Hさんは娘さんの顔をモデルにし、仏像を彫り始めていたからです。

 瀬戸内海に浮かぶ小さな島、香川県の佐柳島出身の女性は、彼女を島の春祭りに招き、姉の家で一緒に泊まりました。島あげての花見で、演芸大会などを楽しんだのです。

 参加者の中で、Sさんは最年少でした。やがて、彼女はほかの人たちのことを気遣うようになり、雑用を引き受けるようになりました。

 ●遍路ツアーを選んだ理由

 わざわざ金を払って参加しているツアーの客同士なので、何もそんなことをする必要はないのです。では、なぜ?

 気軽な遍路旅ではありますが、名所観光でも、買い物ツアーでも、温泉ツアー、グルメツアーでもなく、遍路ツアーを選んでいるのは、根底に何かあるような気がします。先達の目で動機を分析すると、観光、身近な人や先祖の供養、ウォーキング、病気の回復祈願、信仰などとなります。

 その中でも、身近な人や先祖の供養が、かなりのウェートを占めるように思います。表面は観光であっても、心の底に供養の気持ちを沈めている人は多いのです。

 Sさんを招いた2人組の1人は、子どもを11歳の時に、難しい病気で亡くしています。もう1人は両親を別々の鉄道事故で亡くしていました。3人の間には共通項があったのです。

 遍路バスツアーに限らず、遍路に出ること自体の中に、心の共同体が生まれる素地があるとのではないでしょうか。その人たちが出会えば、緩やかな共同体が生まれやすいはずです。

 そんな思いがあるなら、歩き遍路にすればいいじゃないか、と思う人がいるかもしれません。ただ、女性が歩いて回るのは勇気がいるのでしょう。ですから、歩き遍路の足慣らしに、結構歩くこの遍路に参加した人たちがいました。このシリーズが結願した後、参加者のうち4人の女性が歩き遍路をしました。


●峠の石で眠り込む

 Hさんの娘さんは紅茶が好物で、その中でも好きな銘柄がありました。Iさんという女性はそれを知り、その銘柄の紅茶をHさんに持ってきたことがありました。今度は、そのIさんの話です

 父親が亡くなり、遺品を整理していると、愛媛県の60番・横峰寺の手ぬぐいが出てきたそうです。それで、父親が遍路をしていたことを知り、供養のつもりで遍路旅に加わわった、とうことでした。初参加は5回目ですから、Hさんよりも後です。

 初参加の時は、高知県の「そえみみず遍路道」という昔ながらの遍路道を歩きました。軽い峠越えの道です。7月の大変暑い日でした。

 峠で一休みをしました。Iさんは石の上に腰を下ろし、食べたものをもどし、やがて眠り始めました。参加者の中に女性の看護師がいて、熱中症と判断しました。

 実は歩く前に、熱中症を心配して、皆さんに「水を飲んでおいてください」と指示していました。しかし、Iさんは飲んでいませんでした。山道なので、トイレを気にしたのです。しかも、厚着でした。

 山の中なので、救急車も入ってくることはできません。やむなく、何とか待機しているバスの所まで下ろしてくることになりました。夕方が迫っていたので、私は他のメンバーを案内して先にふもとに下りました。


●4人組の奮闘

 添乗員を含め、4人が残りました。男性2人、女性2人です。どのようにしたか。

 まず、看護師が男性に「後を向いて」と命じました。そのうえで、Iさんの衣服を脱がし、上下1枚ずつの身軽なスタイルにしました。足には自身のある男性Nさんが肩を貸しました。女性の1人が、Nさんのズボンのベルトを後から持って、下り坂で滑っていかないように引っ張り続けました。残りの1人は、持っていたパンフレットをうちわ代わりにしてIさんを仰ぎ、もう1人は木の枝など道の障害物を取り除いて、歩きやすくしました。

 Iさんは何とかふもとまでたどりつき、私たちと合流しました。1時間近くかかったのではないでしょうか。バスに乗って宿に着きましたが、午後7時を回っていたような気がします。夕食は予定よりも2時間ほど遅れました。それでも参加者は誰も不満を言いません。すでに薄ぼんやりとした共同体ができていたからでしょう。

 Iさんは何とかふもとまでたどりつき、私たちと合流しました。1時間近くかかったのではないでしょうか。バスに乗って宿に着きましたが、午後7時を回っていたような気がします。夕食は予定よりも2時間ほど遅れました。それでも参加者は誰も不満を言いません。すでに薄ぼんやりとした共同体ができていたからでしょう。

↑そえみみず遍路道


◆「仲間やないか」

 宿に着くと、肩を貸したNさんは汗だく、ヘトヘトで、入り口にあった自動販売機で缶ビールを買い、一気に飲み干しました。私は近寄って、お礼を言いました。すると、「何を言っとるんや。仲間やないか」。それが答でした。

 次にベルトを引っ張り続けた女性に、お礼を言いました。すると、「Iさんが下りてこようという意思を持っていたから、下りてこれたんですよ。1番頑張ったのは、Iさんです」。それが答でした。

わざわざお金を払って、楽しみで参加している旅です。何も、そんな苦労や、余分なことをする義理はないのです。添乗員や先達の私に任せておけばいいのです。では、何でこんな良い話になるのでしょう。これも、遍路を根底に置いた共同体のせいではないでしょうか。このことをきっかけに、共同体はさらに強まりました。


◆心得た対応

 8月は遍路旅を休み、6回目は9月でした。この回は、愛媛県の柏坂という遍路道を歩きました

 ある意味で、あれほど迷惑をかけたIさんです。また峠越えなので、参加者はみんな、Iさんは不参加と思い込んでいました。

 ところが集合場所に、Iさんは姿を現しました。その瞬間、Nさんは「アッ、来たと思わず声を上げたのを覚えています。

 さて、峠越えです。どうも、いつもと様子が違います。歩きの列の1番後ろに、Nさんをはじめ足の強そうなメンバーが集まっていました。私はすぐに、ピンときました。

その期待に応え、Iさんはまたダウンしたのです。すると、しんがり組が「待ってました」とばかりに、活動し始めました。歩き遍路は金剛杖を持って歩きます。杖2本を体操競技の平行棒のように並べ、4つの端を4人が満ちました。杖の真ん中あたりにはタオルを巻き付けました。金剛杖はIさんの脇の下にはさみ込んで、4人で下苦労しながら下ろしてきたのです。

 午前中の歩きでした。昼食場所は決まっていましたが、峠から下りてくるのに時間がかかりすぎ、予定していた店では食べられなくなりました。そこで、コンビニに寄り、おにぎりやサンドイッチ、カップラーメンを買って、店の外やバスの中で食べたのです。

 普通ならお腹もすいていることだし、文句の1つも言いたくなるでしょう。しかし、そんな人はいなくて、バスツアーでは考えられない貧しい昼食で我慢するのです。この時は、もう共同体がしっかりできていたのです。


◆ニックネームは酔芙蓉

 そんなIさんでしたが、1度も遍路旅を休むことはありませんでした。みんなと回っている間に、4回もダウンしたのですが。

 Iさんのお父さんは、町工場を経営していて、彼女はずっと経理を担当していました。亡くなった後は、Iさんの妹さんの夫が後を継ぎましたが、引き続き経理で会社を支えました。結婚はしていないので、仕事中心の生活だったようです。

 そんなIさんは、人生の終盤で遍路を通して、仲間を得たのだと思います。ほかのメンバー以上に、遍路という緩やかな共同体の心地よさを感じたに違いありません。

 彼女は少し酒を飲みます。飲むと、ほおを赤くそめます。そこで、「酔芙蓉」というニックネームをつけました。酔芙蓉は朝に白く咲き、次第にピンクに染まっていき、夕方に赤くなって、花を閉じます。美しいのですが、翌日には散る、はかない花でもあります。

 彼女はこのニックネームを気に入っていました。ちょっと失礼ですが、美人とは言いがたい人でしたが。


◆「漢字が出てこないんです」

 Iさんがダウンした理由は、遍路が終わってから分かりました。がんだったのです。

 ある時、電話がかかってきました。がんが再発し、入院をするというのです。「お世話になった」というので、覚悟の入院だったのかもしれません。

 入院してしばらくして、会社の電話をし、Iさんの様子を聞こうとしました。すると偶然、彼女が電話に出ました。別の病院で治療を受け、元の病院に戻る途中、ちょっと寄ったのだそうです。その時、「みなさんに手紙を書こうと思うのですが、病気のせいか、漢字が出なくなって。それで出せてないんです」と話していました。

 ばらくして、亡くなったという連絡を、妹さんからもらいました。そこで、Iさんら何人かでお通夜に行きました。翌日の葬儀は、私は用事が入っていたからです。

 お通夜の式場で、初対面の妹さん夫妻は、親しく話しかけてきました。「あなたが、梶川さんですか」「あなたが、Nさんですか」。何人かの名前を挙げたのです。

 Iさんは遍路から帰ると、妹さんらによく遍路の話をしていたそうです。だから、何人かの名前を知っていたのです。遍路の仲間が、人生の終盤で大きな意味を持っていたことが想像できます。


◆「酔芙よう」

 妹さん夫妻は私たちに、紙を配ってくれました。Iさんが病床で書いたものを、コピーしたのだそうです。きちんとした文章にはなっていませんから、メモのようなものですが、よく読めばお別れの言葉でした。

 印象に残っている言葉があります。Nさんにあてたものでした。「もう、迷惑をかけることはありませんよ」。何というお別れの言葉なのでしょう。遍路の仲間との1番の思い出なのでしょうか。涙が流れました。

 メモには署名代わりに、自分のニックネームが書いてありました。「酔芙よう」と。電話で「漢字が出なくなった」と話していましたが、「蓉」が「よう」となっていました。


◆床上浸水の仲間の救援

 メンバーの交流は、結願後も続いています。1つの例をお話をします。Hさんを仏像彫刻家に紹介した女性の家をある夜、台風が襲いました。最初は連絡が取れなかったのですがが、何とか連絡がつき、床上浸水の被害が出たことがわかりました。

 そのことを気遣った仲間の男性が台風一過の翌日の正午ごろから、「10人乗りのマイクロバスを借りて運転するから、1泊で手助けに行こう」とメンバーに電話をかけました。その翌日の午前8時に大阪・梅田集合で、時間的な余裕はありません。それにかかわらず、マイクロバス定員いっぱいの人が集合したのです。Hさんは大阪から遠かったので、1人だけマイカーで駆けつけました。

 私たちがやったのは、泥だらけになって使いようがないものを、台風被害のごみの集積所まで運ぶことでした。手助けは喜ばれました。なぜかというと、本人は長年使った家具などを、捨てる決心がつかないのです。私たちは他人のものなので、使えないと判断した物は、どんどん捨てました。

 しんどかったのは、畳です。泥水を吸い込んだ畳の重いこと。普通の状態の畳は、男なら頑張れば1人でも運べます。ところが泥水畳はそうはいきません。年寄りばかりなので、4人がかりで運んだのです。

 Hさんのために始まった「みんなは1人のために」の心は、ずっと続いたのです。遍路旅ではない、普通のツアーだったらどうでしょうか。こんな動きにはならなかったかもしれません。


●1人のための同窓会

 もう1つお話します。遍路旅が終わって10年ほどたったころです。Hさんから同窓会の提案がありました。それには、ある思いがありました。

 Hさんを佐柳島に誘った女性はその後、目が不自由になって、なかなか外出できなくなっていました。それなら、その女性の家の近くで集まればいいというのです。そこで、神戸市立森林公園で同窓会を開くことになりました。女性の家から近く、そこまではご主人が車で送ってくれることになりました。

 紅葉狩り名目で、当日は20人ほど集まりました。すごいでしょう。これも緩やかな共同体が、そうさせたと言えます。

↑同窓会をした神戸市立森林植物園


◆1泊3日のメリット

私たちの遍路旅は、概ね1カ月に1度の1泊2日でした。このくらいの緩やかさがよかったのだと思います。みんな人生経験豊富な年配者で、自分の生き方に自信も持っています。ということは、我が強い人たちばかりです。

 誰にでも、好き嫌いはあるでしょう。よく冗談で言います。「もし、2泊3日だったら、けんかになっていた」。気が合わない人でも、2日だったので我慢できた、と。

 みなさん方のコミュニティカレッジも、似たような状況があるのではないでしょうか。同じ趣味、同じ関心を持った人たちが、同じ講座を受講する。そこにホンワリとした共同体ができ、それが心地よいのではないでしょうか。その意味で、この勉強の場は貴重だと思います。


◆遍路の特徴の1つは循環

ここからは、最初に申し上げたもう1つの結論のことに話を変えます。

 私は循環が遍路の特徴の1つだと思っています。普通は徳島県鳴門市の1番札所・霊山寺からスタートして、時計回りに進み、香川県さぬき市の88番・大窪寺で結願します。1番からどんどん離れていき、四国を1周してまた1番に近づいて終わります。

 遍路道は輪のようになっています。お遍路さんの中には、結願した後、そのまま1番に向かい、お礼参りをする人も少なくありません。こうなると、円環はつながります。1番に行くと、また回り始める人もいます。こ

 ヨーロッパに、キリスト教の巡礼の道「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」があります。私は行ったことはありませんが。フランスからスペインへと歩いて行きます。こちらの方は直線的で、目的地に着くことが目的と言ってもいいでしょう。

 一方、遍路道は輪になっているので、グルグル回りです。実は私も今、13回目を回っています。つまり、歩いていること、回っていることが目的とも言えます。


◆日は昇り、日は沈む

 円環状になっているのは、太陽信仰と関係があるのではないか、というのが私の勝手な考えです。空海の興した真言宗は、大日如来を中心に据えていまして、これも太陽信仰と関係するあかしだと思っています。

 太陽は朝になると昇り、夕方になると沈みます。いったん姿を消しますが、夜を経てまた姿を現します。つまり、グルグル回りです。

 季節は春、夏、秋と巡り、寒い冬を経て、また暖かく心地よい春がやってきます。やはり、グルグル回りです。

 夜に力をため、朝に甦る。冬を耐えて力を蓄え、春に復活する。私には、そう見えます。蘇りの思想です。遍路のグルグル回りも、蘇りの思想に関係するのではないでしょうか。

 人間するそのものが、新しい細胞へと甦りながら生きています。いえ、新しい細胞へと生まれ変わらないと、生けていけないのです。福岡伸一さん風に言えば、そういう蘇りのシステムを持たないものは無生物なのです。


●辺地、辺路、遍路

 京の都から見れば、四国の太平洋岸などです。そこを浄土の周辺の土地とみなして「辺地(へち)」と呼びました。辺地へ行って帰って来る。それは極楽浄土からの帰還で、蘇りの思想に基づいているのではないでしょうか。

 「辺地」はやがて、「辺路(へち)」という書き方に変わったという説があります。紀伊半島の熊野詣でに、この言葉が残っています。熊野詣でも、西方浄土の極楽思想によっています。紀伊半島の太平洋岸はやはり、極楽の周辺と考えたのです。

 現在の和歌山県田辺市の海岸近くから熊野大社に向かうメーンルートは、中辺路(なかへち)と呼ばれます。田辺市からさらに海岸沿いに南に進み、新宮市から山に入っていくのは大辺路(おおへち)です。奈良県十津川村を経由するのが、小辺路(こへち)です。

 平安時代は熊野詣でが盛んでした。特に天皇から身を引いた上皇の参詣が目立ちます。後白河上皇は33回か34回、後鳥羽上皇28回、鳥羽上皇21回といった数字が残っています。これも熊野を詣でることで蘇る、生まれ変わるという考え方に違いありません。

 辺路はやがて、遍路という書き方に変わりました。これも有力な説です。遍路の言葉自体に、生まれ変わり、蘇りの考えが込められていると言ってもいいかもしれません。


◆生まれ変わりの場、穴禅定

 遍路道には、生まれ変わりの思想が、はっきりした形で残っている場所があります。徳島県上勝町の慈眼寺です。88カ所以外に、別格20霊場の寺があり、慈眼寺は別格3番札所です。

 寺には穴禅定(あなぜんじょう)という洞窟があります。空海が修行をした場所との言い伝えがあります。

 ここは鍾乳洞(しょうにゅうどう)です。中は真っ暗で、ろうそくを手にして入って行きます。100メートルほど。ちょっとした広場にまつってある空海の像に手を合わせ、また同じ道を帰ってきます。

 断面で見れば広い所、狭い所があります。普通の歩き方では、狭いので通れません。そこで、ほとんどの場所は横歩き向きで進みます。その上で、広い場所を選びながら進んで行きます。そのためにかがんだり、伸び上がったりするようなこともあります。


◆難所の苦しみ

 4個所の特に狭い難所があります。例えば幅20センチの場所は、片側の岩が突出しています。固い頭は無理なので、その部分を避けます。そうなると、胴体がそこを通ることになりますが、突出した方に背中を当てると、通り抜けられません。ところがお腹なら、突出した部分に当ててもへこむので、こすりながら通り抜けられるのです。

 そんな場所なので、洞窟には先達のおばあちゃんがいて、指示してくれます。例えば、「左肩から入ってしゃがみ込み、右肩から斜め前方に立ち上がる」といった具合です。その通りししないと、ひっかかってしまいます。

 難しいのは、先達のおばあちゃんの指示を、伝言ゲームのように次々に後の人に告げなければならないことです。ところが、自分が抜けることが精一杯で、伝言ゲームどころではなくなってしまうのです。

 これまで話してきた遍路旅の一行が穴禅定に入った時は、小太り女性が難所で引っかかってしましました。すると、後に続く人たちは、不自由な姿勢のまま待ちます。女性はなかなか難所を抜けられず、ついにパニック状態になってしまい、「南無大師遍照金剛」という弘法大師の宝号を唱え始めてしまいました。苦しい時の神頼みならぬ、空海頼みです。待っている人たちも一緒になって唱えたため、洞窟内は異様な雰囲気に包まれてしました。


◆胎内の疑似体験

 最後の難所は出口のそばにあります。ということは入り口のそばでもあります。この場所は上下2段構造になっていて、行きは上側通りますが、ここはそれほど難しくはありません。

 帰りは下側を通ります。ここは、はって通り抜けます。上下、左右とも狭いので、腹ばいになって、少しずつ進みます。

 あるシリーズの際に、男性がここで力つき、「このまま少し休ませてください」と言い出したことがあります。これには驚きました。その男性はほかの場所でも引っかかっていたので、先達のおばあちゃんは指導しやすいように、前から2人目に順番を変えていました。

 さあ大変です。その男性が通り抜けないと、後に続く全員も外にでることはできません。先達のおばあちゃんが前から手を引っ張り、後続の人が足の裏を押し、やっとこさ通り抜けることができました。

 最後の難所は、母親の胎内から出てくる追体験です。言い換えれば、生まれ変わって外に出るのです。遍路全体を、ここに集約しているような気がします。遍路旅の参加者に1番印象に残ったことを聞くと、ほとんどの人が穴禅定を挙げまが、胎内の記憶がそうさせるのかもしれません。

 その回は何人もが、いろいろな所で引っかかり、全員が甦るまでに1時間40分かかりました。スムーズにいけば、先達のおばあちゃんの説明を聞きながらゆっくり進んでも、30分の行程なのに、です。生まれるということ、生まれ変わるということは、並大抵のことではない、だからこそ蘇りのご利益があるのでしょう。

↑同窓会をした神戸市立森林植物園


◆戒壇めぐりも生まれ変わりのシステム

 もう1つ蘇りの代表的な場所の話をします。香川県の75番霊場・善通寺です。ここは、空海が生まれた場所とされています。

 遍路の際は、本堂で般若心経を唱え、弘法大師をまつる大師堂でも心経を唱えます。善通寺の場合は、大師堂は御影堂と呼ばれ、この場所こそが、母親の玉依御膳から生まれた場所とされています。

 御影堂の下に、戒壇が造られています。真っ暗な四角形をした通路で、左手で壁を触りながら歩いて行くと、出口から明るい外の世界に戻ります。空海が母親のお腹から生まれたことを、疑似体験するのです。生まれ変わりの分かりやすいシステムです。


◆暗がりの中の出会い

 善通寺の戒壇めぐりで、Hさんに再び登場してもらいます。

 遍路が終わって、お礼参りに高野山に行き、その夜は高野山の宿坊に泊まりました。遍路の最後の夜なので、思い出話の語り合いになりました。Hさんは「善通寺の戒壇で、娘に会った」と話し出したのです。

 戒壇めぐりは真っ暗で、不安でした。「こんな時、娘がいてくれたら」。そ思った瞬間、娘さんが現れたといいます。

 そんなことは、あろうはずもありません。しかし、Hさんにははっきりと見えたのです。「会った」というのが事実でないとしても、あるいは見えたというのが間違っていたとしても、少なくとも娘さんを感じたのは本当なのでしょう。

 遍路に行って結願したとしても、Hさんの悲しみや苦しみが、癒えるわけではありません。ただ、何かの変化は起きたのではないでしょうか。そのきっかけが、戒壇めぐりだったのは、生まれ変わりの場としての不思議さです。

↑善通寺


◆さまざまな人がいるからこそ

 Hさんは「みんなに出会えてよかった」とも語りました。そのことを個人的に改めて聞いたことがあります。すると、こんな言い方をしました。

 「仲間には、自分と同じような悲しみを持っている人もいる。しかし、そんな人ばかりではない。遍路を楽しんでいる人もいたし、軽い気持ちで参加している人もいた。いろいろな人がいたことで、かえって気が楽だった」

 それは、緩やかな共同体の特徴だと思います。コミュニティ・カレッジも同じで、皆さん方は良い共同体の中にいるのだと想像します。


◆ひょいと四国へ

 最後に種田山頭火の句を紹介します。「ひょいと四国へ晴れきっている」

 都会と違って遍路道には、緩やかな心の共同体があります。そんな装置は、利用した方がいいのです。

 四国の人は、遍路をすることも、遍路をする人も、霊場のことも、みんな「お四国さん」と言います。「お」のついている優しさこそが、お接待にも通じる四国の人の心を象徴しているのです。まだ経験したことのない人は、気軽に四国に行ってみてはどうでしょう。

 最後の最後にもう1つ。コミュニテイ・カレッジは4月から、新しい講座が始まるようです。今日卒業した人で、新学期も受講する人いると聞いています。ここも心地よい共同体の場だと思います。こんな場は活用して方が得だと思います。いったん卒業をしますが、また生まれ変わって受講し、循環を続けることは、生命体を長続きさせる秘訣ではないかと考えます。