澄禅の足跡たどる――江戸前期の遍路道再現(2)



                        遍路研究家  柴谷宗叔



<十一番藤井寺から十二番焼山寺を経て、十八番恩山寺へ>



 前回は澄禅が十三番大日寺の旧札所一宮神社から地蔵峠を越えるところまでを記した。その後、徳島県石井町に下りて4キロほど行って、サンチ村(吉野川市鴨島町山路)の民家に1泊した。石井から伊予街道(国道192号とほぼ並行)に出て下浦(石井町浦庄下浦)から南側に並行して分岐する森山街道を行って山路に出たと思われる。山路の地名は石井町にもあるが、一里(約4キロ)という距離の記載からいって鴨島町が適当と考える。
 遍路2日目の26日は、藤井寺(十一番、吉野川市鴨島町飯尾)へ。景色はいいが、仁王門、寺楼、本堂の跡のみ残り、草堂のみという状態だった。多くの仏像が堂の隅に置かれ、再建に向け勧進していた様子が書かれている。
 ここから焼山寺(十二番、神山町下分地中)への約12キロの山道に掛かる。現在の遍路道とほぼ同じ道を行ったと考えられる。澄禅は「阿波無双の難所也」と記している。現在番外札所とされる長戸庵、柳水庵、一本杉庵の記載はない。一山越してまた上り坂、現在の柳水庵あたりで休憩したのだろうか。絶頂(一本杉庵のある峠あたりか)から向かいの山に焼山寺の姿が見えたとある。そこから谷底(神山町左右内釘貫)に下り、清浄潔斎なる谷河(左右内谷川=垢取川)で手水を使い、300メートル以上登って焼山寺へ。焼山寺では引導の僧の先達で奥の院に参拝している。毒蛇を封じた岩屋、山上の蔵王権現などは現在も残る聖地である。焼山寺では高野山の小田原行人衆らと同宿であった。
 27日に焼山寺を出て、恩山寺(十八番、小松島市田野)に向かう。一宮往復を避けたとの記述があることから、鮎喰川沿いに一宮付近に下ったのではなく、神山町鬼籠野から佐那河内村経由の道を辿ったものと思われる。現在の遍路道を神山町鍋岩まで下り、同町神領を経由して鬼籠野に至る道である。途中、左右内谷川、鮎喰川沿いに行く12キロほどの間に20―30度も川を渡ったとある。鬼籠野あたりの民家に泊まる。
 28日は、鬼籠野から山越えをするのだが、佐那河内村への道は、法印越と呼ばれた府能峠の道と、横峰越、根郷越など複数ある。これらをたどってみたが、いずれも通常の遍路道から外れているので道標等は発見できなかった。地元でよく使われていたというのは最短の法印越というので、おそらく澄禅も国道438号沿いのこの道を通ったのではないかと推測する。
 現在の国道はトンネルで越えているが、江戸時代にトンネルなどない。峠道はないかと探ったところ、鬼籠野から国道四38号を2キロほど行って南の神山町鬼籠野小原へ分岐する道がある。1キロ余りで佐那河内村との境、府能峠に出る。峠には薬師如来を祀る祠もあり、信仰の道であることが確認できた。
 峠から佐那河内村中心部へは谷底へ下る感じで降りていく。同村下高樋から県道18号、33号沿いに徳島市八多町大久保を経て、小松島市田野へ出る。勝浦川は現在の野上橋あたりを歩き渡ったか思われる。
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 筆者の文献研究と現地調査結果を元に澄禅の遍路ルートを推測しました。もし異なるルート等のご指摘がいただけるなら有り難く承ります。史料の出自、在り処等がわかればお教え頂きたいです。各位のご意見、ご指摘をお待ちしております。なお、この内容は月刊紙「へんろ」に毎月連載しております。(柴谷宗叔)


「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会
e-mail:henrogoya@arrow.ocn.ne.jp







↑絶頂と記された一本杉庵に立つ弘法大師像(澄禅の時代にはなかった)




↑清浄潔斎なる谷川と記された左右内谷川の清流




↑神山町と佐那河内村の境にある府能峠の祠


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