澄禅の足跡たどる――江戸前期の遍路道再現(13)



                        遍路研究家  柴谷宗叔



<十夜ヶ橋の記述なし 大洲、内子経て久万・大宝寺へ >



 9月17日、戸坂(西予市宇和町久保鳥坂)の宿を出て、戸坂峠(鳥坂峠)から4キロ余り下って大津(大洲市大洲)へ。大洲は加藤出羽守(加藤泰興)の城下。城の東より西に流れる大河(肱川)があり本丸は川上に突き出している。侍屋敷も町屋も城内にあり、辺路は町中を通る。川に渡舟があって自由に渡るとある。川の西に中村(同市中村)という侍小路町家があり、堀内若宮(同市若宮)を過ぎ新屋(同市新谷)に至る。加藤織部正(加藤直泰)の居城である。大道より北500メートル余りの山際にある瑞安寺(現存、同市新谷甲)という真言寺に泊まった。日記には、現在は重要な番外札所とされる十夜ヶ橋(別格七番、同市十夜ヶ橋)の記述はない。
 18日は瑞安寺に逗留。


   「善し」の吉野川に


 19日、瑞安寺を発って谷川(矢落川)を11度渡って内ノ子(内子町内子)へ。河(小田川)を渡り坂を越え谷沿いに行く。五百木(内子町五百木)、芦ノ川下田戸(内子町吉野川)に至る。吉野川の集落は、もと下田渡村といい、天保9年(1837)に吉野川村に変更した。『大洲旧記』によると「慶長(15696−1615)の頃迄吉野川と云う」とあり、また元和(1615−24)の頃に上田渡・中田渡・下田渡に分かれたとされる。芦ノ川は「悪し」に通ずるから「善し」の吉野川に改称したと思われるが確証はない。あるいは「葦(よし)」を「芦(あし)」と書いたか。
 川(田渡川)を渡って東北へ行くのが辺路道。西にまっすぐ行けば、カマカラという山道と記す。カマカラとは、内子町吉野川泉にカマガラという場所があるのでカマガラのことを指すと思われる。4キロほど行って中田戸(内子町中田渡)の仁兵衛宅に泊。新屋(新谷)より20キロ。20日は雨で宿に逗留。


   臼杵望む峠越え


 21日、上田戸(内子町上田渡)、ウツキミトウ(内子町臼杵)を経て、ヒワタノタウ(鴇田峠、内子町と久万高原町の境)に至る。臼杵の集落から下坂場峠を越えて久万高原町二名宮成、さらに鴇田峠を越え久万の中心部に至る遍路道を行ったと思われる。
 ウツキミトウは現在の下坂場峠を指すと思われ、澄禅の当時は薄木見乢と言っていたのか。現在の臼杵は江戸時代は薄木と書いていた。実際下坂場峠の途中から臼杵の集落が一望できる。鴇田の乢については鴇田峠に比定して問題ないだろう。


   菅生山は大伽藍


 ここまでが出羽守(加藤泰興)領分、久間(久万高原町久万)から北は松山城主松平隠岐守(松平定行)の領分だった。久間(久万)の町を通って菅生山へ。明石(四十三番明石寺、西予市宇和町明石)より84キロ。
 菅生山(四十四番大宝寺、久万高原町菅生)は、本堂のほか、仁王門・鐘楼・経蔵・御影堂・護摩堂・鎮守ノ社がある大伽藍であると記す。本坊に泊まる。
 22日、大宝寺に荷物を置いて岩屋寺往復。寺の後ろの坂を越え、畑川(久万高原町下畑野川)を経て岩屋山へ。日記には「大師は三里(12キロ)としたが、町石は七十五町(8キロ強)である」と書かれている。現在の遍路道は八キロ余りであるので、澄禅記載の町石の距離が近い。
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 筆者の文献研究と現地調査結果を元に澄禅の遍路ルートを推測しました。もし異なるルート等のご指摘がいただけるなら有り難く承ります。史料の出自、在り処等がわかればお教え頂きたいです。各位のご意見、ご指摘をお待ちしております。なお、この内容は月刊紙「へんろ」に毎月連載しております。(柴谷宗叔)


「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会
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      ↑大洲市新谷に現存する瑞安寺。澄禅はここで二泊している




↑澄禅がウツキミトウと記した下坂場峠。峠から臼杵の集落が望める


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