html> 梶川伸・「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会副会長「ヘンロ小屋プロジェクトへの思い」

梶川伸・「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会副会長「ヘンロ小屋プロジェクトの思い」



 《2010年9月16日に高松市の全日空ホテルクレメント高松で開かれた異業種交流「笑狸会」例会での講演の詳細です。読みやすいように、中見出しを入れました》


 本日はお招きいただきありがとうございます。私たちが進めている「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」の案内をさせていただき、しかも講演料をいただけるということで、こんないいお話は喜んでお受けしたわけです。私は1996年から97年にかけての1年半、高松市に住んでいました。今日は少し早く高松に着いたので、以前お世話になっていたおでん屋さんをのぞいたのです。そうすると、ビールを1杯ご馳走になりまして、本当に高松はいい所ですね。
 私は話が下手なので、最初に結論部分を言っておきます。四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクトは、構想から始まったものなのです。これが面白い点です。しかし、思いが強ければ、願いはかなうということを、プロジェクトは物語っていると思うわけです。ヘンロ小屋は40軒まで増えました。思いは心で、それは見えないものです。しかし、心は見えないからこそ広がっていきます。同じように、遍路道の周りのお接待や遍路文化というものも見えないものですが、じわじわと広がっていくと思うのです。


   構想から始まったプロジェクト


   まず、四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクトについて説明します。このプロジェクトは、歌一洋さんという建築家で近畿大学教授が提唱したものです。四国八十八カ所の遍路道は、歩くと1200キロあります。大変な距離です。車では1400キロです。ヘンロ小屋とは、歩き遍路が足休めをする簡単な休憩所で、それを遍路道に作っていこうというのが、四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクトです。
 歌さんは徳島県海陽町の出身です。小さいころからお遍路さんを見て育ち、親に言われてお遍路さんにお接待をしに行っていました。歌さんは建築事務所を構え、教授にもなり、生活が安定してきました。その時、自分を育ててくれた四国に何か恩返しをしたと考え、思いついたのがヘンロ小屋でした。プロジェクトは、歌さんの構想から始まったのです。それは、歌さんのお接待なのです。


   すべてはボランティア


 プロジェクトはどんなものかというと、すべてがボランティアで成り立っています。土地を見つける。歌さんがその土地に合わせて設計する。建設資金を出すか集める、あるいは労力奉仕で造る。すべてボランティアです。
   歌さんはまず、自分の構想を分かってもらうため、2001年に徳島の美術館に小屋の模型を持ち込み、展覧会をしました。その時、海陽町の野村(カオリ)さんが見に来ました。野村さんの娘さんのお婿さんが歌さんの知り合いで、展覧会の案内を歌さんが送っていたそうです。偶然ですね。野村さんは、まだ歌さんが模型の据え付け作業をしている時に美術館を訪れ、すぐに建設を申し入れたのです。それで、その年の12月に、第1号が徳島県海陽町にできました。
 野村さんはだんなさんを42歳で亡くし、その供養のために四国八十八カ所を歩いて回ったそうです。その後も何度も回っています。1番困ったのはトイレだそうです。そこで、トイレのある休憩所を造りたかったのです。しかも、トイレは様式トイレでなければいけません。歩いていると、和式のトイレはしんどいのです。その思いが、トイレつきの休憩所になりました。建設費はすべて野村さんが負担しました。
 当初は、歌さんたった1人の活動で、歌さんの親類や知り合いが協力して小屋ができていきました。歌さんは高知でも展覧会をしました。それを見た高知の女性がまさに「はちきん」でした。背の低い歌さんが頼りなく見えたそうで、展示している模型を預かって、自らプロジェクトのPRを買って出てくれたのです。高知の人は、動き出すと早いです。ヘンロ小屋の建設は、高知県が1番多いのです。


   本日家族 増員名簿


   私と遍路のかかわりを話します。私は毎日新聞の記者でした。ある時、友人のノンフィクション作家、柳原和子さん(故人)と酒を飲んでいました。柳原さんは若いころに、四国八十八カ所を歩いて回り、大変印象に残ったと話しました。私は酒の勢いで、「おれも行く」と宣言しました。わたしは結構、約束は守る方で、2泊3日ずつに分けて、自転車で巡拝しました。そうすると、確かに印象深いものがありました。その1つはお接待です。その例を1つ話します。
 高知県の善根宿に泊めてもらったことがあります。善根宿は、お遍路さんに宿を提供する家のことです。私が泊めてもらったのは農家で、納屋を改造してお遍路さんの宿泊場所にしていました。私はまず1番にお風呂に入れてもらいました。夕食もいただきまいた。4人家族で、「農家だから食べ物はある。4人で分けるところを5人にすればいいだけで、気を使う必要はない」と言うのです。しかも、その日はご主人の気分がよかったのか、「わしゃあ、遍路と酒を飲むのが好きじゃきに」と言って、酒まで飲ましていただきました。翌日は朝ご飯をいただき、昼のおにぎりまで持たせてくれるのです。 それで、お金は取らないのですよ。泊めてもらうと、ノートが置いてあって、それに記帳することになっていました。ノートの表紙に書いてあったのは「本日家族 増員名簿」という言葉でした。これぞ、お接待の極地でしょう。


       お四国病


   四国が印象的だったので、私はそれからもバスツアーなどで遍路をするようになりました。こういうのを、お四国病と言います。やがて、毎日新聞の旅行部門から遍路ツアーの案内役を頼まれるようになりました。遍路ツアーは過当競争なのです。ですから、区別化をしないと、お客さんが集まらないのです。そこで、私と同期の責任者が「新聞記者と行く遍路」ということを考え、私に頼んできたのです。
 <203年春に私の顔写真を入れて、ツアー参加者を募集しました。ところが、参加者が集まらなかったのです。そこで、その年の秋に、今度は顔写真なしで募集すると集まったのです。いやな感じですねえ。その後も、先達を続けています。BR>

   歌さんをバックアップ


   次に、「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会に説明をします。歌さんが1人で活動しているので、歌さんの考え方に賛同した人が集まり、歌さんをバックアップする会として、2006年4月の支援する会が発足しました。歌さんと同じ徳島県出身で大阪に住む人が言い出しっぺです。
 私と歌さんのかかわりについて話します。歌さんが大阪の朝日新聞本社で展覧会をしたことがあります。予告のお知らせ記事を、毎日新聞の学芸部の記者が書きました。本人は展覧会期間中にあったシンポジウムをのぞく予定でした。ところが法事が入り、行けなくなりました。そこで、四国を回っている私に代理を頼んだのです。その時は古い友人に会い、歌さんと名刺を交わした程度でした。しかし、縁があったのです。ある時、久し振り会った人に遍路の話をしたところ、その人の知人を紹介すると言い、それが歌さんで、一緒に酒を飲むことになったのです。因縁ですえね。そんなことから、支援する会の副会長を引き受けたわけです。
 援する会は、年会費3000円で、会員は約300人です。プロジェクトの支援のため、歌さんが大阪から四国に行く調査費を出したり、遍路文化の維持継承のためのシンポジウムの開催などに会費を使ったりします。また、会費とは別に寄付金をいただくこともあるので、小屋の建設資金に当てたることもあります。会費と寄付金だけでできた小屋も2軒あります。


   小屋建設のパターン


   小屋の建設パターンにはいくつかあります。地元の人が土地を提供し、建設資金を出すか寄付金を集めることが基本です。土地は自治体が提供してくれこともあります。企業がメセナで建設したケースもあります。高知県の幡多信用金庫は5軒も建設して、新入職員に研修として小屋でお接待をしています。また、香川県と徳島県でコンビニのサンクスを展開しているサンクスアンドアソシエイツ東四国は、各お店に募金箱を置いてくださり、まとまったお金をプロジェクトにいただいています。いつも端数のないきれいな額なので、会社からも寄付金をいただいているのだと推測でき、ありがたくいただいています。
 支援する会への寄付金などでできたケースをお話します。高知県中土佐町のヘンロ小屋31号「そえみみみず・酔芙蓉」のケースです。私の遍路仲間に石橋さんという女性がいました。初めて遍路に参加した時に、「そえみみず」と呼ばれる良い遍路道を歩きました。石橋さんは峠で熱中症のためにダウンしました。その時に、何人もの仲間に助けられ、何とか峠から下りてくることができました。やがて石橋さんはがんのために亡くなりました。石橋さんは遍路仲間と知り合ったことがうれしかったようで、兄弟姉妹に遍路の話をしていたそうです。遺族から「供養のためにヘンロ小屋を建ててほしい」と、私を通じて会に寄付金をいただきました。
 石橋さんのヘンロ小屋や、思い出のそえみみず遍路道の入り口に造りました。石橋さんは少しお酒を飲み、飲むとすぐ頬を赤くしました。酔芙蓉は朝白く咲き、昼間にピンクに染まり、夕方に赤くなり、翌日は散ってしまうはかない花です。頬を染めることから、酔芙蓉が石橋さんのニックネームになっていて、小屋にもその名前をつけました。小屋のそばに、お接待をしているおばあちゃんがいます。そのおばあちゃんの家の庭に酔芙蓉の木があり、それを小屋の横に移植してくれました。ありがたいことです。


   小屋は交流の場


   小屋のデザインは、歌さんがその土地にちなんだものを考えます。例えば香川県では、18号丸亀城乾は丸亀の名産のうちわのモチーフ、24号高松・一宮は那須与一の弓、30号銭形は観音寺・琴弾浜の銭形をデザインに生かしています。
 ヘンロ小屋は小さな小屋です。しかし、そこは遍路と地元の人、地元の人同士、大人と子どもの触れ合い、交流の場です。小屋には人型のモチーフが必ず使われます。支え合いを意味するプロジェクトの心です。小屋は小さくても、心は世界に広がります。
 高知県の28番松本大師堂の例をあげます。四国霊場二十八番大日寺と二十九番国分寺の間の遍路道にあります。もともと地区の大師堂があり、それが老朽化して建て替えることになった時に、ヘンロ小屋を兼ねた大師堂としたのです。寄付金を出したのは800人を超えます。近くの5つの寺からも寄付金をもったというのですから、驚きます。普通はお寺さんには、お布施を渡すのに。
 今は毎月21日は、お遍路さんにお接待をするそうです。それがいつの間にか、お接待をする人をお接待するような習慣ができたそうです。これこそ心の交流の場です。 お接待は心の働きです。だからこそ、広がっていくのだと思います。最後に、その例をお話します。


       学生のお試し遍路


   私は、あしなが育英会が運営する神戸の大学生寮「レインボーハウス」の学生の読書感想文の指導をしています。あしなが育英会の奨学金は寄付で成り立っています。奨学生は親を亡くしているので苦労をしているし、奨学金によって大学に行けているので、感謝の気持ちや支えられていることを感じている人たちです。今から話すエピソードにも、それが反映しています。
 学生が遍路体験をしたいと言うので、2泊3日で、徳島県の十七番井戸寺から二十番鶴林寺まで、4人を連れて歩きました。井戸寺を昼ごろ出発して、地蔵遍路道という峠を越え、バスの終点の停留所の建物で休憩しました。トイレがあったからです。ベンチで休んでいると、年配の女性が「お接待ですよ」と言って、1000円札を差し出しました。学生はびっくりします。私は納め札に住所、名前を書き、さらに「感謝」と書いて渡すよう教えました。
 八番恩山寺から十九番立江寺まで、男性の遍路と一緒に歩きました、その遍路が別れ際に、「お接待」と言って、お菓子をくれました。
 立江寺を出たのは午後6時を過ぎていました。やがて日が落ち、暗くなった道を歩きました。すでに歩いた距離は20キロを超えていて、疲れていました。ガソリンスタンドの前を通ると、店の主人が「どこに泊まるの」と声をかけてきた。私たちは、あるお寺が設けたプレハブ小屋に泊めてもらおうと思っていてので、それを伝えました。そうすると、「あと3キロや」と言います。懐中電灯を照らしながらさらに歩いていると、さきほどの主人が自転車で抜いていきながら「おれは用事があるが、あとから女房が軽トラックで来るから、荷台に乗せてもらい」と言いました。
 その言葉の通り、奥さんが軽トラックでやって来て、プレハブ小屋まで送ってもらいました。疲れている時に、ありがたいことでした。コンビニで買っていた遅い夕食を食べようとして時、さきほどの奥さんがまた軽トラックで顔を見せ、徳島ラーメンのカップラーメンを5つ差し出すのです。プレハブ小屋には水道もレンジもあり、私たちは喜びました。そのカップラーメンは、具がレトルトパックに入っていたので、普通のカップ麺よりは少し高く、150円か200円かするのだと思います。奥さんはさらに「箸はある?」と聞きました。なかったのですが、食べるくらい何とかなります。しかし、奥さんはまた軽トラックに乗って家との間を往復し、箸をわざわざ持ってきてくださったのです。私も学生も大感激でした。


   どうしても徳島ラーメン


   翌日もサツマイモ、手づくりのポケットチッシュ入れのお接待をいただきました。鶴林寺にお参りした後、かなり疲れていたので、その晩は民宿に泊まりました。翌朝、宿の女将からも1000のお接待をいただきました。
 学生は徳島駅から高速バスで神戸に帰ることになりました。バスのチケットを買った後、出発まで15分ほど時間がありました。1人の女子学生が寮で同室の学生にお土産を買うといいます。土産物屋を教え、そこに行きましたが、「ない」と言って帰ってきました。彼女が買いたいお土産は、お接待でいただいたのと同じ徳島ラーメンのカップ麺だったのです。普通の徳島ラーメンのカップ麺はあったそうですが、具がレトルトのものがないのです。でも、どうしてもレトルトのものが欲しいのだと言います。自分が受けた感激を、部屋の同僚にも分かってほしかったのでしょう。
 私は徳島駅の地下の物産コーナーに連れて行きました。そこにも、レトルトの具のものはないのです。バスの出発時刻が近づいてきました。もう1軒の土産物屋を教えると、彼女は走り出しました。物産コーナーの入り口は大きなガラスの自動ドアですが、開くのが間に合わず、彼女は頭からドアのゴツーンとぶつかりました。それでも走って行きました。結局は、そこにもレトルトのものはなく、普通の徳島ラーメンのカップ麺をお土産にしたのです。
 この話はいい話だと思います。ガソリンスタンドの奥さんのお接待が、若い学生の心を動かしたのです。彼女は決して、あの晩の味を忘れないでしょう。値段にすれば、150円か200円ほどのものかもしれませんが、そこにこもった心は計り知れません。心は人を動かすのだと思います。お接待もそうですし、ヘンロ小屋プロジェクトもそうだと思います。


↓写真=笑狸会での講演
=2010年9月16日

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