澄禅の足跡たどる――江戸前期の遍路道再現(8)



                        遍路研究家  柴谷宗叔



<難所避け船で入江行く 大河四万十を歩き渡る>



 8月26日、(土佐市仁居の宿所から)浦伝いに4キロほどで福島(同市宇佐町福島)に至る。井ノ尻瀧ノ渡を渡る。昭和48年に宇佐大橋が架かるまで存在した浦ノ内湾口にあった宇佐の渡しのことを指す。瀧は龍の誤りか。
 対岸の井ノ尻(同市宇佐町井尻)の宿に荷物を置き青龍寺へ3キロ弱。1.5キロほど上り同じだけ下るとある。現在主たる遍路道は海岸沿いに行くが、澄禅の通ったであろう山越えの遍路道が最近再現された。大師作という蓮池があると記す。池(蟹ヶ池、同市宇佐町竜)は現存するが蓮はない。清瀧寺より12キロ。


   青龍寺本堂が炎上


 青龍寺(三十六番、同市宇佐町竜)は庫裏を過ぎて仁王門、さらに石段を上って参る。本堂が炎上したのを太守(山内忠義、1592−1665)が修復した。弘法大師開山の折、中国の青龍寺に似ていたので青龍寺と名付けたという。獨鈷山伊遮那院、如意山光明法寺道場院、摩留山赤木寺龍宝院と多くの名があると記す。
 北東(実際は南東)に独鈷杵に似た独鈷嶽(現在の奥の院)があり、頂上に不動堂があったが焼失。本堂再興時に太守の命で不動石像を造り、3メートル四方の石堂を建てて安置した。堂の前からは室戸岬や足摺岬が一望できるとある。現在の奥の院は太平洋に臨む断崖絶壁上にあり、澄禅記載通りの眺望である。青龍寺に泊まった。
 27日は井ノ尻まで戻ったけれども、雨で先に進めず漁父の小屋に泊まった。
 28日、船で12キロの入江(浦ノ内湾)を行く。陸路も同じ距離だが難所なので青龍寺西ノ坊に船を仕立てもらったとある。浦ノ内湾の海路は須崎市営巡航船が現存する。奥津横波(須崎市浦ノ内東分横浪)で上陸、陸路2キロほどの大浦(同市浦ノ内西分大浦)の宿で朝食を摂る。澄禅の日記の記載にはないが、経路として鳥坂峠を越え須崎の街(須崎市中心部)に入ったと思われる。


   添蚯蚓を越える


 カトヤ(同市須崎角谷)で休憩し一瀬(新庄川)渡って、カトヤ坂(角谷坂)を越え谷底(同市安和)へ下って、土佐無双の大坂とされる焼坂(焼坂峠、須崎市と中土佐町の境)を越えた。河(久礼川)を渡って久礼(中土佐町久礼)の曹洞宗龍沢山常賢寺(廃寺)に泊まった。常賢寺は廃仏毀釈のあおりで明治四年に廃寺となり現存しないが、址には石碑があるのを発見した。
 29日、南西に向かい4キロほどある焼坂に劣らぬ坂(添蚯蚓=そえみみず、中土佐町と四万十町の境)を越える。常賢寺址は久礼の市街地から久礼川沿いに1キロほど入った添蚯蚓遍路道の入口に当たる所にある。従って澄禅は久礼坂でなく添蚯蚓を行ったと思われる。現在は久礼坂が国道56号となっているが、江戸時代は添蚯蚓が土佐往還と呼ばれる主街道であった。
 

   新田ノ五社目指す


 山の間の野(高原上)を行き、(次の札所である)新田ノ五社(仁井田五社=高岡神社、四万十町仕手原、現在の三十七番札所岩本寺の北東1.5キロ)を目指す。
 北側の山際の道は川(仁井田川)が荒れて渡りにくいという行人の教えに従い、左の大道(幡多道)を行って平節(平櫛=四万十町平串)の川を歩き渡る。五社の前にある大河(四万十川)は舟も橋も無い難所で歩き渡るとある。洪水時には何日も足止めとなると記している。現在は高岡神社の前に橋が架かっているが当時は記載のような難所であった。対岸には納札所の址もある。青龍寺から五社まで52キロである。


                 ◇
 筆者の文献研究と現地調査結果を元に澄禅の遍路ルートを推測しました。もし異なるルート等のご指摘がいただけるなら有り難く承ります。史料の出自、在り処等がわかればお教え頂きたいです。各位のご意見、ご指摘をお待ちしております。なお、この内容は月刊紙「へんろ」に毎月連載しております。(柴谷宗叔)


「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会
e-mail:henrogoya@arrow.ocn.ne.jp







      ↑宇佐の渡しのあった井尻の船着場から対岸の福島を望む。右の橋は宇佐大橋




↑独鈷嶽山頂近くの断崖絶壁上にある青龍寺奥の院




↑中土佐町久礼の田園の中に常賢寺址の石碑が立つ


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