作家・高野山本山布教師、家田荘子さん「四国遍路とおもてなしの心」

 《「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会第14回総会兼記念講演会=大阪市立阿倍野市民学習センターで2021年3月20日=読みやすいように中見出しをつけ、写真も入れましたました。》




◇14周目の遍路





↑家田荘子さん


◇14周目の遍路

 みなさま、こんにちは、家田荘子です。去年この催しは、高野山の東京別院さんで開かれる予定だったのですが、新型コロナのために中止になりました。今回皆さまのご協力によって、やっと開かれることになり、ありがとうございます。

 私は高野山で本山布教師として布教をする、法話をするという資格があります。高野山に駐在してお話をさせていただいているんですが、去年は全部中止になりました。今年もゴールデンウィークはどうなるかわからないので、高野山の近くの人がやられるということです。そんな状態です。

 私は遍路を14周目後半に入っていまして、この間の月曜日と火曜日、愛媛県に行ってまいりました。14年間毎月やっておりまして、これが私の遍路のやり方です。2泊3日で、120キロくらいを歩いて、1日最高55.5キロ歩いたこともあります。

 交通機関などを使って戻ります。翌月にまたそこに行きまして、そこからつなげていくという、つなぎ歩き遍路。これは私が考えた言葉で、これをやっております。四国1周1400キロあります。東京駅から鹿児島中央駅くらいまでにあたるのですが、これをやっておりますと、12回で回ることができます。12回ということは、毎月やれば1年で回れるということで、14年間ずっとやっております。去年からは新型コロナウイルス完全終息のために、写経を納めながら回っている状態です。

↑家田荘子さんの講演


◇ゼーゼーハーハーのお遍路さんに触発され

 初めて遍路をしようと思ったのは、私が高野山大学の大学院に入りまして、何を研究しようかなと思っていた時に、車遍路をしました。高知県なんです。28番札所の大日寺さんに行きました。そうしましたら山門をくぐって大きな荷物をかかえた男性の歩き遍路がやって来ました。ゼーゼーハーハーと言って苦しそうにしながら、入ってすぐ左手の階段の手前にあるベンチのところで荷物を置いて、靴下を脱いで、それで靴の上に足を乗せて、膝の上に肘を置いて、ゼーゼーハーハーやっていたんです。

 むりもありませんね。その前の27番神峯寺さんから38キロあります。8.5時間から遅い人は10時間以上かかります。しかも神峯寺さんは登る時は壁のような、まっ縦の壁のようで、下りは歩いていると膝に力が入るので、膝をやられたうえで、さらに38キロくらい歩きますから、もうフラフラになっているのは当たり前なんですね。

 それを見た時に、歩き遍路さんって大変なんだなあって思いました。ただ、私たちは自分の体の痛みは直接感じることができますが、人(他人)の体の痛みは想像でしか感じることができません。自分の過去の経験が、「ああ、辛いだろうな、しんどいだろうな」と思うんですが、本当にはわからないけど、大変だなあと思いました。

 すると今度は、右手の方にご夫婦が歩いて来ました。おとなしいご夫婦で、旦那さまが無言でリュックから写経を取り出して、本堂の方に向かって行きました。この姿を見た時に、大切なお子さんを亡くされたのかな、と私は直観しました。遍路はいろんな理由で回るのだということも分かっている。じゃあ目の前にいる人、このゼーゼー、ハーハーやっている人が、どんなに大変かわからないから、自分でやってみようと思いました。

 今、遍路に行きたいけど、今忙しいから行かれない。こういう声をよく聞くので、今遍路に行きたいと思った人が今行ける遍路を研究してみようと考え、この3日間を使って2泊3日で遍路ができないかな、これを研究しようと思ったのがきっかけです。

 もともと私は山岳行者の修験です。四国の霊峰・石鎚山の行者です。実は弘法大師空海が修行をされた場所の1つが四国の霊峰・石鎚山1982メートルです。

 ここで修行を繰り返しているうちに他の山、」峰山とか出羽三山とか役行者さんの跡をたどっているうちに、いつの間にか、お大師さまの跡をたどるような道が開けていったということになるんです。


◇エイズ患者のボラティアからお大師さまの道へ
 
 アメリカでエイズ患者さんのボランティアをさせていただいていた時に、200人以上もの患者さんが亡くなっていきました。当時は発病したら2年以内に命にかかわると言われていました。今はそんなことはありません。でも発病したら命にかかわるということで、どんどん亡くなっていかれました。その亡くなった方たちが、私は見えないものが見えたりするので、みんな頼ってくるのですが、私は亡くなった方に出会ったことがうれしいと思う。でも向こうは、苦しいから私を頼ってくる。その頼ってきた人を、私はどうしていいかわからない。そこから行が始まることになるんですよね。

私はずっと、主に女性の取材をさせてもらっています。もがきながら前に行こうと頑張ろうとしていている人、」光が当たっていない世界の光が当たっていない人に少しでも目が向いて、それは私が子ども時代にいじめられていたからだと思うんですけど、それで取材をずっと続けてきております。

 そういう人たちがいっぱいこの世の中にいます。そういう人たちが気楽に立ち寄れる、話を聞いてあげられて、爽やかに帰っていただけるミニ駆け込み寺をしました。それでお大師様の道が開けていったのと同時に、自然に高野山真言宗への道が開けて行きました。高野山大学の大学院にも行きまして、遍路の研究をしようとなりました。

↑家田荘子さんの講演


◇お大師さまが押した背中

 番霊山寺さん、徳島県の鳴門市にあります。ここに初めて1人で行った時、私は雨女なんで、必ず雨が降ってしまうんです。今日の朝のように、きれいな天気だったんです。ところが私が1番霊山寺さんに行きましたら、雨が降って、ゴロゴロと鳴りだしました。怖くなりました。これから2番極楽寺さんまで1。4キロしかないんです。歩いたら15分、遅くても20分くらいでは歩けるんです。しかも一本道。しかし、1人で行こうと思ったら怖くて足が出ないんです。1歩出せばいいんですが、その1歩が出ない。

 納経所では「行ってらっしゃい」と言われ、「はい」と喜んで言いましたが、実は心の奥では、やめることもできると思いました。でもやめることもできない。 


 そのうちに私の背中の方、左の後ろの方から男の人の声が聞こえました。「人生も同じだよ」という声でした。人生もいろんなことがあります。特に今、コロナの時期ですから、立ち止まっている人もいらっしゃるかもしれない。でも、立ち止まっているだけでは、前に進んで生きていくことはできません。人は前に進むようにできているんですけど、大きな壁があると、なかなか前に進むことができません。

 遍路も自分1人では孤独で怖くなって、そこでずっと立ちすくんでいては2番にも行けないし、88番に行って結願することもできません。それを思って、1歩1歩、恐る恐る1歩、また1歩、歩いて行く、この人生と同じだよ、と言われた声で歩き出し、1回目の時は必至で、振り返りもしませんでした。

 2回目の時は10番の先に泊まることにしました。1番から10番まで速く行かないと泊まる所がないので、考えることもしませんでした。

 3巡目の時、振り返ってみました。大師堂がありました。お大師さまが私の背中を押してくださったのかな、と思いました。遍路をしていると、お大師さまに出会うという人が多くいらっしゃるのですが、困っている時になると、お大師さまが現れて、人が来て助けてくださったりとか、あるいは道案内してくださったりとか、いろんな不思議なことが起こるんです。あの第1歩を出せたのは、お大師さまだったのかなと思うんです。


◇善根宿の功徳

 それからずっと歩いて行くんです。4番の大日寺さん、3番から5.9キロくらい山の中に行きます。ここで私は歩いている最中に野宿遍路の男性に出会います。大きな荷物をしょって、歩いて行くんです。真冬なのに割と軽装なんですね。「それで大丈夫なんですか」と聞いたら、「大丈夫だよ、これだけあればいけますよ」と言うんです。その人は2年間もグルグル回っていらっしゃる。善根宿というところに泊まって、歩いて回ったそうです。

 善根宿(ぜんこんやど)というのは、「善意」の「善」、それから「根(こん)」は「ね」、根本的の「根」、そして宿。一般のお宅で、お遍路さんを泊めてあげて、そこのお家の人と同じものを食べさせていただいて、お風呂に入れていただいて、寝させていただく。そういうすごい功徳のサービスをしていただく。そういう所で泊まり、1周回っているんです。

   私がもし四国に住んでいて、こういうことができるのか、善根宿ができるのか。なかなか難しいことです。四国にはそういう素晴らしいことをしている人がいる。そういう人たちに助けられて、お遍路さんは回っていけるんだと思います。


◇お遍路さんのためにトイレの処理

 12番焼山寺さんに行くのに、11番藤井寺山から約13キロ、3つの山を越えて行きます。「遍路転がし」といって、お遍路さんを転がすような急な坂が3つもあります。遅い人で6時間から8時間かかります。私は修験なので、休憩時間を合わせても4時間ぐらいで行っちゃうんですが、すごい孤独な山の中を歩いていきます。

 特に冬になりますと、雪が積もっていきます。雪が山一面に敷き詰められている。とってもきれいなんですけども、その中に私1人が入っていくのがすごく肌寒い。「失礼します」と大きい声で言いたくなります。それくらい、きれいな雪に覆われています。
 
 そこを歩いて行って、雪を踏みしめる。それから時々、私の音に気がついて飛び立っていく鳥の羽の音。それしか聞こえない。そんな中を歩いて行きます、
 
 途中で長戸庵という庵がある所に到着します。竹藪の中にあります。すごく暗くって、寂しい場所です。でも、私が遍路を始めた15年前まではなかったのですが、そこに女性専用のトイレができました。その先もトイレはあることはあるんですけど、男性ならいけても女性はいけないようなトイレなんです。

 長戸庵にトイレができたので、うれしくって。そこに「かみに見放されて者は自らの手でつかめ」と書いてあるんですね。かみ(神)はかみ(紙)ですね。そのトイレがありがたくって、その庵にお賽銭というか、コインじゃなくて、お札の方を置いていくんです。

 汚物を処理してくださる方がいるんですね。本当にありがたいな、という気持ちで、お賽銭を置いてくるんです。何年かたって、私はその人に出会いました。講演会があった時にその人が「あなたの話に出てくるのは私です」と言ってくれたんです。ビックリしました。その人はボランティアで汚物を処理してくれるんです、お遍路さんのために。「お賽銭を、お布施を置いているにですが、受け取ってもらえましたか」と聞くと、「見たことない」と言っていたので、「そうなのか」と思いましたが。

 そういうお遍路さんのために、ボランティアをやってくださっている人がいるんです。お遍路さんたちは四国の人たちに助けられているんだと思います。間違った方に行かないでということで、大きな木を置いて行かないようにしてくれるような、そういう心配りをしてくださいます。1丁ごとにお地蔵さんにエプロンを手作りで、可愛い布で作ってくれて、大変な思いをして歩いてきたお遍路さんの目を楽しませてくれたりもするんです。そういうお世話をしてくださる。そうやって私たちを助けられて、1歩1歩進んでいくことができるんです。

↑家田荘子さんの講演


◇「車ですか」の問うもの

 そんな思いで、1巡目、焼山寺に着きました。私はゴアテックスのレインウェアを着ていて、ずぶ濡れです。お参りをすませて納経をしに行きました。納経という、ご存じだと思いますが、確かにお経を唱えましたよという証明で、朱印を押していただくんですね。お経を納めてないのに、いただいちゃいけないんですね。でも、納経だけっていう方、これ集めてるって方も結構いらっしゃいます。お参りをしないのは、何てもったいないことを思うんですが。
 
 その納経所で、「車ですか」と言うんです。私は泥々の格好でずぶ濡れで、なのに「何で車なんだろう」と、ムカッときました。あきれました。「何でだろう」と私は気にかかって、ずっと山を下りて行きました。

 2回目は「歩きですか」と言われました。「はい」と言ったんです。1回目の時は見るからに歩きなのに、「なぜ、歩きと言われなかったのだろう」と思いながら、山を下りました。今は何度も行っているので覚えていただいているのですが。

 1回目の時、まだ歩き遍路に見えない、きっと世俗にまみれていたんでしょうね。車の人が世俗にまみれているというんじゃないのですが、私は歩きに見えなかったのでしょう。オーラが出てない。でも、遍路を回っているうちにいろいろと必要なものを覚えていく。

 私はすごい大変は思いをしてきたんだというおごりがあったのかもしれない。遍路は歩いて行こうと、バスで行くと、自転車で行こうと大変です。自然と一緒に歩んだり走ったり行くのですから大変です。しんどい。なのに、自分は歩きだから大変だと、そういう風に思っていたのです。いいそれも具合に、「車ですか」と言ってプライドを砕いてくれたということになるんじゃないかな、と思えてくるようになるんです。

  ◇一言の励まし

 焼山寺から下りて行くんですが、3回目までは道が3通りあったら、3通り行けるように、嫌な道も行きました。嫌な道もわかって、4巡目からは私の好きないい道、安全な道を行くようになりましが、とりあえず嫌な道も1回は行ってみよう、という考えでした。

 次の大日寺さんまで21キロあるんです。17キロはトイレがないんです。深い山の中で、道に雪が積もっていて、固まってツルツルになっていたり、あるいは溶けかけてベチャベチャになっていて、そこを車が通っていくので、泥水が頭からかぶさってくる。そういう中を歩いて行くんです。

 手袋を二重にしていても、手がいかれちゃっているような寒さで、「なぜ歩くんだろう」という疑問がわいてきます。なぜ歩くのか。歩いてもよくわからない。答が見つからない。でも、歩く。歩いて行くんですけど、また「なぜ歩くんだろう」。

 地元の人たちによく聞かれます。「遍路して、いいことあるの」って。「いいことあるんだったら、私もやるんだけど」って。そう言われてみると、そんなにいいことがなかなか思いつかない。「なぜ歩くのか」と思い続けているんですけど、道に郵便局があって、ちょうと郵便局に来た女性が「頑張ってくださいね」と言ってくださった。もうその一言で、すごくうれしいのです。

 声をかけてもらうために遍路をやっているわけではないんです。だけど、その一言でどんなに励まされるか。また歩ける。そういう気持ちになれるんです。そうやって、たくさんの人のおかげで歩いて行くんです。


◇返ってこなかったあいさつ

   ちょっと戻りますけど、6番の安楽寺さん。コロナの前のことになるんですが、そこに行者さんの団体が来ていて、「先生」と呼ばれる女性の先達がいて、みんなが気を使っておりました。それで本堂の前はその人たちで一杯になっていて、ほかの人が通行できない。

 線香やろうそくを立てる所は、その人たちでギャーギャーと騒ぎ放題やって、「先生、先生」とやっている。それでも私はみなさんにあいさつをしました。ところが先生以外は無視をされました。それで、すごく嫌な思いをして。(あいさつが)返ってこなくてもいんですけど、とても嫌な気持ち、不愉快になりました。「先生、先生、先生、先生、先生、先生」って。ほかの人は排除しているけども、「それでいいのかなあ」って思いながら、トボトボと次のお寺に向かいました。

 そこでご夫婦が歩いてきたので、私はまた、あいさつをしました。また無視をされたんです。6番でも無視をされたというのがあったので、「またあいさつをされなかった」とつぶやいていました。

次のお寺に行った時、そのご夫婦が車で来ていて、お会いしたんです。そしたら奥さんが「さっきはすいませんでしたねえ。うちの人、がんでのどの手術をして、あいさつしたくても、あいさつできないんですよ」って言われました。もう私はビックリしました。自分も病気の経験がありますので、そういう方たちのことはよくわかるはずなのに、いけないことをつぶやいてしまいました。

 あわてて謝って、それでもどうしても謝り足りないと思って、本堂に向かったご夫婦を追いかけて行って、また謝りました。「大丈夫ですよ」と言ってるんですけども、どうしても納得できない。謝る方は自分が謝ることによって納得しますが、謝られる方は許すという気持ちにならないと、なかなか顔で笑ってても、心がしっくりしないと思うんです。謝っていても、まだ謝り足りないし、無理やり向こうが許してくださっているのではないかという、そんな気持ちがズーッと心に残っています。


  ◇一期一会の遍路の再会

 翌日、どういうわけか私は飛ばして、17番・井戸寺まで行くことにしました。理由はわかりません。いきなりスケジュールを変えました。そこでお参りをして、大師堂でお参りをすませて、振り返った時、そのご夫婦がいました。そのご夫婦も予定を変更して井戸寺に来たのです。私たちは井戸寺さんに多分巡り会わされたんだと思います。

 再会した時、私たちは心から「アーッ」と言って、笑顔であいさつをすることができました。おそらくご本尊さんが、お大師さまが私たちを井戸寺で合わせることを仕込んでくれたんだ、と思いました。こういった不思議なことが起こるんです。

 私はスケジュールをキッチリ立てて、ここからここまでは何キロだから、何分歩いて休憩時間は何分でと、ものすごい綿密なスケジュールを立てていくんですけども、いきなり井戸寺さんへ行くというスケジュールの変更はありえないことなのに、そういうことが起こってします。それが遍路というもんだろうと思います。

 遍路は一期一会とも言います。歩くスピード、それから車で走るスピード。それぞれ違うので、今日ここで会えても、次には会えるかどうかわかりません。会えない人の方が多いんです。ご縁のある人は何回も会ったりしますけども。そうやって一期一会という言葉がふさわしいのが遍路の旅なんです。それなのに私はこのご夫婦にもう1回合わせていただくことができた。これは本当に不思議なことだなと思いました。
 

◇お接待の道

 井戸寺に続いて18番恩山寺に行きます。恩山寺さんから19番・立江寺さんまで4キロくらい。この道が私にとってお接待の道です。市山煙火商会という花火屋さんがある。その花火屋さんが珍しいと思って看板を見ながら歩いている時に、軽トラックが止まりました。そして、愛想の悪いおじいさんが出てきました。「お接待をさせてもらおう」と、愛想悪く言うんです。

 すごく寒い日だったので、「お接待をさせてもらう」というのがうれしくて。そしてクーラーボックスの方へ行くので、私もついて行きました。「あったかいのと冷たいのがある」、これは覚せい剤ではなく、「あったかい飲み物と冷たい飲み物とどっちがいいかな」と言うんです。もちろん「あったかい方がいいです」と言ったら、クーラーボックスを開けてくれて。

 歩き遍路って、100グラムでも重くなると、ありがた迷惑のようなところがあります。ちっちゃいサイズの缶のお茶が入っていたんです。缶でしたら、ペットボトルよりも持つと暖かい。そして振ったらもっと熱くなって、それを体のあちこちに当てて。それがとってもうれしくて、体を暖めることができました。

↑家田荘子さん


◇全部の小銭が入った小銭入れ

 さらに、同じ道で車が止まりました。今度は軽トラックではなく、普通の車です。50代くらいの男性が下りてきて言うのです。「お遍路さん、四国のいいところは、遍路の格好をしていると、誰でも遍路です。名前も肩書も、どんな人生を送ってきたのかとか、性別も関係ありません。みんな平等で、『お遍路さん』って言います」「女房がね、遍路を前はしていたんだけど、病気でもう遍路に行かれなくなった。それで、お遍路さんのために、財布を作っている。これもらってもらえんか」と言われました。可愛い小銭入れでした。

 私は名前をうかがって、いただいたんです。立江寺さんで、その方の代参をさせていただこうと思って小銭入れを開けると、全部の種類の小銭が入っていました。どういう風なものを買っても、自動販売機であってもいいように、そういう心配りの小銭が入っていました。そういう心配りで自分が優しくされると、ひとにも優しくしようということを教えられます。そうやって、育てられていくんです。
 

◇地元の人たちの見えない愛情

 立江寺さんを過ぎてから、今度は太龍寺さんという山に入って行きます。そして平等寺さんに歩いて行くんですが、大根峠(おおねとうげ)という、「だいこん」ではなく、大根峠を通過します。これがとっても暗いんです。寂しいし、木の段差がすごく大きく、私みたいに小さい遍路にとってはすごく大変な道です。癒しの道を守る会というのが一生懸命整備をしてくださったんで、すごくきれいなんですね。だから暗いのに怖くない。

 癒しの道を守る会の人たちがこうやって整備をしてくださったので、安心して歩いて行くことができます。よくテレビなどで、遍路の特集をされる時に、遍路道をあるいたりするところを映したりもされています。でも、テレビに映っている人以外に、たくさんの人が一緒に歩いているので、これは怖くありません。芸能人とか有名な方は、マスコミがついて行くんです。だから寂しくはありません。怖くもありません。

 普通のお遍路さんが1人で歩く時は、とっても嫌な寂しい中を歩いて行くこともあるんです。それでも地元の人たちがそうやって整備してくださっている、そういう心が伝わると、安心して歩いて行くことができるんです。ゆっくり1人で歩いていても、見えないところにたくさんの愛情を感じて、そうして歩かせていただくことができるんです。
 

◇自費で造った遍路小屋

 23番・薬王寺さんからは室戸岬に向かって国道55号線をズーッと、延々と歩いていきます。ここではたくさんのことを教えられました。おもしろいことに、同じ人に3回、家の前で会ったこともあります。その人の家の前を歩いていた時に、その人がたまたま庭仕事をしていて、あいさつをしました。翌年また、あいさつをしました。3年目もまた、という不思議なことがありました。

 それから、「ふくなが」さんという喫茶店のところで、「お茶飲んでいきませんか」と言われたんですけども、雨が降っておりまして、私はちょっとでも早く先に行きたいと思ったので、「申し訳ありませんが、急いでいるので」と言って、本当はお接待を受けなければいけないのですが、そのまま行ったことがあります。

   翌年、車遍路で行った時に、そこを訪ねさせてもらいました。その方はご自分で遍路小屋を造っていました。お遍路さんがそこで休んでいけるようにということで造ったのです。遍路小屋は歩いていると、いろいろな所にあります。このヘンロ小屋プロジェクトは、遍路小屋をもっともっと増やそうとしてくださっているんで、もともとは遍路小屋はそんなにあるものではありませんでした。それも。だいたいがトラック運転手さんが寝ていて、テーブルを塞いでいたりとか、あるいはお掃除していなかったりとか、ごみがいっぱい残っていたりとか、とても座れる空間でなかたりして、利用したくても利用できないような遍路小屋が、私が歩いていると多かったと思います

 車の人が遍路小屋を占領していて、ちょっと怖くて入れないなといのもあります。座りたいな、ちょっと休ませてもらいたいなと、雨で雨宿りさせてもらいたいな、と思った時に、遍路が小屋に入れるように造ってもらうと、ありがたいことだと思いまず。

 ふくながさんは自費で造ってくださったということで、そこでトイレも借りて、お茶も飲ませていただいて、すごくいい思いをさせていただいたんです。
 

◇牛乳瓶の一輪の花

 遍路にとってトイレがとても大変なんですね。今はコロナ禍で、コンビニのトイレも借りれません。公衆トイレが何時間もないところがいっぱいあります。そのまま外でしちゃえばいいと言うかもしれませんが、1人やってもいいが、10人がやっちゃったら、大変なことになります。だから「遍路は嫌」ってことになってしまうので、絶対やってはいけないことなんですよ。

 ズーッと我慢して、佐喜浜町というところに夫婦岩っていう2つの大きな岩がある場所がありまして、そこにトイレがあります。電気もない、手を洗う水もない。そういうトイレです。そのトイレに入ると、牛乳瓶に花がさしてあります。孤独な遍路の旅をずっとしてますと、この一輪の花が目にしみて、涙が浮かんできます。

 日ごろ暮らしていて、一輪の花に涙を浮かべることはないと思います。1人で延々とあきるほど太平洋を見ながら、そして右側をビュンビュン車が通る道を、ズーッと歩いて行く。そういったところで入ったトイレに、お遍路さんのためにということで、たとえ一輪の花ではあっても、どんなにうれしいことか。そういうことを、遍路で経験できるんです。人の心がほんとにしみる。優しさが心にしみる。そういうことを教えられるのが遍路です。
 

◇歩き遍路の特権

 そうして歩いて行きますと、青年大師像が右の前の方に見えてきます。大きなお大師さまで、私は何回行っても目に涙が浮かんできます。長かった、辛かった、足が痛かった、暑かった、寒かった。それがようやく室戸に到着するんです。

 それが自信につながっていきます。この先、人生でどんな波風が来るかわからない。でも、私は室戸までに74キロを無事に歩いたんだ。人生の波風を絶対に乗り超えてやる。そういう自信がわいてきます。大丈夫だと、自分を励ますことができるんです。車でも大変なんですが、これが歩き遍路の特権なのかもしれません。

 その室戸までの道を、4巡目までは全部歩きました。ところが5巡目の時に、足が痛いのが全然治らなかったんです。いつも歩き終えて宿に着きますと、白い湿布薬をベタベタ足に巻き付けて、熱を取らないといけないんですね。家に帰ってからも、湿布を巻き付けているんですが、痛みが取れない。でも、遍路だから痛いのは当たり前で、翌月また行ったんです。それで、もっともっと痛くなって帰ってくるんですが、遍路だから痛いのは当たり前で、また行くじゃないですか。で、どうにもならなくなるくらい、腰が痛くなりました。


◇遍路小屋のありがたさ

 すぎもとさんという大きな会社をやっている人がいて、その会社の前に遍路小屋があるんです。そこは整備してくださっているので、とてもきれいな小屋なんです。そこでちょっと休み、それからまた歩きました。でも、どうしても痛くて、ついにしゃがみこんでしまいました。

 バスが止まったんです。停留所だったんです。あまりにも痛いので、乗っちゃいました。乗った瞬間から、「ここまで歩いて来たのに、あと10キロなのに、歩けなかったがために、歩きじゃなくなってしまった」と後悔するんです。乗らなければ、ずっと歩けたと思うんですが。

   元気にずっと歩いていても、お遍路さんは歩いているとどこかが痛くなります。特に前半は慣れていないので、どこかが故障します。故障しても、痛いのをこらえながら歩いて行くんですが、それがひどくなると、どうしても座りたくなる場所がほしくなる。

 室戸までの道は、座る場所がとても少ないんです。雨が降ったら、座る場所はほとんどありません。どこか、お店に入りたいなあ、と思っても。ずぶ濡れだったらお店に迷惑をかけます。だから食事に入ることもできません。ずっと歩き続けます。

 そういう時に遍路小屋があったら、とってもありがたいんです。そこで座らせてもらったり、一時でも休ませてもらったりすれば、本当にうれしいんです。だからいろんなところに遍路小屋があったらいいなと思うんです。そうやって、ようやく室戸にたどり着きます。


◇海と空

 24番・最御崎寺さんの手前に御厨人窟(みくろど)という、お大師さまが修行されたと言われている、求聞持法を修行されたと言われている洞窟があるんです。ただ、そこは少し上がってきていていますが、お大師さまに時代には海と同じ高さだったんです。
 
 そこからさらに4キロくらい先に、不動巌(ふどういわ)という場所がありまして、そこも素晴らしい景色の所で、180度開け、日が昇ると日が沈むのが見えます。そこの岩の上に座ると、足をブランブランさせるような場所で、そこでも修行されたと言われています。

 ただ私は御厨人窟の前の室戸の海が大好きなんです。山崩れがあって、今は御厨人窟に入ることはできませんが、私が入った時、振り返って出ようとすると、「ウワー」って声が上がるくらい、きれいな景色が目の前にあるんです。空と海しか見えません。おわかりだと思いますが、弘法大師空海が自らを空海と名づけた場所が、この室戸の海だったと言われています。

   あんまり空がきれいなので、この空の上、宇宙から自分を見下ろしたらどうなっているんだろう、と想像してみます。そうすると、自分がとってもちっぽけに思えるんです。周りを見渡してみますと、花が咲いています。木も生えています。カマキリが足のそばを歩いていきます。今、道を犬が通っていきました。宇宙から、天から見たら、みんな一緒に小さくみえるのだろうな、と思います。みんな同じだったら、みんなの命を大切にしなきゃいけないなと思うんです。みんな一緒だ。みんな命を大切にしてしている。みんな頑張って生きている。


◇空が笑っている

 実は私は小学校のころ、いじめられていました。「死んで」と言われて、本当に死んだ方がまし、そういう毎日を過ごしていました。家の前に大きな空き地があって、草ぼうぼう、私の背丈ほどの草が生えている空き地があって、中に入って行ったらわからない、そういう空き地がありました。ある時、あんまり辛いので、「もう嫌だ」と思い、その中に入って行きました。泣きながら。私は救ってくれる人も、聞いてくれる人も1人もいませんでした。

   私は小さい時から、両親からDVを受けて、殴られて育てられました。そういう家庭で育てられましたから、いじめのことも家族には言えません。先生はいじめっ子たちの見方です。いめているとは思っていませんから、優等生のあの子たちの言う通りになるので、先生にも相談できません。

 クラスのみんなは、いじめっ子だとは知らないので、いじめっ子たちが人気者なのです。私が「いじめられている」と言っても、私は性格が暗いので、人気者の方を信じて、私の方を信じません。

 草をかき分けて、泣きながら中に入って行くと、ぬかるんでいて、ビチャビチャになりました。小学生ながら、もう消えてしましたいと思ったんでしょうね。中に入っていって、虫がいたりして、カーデガンが草に引っかかったりして、中に入っていきました。

 すると1カ所、土が乾いている場所に出ました。島のようになっているんです。ワーと思って、そこに乗りました。小学生の私が、寝そべることができる平地です。そこで寝そべっていました。大きな広い空が広がっていました。私は泣きながら、あいつら、いじめっ子のことを思っていました。

 泣きながら空を見ると、空は笑っているように見えました。私は口には出していないけど、「あいつらこそ死ねばいいのにな。あいつらのことは大嫌い、大嫌い」というようなことを思っていた。思っていることは、死んだということと一緒。あの空のように笑ってみよう。そう思って体を起こしました。周りに花が咲いている。ちっちゃな雑草のような花です。誰も見ててくれないのにと思ったのですが、太陽は照らしてくれている。空も見てくれています。私も頑張ってみようかな、そういう勇気がわいてきました。

 翌日から、「馬鹿」とか「死ね」とか言われるたびに、私は笑おうと努力をしました。今まで下を見ていた女の子が、笑うのは大変なことです。でも、何とか笑おうと努力しました。「馬鹿にたい」と言われました。ところがそのうちに、命を否定することだけは、言われなくなりました。
 
 そのうちに中学生になりまして、いじめは終わりましたけども、私はあの時、空にまるで仏さまがいらっしゃったような、そんな出会いがあったのだと、今になると思います。


◇インドから、沖縄からの水滴が1つの海に
 
 室戸に行って空を見ると、いつもあの子どもの時のつらかったこと、空に慰められたことを思い出します。遍路以外でも毎年、室戸の海を見に行きます。そこでズーッと1時間くらい見てますと、心がとても落ち着きます。室戸からエネルギーをいただいています。いつの間にか私は海に声をかけていました。

 「海はどこから来たの」って。ある水滴はインドの方から来て、ある水滴は沖縄の方から来た。みんな仲良く手を取り合って、1つの海になっている。人もそうなればいいな、社会もそうなればいいな、と思います。そういうことを、自然が教えてくれるのが遍路なんです。

 遍路に行かれている人もたくさんいると思いますが。行かれてない方はぜひ遍路に行ってみていただきたいと思います。自転車でも歩きでも、公共交通機関を使ってでも、それから観光バスでも。観光バスも楽じゃないんですね。


◇生かされている
 
 どんな形でも遍路です。それを迎えてくれるのは、四国の人たちです。遍路をすれば、自分は生かされている、この遍路ができるのはいろんな人たちの愛情のおかげだということを感じていただけて、また生きる時の活力にしていただけたらと思います。

 時間がきてしましまして、高知でおわりましたけども、あとは私の本を見ていただければと思います。