梶川伸・四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト理事(毎友会=毎日新聞のOB会=運営委員)「そうだ、遍路に行こう」

 《毎友会創設立70周年記念総会(2024年10月8日)での講演の詳細◇加筆をし、読みやすいように中見出しをつけ、写真も入れました》


↑講演の様子


○はじめに

 毎友会の創立70周の記念に講演することになったのですが、それは私は10回ほど遍路をしていること、毎日新聞旅行の遍路旅の先達(案内人)を務めてきたというのが表向きの理由です。しかし、本当の理由は別にあります。毎友会は金がない。会の運営委員の中から講師を選べば、タダですむ。そんな不純な理由なので、聞かされる方はたまったもんではありませんが、不満は安易な人選をした毎友会の会長にぶつけてください。


〇4つの結論

 私は話がへたなので、最初に結論を話します。4つあります。

 1つ目は、遍路の長い歴史の中で、今が最大のブームだということです。遍路をする人の数ははっきりしませんが、参考になる数字があります。88番霊場大窪寺(香川県さぬき市)の手前に、おへんろ交流サロンがあります。そこでは歩いて回った人に、「四国八十八ヶ所遍路大使任命書」を手渡しています。2022年7月1日から23年6月30日までの1年間に渡したのは1458人です。

 遍路の方法は歩き以外に、マイカー、バイク、ツアーバス、自転車、公共交通機関などさまざまです。全体の数を歩きの100倍と推測すると、年間15万人ほどが遍路をしています。大変な数字です。

 2つ目は、遍路道の周りには「心の共同体がある」ということです。いま、世界で共同体が崩れていきつつあります。100年かけてやっとできたヨーロッパ共同体は、イギリスが抜けただけでなく、加盟国の利益を優先させようという動きもあります。

 いたる所で戦争や紛争が起き、分断も進んでいます。日本でも会社共同体や地域共同体という結びつきが薄れ、家庭の中でも混乱が生じています。人間は孤立すると、寂しいものです。そんな人が、四国に行くのです。遍路に行くと、「お接待」というもてなしに触れ、心の共同体があることを実感します。

 3つ目は、四国には戦後日本を支えてきた根本的な思想とは正反対の価値感があることです。根本的な価値の代表は、効率を求めることです。いかに少ない投資で大きな利益を得るか、ということです。金融資本主義が進展しすぎ、短時間で多くの利益を手にすることあります。電話1本で大金をだまし取る特殊詐欺は、効率化の行き着いたところかもしれません。

 ところが遍路は違います。歩きの遍路道は1200キロあります。新幹線だと東京駅から新水俣駅当たりの距離で、所要時間は6時間半ほどですが、歩けば30日から60日もかかります。そして、金銭的な利益はありません。でも、いまの世の中はちょっと変だな、と感じる人が遍路に行くのです。

 前の3つを踏まえると、4つ目の結論「そうだ、遍路に行こう」に結びつきます。軽い気持ちで出かけてみてください。どんな手段でもかまいません。四国には、それを受け入れる仕組みがります。


↑ブームが続く遍路


○空海にちなむ寺を回る遍路

 本題に入りますが、まず遍路とは何かを簡単に説明します。空海(774〜835)にちなむ88の寺を回ることです。空海が創建したとされるとか、空海が修行したとされるとかいう寺を、です。

 「とされる」と言ったのは、空海との関係が宗教上はそうだとしても、明確な裏付け委は難しいからです。寺伝によって「空海が開基」という寺は88のうち40です。でも、そんなに多いとは常識的には考えられません。ちなみに、「行基(668〜749)が開基」という寺は30です。

 四国では「遍路文化を世界遺産に」という活動があります。活動が始まった30年ほど前のスローガンはちょっと違って、「四国88カ所を世界遺産に」でした。そのころ、四国88カ所の霊場会の役員に、寺の思いや取り組みを取材した事があります。すると、「あまり積極的ではない寺もある」という答でした。世界遺産化のための調査があると、「とされる」という点を突かれるかもしれない、という懸念があったからです。

 お遍路さんは1番から88番までの霊場に行くと、本堂と、空海をまつる大師堂にお参りし、般若心経を唱えます。多くの人はお経を寺に納めたという証明の朱印を、納経帳に押してもらいます。スタンプラリーの要素も、遍路が人をひきつける仕組みになっています。


↑納経帳


○空海はスーパースターだった

 遍路は空海への信仰が根底にあります。それは空海がスーパースターだったからです。

 空海は「聾瞽指帰(ろうこしいき)」を著します。中身は儒教、道教、仏教を比較で、自分は仏教の道を進むという決意表明です。わずか24歳の時ですから、天才と言っていいでしょう。
 803年に遣唐使として中国に渡り、青龍寺で学びます。そこで真言宗第7世の惠果から、真言宗第8世を引き継ぐのです。つまり、惠果は中国の人ではなく、日本人の空海を後継者に選んだのです。この時に与えた名前が「遍照金剛」です。だからお遍路さんは「南無大師遍照金剛」と唱えます。


↑聾瞽指帰(先達教本から)


〇大遠投

 こんなエピソードがあります。中国から帰国する時、小さなヤリのような法具・独鈷杵を投げました。それが落ちた所に寺を建てるためです。独鈷杵は高知県に落ち、その場所が四国霊場36番青龍寺です。大変な遠投で、パリオリンピック金メダルの北口榛花選手など、足元にも及びません。

 空海の力は現代に及びます。青龍寺のそばに明徳義塾高校があり、そこにでモンゴルからやってきた若者が学びました。その若者は、寺の石段で足腰の鍛え、やがて横綱朝青龍になるのです。空海の能力は時空を越えてしまいます。できすぎで、ちょっと無理な会食のよう気も7しますが。


〇空海と秀吉

 空海は万能で、書も上手で三筆の1人に数えられます。香川県にある日本1大きな池・満濃池の改修工事も空海が指揮をしたと言われています。空海は文系だけでなく、理系でも天才でした。空海が杖で土をつくと、すぐに水が湧き出します。そんな言い伝えが、全国にあります。空海が決して行っていないだろうという場所でも水が出るので、その超能力たるや……。。

 そんなスーパースターだったので、醍醐天皇は921年、空海に「弘法大師」という名前を送ります。「大師」号をもらったのは空海以外にもいるのですが、「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪われる」という言葉があるように、大師といえば弘法大師をさすようになりました。つまり空海は、豊臣秀吉と並ぶ、日本歴史上の人気者なのです。



↑空海像



○辺地、辺路、遍路

 私は読んでいないのですが、平安時代の今昔物語に遍路のことが出てきます。空海を慕う修行僧が、四国を回ったのでしょう。

 平安時代に広まった末法思想も影響しているようです。56億7000万年後に弥勒菩薩が救済にくるのですが、それまでは地蔵菩薩がワンポイントリリーフするという考えです。

 末法思想の広がりとともに、観音信仰も浸透していきます。「浄土に近づきたい」という思いもそうです。観音信仰では浄土は南方にあります。都から見ると、浄土のそば四国の南あり、紀伊半島の南です。

 浄土の周辺を辺地(へち)と言いました。何か結びつくものがありませんか。

 紀伊半島の南へ向かう道が熊野古道でした。中辺路(なかへち)、大辺路(おおへち)、小辺路(こへち)などのルートがありました。「へち」という音が出てきます。辺地に近づきたい、という思いがこめられているような気がします。

 辺地へ行って帰ってくる、それは甦りの思想でもあるのでしょう。後白河上皇は34回も熊野詣でをしたという記録が残っているそうです。

 四国の場合は辺地が遍路になったという説があります。遍路も蘇りの発想だったとも言えます。ルートは四国1周なので、88番まで行くと1番は近く、また回る人も多いのです。蘇りに結び付きませんか。

朝昼晩朝……、春夏秋冬春……。人間は常に細胞が入れ替わり、新陳代謝の中で生命の均衡を保っているので、人間自体が蘇りの生命体のような気がします。


〇庶民の遍路信仰に

 応仁の乱で京都の寺が焼け、寺にかかわる仕事をしていた人が仕事場を求めて各地に散りました。その一部は四国に行って、88カ所をPRすることをなりわいとしたという説があります。そのため、僧ではない一般の人、庶民も回るようになったかもしれません。

 江戸時代には旅行ブームが起きました。伊勢参りが代表格でしたが、四国でも金毘羅参りや遍路も盛んになりました。ガイドブックもできました。真念の「四国遍路道指南(しこくへんろみちしるべ)」が有名です。真念はしるべ石(道標)200基も設置し、37基は現存しています。


〇1万年の転機

 遍路は途切れることがなく続いていつのですが、実は今が歴史上最大のブームなのです。もちろん社会状況も影響していますが、最大の理由は何だと思いますか? 答は明石海峡大橋の開通(1998年4月)です。味気ない答で、「なーんだ」と思う人が多いでしょうが、考えようによっては、大変な出来事だったのです。

 大昔は、本州と四国が陸続きでした。しかし、氷河期が終わって氷河が溶けて海が広がり、1万年前から6000年前にかけて、縄文海進という現象が起きて、瀬戸内海ができました。以来、四国は本州から切り離されました。それが本四架橋の3つのルートで、再び陸続きになったのです。大げさに言えば、1万年ぶりのビッグニュースだったのです。

 3ルートのうち、明石海峡大橋の完成で、兵庫県と徳島県が結ばれたことが大きな影響を与えました。人口集積地の関西に近く、名古屋、東京にもつながったからです。それで何が起きたか。

 行きやすくなったことを幸いに、大手旅行会社が遍路ツアーにドッと参入したのです。グルメツアーにも買い物ツアーにも飽きが見え始めたころで、旅行会社は新しい商品ができたと大喜びしたことでしょう。


〇記者と行く遍路旅

 毎日新聞旅行の遍路旅は歴史がありましたが、大手旅行会社の攻勢でピンチに陥りました。当時の社長(旅行事業は毎日新聞の系列会社が実施)は私の入社同期で、その彼は「大手とは違う遍路にして客を集めよう」と考えました。思いついたのが「記者と行く遍路」で、私に先達を頼んできました。2003年のことです。

 大手の遍路ツアーが佳境に入ったころでした。札所の寺では多い時には、10台近いツアーバスがかち合うこともありました。そこでバスの運転手さん同士が連絡を取り合って調整したり、すいている寺を先に回ったりする始末でした。

 それにしても、「記者と行く遍路」とは、変な企画でした。私は四国八十八ヶ所霊場会の先達の資格は取りましたが、遍路の専門記者ではありません。そんな人間が案内するですから、いい加減な遍路旅でした。



↑先達をした遍路旅


〇時事問題好きのお遍路さん

 実際に始まると、おもしろい状況が生じました。参加者の中に、時事問題に関心のある人が結構いたのです。

 1泊2日ずつ10回で巡拝する遍路旅でした。昔ながらの良い遍路道は歩くので、しんどい共通体験をしたこともあり、回を重ねるうちに打ち解け合い、自分のことも話すようになりました。時事問題好きの代表格は高齢の医者でした。

 その医者は、2.26事件(1936年)を朝日新聞で知りました。その家は大阪発行の新聞ともう1つ、東京発行の新聞も取っていました。そのことからして、政治や時事問題に関心ある家だったのでしょう。青年将校の決起文が東京発行の朝日新聞に載っていて、それを読んで、日本共産党に入党したそうです。論理的おかしいところはありますが、日本を憂いたのでしょう。

 ところが、ハンガリー動乱(1956年)を機に、共産党を離党したそうです。ソ連軍が越境攻撃をした出来事で、医者は世界を憂いたのでしょう.


〇総員起床

 ほかにも、大阪府内のある市の自民党支部長経験者がいました。労働争議を経験した社長もいました。労働運動の闘士だった人もいました。宿では私はこのような人と一緒の部屋だったので、何とにぎやかなこと。医者は時々、午前5時になると「総員起床」と号令をかけ、朝食前から時事問題で議論することもありました。その意味では、同期生社長の作戦は成功したのかもしれません。

 参拝者のピークは過ぎましたが、遍路ブームは続いています。お遍路交流サロンによると、少なくとも歩き遍路の数は、コロナ前にも戻ったと言います。これが1番目の結論です。



↑毎日新聞旅行の遍路旅


〇酒の勢い

 ここからは私の体験談を交えてお話します。私が遍路に行くきっかけは、ノンフィクション作家の柳原和子さんとお酒を飲んだことでした。柳原さんは著書「在外日本人」で毎日出版文化賞にノミネートされたこともある作家で、自身のことを書いた「がん患者学」は、患者側から見たがんの医学書とも言え、高い評価を受けました。

 柳原さんは「若いころ歩き遍路をして、大変印象に残った」と言うのです。酔っている私は「行ってみるわ」と応じました。酒の勢いとは怖いものです。

 ちょうど、奈良支局勤務だったころの林俊三支局長(故人)から自転車をもらっていたので、それに乗って回ることにしました。いい加減な遍路です。そうして、1995年11月、遍路の第1クールが始まりました。2泊3日ずつ9回に分けて1周しました。


〇数珠がない

 何の予備知識もなく、出かけてしまいました。1番霊場霊山寺で参拝すると、みんな数珠を持っているではないですか。そんなことも知らずに行ったのですから、ひどい遍路です。

 そのことを芳村超全住職(故人)に正直に話すと、素晴らしい言葉をもらいました。「虚往実帰(きょおうじっき=むなしゅうゆきて、みのってかえる)」。その言葉を、わかりやすく解説してくれました。「空海はいくら勉強しても、悟りに出会えなかった。室戸(高知県)の洞窟に100日籠ったが、煩悩がなくならない。そこで唐の西安に行った。あてにせずに行ったが、帰りはたくさんのものを持ち帰った」

 何と良い言葉。この言葉で、私はすっかり気が楽になりました。身勝手な遍路です。そんないい加減な私のような遍路でも、受け入れてくれる仕組みが四国にはあるのです。


↑1番霊山寺


〇頭を丸めれば

 おもしろいことを言う住職でした。「四国4県は春夏秋冬。少年、青年、壮年、老年。生、老、病、死。目覚め、修行、悟り、涅槃。阿?、宝生、阿弥陀、不空如来。遍路の1周は、1年と同じ数字の365里。四季も心の上からも、何もかもが四国に当てはまる。島ひとつを境内とみる」

 何度か芳村住職の話を聞いたことがありますが、1番おもしろかったのは菅直人さんに関するものでした。菅さんは民主党の代表だった2004年、閣僚の年金未納問題を追及していましたが、自らの年金未納が発覚し、代表を辞して遍路を始めました。菅さんは丸坊主になって住職に会い、「人間、頭を丸めれば、何か変わるものでしょうか」と尋ねたそうです。その答が傑作です。「いえいえ、変わった人が頭を丸めるのです」

 菅さんの遍路には、ほかにもおもしろいエピソードがありまさうい。菅さんは区切り打ちでで、松山市の53番円明寺まで回りましたが、これが失敗。やがて首相になったものの、在任期間は452日と短かったのです。もし、次の霊場まで行っていたら、もっと延命できたのです。54番は延命寺だからです。


↑53番円明寺


↑54番延命寺


〇数珠があった  霊山寺を出発して2番極楽寺に向かうと、何と数珠が道に落ちていました。本来なら、霊山寺で数珠を買い求めるのでしょうが、それを忘れていました。これ幸いと、ありがたく数珠をいただき、以後はそれを使わせていただきました。そんな不心得者でも受け入れてくれる優しい仕組みが、四国にはあるのです。

 ただし、1周の中間あたりで数珠は切れてしまい、自分の数珠を買いました。それもどこかに忘れてしまい、また買い求めることになるのです。


〇お四国病院

 私の遍路体験で感じた2番目の結論、「遍路道には心の共同体がある」についてお話します。自転車で四国88カ所を回り終わると、また四国へ行きたくなりました。「都会の生活に疲れたら、四国に行ってみたくなる」と言う人がいます。天声人語を執筆し、岩波新書「四国遍路」を著した辰野和男さんは、そんな現象を「お四国病院」と言っていました。それはなぜか?霊場の魅力をはるかに超えて、遍路道の周りの心の共同体を強く感じるからです。

 共同体の中心にあるのが、「お接待」です。お遍路さんをもてなす、古くからの風習です。自転車や歩きで回っていると、「お遍路さーん」と声がかかります。「休んでお茶でも飲んでいって」「ミカン持って行き」「はい、お菓子」も、よく体験することです。

 子どもたちは「お遍路さん、頑張って」と励ましてくれます。都会では、「知らない人と話さないように」という風潮が広がっていますが、正反対なのです。こんな優しさに触れ、お遍路さんはコロッとまいってしまうのです。人間関係が淡白な都会で暮らす人は、特に心地よさを感じます。


↑霊山寺では保育園児のお接待を受けたことがあった


〇「学生さん!」  私は9番法輪寺のそばで、最初のお接待を受けました。店のおばさんから「学生さん」と声をかけられ、売り物の焼き芋をいただきました。強烈に記憶に残っているのですが、それは芋の味ではなく、「学生さん」という言葉でした。自転車に乗っていたので、追い抜いて行く車にとって目立つような派手な色の服を着てはいたのですが、それにしても、「学生さん」とは。当時49歳。

 実は不安を抱えながら、ペダルをこいでいました。12番焼山寺は標高750メートルのところにあり、その難所が近づいてきたからです。信心の気持ちなく、何の訓練もしていない、50歳前のおっさんに、はたして登れるのだろうか。何人かに来てみましたが、らちがあきません。そこへ、「学生さん」です。何、学生!「やったろうやないか」と勇気が出ました。。四国には、私のような根性なしにも勇気をくれる仕組みがあるのです。


〇善根宿のノート

 さまざまなお接待を受けましたが、これぞ神髄というエピソードをお話します。遍路道には「善根宿(ぜんこんやど)」というものが点在しています。お遍路さんを無料で泊めるのです。私が泊めてもらったのは、28番大日寺(高知県香南市)のそばの農家でした。納屋を改造して、お遍路さんを泊める部屋にしていました。突然訪ねたのですが、迎え入れてもらいました。

 部屋に入ってしばらくすると、「おふろが沸くきました」と声をかけられました。一番風呂でした。次は夕食に呼ばれました。申し訳なく思っていると、主人が言いました。「うちは農家。食べるものはある。家族4人で食べるのを、5にするだけだから、遠慮することはない」。おいしくいただきましたが、それは味ではなく、家族の心がおいしかったのだと思います。

 主人はその日、機嫌が良かったようで、「わしゃあ、遍路と酒を飲むのが好きじゃきに」と言って、お酒まで振る舞ってくれました。朝食もいただき、出発する時は、奥さんがおにぎり2個を持たせてくれました。

 部屋にはノートが置いてありました。泊めてもらったお遍路さんが、住所と名前を書いていました。私が泊まったのは1月で、その前年には192人の名前がありました。表紙に書いてあったノートのタイトルは、一生忘れないでしょう。「本日家族 増員名簿」

 では、その家は裕福だったのでしょうか。私は世話になったのでその翌年から年賀状を毎年送っていました。ある年、主人からの返事は遅く、春近くになって届きました。返事にはその理由が書いてありました。「高松市に出稼ぎに行っていました」。生活は苦しかったのです。私がいただいた夕食も、ご飯と野菜だけだったことを思い出しました。


〇学生のお試し遍路  もう1つ、お接待の体験ををお話します。あしなが育英会は阪神大震災のあと、神戸市に大学生寮「レインボーハウス」を建てました。震災遺児らを受け入れるためです。私は寮の学生の読書感想文を見ていました。学生が「遍路に行ってみたい」と言うので、4人を連れて2泊3日のお試遍路に連れて行きました。2009年のことです。

 正午に17番井戸寺(徳島市)から歩き始めました。地蔵峠越えというルートを選びました。地蔵院でトイレ休憩して歩き出すと、学生の1人が帽子がないのに気づき、1人だけ引き返しました。私が応援に行くと、若い男の人が探すのを手伝っていましたた。見つからないのであきらめると、「探して見つかったら、後でバイクで届ける」と言うのです。見かけは怖そうだったのですが、私は良さそうな男だと考え直しました。車も通る道から細い山道に入る直前、バイクが来ました。帽子を持って。良さそうな男は、本当に良い男だったのです。学生は最初から、四国の優しさに触れました。

 峠を越え、バスの発着場でトイレ休憩しました。すると、待ち合わせのおばあちゃんが、「お接待」と言って学生に裸の1000円札を差し出しました。お接待はお金のこともあるので、びっくりでしょう。学生もそうです。モジモジしているので、「お接待は受けるもの」と促がし、納め札(霊でのお参りする時に、願いごとと名前を書いて納める紙)に名前と「感謝」の文字を書いて渡す作法を教えました。

 学生の初体験は続きます。男性の歩き遍路と一緒になり、2時間近く行動を共にしました。夕方になり、その人は宿に向かうので、別れることになりましたが、別れ際にお菓子をたくさん学生に渡しました。お接待でもらったものを、さらにお接待してくれたのです。


  〇カップの徳島ラーメン

 19番立江寺(小松島市)を出たのは午後7時前。すでに20キロほど歩き、ヘトヘトですが、さらに歩きます。あしなが育英会の学生ですから、お金に余裕がありません。そこで、あるお寺が設けたお金のいらないプレハブ小屋で寝ることにしていたからです。

 100円ショップの懐中電灯2個で照らしながら歩いて行くと、ガソリンスタンドのおじさんから、「どこに泊まるのか」と声をかけられました。目的地を告げると、「あと3キロくらい」と教えてくれました。そのまま歩いていると、ガソリンスタンドのおじさんが自転車で追い抜き、自分はいまからお祭りの準備に行くが、あとから奥さんが軽トラックで来るので乗せてもらったらいい、と言って走って行きました。

 言葉通り、軽トラックが来て、私たち5人は荷台に乗せてもらい、プレハブまで送ってもらいました。奥さんはプレハブのことを知っていて、水道とIHヒーターがあるのを教えてくれました。お礼を言うと、奥さんは帰って行きました。

 しばらくして、また奥さんがやって来ました。徳島ラーメンのカップ麺を持ってきてくれたのです。何と親切な。温かい夕食となって、学生たちは感謝感激です。奥さんは、箸の心配までしてくれましたが、ボールペンを何本もも持っていたので、心配無用と告げ、鵜さんは帰って行きました。

 しばらくして、奥さんはまた現れました。5人分の割り箸を家から持ってきたのです。学生はお接待の心に、打ちのめされてしまいました。

 子どもたちは「お遍路さん、頑張って」と励ましてくれます。都会では、「知らない人と話さないように」という風潮が広がっていますが、正反対なのです。こんな優しさに触れ、お遍路さんはコロッとまいってしまうのです。人間関係が淡白な都会で暮らす人は、特に心地よさを感じます。


↑プレハブで一泊


〇また1000円  2日目もお接待の連続でした。農家の土間のようなスペースを活用したお接待所があり、お茶、ゆでたサツマイモ、一口ようかんをお接待してもらいました。学生はよく食べるのです。

 さらに歩いてゆくと、道路の反対側からおばちゃんが声をかけてきました。ポケットティッシュを入れる布カバーを手づくりしていて、それをお接待してくれたのです。手渡すのは1300何番目だと話すので、お接待が当たり前の日常になっていることを、学生は知ったのです。

 徳島では遍路の難所について「1に焼き山(12番焼山寺)、2にお鶴(20番鶴林寺)、3に太龍(21番太龍寺)」という言葉があります。この日は2と3の難所の山の寺に登りました。本来は道の駅に軒下で寝ようと考えていたのですが、学生もさることながら私がヘトヘトで、遍路宿(民宿)に泊まることにしました。

 3日目。学生の1人に急に用事ができ、お参りはあきらめて、全員で帰ることになりました。宿を出る時、女将が学生に「お接待」。また裸の1000円札です。お試し遍路は、最後もお接待でした。


↑学生との遍路


〇ガラスドアの激突

 バスで徳島駅まで行き、そこから高速バスに乗ります。学生は神戸へ、私は大阪へ。チケットを買ったあと、20分弱の時間がありました。そこで、女子学生が言いました。「寮の同室の友だちに、お土産を買いたい」。土産は決めていて、ガソリンスタンドの奥さんにもらったのと同じ徳島ラーメンのカップ麺です。

 土産物屋さんの場所を教えると、彼女は買いに行きました。しかし、手ぶらで帰ってきました。徳島ラーメンのカップ麺はあるのですが、全く同じものはないというのです。そこで、一緒に駅ビルの地下食料品売り場に行きましたが、やはり同じものはものはありません。彼女はあせり始めました。バスの出発時刻が迫ってきたからです。

 私がもう1軒の店を教えると、彼女は走り出し、スタートダッシュのまま、入り口のガラスドアに激突しました。ドアは人が近づくと、自動的に横にスライドするタイプでした。開くのが彼女のスピードが間に合わなかったのです。何せ、彼女は大学の陸上部員だったので。彼女はめげずに走り、やがて帰ってきました。結局は同じカップ麺はなく、残念ながら似たものを手にしていました。


〇見えないものは広がる

 この出来事は、心の共同体の良い話だと思うのです。彼女には、ガソリンスタンドの奥さんの気持ちと行動が、とてつもなくうれしかったのでしょう。その気持ちを伝えるためには、そのカップ麺が必要だったに違いありません。名も知らぬ人から受けたお接待の心が、広がりを見せたのです。心の共同体は「物」ではないので、見えるものではありません。しかし、見えないものは容易に広がります。徳島から神戸へ、神戸から日本へ、世界へ。


〇8人と4人  学生たちはお試し遍路から、本格遍路へと変身しました。心の共同体の心地よさが忘れられなかったに違いありません。寮生を誘って、お試しの続きを歩き、高知県まで行くと、連絡がありました。もう付いていく必要はありません。ただ宿探しに苦労するだろうと考えました。

 高知県に入った東洋町に、中学以来の友人がいます。農家です。普段は使っていない別棟があり、僕は遍路の途中に泊めてもらいました。そこで電話をかけ、「学生遍路を泊めてもらえないか」と頼んでみました。友人は「ええよ」とありがたい返事。

 「何人?」と聞くので、当初の計画の8人と教えると、「エッ」と一瞬絶句。それでも、「ええよ」です。そんな無茶を受け入れる仕組みが、四国にはあるのです。学生遍路は出発までに人数が減り、実際に泊まったのは4人。友人はさぞ、ホッとしたことでしょう。


〇戦後日本を支えた価値観

 では、なぜ四国には心の共同体があるのでしょうか。私の独善的な考えですが、四国には一次産業が残っていることと関係があるような気がします。ここから3つ目の結論に移ります。

「都会の生活に疲れると、四国に行きたくなる」。似たような言葉を、何人かのお遍路さんから聞きました。ここにヒントが潜んでいるような気がします。

 戦後日本を支えてきた価値観や根本的な思想に、「効率」があります。いかに少ない投資で、いかに多くの利益を得るか。その行きつくところが特殊詐欺だと、冒頭の結論部分で言いました。結果さえよければ、手段はどうでもいいといった感覚が蔓延しています。自動車などの基幹産業が軒並み不正を行っていたことも、効率を求めすぎた結果ではないでしょうか。だから、戦後の価値観にドップリつかっていても、どこかに「これでいいのだろうか」というしない気持ちが隠れているような気がします。


〇農業との共通性

 遍路に行くと、田んぼの中やそばを通り、麦秋を見ながら歩きます。農業の風景が広がります。農業は健在とまではいかないにしても、まだまだ残っているのです。しかし、農業は全く非効率です。

 農家はしんどい仕事です。それなのに、もうかりません。お米を作るとします。4カ月かけて収穫し、1反で得るお金は12万円低度です。テレビ番組では、専門家がびっくりするような数字を出していました。必要経費など引いた農家の1年間のもうけは、1万円だというのです。あまりに極端な金額なので、「本当にそうなのだろうか」とも思いましたが、効率化の思想とは対極にあることだけは間違いありません。

 歩き遍路は人力なのでスピードは出ず、長い日数をかけて四国を回ります。非効率な参拝です。そのうえ、結願したとしても、金銭的に何の利益もありません。金はかかるばかりです。ここにも、戦後日本を支えてきた思想とは正反対のものを見て取ることができます。この点で、農業と共通するものがあります。だから、農家の人は、四国の人は歩き遍路に対して、「あんたも、よう頑張るなあ」という共感を持ち、その共鳴がお接待へとつながるのではないでしょうか。一方、お遍路さんも四国の農業にエールを送り、共同体が完成するのだと思えてなりません。

〇ゆっくりと

 2000年前後には、ヘリコプターで空から参拝する遍路なるものがありました。これは短時間で行くので、効率的です。料金は高かったはずですが、歩いて回って毎晩宿に泊まることを考えると、それよりは安かったという記憶があります。でも、すぐに姿を消しました。

 遍路はゆっくりがいいのです。定年など人生の転機や、自分の見つめ直しのために回る人も結構いるのですが、回るのが速すぎると何かを考える余裕がありません。


〇安全、安心、快適

 「安心、安全」「快適な生活」は当たり前の価値観なっています。ところが、遍路はそうではありません。山に入れば、危険な場所もあります。1番高い66番雲辺寺(徳島県三好市)の標高は、900メートルもあります。歩いて登れば、快適どころか、しんどいだけです。でも、登れます。

12番焼山寺もそうでした。その道は「へんろ転がし」と言われる難所です。歩いて登り始める直前のことです。しんどいことが分かっているので、不安が顔の出ていたのかも知れません。おばあちゃんが「頑張って」と声をかけてくれ、1000円札ぽ差し出したのです。私が現金をもらった初めての体験でした。お金の力ではないのですが、俄然元気が出ました。そんなマジックが四国にはあるのです。


↑へんろ転がし


〇1万円超

 私が自転車遍路をしている時に、歩きの女性遍路と出会いました。女性遍路が少ない時期だった、年齢が高かった、病気の影響でヘロヘロだった、などの要素もあったのでしょう、結願するまでに1万円を超えるお接待の現金をもらったそうです。まさに虚往実帰みたいな話ですが、そのような人を助ける思いやりが、四国にはあるのです。

〇暑くても寒くても  暑い時はたまりません。真夏に高知県・室戸岬にある24番最御崎寺に向けて歩いた時は、汗がダラダラ流れました。ところが、店も自動販売機のほとんどありません。でも、そんな時に限って、雨が降ってくれるのです。かぶっていた菅笠を取って雨を浴びました。そんな仕掛けを、四国は用意してくれるのです。

 寒い時もたまりません。1月に自転車で走っていると、足先が冷たくなってきます。すると、「靴下にタカノツメを入れておきなさい」と教えてもらいました。雲辺寺に登る時、雪が積もっていて危ないため、ロープウェイを使ったこともあります。


↑雪の遍路


〇世界1狭い場所

 「世界1狭い場所」と言われる行場もあります。88カ所とは別に、別格20霊場があり、その中の3番慈眼寺です。そこに穴禅定があります。空海が修行したとされる場所で、簡単に言うと鍾乳洞です。片道100メートルに足りない洞窟内の道を往復するのですが、これが大変なのです。

 道幅がともかく狭い。断面が垂直の壁の間を歩くのならいいのですが、両側の壁ともグネグネとうねっていますす。1番狭い部分は。幅が15センチほどで、私の大きな頭は通りません。でもお腹はブヨブヨしていてへこむので。壁に押しつければ通ることができます。そこで、突起などがあって狭い所は、体の柔らかい部分を押してて取り抜けて行きます。

 その指導を、行場の先達のおばあちゃんがしてくれます。例えば「右肩から入って少し沈み込み、今度は体をねじりながら斜め前に上げていく」。おばあちゃんの指示通りしないと、前に進めません。特に私のように体が大きくて固い人は。

 しかも、世界1狭い所なので、先達が1人ひとりに指導することができません。そこで、先達の言葉を次々と後に伝える伝言ゲームです。ところが、みんな自分のことが精一杯で、なかなか正確に伝えられません。すると渋滞が起こり、あとの人は体をくねった状態で待つことになります。


↑穴禅定への道


○洞窟内の混乱

 毎日新聞旅行の先達で初めてみなさんを穴禅定に案内した時は、ポッチャリした女性が詰まってしましました。後の人たちの心に恐怖感が生まれ、ある人が「南無大師遍照金剛」と唱え出し、やがて合唱になって洞窟内に響き、異様な雰囲気になりました。

 おばあちゃんが洞窟内で名所を説明し、1番奥まで行くと、みんなで般若心経を唱えます。順調往復すると、30分ほどで洞窟から出てきます。それなのに、1時間20分もかかったことがあります。

 行きで何人か詰まりました。おばあちゃんはそのたびに、難所を通り抜けた人を広くなった場所まで案内しておいて、また難所に引き返して救出作業をしました。

 帰りは出口(入口と同じ)の直前に、体がやっと通る場所を腹ばいになって進む難所があります。赤ちゃんが胎内から出てくるようなイメージで、蘇り・生まれ変わりの思想を体験することになります。

 その場所で、1人の男性が精魂尽き果ててしまいました。腹ばいのまま、「休憩させてほしい」と言い出したからたまりません。おばあちゃんは励ましながら大きな声で動作を指示し、すでに通り抜けた人が男性の手を引っ張り、後から続く人が足の裏を押し、何とか抜けることができ、思わず拍手が起きました。男性は洞窟の外でまた寝転びましたが、もう「ご自由に」です。

 先達のおばあちゃんに聞くと、1番長くかかったのは6時間だったそうです。何と、救出した相手は僧侶。指示を全く聞かず、 挙句の果てに、にっちもさっちもいかなくなったとかた。


〇1番記憶に残るところ

 安心、安全、快適とは無縁、いえ正反対の体験です。ところが結願した後、私が案内した遍路旅の参加者に1番の思い出を聞くと、ほとんどの人が穴禅譲を挙げます。何ででしょうか。日常生活ではあり得ない体験に加え、自分の力を試す要素があり、力の限界を知ることにもなるからでしょう。

 洞窟に入る時は、寺が用意した柔道着のような上着を着て、100円ショップなどで買った雨具のズボンをはきます。洞窟の壁や土に体中をすって進むからです。私もそうですが、上着はドロドロ、ズボンはビリビリになる人も少なくありません。パソコンやテレビの中での疑似体験とは大違いの現実。その大変さを知るからだと私は分析します。


〇命の恩人のヘルメットと修行僧

 私は自転車遍路で1周する間に、4回のパンクを経験しました。予備のタイヤに取り換えるのですが、面倒くさい作業です。自転車屋さんなどあまりないので、自分でやらなければならなりません。

 下り坂で自転車が前向きに半回転して、頭からコンクリート地面に落ちたこともあります。時速30キロ近く出ていたかもしれません。ハンドルが曲がるほどの衝撃でした。無事だったのは、ヘルメットをかぶっていたからです。それでも、しばらく脳震盪を起こしていたようで、それを助けてくれたのは、遍路修行中の僧侶でした。

 もう走る気力はなく、民宿に入って翌日バスで帰ることにしました。宿に電話すると、団体客で満室だと言います。宿の人はいったん断った後、すぐに「もしかして、お遍路さんですか?」と聞きました。そうだと答えると、宿泊ОKが出ました。

 宿に着いて分かりました。団体の各部屋ごとの人数を少しずつ増やし、私のために1部屋空けてくれたのでした。四国には、私のように失敗した人を助けてくれる仕組みがあります。


〇四国の人はうるさい

 高知市の霊場の住職に、聞いた話はそのことを裏付けます。引きこもっていた若者が、一念発起して遍路に出ました。歩きながら、1人でゆっくりと人生について考えようと決意したからです。結願して住職を訪ね、言ったそうです。「四国の人はうるさい。私を1人にさせてくれませんでした」

 「頑張って」と声をかける。道を間違えると注意する。「お遍路さーん」と言ってお接待をする。若者は怒っているわけではありません。四国を回って人との関係に感じ入り、社会復帰したそうです。


〇酒の共同体

 さて、虚往で遍路を始めた私に、実帰はあったのでしょうか。経済的には全くありません。むしろ逆です。

 四国を回った人を中心にして、お遍路さんために休憩所(足休めをするあずま屋)を造る活動をしています。四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクトといい、私も参加しています。これまでに59棟が完成しました。すべてボランティアによる活動です。ですから、私も建設などのための四国に行くと、交通費などの費用はすべて自腹です。動けば動くほど、お金は減るのです。戦後の価値観とは全く逆です。

 それでも18年間、活動は続いています。毎月1回、プロジェクトの仲間6人から8人が集まって、活動方針を話し合います。会議も大事ですが、もっと大事なのはその後です。安い居酒屋さんに行き、反省会の?り黙で飲むのです。

 毎日新聞旅行で一緒に行ったメンバーが1カ月に1回、「あすなろ会」と称して集まり、軽く酒を飲みます。これも6人から8人。最も古いメンバーは2003年のシリーズの仲間ですから、20年を超える付き合いです。飽きもせずに。年寄りばかりなので「あすなろ会」よりも「明日ない会」と改名したほうが良さそうですが。

 これはありがたいことです。人生の終盤に遊び仲間がいることは、お金には代えられません。霊山寺の芳村住職から教えられた虚往実帰です。四国で感じた「心の共同体」は「酒の共同体」に少し変形しましたが。私の遍路は、酒で始まり、酒で終わるのかもしれません。


↑ヘンロ小屋検察は工務店に頼みますが、プロジェクトのメンバーが手伝うこともあります


〇ひょいと四国へ

 さて、4つ目の結論です。気楽に遍路に行ってみてください。回る手段は何でも構いません。

 昨年(2023年)、あすなろ会のメンバー6人で、久しぶりに遍路に行きました。初回は1番霊山寺から1泊2日で。「できるだけ歩こう」と決意して。高速バスで四国に行き、霊山寺に近いバス停で降り。30分ほど歩いてお寺へ。続いて1.5キロ離れた2番極楽寺へ歩きました。

 極楽寺に着くと、メンバーの1人が言いました。「もう限界」。そこでジャンボタクシーを呼び、帰りのバスに乗るまでお世話になりました。楽、らく。それでも言いふららします。「歩き遍路に行ってきた」。そんないい加減さを、四国は許してくれるのです。その後、2回目の遍路の声は出てきません。

 どんな手段でもいいので、まず遍路に行ってみてはどうでしょうか。、行ってみて、自分に合わなかったり、しんどかったりすれば、やめればいいだけです。

 種田山頭火の句に「秋晴れひょいと四国にわたって来た」。軽い句ではないですか。晴れていれば、ひょいろ遍路に行ってみてください。気負う必要はありません。


↑気軽に遍路をしてみませんか



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