澄禅の足跡たどる――江戸前期の遍路道再現(10)



                        遍路研究家  柴谷宗叔



<足摺岬の七不思議記述 三日月形の奇岩(月山神社)今も>



 一ノ瀬(土佐清水市下ノ加江市野瀬)を出て、下ノカヤ(同市下ノ加江)を過ぎ、入江の松原の奥のヲ丶キ村(同市大岐)で泊まる。
 4日、海辺を上り下りしながらイフリ(同市以布利)を過ぎ、窪津(同市窪津)には足摺山末寺の海蔵院(現存)がある。4キロで津洛(同市津路)、さらに4キロで足摺山(三十八番金剛福寺、同市足摺岬)に至る。
 澄禅は足摺山の寺の縁起や当時の伽藍の様子を細かく描写している。本堂南向、本尊千手観音、脇に不動・昆沙門・廿八部衆。堂内に大師御影、賓頭盧。鎮守熊野権現社。西に薬師堂、役行者堂、宝蔵。東に多田満仲建立の多宝塔。鐘楼、仁王門も備えた大伽藍であると記されている。現在もほとんど変わらぬ伽藍配置である。


   逆打ち遍路と再会


 足摺崎(岬)と東寺ノ崎(室戸岬=室戸市)と紀州熊野新宮ノ崎(潮岬=和歌山県串本町)を、日本の南海の鼎に指し出た三足と記している。また七不思議として、竜灯、ゆるぎ石、竜の駒、午時の雨、夜中の潮、不増不減、鏡石のことを記す。さらに宝満・愛満・熊野ノ滝という三滝の記述もある。熊野滝は室戸岬の先に潮岬が見える、愛満滝の上には大師建立の石鳥居、宝満滝の上に阿字石とある。
 5日、6日逗留。
 7日、足摺山ノ崎(足摺岬)を回って、松尾(土佐清水市松尾)、志水(同市清水)を経て、三崎(同市三崎)の浜で阿波国(徳島)を同日に出て逆打ちしていた高野吉野の遍路衆と遭う。


   浄土宗の寺のみ


 四国に渡るときに一緒だった小田原の行人衆が含まれるかどうかは定かではないが、徳島を澄禅と同じ日に出発して逆打ちしている遍路である。再会を涙を流して喜び、一時間ほど歓談した。この記述から既に逆打ちする遍路がいたことがわかる。現在は閏年の逆打ちと言われるが、承応2年(1653)は閏年ではない。もっとも閏年という概念は明治に太陽暦が採用されてからのことであるので、閏年の逆打ちという風習も新しいものと考えられる。
 川口(同市下川口)の浄土宗正善寺(廃寺)に泊まる。現在同地に真言宗醍醐派の大師寺がある。明治の廃仏毀釈で部落に寺がなくなっていたところへ昭和の戦時中に創られたという。澄禅当時に真言寺があればそこに泊まっていたはずだが、当時は浄土宗の寺しかなかった。
 

   人造のごとき自然石く


 澄禅日記では土佐清水から足摺へは往路は東海岸、復路は西海岸経由となっている。同じ道を避けたといえる。真念(?―1691)の著書である『四国邊路道指南』(貞享四年=1687)出版以降、市野瀬打ち戻りが主流となるので、打ち抜け道である大月経由の遍路記録として希少な澄禅日記は貴重である。
 8日、1キロ余り行き大きな坂二つ越え、貝ノ河(同市貝ノ川)。粟津(同市大津)、サイツ野(大月町才角)など経由、浜坂を上り下りして御月山(月山神社、大月町月山)に至る。
 奥の山頭に2・3メートルほどの半月形の石がある。澄禅は人造に見えるがごとき自然石と記している。現在も三日月形の奇岩が御神体で神社裏山に鎮座している。前に拝殿、下に寺。妻帯の千手院という山伏が住持しており、ここに泊まった。
 月山には守月庵月光院南照寺という寺があったが明治の廃仏毀釈で廃寺となった。神社境内に残る大師堂が名残をとどめる。
                 ◇
 筆者の文献研究と現地調査結果を元に澄禅の遍路ルートを推測しました。もし異なるルート等のご指摘がいただけるなら有り難く承ります。史料の出自、在り処等がわかればお教え頂きたいです。各位のご意見、ご指摘をお待ちしております。なお、この内容は月刊紙「へんろ」に毎月連載しております。(柴谷宗叔)


「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会
e-mail:henrogoya@arrow.ocn.ne.jp







      ↑土佐清水市窪津に現存する海蔵院




↑下川口の正善寺址に建つ大師寺




↑竹月山神社の御神体である三日月形の奇岩



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