澄禅の足跡たどる――江戸前期の遍路道再現(3)



                        遍路研究家  柴谷宗叔



<今はなき太龍窟で読経 七堂伽藍、日記に初登場>



 7月28日に、恩山寺(十八番、小松島市田野)に到着。御影堂(大師堂)の傍に大師の母(玉依御前)の五輪石塔があった。寺から南東100メートルほど行ったところにある民家に泊まった。ここからは順打ちで、現在の徒歩遍路道にほぼ沿ったコースを行ったと推測される。
 29日、南東4キロにある立江の地蔵寺(十九番立江寺、同市立江)に参詣した。「坊主は無学無能だが利発で富貴第一で堂寺を再興した」とあるから、住職はかなりのやり手であったことがうかがえる。海から12キロほど入りこんだ入江の記述があるが、現在立江川となっているあたりまで小松島湾が入り込んでいたのであろう。
 ここから阿波有数の難所である山岳霊場2か寺に向かう。まず西へ向かい徇啝(二十番鶴林寺)の麓(勝浦町生名)に出る。山上へは2キロほどの登り。鶴林寺は寺領100石、寺家6坊、御影堂、鎮守社、鐘楼などの記述から寺観が整っていた様子が分かる。これまで澄禅の日記に記載された札所は荒廃している様子ばかりだったが、初めて七堂伽藍を備えた寺観が登場する。本尊地蔵菩薩像の胸の矢負い伝説も記されている。寺家の愛染院(廃寺)に泊まる。
 奥院(慈眼寺、上勝町正木)の記述もある。滝(灌頂瀧)のことは書いているが、穴禅定には触れていない。鶴林寺から8キロ。恩山寺近くから歩いている澄禅の行程からして同日の奥院参拝はほぼ不可能である。行っていないとすれば、おそらく鶴林寺で聞いた話を書き留めただけではないかと思われる。
 30日、鶴林寺から下って那賀川を渡る。現在の水井橋近くと思われる。渡し舟がなく通りがかりの舟に乗せてもらったとある。細い谷川(若杉谷川)沿いに行き500メートルほどの大きな坂を登った。
 太龍寺(二十一番、阿南市加茂町竜山)は、宝塔、御影堂、求聞持堂、鐘楼、鎮守のある大伽藍であった。景色の良い「天下無双の霊地」と書いている。現在も山上からの眺めは東は海を隔てて紀伊半島が見え、北は鶴林寺山が眺望できる。奥院のある山頂からは南の剣山山系も見える絶景の場所である。この日は寺に泊まった。
 8月1日、引導僧を雇い同行衆8人と奥院身捨山(南舎心)へ行った。引導僧は現在でいう先達の役目を果たしたのだろう。弘法大師が『三教指帰』に記した場所で、求聞持法を修したとされている聖地である。当時は巌の突き出た所に3メートル四方の不動堂があったという。現在は弘法大師の銅像があり、その足元で修行する行者もいる場所である。
 3キロほど下りった所に岩屋(太龍窟、現存せず)があった。太龍窟は鍾乳洞で、著名な番外札所であったが、昭和30年代にセメント会社の採石場となり破壊されてしまった。澄禅の日記には、苦労して中へ入っていく様子が記されている。不動明王の慈救呪を唱えながら入る。狭い洞窟の先は二つに分かれている。まず3―4メートルほどの広場で読経、南奥に高さ三十数センチの金銅不動像があった。下った所にさらに洞窟が二つあったという。現在は無くなってしまった番外札所の様子を知ることができる貴重な資料である。
 さらに下って平等寺(二十二番、同市新野町秋山)へつながる道に出るとある。太龍窟経由の遍路道は採石で山の形が変わってしまい、現在は通行不能である。
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 筆者の文献研究と現地調査結果を元に澄禅の遍路ルートを推測しました。もし異なるルート等のご指摘がいただけるなら有り難く承ります。史料の出自、在り処等がわかればお教え頂きたいです。各位のご意見、ご指摘をお待ちしております。なお、この内容は月刊紙「へんろ」に毎月連載しております。(柴谷宗叔)


「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会
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      ↑鶴林寺から太龍寺へ向かう遍路道。今も難所の一つである




↑弘法大師が求聞持法を修した南舎心にある弘法大師像




↑太龍窟跡と思われる採石場。元の洞窟は破壊されて全く痕跡がない


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