<日記に善楽寺の記載なし 国分川の水位高く立ち往生>
8月7日、室戸岬の観音窟(高知県室戸市室戸岬町)から山上へ八百数十メートル登って東寺(二十四番最御崎寺、室戸市室戸岬町坂本)に至る。寺領130石で堂塔伽藍が整っている様子が記されている。太守(高知藩二代藩主・山内忠義)が修造したとある。
女人堂の観音窟
8日、東寺から下る坂の途中に「魚肉工(香?)辛并女人禁制」の札があったとある。当時は女人禁制で、女性は山上の寺に上がれず、室戸岬の海岸べりを歩いた。女人堂の役割を果たしたのが麓の観音窟だった。津寺(二十五番津照寺、同市室津)まで4キロ。澄禅の日記では、庫裏は山下とあるが、現在も本堂が山上にあり本坊は山下にあるのは同じである。4キロほど行って西寺(二十六番金剛頂寺、同市元崎山)へ。坂を下って麓(同市元)の民家に泊。
9日、宿を出て田野(田野町)の大河(奈半利川)を渡し舟で渡り、田野新町(同町新町)から4キロ行って安田川を歩いて渡る。神峯の麓、タウノ濱(安田町唐浜)で一泊。神峯(神峯神社、現在の二十七番札所神峯寺は少し下った所にある、同町唐浜塩谷ヶ森)は麓の浜より4キロ上る。現在の神峯神社の本殿がかつての本堂にあたる観音堂で本尊十一面観音が祀られていた。現在の神峯寺は明治20年に山の中腹に新たに建てられたものである。「寺(庫裏)は麓にある」と記しているのは麓の養心庵(廃寺、同町唐浜薬師)を指すと思われる。養心庵は寂本『四国徧禮霊場記』に記されており、現在は大正時代に再建された薬師堂のみ残っている。
雨中暴れ川を渡る
10日、アキ(安芸市中心部)、新城(同市穴内新城)を経て砂浜を歩き赤野(同市赤野)の民屋に泊まる。
11日、小坂を越えて、テ井(香南市手結)へ。4キロほど松原を行って赤岡(同市赤岡町)に出る。さらに4キロほどで大日寺(二十八番、香南市母代寺)に至る。大日寺で宿泊を断わられ麓の菩提寺(母代寺=廃寺、同市母代寺)で泊。大日寺は、住職が隠居し弟子に寺を譲ったが女癖が悪いとの評判で自殺したので隠居が再住したとある。
12日、雨の中、暴れ川である言云川(物部川)を渡る。民家(香美市の旧土佐山田町)で雨宿り。国分寺の近所の眠リ川(国分川)も洪水を出す川で、水位が高く渡れないため立往生、近辺の田島寺(廃寺、跡に西島観音堂=西生寺、南国市廿枝西島)に泊まる。
札所の正当性争う
13日、寺から川下の橋を渡り国分寺(二十九番、南国市国分)へ。一宮(土佐神社、現在の三十番札所善楽寺は東隣、高知市一宮)まで4キロ。社僧に神宮寺、観音院の両寺とある。現在の土佐神社が元々の札所。明治維新の神仏分離で別当寺は廃寺となり本尊は国分寺に預けられた。明治9年、本尊を安楽寺(高知市洞ヶ島町)に遷座、三十番とした。昭和4年、埼玉県与野市(現さいたま市中央区)の東林院善楽寺を当地に移転、国分寺から大師像を迎え再興。以来、札所の正当性を巡って争いが絶えず、昭和39年に開創霊場善楽寺、本尊奉安安楽寺とし2か寺を札所と定めることで一時決着したが、遍路を惑わせるとして不評であった。平成6年、善楽寺を三十番とし、安楽寺を奥の院とすることで決着した。澄禅の日記には神宮寺、観音寺の名は出てくるが、善楽寺の記載はない。
澄禅は一宮を「一ツ宮」と言うと記している。現在は「いちのみや」と読まず「いっく」と読むのだが、江戸時代前期は「ひとつみや」と読んでいたのか。いずれにせよ一般的な読み方とは違う読みをするのは現在も同じである。
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筆者の文献研究と現地調査結果を元に澄禅の遍路ルートを推測しました。もし異なるルート等のご指摘がいただけるなら有り難く承ります。史料の出自、在り処等がわかればお教え頂きたいです。各位のご意見、ご指摘をお待ちしております。なお、この内容は月刊紙「へんろ」に毎月連載しております。(柴谷宗叔)
「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会
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