澄禅の足跡たどる――江戸前期の遍路道再現(14)



                        遍路研究家  柴谷宗叔



<岩屋寺で梯子登り納札 宿泊した円満寺は廃寺か>



 岩屋寺(四十五番、久万高原町七鳥)へは、まず山を登りきり山頂から紅葉が錦のように積み重なった坂を下る。途中に仙人ノセリ破リ石(奥の院迫割禅定)がある。弘法大師が開山の時、山主の仙人(法華仙人という女性の行者とされる)との法力比べをした縁起を記す。盤石の二分した所を上ると、石頂より2メートルほどの所に21の梯子があり、上に鋳鉄製の厨子(白山権現、現存)がある。澄禅はここに札を納めたと記す。現在も山から下る遍路道の途中に奥の院への分岐があり、鎖や梯子で登る行場となっている。


   御坂峠を越えて


 200メートルほど下って仁王門。向かいは30メートルほどの石壁で、洞が幾つもある様子を記す。本堂の後に往生岩屋(現在の穴禅定か)。17の梯子を登った法華仙人堂に札を納めたとの記述も。現在は堂はないが、堂跡として梯子で上って洞の中に入れる。
 堂の下に庫裏がある。菅生山12坊で輪番、当番は中ノ坊(廃寺)と記す。当時、岩屋寺は大宝寺の奥の院とされ、輪番で管理していた。大師入唐時請来の五大尊鈴(現存せず)の記述も。菅生山(大宝寺)に帰り泊まる。
 13日、大宝寺を発ち北西に行き、御坂という大坂(三坂峠)を越え、エノキ(松山市久谷町榎)を経て、(大宝寺から)20キロ行って、浄瑠璃寺(四十六番、松山市浄瑠璃町)へ。昔は大伽藍だったが今は衰微し小さき寺一軒あるのみと記す。

   妻帯山伏が住持


 八坂寺(四十七番、松山市浄瑠璃町八坂)へは2キロ余り。昔は熊野三山の権現を勧請し、45メートルの細長い礼殿があったが、今は衰微し小さな社で妻帯山伏が住持すると記す。
 1キロ余り行って円満寺(廃寺か)という真言寺に泊まったとある。円満寺を探った。同市道後湯月町に浄土宗の円満寺が現存する。しかし八坂寺から13キロ離れており宗派も違うことから、澄禅の記載とは別の寺と思われる。八坂寺から1キロ内外に円満寺という寺は現存しない。八坂寺はかつては48坊の塔柱・末寺寺院を有する大寺だった。円満寺が塔柱の一つであった可能性が強いが、現在確認できる史料は八坂寺にも残っていないという。同市窪野町には円福寺という真言宗の寺があるが、2キロほど打ち戻ることになるので、西林寺(四十八番、同市高井町)への途中に廃寺となった別の寺があったと考えるのが妥当であろう。


   農家が僧侶養う


 24日、寺から2.7キロ行き西林寺へ。さらに2.7キロ行き浄土寺(四十九番、同市鷹子町)へ。
 浄土寺の近くの八幡(日尾八幡神社、同市南久米町)の別当を如来院(同所に薬師堂のみ現存)というとの記述がある。近くの久米村(同市南久米町あたり)の武知仁兵衛宅に泊まる。百姓家の上に立派な書院があり、奥に持仏堂を構え阿弥陀如来・大師御影・両親の位牌など安置。200メートルほど離れた親の墓所の近くに寺を建て、松山の三木寺(御幸寺、同市御幸)の弟子甚養房という僧に住持させていると記す。富裕層の農家がが旦那となって僧侶を養っている様子がわかり興味深い。
 25日、宿を出て、畑寺(同市畑寺町)の繁多寺(五十番)へ2.7キロ。繁多寺は昔は律寺で66坊あったといい、大門跡より仁王門まで300メートルほどもあった大伽藍だったが、澄禅が参拝した当時は本堂、仁王門、塔とも朽ちていると記す。
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 筆者の文献研究と現地調査結果を元に澄禅の遍路ルートを推測しました。もし異なるルート等のご指摘がいただけるなら有り難く承ります。史料の出自、在り処等がわかればお教え頂きたいです。各位のご意見、ご指摘をお待ちしております。なお、この内容は月刊紙「へんろ」に毎月連載しております。(柴谷宗叔)


「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会
e-mail:henrogoya@arrow.ocn.ne.jp







      ↑岩屋寺奥の院の迫割禅定。細い岩の隙間を鎖を伝って登る




↑岩屋寺本堂脇の梯子を登った所に法華仙人堂があった




↑日尾八幡別当如来院址に残る薬師堂


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