土佐清水市文化財保護審議会会長、東近伸さん「真念庵とあしずり遍路道」

 《「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会第16回総会兼記念講演会=高知市・ちより街テラスで2023年4月23日=での講演の詳細◇読みやすいように中見出しをつけ、写真も入れました。当日はパワ−ポイントを使っての講演でした。障がい者に関する言葉使いで不適切なものがありますが、絵馬などに記載された歴史上た言葉として、当時の表記のままにしています》


↑講演する東近さん


◇みなさんの支援で真念庵を改装


↑新しくなった真念庵


 今、画面に映っていますけれども、平成2年度に新たに皆さんのご協力で改築しました真念庵の堂舎です。歩き遍路の皆さんとかいろんな会に出まして建設についてのご支援や激励をいただきました。今日はお礼かたがたお話ししたいと思っております。


◇昭和30年ごろまで宿として使われた真念庵


↑真念庵の位置


今、地図が出ていますが今日お話しします土佐清水市、江戸時代以前には以南地域と言ってました。右上のところ、レジメがありますが、左の地図、四万十川を渡りまして、津倉淵という所から伊豆田峠を越え、降りたところが市野瀬地区になります。37番岩本寺から歩いてきて、四万十川を渡って伊豆田峠を下ったところが市野瀬地区です。

ここから下ノ加江を越え半島を行くと足摺金剛福寺38番札所になります。足摺から戻って市野瀬から左に、三原村に行って39番延光寺に行く。市野瀬は岩本寺と金剛福寺、延光寺の三叉路のところにあるので、ちょうど中間地点にあります。荷物を預けて金剛福寺に参詣して三原に行って延光寺に参詣すると、ちょうど中間地点になります。真念はここに大師堂を建てます。これが真念庵です。

真念は「四国遍路道指南」という、文庫本くらいの遍路のガイドブックを作りました。詳しく書いてあるので、これを持って遍路は四国遍路した。大坂の寺嶋に住んでいたことが分かっています。それまで修行者中心の遍路が一般の庶民の方が行くようになった。このガイドブックを持って多くの方が四国遍路ができるようになった。それで四国遍路の父と呼ばれるようになりました。

真念は三原分岐のところに標柱を立てました。このような標柱を(四国に)200カ所くらい立てたと言われています。この中間地点の市野瀬に大師堂を建てて、遍路の便宜を図った。昭和30年くらいまで宿として使われていた。付近には丁石が残っている。一丁ごとに石で作った標柱を立てた。


◇金剛福寺まで350の丁石


↑三原分岐ー真念の標柱と三百五十丁石


現在は伊豆田峠から土佐清水まで行っていましたが、ちょうど谷底にあたるところに、今大師と言って明治の初め亡くなった女性遍路のお堂があるが、谷底にトンネルができて321号線になり、それが三角の部分になります。真念庵遍路道は伊豆田峠を降りてきて左に降りて、山の中を通り三叉路0.6キロ、私たちが今整備している真念庵遍路道です。

先ほど三原に入る道の話をしましたが、そこにいくつもの道しるべの標柱があります。真ん中にとがった石があるが、これは真念の立てた標柱があるがこれが一つ。幡多郷内にはこの標柱と三原分岐から延光寺に降りるところに一つ、延光寺に一つ、真念の立てた標柱が三つ残っています

真ん中の背の高い標柱は350丁石があります。足摺の金剛福寺まで一丁ごと、350の丁石を立てています。これは江戸時代末期の弘化2年、美作の人たちを中心に立てたものです。

現在50くらい残っております。三原分岐から金剛福寺の方に向かいまして、道路の右の方から真念庵に上がるような道になっています。赤い矢印から右の方に入ると真念庵があります。

そこから真念庵道路に入り石段を上がっていくと上に真念庵があります。その手前の矢印のところに昔宿坊がありました。どんな形だったのかは写真など残っていないので分かりませんが、私が聞いたところでは10畳くらいの部屋が2つ、多くの遍路さんが宿泊できたと聞いております。


◇真念庵の中を調査


↑老朽化した真念庵旧仏堂


これが私が知っている旧堂舎ですが、昭和32年に旧堂舎を管理していたお遍路さんをお世話していたおばあさんが2人いて、今は亡くなっているのですが、古い宿坊は壊してその後、令和2年に建て替えるまでこの堂舎でした。私は土佐清水市の文化財審議委員になって、文化財巡りで公民館長と史跡を案内したが、この真念庵の旧堂舎について、中はどうなっているのか、どんなものがあるか、そんなことは全く分かりませんでした。

堂舎の中の所蔵物をしっかり調べてみる必要があるということで、ここを管理されている大塚さんにお願いしました。前の石造物についてはある程度調査していたが、中の所蔵資料にどんなものがあるかわからないので、これを調べて目録を作る必要があるということで、調査をしました。今日は調べた所蔵物、前の石造物について話していきたいと思います。


◇真念が背負ってきた?


↑弘法大師像

大師堂なので弘法大師像があるが結構大きいものです。像高60センチ。言い伝えでは真念さんが背負ってここに持ってきたと言われています。


◇地蔵堂を大師堂に


↑真念庵の本尊地蔵菩薩立像


↑御朱印2種

この大師堂を造るにあたって真念さんは、地図の三原に入ったところに鳴川というところがあるが、そこの地蔵堂を移転してここに持ってきて、大師堂を造ったと言われていています。その本尊の地蔵さんがこの地蔵であろうと考えております。大塚さんが朱印をされていますが、2種類あって本尊地蔵大士と日本第一霊場と、ここで発行されています。

大塚さんには、一度にたくさん中に入ったら床が落ちるので慎重に入ってほしいと調査の時に言われました。大師像の中のものを出して中に銘文がないか捜したが、大師像にはなかった。江戸時代のものに違いない。最近、明石寺で同じような大師像があって、これは40センチくらいで、見ると讃岐の国の寒川金兵衛さんが寄進したとありましたので、その少し前に作られたと考えております。


◇厨子の床に櫛


↑厨子内の櫛

弘法大師の厨子を見たら、厨子の床一面に櫛が散乱していて、数えたら14ありました。これなんだろうと、おそらく明治以後だと思うが、女性たちが何かの祈願をこめて寄進したのではないかと考えています。


◇おみくじ?


↑木製の箱はおみくじ

大塚さんからこんなものがあると言って出してきて、見たらそこに奥書があって、明治22年11月20日、真念庵を造った人の名前があって、熊本肥後の国の小国郷の方が造ったようです。井沢なにがしのようです。

分からないので封筒を振りますと竹の札が出てきて、なんだろうと思って見ますと札は凶でした。おみくじだったんですね。何かの占いをするために、法印実道という人がこの真念庵を再建する明治22年、そのころだと思います。


◇お経の拍子をとる道具


↑伏鉦

真念庵の歴史を物語る資料がいくつか出てきました。これは伏鉦といって3本脚があるがこれを下にして上からカンカンカンと叩いてお経の拍子をとる道具です。銘文が大坂堂島玉江橋の大安という人、大安吉日のことかもしれません。

室町出羽大掾(じょう)宗味という銘文があります。室町とあるのでおそらく京都で作られたものでしょう。

出羽大掾というのは刀鍛冶でも肥後守といったかんとう銘を入れているでしょう。それと同じようにこの職人はかんとう銘を持つ人だったんでしょう。真念が寺嶋だったので寄進された方はその付近の方だったかもしれません。


◇享保8年の銘


↑鉦鼓

これは鉦鼓と言って、吊るして念仏踊りの時のように拍子をとるときに使う、これは享保八年(1723年)の銘がついていました。「土州幡多郡市野瀬村大師堂 堂守宗真 施主竹内淨慶」と、「享保八年九月吉日」とありますから、この時はもう真念は亡くなっていますが、鉦鼓を寄進しています。真念庵の歴史を語るものだと思います。


◇銅の線香立て


↑線香立て

銅の線香立てですが、享保十七年(1732年)。銘文が「土州幡多郡市野瀬大師堂 釈宗専 享保元年丙申年釈妙恵 七月三日 施主大坂奈良屋寿慶」とあります。享保元年が1716年ですからお二人は両親でしょうか、弔いのために奈良屋さんが寄進したものになります。


◇私が住む中村の薬屋さんの先祖が寄進?


↑けい子

けいすといってお経を読むとき拍子をとるものです。「寛政九年(1797年) 丁巳年八月吉祥 日奉寄付土州市野瀬村真念庵常什物 施主中村、木戸有道」。中村は私が住んでいるところですが、中村の木戸さんは薬屋さんをやっておられるんですが、その方のご先祖のようです。このご先祖さんが寄進されたのが分かります。


◇大きな位牌


↑寒川金兵衛両親位牌

大きな位牌がありました。高さ42センチ 宝永二年の銘があります。アという梵字がありまして、「天和元年酉年八月十七日 輝玉宗貞信士、月沖妙休信女 万治元年戌十一月十日 施主讃州寒河郡志度村寒川金兵衛 二親菩提」とあります。

寒川金兵衛さんは明石寺の大師像の寄進にも名前がありましたように真念さんの有力な後援者であったようです。位牌裏面の「宝永二年乙酉九月二十一日 弘法大師仏しょう田 代市野瀬内石神前永代寄付者也」と書いてあります。石神前というのは前の地図の下田分岐から三原に向かって400メートルほど行ったところです。


◇土地を寄進


↑寒川金兵衛真念庵弘法大師仏餉田

道路沿いに72坪、新しく開いた土地ですが、向こうにお堂がありますが、石神というのはここに大きな岩があってそれをお祀りしていますが、石神前の土地を仏しょう田と言って、弘法大師にお供えするお米を作る田んぼとして寄進されたものです。


◇立派な位牌


↑法印実道位

いくつか位牌があるが、中でも一回り大きく立派な位牌があります。高さ34センチ、表に梵字があって、「明治二十五年辰年 當庵中興開山法印実道不生位」とあって、「旧八月二十八日」とあります。

明治になって、明治維新以降、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れました。明治維新は日本の新たな夜明け、近代化が進んでいった時代ですけど、その陰ではお寺がどんどんつぶされていった。

坊さんたちは還俗させられていったんですが、その時代に真念庵を復興した人がいて、裏を見ますと「生国越中新川郡裏山村平民 享年四十八歳 俗名松木伊蔵こと 施主尾張 国後藤善吾郎」とあります。おそらく遍路仲間であろうと思うのですが、その方がこの位牌を作っているのが分かります。この法印実道という人は真念庵の再建に関わって88ヶ所の写し霊場の地蔵を建立した方です。


◇絵馬を奉納


↑3人の人物を描いた絵馬

真念庵にはいくつか絵馬があります。薄れて読みにくいのですが、上のところには弘法大師と思われる絵があり、その下には3人の坊主頭の人の絵があります。右には弘法大師像を拝んでいる人の姿があります。上の方にかけてありましたので、字を十分読み取ることができなかったのですが、真念庵を改築したときに絵をよく見ましてなんとか字を読み取ることができるようになりました。


◇絵馬の裏に墨書き


↑弘法大師像を拝む人物に注目


↑絵馬の裏面の墨書き

そこにありますように「備前西彼杵郡蚊焼村百拾三番地、奉納」とありまして、「市野瀬安寺午十一月五ヨリり籠、同二十九日」まで14日間お籠りしたと。「イザリ足六年 小川茂平次五十六才 初女四十参才 イザリ十七才 南無大師遍照金剛イザリノスガタ御願満願」とありました。

これはバラバラになっていましたので、ふちを大工さんに直してもらって裏返してみたら、裏には墨書きがありました。

「長崎県肥前国西彼杵郡蚊焼村 大安吉にて午旧十一月五日ヲシこもり廿九日 晴天を徒早ニイザリ足立候こと」と書いてあります。お籠をしてこれまでいざってた足が立ったということで「小川茂平次五十六歳 同初女四十三歳、倅十七才」。真念庵にお籠して、子供が立ったということでこの額を奉納したということが分かると思います。


◇市指定文化財の図画


↑高野大師行状図画十巻

真念庵には一つお宝がありまして、高野大師行状図画十巻あります。これは昭和47年に土佐清水市の文化財に指定しています。

バラバラになっていましたが、この絵についてはおそらく3人の絵師が書いていますけれど、永國さんが明治維新後この真念庵に来まして、おそらくその時に持ってこられたのではないかと思います。

高知県立大学があるところ、そこに永国寺町というところがあって、そこには永国寺があって、第2代藩主の山内忠義が建立した寺です。これが廃仏で寺がなくなり真念庵にやってくるんです。

たぶん天勇さんという方が持ってこられたと思います。高知城の障壁画を描いた絵師、その人たちが書いたものと考えています。


◇民俗資料として所蔵


↑遍路杖・木製車輪など↑

 旧真念庵の軒のところには、鉄の輪の入った車とかお遍路さんの杖ですね、これがたくさん吊るされていました。この車でお遍路さんがここまでやってきた、そういうものが残されています。

こういうものも大切な民俗資料になりますので保存をしております。このように真念庵には江戸時代から近代に至るいろんな遍路さんに関わる民俗資料が所蔵されています。


◇石造物を紹介


↑六左衛門寄進手水鉢↑

次に堂前の石造物について紹介します。これは手水鉢ですが、ここにも銘文が刻まれています。

「南無大師遍照金剛 奉寄進 土州幡多郡市野瀬六左衛門 為父母六親、施主貞享三年丙寅三月廿一日」

六左衛門という人は市野瀬村の小頭と言って、庄屋の下で村をまとめる、今の区長さんのような役割の人です。この人が四国遍路道標が出される前の年に寄進した手水鉢になります。


◇花崗岩の道標


↑三原分岐真念道標↑

次に三原分岐のところにある真念の道標ですが、特徴は上が三角形になっていて花崗岩でできています。書いてあるのは梵字があって、「南無大師遍照金剛 右てらやまみち、左あしず山まみち七里」とあり、「為父母六親土州市野瀬村文助」とありますから、この村の文助さんがお金を出して寄進したのがわかります。

これは花崗岩の標柱ですから多分、瀬戸内海から加工して持ってきたものと思われます。これを背負って持ってきたとすれば相当重かったと思います。


◇真念庵の前の地蔵


↑真念供養塔↑

 貞享4年から9年後、真念庵の前に地蔵がありますがこれは真念の供養塔になります。「為大法師真念追福造営焉 元禄五年壬申歳六月廿三日終」。真念さんは元禄5年に亡くなったのが分かりますし、その供養のためにこれが建てられています。

生年は分かりませんが、何歳であったか、大法師とありますから、坊さんの一番下の位の法師から一つ上の大法師ですから、律師と僧正とかいった高い位の坊さんではありませんし、阿闍梨といった伝法灌頂を受けた高僧でもありません。四国遍路しながら、弘法大師の教えを人々に導いていった坊さんであるということが分かると思います。


◇文化財に指定された指差


↑指差↑

真念庵の前には指差しがあります。「作州勝南百々村高山源五郎 此方あしずり道」。この指差しがありますね。これはヒョイと持てそうですから、やはりこういうものは文化財として指定して保護せにゃならんと考えまして、真念庵境内の石造物については文化財として指定させてもらいました。


◇土佐では「1里50丁」説を検証


↑三百五十丁石


↑真念庵境内の349丁石


↑348丁石と347丁石距離は?


↑裏返し348番丁石を発見

先ほど350丁石の説明をしました。一般には1里36丁ということですから、109メートルということになります。果たして109メートルあるのかということで、土佐では1里が50丁という説があるので、これを検証してみました。

350丁、三原分岐から足摺金剛福寺まであるわけですが、これも作州の人が作っています。「弘化二年 世話人同熊村宮崎良右衛門」という方が寄進しています。

次の349丁石、これは真念庵の境内にあります。施主が「作州勝南郡 これよりあしずり山へ三百五十九丁 百々村観音寺」。そしてその裏、その時庵住法瑞、堂守としておられたのが分かります。

ここに狂歌があります。「いざりち 目くらが見たとおしが云い つんぼが聞いたと御四国のさた」と書いています。いろんな障害を抱えた人たちがお四国を巡りながら、その病気の平癒を祈っていたということが分かると思います。

実は348丁石というのはありませんでした。次は347丁石で、「作州はがセわ孫平次」とあります。

今回調査する中で、348丁石が出てきました。「作州勝北郡廣戸 三百四十八丁石 竹内善治」ということです。そこで実際に348丁石から347丁石まで測ってみました。

そしたら87メートルと80メートルでした。当時のことですから多分人が足で歩いて測っていると思いますが、100メートルを超えることはありませんでしたから、おそらく1里50丁、1丁が約80メートルということでいいんではないかと考えております。


◇真念庵前の88ヶ所の石仏


↑明治20年代に法印実道が建立した四国88ヶ所


↑真念庵堂守たちの墓地で佐吉の墓発見


↑廃仏毀釈後真念庵復興の堂守たちの墓

 真念庵の前に四国88ヶ所の石仏があります。これは明治20年代に法印実道が勧進、托鉢して建てたものですが、ところが前に44、後ろに44のはずなんですが中央に一つ石仏が多いんです。それを見てみましたら「文化十五年戌寅三月三日法道覚夢信士」。そして台座には「作州栄田郡江見行者坂木屋佐吉」というのがありました。この人はどんな人だったんだろうと、分かりませんでしたが今回の調査でその方が分かってきました。

真念庵の裏手に堂守たちの墓地がありますがその中に坂木屋佐吉の墓標がありました。行年三十才 文化十五年寅三月三日」ということで、堂守をしていた作州の人だと分かりました。

同じく堂守たちの墓地の中にコンクリートのひさしをかけたお地蔵さんがありました。これが法印実道という人の墓であるということが分かりました。「真念庵守 明治廿五年八月廿八日 松木伊蔵」とあります。

その左側に墓石があり、「浄心妙久信女 行年八十才歳 市野瀬庵 往持六十年 昭和卅二年四月廿九日没 永國天勇妻 永國 事」とありました。天勇というのは永國寺の先住職、永國土寸の子息で久は天勇の妻ですね。

この人は自分の名前を永國寺の永國をそのまま取りまして、永國と、寺という字を2つに分けて永國土寸と名乗っていたようです。

この真念庵の土地は永國家の所有ですから、これを文化財に指定するには永國さんの子孫の方にハンコをついてもらわなければなりません。久さんの実家は谷さんですが、その親族の方が土佐清水にいる永國さんの親族の方に調査資料を送りまして、谷さんにお願いして文化財の指定にあたっては判が必要なので親族の方にハンコをついてもらいました。ハンコをもらったあと半年くらいで永國さんは亡くなったのですが、いろんな方のご縁で文化財の指定にあたってはお世話になりました。


◇真念の姿?


↑四国遍礼指南 先達の僧は真念か

 これは四国遍路道指南の最初の文のところです。「四国遍路道指南 全 摂州大坂より阿波島へ渡海の時は江戸橋阿波屋勘左衛門方にて渡り様 次第可相尋之 白銀二匁 徳島まで船賃 但海上三拾八里」と具体的に四国遍路のことが書いてあります。

右には女性を案内するお坊さんがいますが、これが真念の姿ではないかと私は考えています。


◇たくさんのへんろ墓

↑真念庵境内近世ヘンロ墓

真念庵の横にはいろんな国から四国にやってきて道半ばで倒れたお遍路さんのお墓があります。これをお盆の時には真念庵で施餓鬼でお祀りをさせてもらっています。

お遍路さんの墓の後ろにはたくさんの石地蔵があります。石地蔵は中世の庶民のお墓ですね。この真念庵は中世以来の歴史のある場所ではないかと考えています。


◇遍路道を整備


↑文化財の保存と活用のたにクラウドファウンディングにより遍路道の整備を進めている

令和2年に境内は土佐清水市の文化財に指定しましたが、遍路道の方はまだ指定できていません。そこで、あしずり遍路道、三原分岐から金剛福寺まで歴史の道百選に選定されていますが、現在この道を整備して保存するだけではなく、実際この道を歩いていただいて、これを活用していきたいと、このように考えています。

そして、私たちが調査した結果を真念庵周辺道調査報告書としてまとめました。この道を測量して、文化庁が国の史跡として指定してくれるということで申請するようにしています。

現在土佐清水市では、この遍路道の整備に取り組んでいます。皆さん、真念庵は国道から少し入っていますが、長い歴史があるし真念庵遍路道は四国遍路道、世界遺産の指定にも欠かせない大事な場所と考えております。どうぞ土佐清水市にお越しいただき真念庵遍路道を歩いていただけたらと思います。


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