<呉石高原の尾根道たどる 伊予・阿波の国境沿いに>
10月7日、三角寺(六十五番、四国中央市金田町三角寺甲)から奥院(仙龍寺、別格十三番、同市新宮町馬立)へ、大山(法皇山脈)を越えて5キロ余り行く。堂の前を通って坂を登る。
辺路修行者の中でも奥院に参詣するのは稀というが、誠に人の通れる道ではない。ただ所々に草を結んでいるのを道しるべにして山坂をたどり上る。峠(堀切峠)から、また深谷の底へつるべ落としの急坂、小石交じりの赤土。鳥ですら通うのが困難な岩石の間から枯木が生えているのは絶景である。木の枝伝いに下ること2キロ余りで谷底に至る。
石の上に立つ奥院
奥院は渓谷の水際の石の上に建つ2間4面の御影堂。大師が18歳の時に山を踏み分けて、自像を彫刻して安置したという。北の岩の洞に鎮守権現の祠。堂の内陣に御所持の鈴・硯が有り宝物である。庫裏も岩の上に懸け作ると記している。現在も本堂本坊ともに谷の上に懸崖造の建物である。奥院で泊まった。
8日、奥院を発って、件の坂を山の中腹から東に向かって恐ろしい山の崖を伝って行く。所々霜が消えて足の踏みどころもいない細道を20余町行って少し平な野中に出る。これが阿波(徳島県)と伊与(愛媛県)との境である(境目峠、集落は徳島県三好市池田町佐野境目)。
ここから下って谷川(馬路川)がある。この川は阿波の猪ノ津(徳島市)まで80キロ流れている(吉野川)。川舟が自由に上下している。この佐野ノ里(三好市池田町佐野)に関所がある。北の山際に辺路屋(青色寺、同市池田町佐野初作)があった。
三角寺の坂の3倍
ここから雲辺寺(六十六番、同市池田町白地)の坂にかかる。5キロというが三角寺の坂を三倍したような大坂がある。登りきって山上(雲辺寺山)に出て見れば、まさに雲の辺で浮雲は皆山より下にある。寒風激しく閼伽も手水も皆凍っている。この嶽より見れば四国中は目前である。まず伊与の道前、讃岐一国、阿波の北分、土佐の山分、一目に見える。雲辺寺に泊まった。
三角寺からも奥院からも5里(20キロ)であるという行程からいって、堀切峠(県道五号の旧道の旧川之江市と旧新宮村の境)から北へ四国中央市金田町半田平山に下り三角寺からの道と合流して椿堂(同市川滝町下山)を経由する現在の遍路道ではなく、堀切峠から東進し呉石高原(同市新宮町上山呉石)を経由して愛媛・徳島県境沿いに境目峠に至る尾根道をたどったと思われる。
寒風吹く雲辺寺山
調査の結果、堀切峠から境目峠の尾根道があることを確認した。澄禅当時の道とは異なるかもしれないが、尾根道は現存する。実際踏破することができた。水が峯で土佐往還(現在の高知自動車道の近くを通る高知から旧川之江に至る参勤交代路)と交わる近世の主要道である。奥院道は澄禅の時代も行く人少なく、日記の記載のように山の崖を伝い行く厳しい道であったのだろう。
現在は境目峠から雲辺寺に県境沿いの尾根道をたどるが、澄禅は佐野に降りている。阿波の番所跡は駅路寺であった青色寺境内隣接地にある。佐野から現在は俗に遍路ころがしと呼ばれる急坂を上がる。雲辺寺山の尾根道は標高900メートル近く寒風吹きすさぶのは現在も同じである。現在も雲辺寺の展望台からは、讃岐平野を一望でき、東予の平野部と石鎚山系が目前にあり、阿波の北東部の山系、さらにその奥に土佐の山々が望める。
◇
筆者の文献研究と現地調査結果を元に澄禅の遍路ルートを推測しました。もし異なるルート等のご指摘がいただけるなら有り難く承ります。史料の出自、在り処等がわかればお教え頂きたいです。各位のご意見、ご指摘をお待ちしております。なお、この内容は月刊紙「へんろ」に毎月連載しております。(柴谷宗叔)
「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会
e-mail:henrogoya@arrow.ocn.ne.jp