澄禅の足跡たどる――江戸前期の遍路道再現(9)



                        遍路研究家  柴谷宗叔



<大坂越え、落石に苦労 月山打ち抜けを選択>



 8月29日、新田ノ五社(仁井田五社=現在の高岡神社、四万十町仕手原、現在の三十七番札所岩本寺=同町窪川=の北東1・5キロ)は南向に四社並び建ち、1社は小高い山上に建つと記す。現在も同様の配置となっている。かつて神仏習合時代の別当寺は福円満寺といい、址を示す木標がある。川(四万十川)が荒れた時の納札所跡が対岸に残っている。澄禅は、仁井田五社で納札し読経念誦して、川を渡って戻り窪川(四万十町窪川)で泊まった。山内伊賀守(山内一吉)1万石の城下であると記す。現在の三十七番札所岩本寺は窪川の町中にあるが、澄禅の日記には出てこない。
 30日、窪川を出、片坂(現行、四万十町と黒潮町の境)を越えた。坂の下より畑分(幡多郡)である。大谷川(伊与木川)を何度も渡り下り16キロほど行きイヨキ土井村(黒潮町伊与喜)の真言宗随生寺(随正寺=廃寺)に泊まった。


   満潮で内陸迂回


 9月1日、1里半ほどでサガ(黒潮町佐賀)へ、大坂上下1里半、有井川(現行)を渡る。大道(幡多道)より北10町ほどの小高い所に後醍醐天皇一ノ宮(尊良親王)遠流配所の籠御所跡に世話をした有井庄司の五輪石塔があると記す(現存)。坂を越え川口黒潮町上川口)、さらに坂を越え武知(黒潮町浮鞭鞭)の民家に泊まった。
 2日、鞭を出、中居入野(黒潮町入野)の浜は満潮で通れず野坂を越え田浦(黒潮町田野浦)に出る。入野松原の浜の遍路道は現在も満潮時は内陸部を迂回する。海辺を行って高島(四万十市竹島)に出る。高島ノ渡という大河(四万十川)に渡し舟無く、通りがかりの舟に頼んで渡るとある。現在の四万十大橋のあたりと推測される。平成17年までは3キロほど下流の同市下田と初崎を結ぶ渡船があった。


   旧トンネル上に道


 川上一里ほどに中村(四万十市の旧中村市中心部)という太守の次男修理太夫(山内忠直)の居城があると記す。川向いの真崎(同市間崎)の妙心寺流(臨済宗妙心寺派)の禅寺、見善寺(廃寺)に泊まる。
 3日、津倉淵(同市津蔵渕)を過ぎイツタ坂(伊豆田坂)という大坂越えるが、大雨大風で落石あり苦労するとある。現在の国道321号は新伊豆田トンネルを抜けるが、側道の旧伊豆田トンネルは閉鎖されて通れない。それ以前の峠越えの道を探したところ、旧トンネルの上に峠越えの道があることを確認できた。
   峠を下り一ノ瀬(土佐清水市下ノ加江市野瀬)に至る。足摺山(三十八番金剛福寺、同市足摺岬)へ28キロ。寺山(三十九番延光寺、宿毛市平田町中山)に行くのにヲツキ(月山神社、大月町月山)、ヲサ丶(篠山神社、愛媛県愛南町正木篠山)の番外札所があると記している。澄禅は番外のことを「横道ノ札所」という表現で本札所と区別している。


   市ノ瀬に荷置く


 初めての遍路は月山、重ねは篠山という伝もあるが、根拠ははっきりしない。ともあれ澄禅は月山経由を選択したのでその記述に従って筆を進める。
 現在も足摺から市ノ瀬打戻り三原村経由で行く道(50.8キロ)と、足摺から月山経由で宿毛に打ち抜けて行く道(73.5キロ)とがあり、距離の短い打戻りコースを取る人が多く途中の宿に荷物を預けるケースが多い。が、同じ道は面白くないと敢えて月山経由コースを取る遍路もいる。澄禅も元へ帰るのは無益と月山打ち抜けコースを取った。日記には月山道は海辺を通り難所多しとし、打戻りする人は一ノ瀬(市野瀬)に荷を置いて行くと記している。江戸時前期の遍路の行動の主流がわかる記述である。
 現在、市野瀬には真念(?―1691)が建てた番外札所真念庵があり、江戸時代には遍路宿をしていた。が、真念は澄禅より後の人であることから、澄禅の時代既に市野瀬に荷を置く風習があったとの記述は興味深い。

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 筆者の文献研究と現地調査結果を元に澄禅の遍路ルートを推測しました。もし異なるルート等のご指摘がいただけるなら有り難く承ります。史料の出自、在り処等がわかればお教え頂きたいです。各位のご意見、ご指摘をお待ちしております。なお、この内容は月刊紙「へんろ」に毎月連載しております。(柴谷宗叔)


「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会
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      ↑元の三十七番札所であった高岡神社。福円満寺と書かれた木標がある




↑黒潮町有井川にある旧御所址の有井庄司の石塔を祀る場所




↑竹島の渡しがあったと思われる辺りに架かる四万十大橋





↑新旧伊豆田トンネルの上に見つけた伊豆田峠の峠道


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