澄禅の足跡たどる――江戸前期の遍路道再現(19)



                        遍路研究家  柴谷宗叔



<弥谷寺の磨崖仏を詳述 梵字の筆法にまで触れ>



 10月9日、雲辺寺(六十六番、徳島県三好市池田町白地)山を出て北の尾崎を下る。ここから讃岐(香川県)である。この山坂5キロほどの間は深山で草木生茂って笠も荷俵も破れるようなところだったが、この年(承応2年=1653)の夏に土佐・神峯の麓(高知県安田町)出身の在家の遍路がこの道の有様を見て修行者の勤労奉仕と言って、雲辺寺に数日逗留して道の左右を1メートルほど独りで切り開いたので、今は自由に通れる。


   最高の景色


 麓(香川県観音寺市粟井町)から野中を12キロ行き小松尾寺(六十七番大興寺、三豊市山本町小松尾)へ。
 西へ8キロ野を行って観音寺(六十九番、観音寺市八幡町)へ。庫裏は神恵寺で6坊あり。200メートルほどの坂を上って瑟引八幡宮(琴弾八幡宮、同市八幡町)へ。現在の神恵院(六十八番)は観音寺境内。八幡宮は観音寺の西200メートル。澄禅は宮のある山上からの景色を、四国中に佳景は多いが当山は最高だと絶賛している。
 東北に4キロ行って、本山寺(七十番、三豊市豊中町本山甲)で泊まった。
 10日、寺を発って北へ12キロ行き、弥谷の麓の辺路屋(八丁目大師堂、同市三野町大見)に泊まる。


   岩組みの谷間


 11日、弥谷寺(七十一番、同市三野町大見乙)へ。まず坂口に仁王門、ここから少し高い石面に仏像や五輪塔を数多く彫り付けてある。自然石に階段を切り付けて寺庭に上る。庫裏は南向、持佛堂は西向に(現在の本坊と大師堂にあたる)巌の端に広さ4・5メートル、奥へは3メートル、高さは人の頭の当たらぬ程に切り込んである(現在の獅子の岩屋)。庭より1段上って鐘楼、また1段上って護摩堂がある。少し南へ行って水向。石の面に刷毛書き様の阿宇を彫り付け、周りは円形。1段上って石面に阿弥陀三尊、脇に六字名号を3行に6つ刻む。また1段上って本堂、岩屋の口に片軒を指し降ろして建っている。
 山中の石面は全て仏像を切り付けている。札を納め読経念誦し、護摩堂へ戻り、北へ行って北峯(天霧山)に上る。峠より真下に岩組みの谷間を下る〈実際岩場の急坂である〉。谷底より小さい山(小高い丘のある白方小学校=多度津町奥白方=のあたりか)を越えて白方屏風力浦(屏風浦=同町西白方)に出る。


   海岸寺目指して下る


 弥谷寺には現在も仏像や梵字、名号を彫った摩崖仏が数多く現存する。澄禅は当時の摩崖仏の様子を詳しく記している。梵字の筆法にまで触れているのはさすがである。澄禅は本堂から仁王門に下りて曼荼羅寺(七十二番、善通寺市吉原町)を目指す遍路道を選ばず、護摩堂から分岐する天霧山への山道をたどり白方の海岸寺付近に下りる道を行っている。
 白砂に松原の浦の中に御影堂がある。寺は海岸寺(別格十八番、多度津町西白方)という。門の外に産ノ宮という石の社があり、洲崎に産湯を引いた盥(たらい)という、外は方形で内は円形の石の盥がある。波打ち際に幼少のころ遊んだという所がある。寺の向いに小山が有り一切経七千余巻を納めた経塚である。澄禅の記した盥は海岸寺に現存する。
 500メートルほど行って藤新大夫の住んでいた三角屋敷がある(八幡山仏母院、多度津町西白方)。大師御誕生所で御影堂がある。堂は但馬国銀山(兵庫県朝来市生野町口銀谷)の米屋源斎という人が再興した。北西に500メートルほど行って八幡ノ社(熊手八幡宮、多度津町西白方)がある。ここの寺で泊まる。


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 筆者の文献研究と現地調査結果を元に澄禅の遍路ルートを推測しました。もし異なるルート等のご指摘がいただけるなら有り難く承ります。史料の出自、在り処等がわかればお教え頂きたいです。各位のご意見、ご指摘をお待ちしております。なお、この内容は月刊紙「へんろ」に毎月連載しております。(柴谷宗叔)


「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会
e-mail:henrogoya@arrow.ocn.ne.jp







      弥谷の麓の辺路屋かと思われる八丁目大師堂↑




弥谷寺境内の梵字の阿字を彫り付けた場所↑




澄禅が三角寺と記した仏母院↑


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