澄禅の足跡たどる――江戸前期の遍路道再現(22)



                        遍路研究家  柴谷宗叔



<干潮の汀6キロ、屋島寺へ 源氏の陣場、遺跡記す>



 10月19日、寺町(高松市番町)の實相坊(実相寺)を発って東の浜に出る。実相寺は現在は同市三谷町に移転しているが、澄禅が遍路した承応2年(1653)当時は三番丁にあった。その後、天神前、桜町を経て現在地に至る。番町の元あった地に現在は東福寺が建っている。
 高松城(同市玉藻町)の東側の浜から、干潮だったので汀を直に行って屋島寺(八十四番、同市屋島東町)の麓へ。松原の坂を上って山上へ。屋島寺へは干潮時は汀を行って6キロほどだが、満潮時は南の野へ回るので12キロになるとある。


   屏風のような坂


 屋島寺から、東に行って屏風を立てたような坂がある。ここから下は平家の城郭。500メートルほど下って壇ノ浦(現存、現在海はかなり埋め立てられている)に至る。安徳天皇内裏の旧跡がある(安徳天皇社、同市屋島東町)。内裏の傍に佐藤次信(継信)の石塔(現存)。
 八栗へは海面700メートルほど。浦伝いに南に行けば相引という所に至るとある。相引川沿いにあった浜で、屋島が地続きになった現在は埋め立てられて住宅地になっている。同市屋島東町・屋島中町・屋島西町・高松町あたり。屋島を中にして両側から潮が一度にさし引く時も一度に引くので相引という。源平合戦の時分までは干潮時も人馬が歩き渡れなかったが、澄禅の時代は浅くなったので干潮時は白砂の上を歩行できるとあり、これを渡ってムレ高松(同市高松町)に至る。
 この浜は源氏の陣場で、澄禅は惣門跡、射落、駒立石(いずれも現存、同市牟礼町牟礼)などの遺跡について記している。


   鎖場伝いの行場


 浜から二十余町上って八栗寺(八十五番、同市牟礼町牟礼落合)に至る。五鈷山(五剣山)頂上は磐石の五鈷形へ上る恐ろしい所であるとある。上には当山権現・天照太神・愛岩権現・弁財天女の社壇があり、これを拝んでまた本堂の前に下る。八栗寺に泊まった。
 伽藍は八栗山の中腹標高230メートルのところにある。本尊は千手観音であるが、歓喜天を祀っている事から聖天信仰の寺として有名。頂上は奥院とされ、最高地点は366メートル、現在は澄禅の記載のほかに不動明王なども祀る。伽藍から上には鎖場伝いの行場があり、実際恐ろしいと感ずる所である。五岳縦走すると3時間以上かかる。宝永3年(1706)の地震で一峰が崩れ四峰しかない。危険なので寺では現在入山禁止にしている。
 

   再建された六万寺


 20日は雨で逗留。
 澄禅は、南東に2キロほど行ったところにある六万寺址のことを、八栗寺住職の話として書いている。六万寺は同市牟礼町田井に現存するが、天正11年(1583)に焼失、延宝7年(1678)の再建なので、澄禅当時は址だけだったということが日記の記述から確認できる。
 21日、八栗寺を発ち、細道を行って高松より東へ通じる大道(東讃浜街道)に出て浜を行って志度ノ浦(志度浦、さぬき市志度)に出る。志度寺(八十六番、同市志度)まで5キロ余。


                 ◇
 筆者の文献研究と現地調査結果を元に澄禅の遍路ルートを推測しました。もし異なるルート等のご指摘がいただけるなら有り難く承ります。史料の出自、在り処等がわかればお教え頂きたいです。各位のご意見、ご指摘をお待ちしております。なお、この内容は月刊紙「へんろ」に毎月連載しております。(柴谷宗叔)


「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会
e-mail:henrogoya@arrow.ocn.ne.jp







      ↑かつては番町にあった実相寺(高松市三谷町)




↑相引浜は細い川となって名残をとどめる




↑現在は再建されている六万寺。澄禅当時は址だけだった


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