こころ遍路



梶川伸・毎日新聞編集委員(現・「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会副会長)

(「こころ遍路」は毎日新聞大阪本社版夕刊1面に、2005年10月11日から11月5日まで20回連載)



◇◆◇こころ遍路 仝討戮姫えぬ娘と二人(2005年10月11日、毎日新聞夕刊)◇◆◇

 四国八十八カ所は空海(弘法大師)の修行の跡とされる。二十七番神峯寺(こうのみねじ)は、高知県安田町の標高450辰了拡に建つ。カラカラに乾いた四国だったが、8月20日は時折、強い雨となった。
 舗装された自動車道は、うねうねと曲がって寺へ通じる。昔ながらの遍路道は直線的な地道で、舗装道を串刺しにする。
 27人がぬかるんだ道を降りて行った。足が滑る。「だれか雨女がおるん違うん」と冗談が出る。毎日新聞旅行「ウオーキング・ザ・空海」のにぎやかな一行だった。趣きのある遍路道を歩き、残りはバスで移動する、むしのいい遍路である。
 知らない者同士が月に1回このツアーに集まり、一泊二日で順番通りに札所(霊場)を回った。その順打ちに飽き足らず、八十八番から一番に戻る逆打ちの最中だった。  気楽な旅人である。ただ、買い物や温泉ツアーではなく、四国を選んだ。心の奥底に、何か重しを沈めている人もいるからだろう。
 その夜は、室戸市の二十六番金剛頂寺の宿坊に泊まった。全員での夕食の後、2人の女性がご詠歌を唱え始めた。左手で鈴を鳴らし、右手の撞木(しゅもく)で鉦(かね)を打ちながら。
 「その名を呼べばこたえてし 笑顔の声はありありと 今なお耳にあるものを おもいは胸にせき上げて……」(追弔御和讃)
 聞き入った細見善子さん(56)=兵庫県丹波市=の目に涙があふれた。この仲間に初めて加わった日を思い出していた。
 03年6月20日のことだ。順打ちの途中からの参加で、バスの中ではずっと目を閉じていた。誰とも話さなかった。話したくなかった。
 遍路道では、涙が止まらなかった。自分と同じ年かっこうの母と娘の二人連れがいた。後姿を見て、つらかった。「あの人は娘と歩いている。自分は写真と歩いている」
 幸い、きつい山道だったので、みんな自分の体を運ぶのに懸命で、涙に気づかなかった。寺で般若心経(はんにゃしんぎょう)をあげる時も。
 初参加の夜も金剛頂寺の宿坊だった。部屋は女性同士、大人数の語らいの場になった。寝る直前、思い切って小さなケースから写真を取り出して、口を開いた。
 「亡くなった娘です。見てもらえませんか」。右手の人差し指をほおに当てて、笑っていた。





      ↑遍路の間の談笑(連載記事の写真とは別です)






◇◆◇こころ遍路◆。横戯伉樵阿忙兇辰寝屐複横娃娃鞠10月12日、毎日新聞夕刊)◇◆◇

 四国霊場二十六番金剛頂寺(高知県室戸市)の宿坊で、細見善子さん(56)が見せた写真の笑顔は、長女千怜(ちさと)さんだった。01年11月8日、兵庫県丹波市の踏切を車で渡る際、JR特急と衝突して亡くなった。24歳だった。
 細見さんは県立氷上養護学校の教師だった。学習発表会を控え、遅くまで学校に残る日が続いていたが、その日は早めに仕事を切り上げ、午後6時前には家に着いた。
 千怜さんは歯科医院に勤めていた。午後は休みの日で、友人に会いに出かけ、姿はなかった。
 午後6時半を過ぎ、あたりは暗くなった。気がかりになり始めた時、電話が鳴った。「千怜だ」と思った。しかし、電話の主は、兵庫県警柏原(かいばら)署員だった。事故を知らされた。
 指示に従い、夫と車で署に向かった。自宅から200知イ譴親Ю擇法特急が止まっているのが見えた。救急車がサイレンを鳴らしていた。窓を閉め切っていて、家の中ではその音に気づかなかった。千怜さんの車は列車の下に巻き込まれ、引き出すのに長時間かかったことを、後で知る。
 夜遅く、遺体が署に着いた。「本人かどうか確認してほしい」。千怜さんだった。頭に巻かれた包帯が、衝撃の強さを隠していた。現場に行かせなかったのは、署の計らいではなかったかと思っている。「指の長い子で、その指はかすり傷程度だった」。それが、せめてもの救いだった。
 細見さんは小さなケースを持ち歩いている。中に入れているものを、「千怜グッズ」と呼んで。
 金剛頂寺で取り出した写真もそうで、ほおに当てた指が印象的だ。署から返された指輪も入っている。小さな猫のぬいぐるみは、岡山県倉敷市に旅行をした折、土産に買ってきてくれたものだ。
 亡くなって4年近くになる。仏間には千怜さんの写真が25枚も飾ってある。写真に囲まれていると、記憶がよみがえる。
 細見さんは25歳で結婚した。事故の前、そんな話をしたことがあった。千怜さんは言った。「30歳まで結婚せえへんよ。25歳になるのいややわ」
 事故は25歳の誕生日の6日前だった。「ほんま25歳になれへんかった」





      ↑遍路道を歩く(連載記事の写真とは別です)





◇◆◇こころ遍路 「何もかも自分への罰」(2005年10月13日、毎日新聞夕刊)◇◆◇

 「ばちが当たったんだと思う。こんなに厳しい」。長女千怜(ちさと)さんを踏切事故で亡くした細見善子さん(56)は、何もかもが自分の責任のように考えるようになってしまった。
 勤めていた兵庫県立養護学校へは、行く気力さえなくした。障害児教育に携わり、仕事はいくらでもあって、楽しいと感じてはいたが、その反面、「たくさんのものを犠牲にした。家族も」と、つい考えてしまう。
 「千怜は自分のことより、他人のことを優先させる子で、だれにでも好かれた」と言う。ある夜、教え子から連絡があった。千怜さんが役場の野良猫を入れたおりの前から動かない、と。
 翌日、その猫は処分されることになっていた。千怜さんは飼ってくれる人を探し歩いたが、見つからなかった。牛乳を買ってきて、猫が飲むのを、ずっと見ていた。猫にとっては、最後の食事になったのかもしれない。
 そんな優しい子をほっといて、仕事や自分のことばかり考えていた。そのことが事故と結びつくわけはないのだが、「自分が生きていることが許せない」とまで思いつめた。一日、何もせずに過ごす日が続いた。
 区切りのいい02年3月で教師をやめた。それからは、毎日欠かさず墓に参った。自宅から歩いて20分ほどの山すそに墓はある。花は絶やさなかった。花が枯れるとつらいので、行くと必ず水を替えた。日記帳には、墓参りの欄を作り、参った日には○を書き込んだ。○が途切れることはなかった。
 千怜さんが可愛がっていたハスキー犬の「らんまる」を、いつも連れて行った。千怜さんの身代わりでもあったのだろう。ある時、らんまるが道に飛び出し、車にはねられたが、奇跡的に助かった。「千怜が助けてくれたんや。自分は助からなかったのに」。すべての事が、千怜さんに結び付いた。
 この時期、細見さんは瀬戸内寂聴さんの本を何冊か読んだ。それ以外の本は読めなかったと言った方が正確かも知れない。本の中に、娘を亡くした母親が登場していた。「四国八十八カ所に行けば、娘に会えるよ」。そんな風に書かれた文章に目が止まった。




      ↑灯明をあげて(連載記事の写真とは別です)







◇◆◇こころ遍路ぁ‐發鬚弔い討瓦蕕鵝複横娃娃鞠10月14日、毎日新聞夕刊)◇◆◇

 02年の初盆になっても、細見善子さん(56)の生活は変わらなかった。長女千怜(ちさと)さんの墓参りは続いた。
 そんな細見さんを見かねたのだろう、法要を頼んだ住職が言った。「そろそろ区切りをつけたらどうですか。千怜さんも安心できないでしょう」
 善意からの言葉とは分かっていたが、心に突き刺さった。「生きている間、何もしてやれなかっただけでなく、今も千怜の足を引っ張ってるんだろうか」。そのことを聞いてみたくて、京都・嵯峨野(さがの)の寂庵に、瀬戸内寂聴さんを訪ねた。
 「悲しいわよね。お墓に参らなくてはいられない気持ち、これだけは治す薬はないの。泣きたいだけ泣きなさい。それで娘さんが成仏できないことはない。ただ、お墓には燃えかすが入っているだけよ。霊はあなたのそばにいるの」。そう言ったうえで、瀬戸内さんは四国へ行くことを勧めた。
 なぜ、四国八十八カ所なのか。私も寂庵を訪ねてみた。細見さんが読んだ本に書かれた女性を例に挙げて、瀬戸内さんは話し出した。
 ――娘を亡くし、毎日泣きわめいて、手のつけられない女性がいたので、遍路に行くことを勧めた。私と一緒なら、と頼むので少し付き合った。
 三つ目くらいの寺で、「鐘をついてごらん」と言った。いい音がした。人を見たら泣き、笑ったことのない人がニコッとした。「も1度ついてごらん」。気持ちよさそううな顔をした。淡々とした気持ちになり、後は夫婦だけで回った。満願すると穏やかな顔になっていた。
 札所から札所に行って拝むだけ。どうってことない。でも、落ち着く。旅ではあるが、単なる観光旅行とは違う。お遍路は行。人間が喜びを持つのは、快楽だけではない。行であっても、喜びはある。四国八十八カ所を回ったからといって、何もくれない。しかし、その無償がいい。
 身近な人の死についても聞いてみた。
 ――死んでむなしいと思う。しかし、魂は残された人を心配して、愛する人の所に来てるんですよ。「セミが鳴いているねえ」と、生きている時と同じように話しかければいい。「うんうん」と言ってくれますよ。




      ↑木に包まれた寺の石段を降りていく(連載記事の写真とは別です)





◇◆◇こころ遍路ァ,△┐杖つきヨロヨロと(2005年10月15日、毎日新聞夕刊)◇◆◇

 瀬戸内寂聴さんに促されて、細見善子さん(56)は四国八十八カ所に出かける決心をした。「ウオーキング・ザ・空海」の仲間に入ったのは、長女千怜(ちさと)さんの不慮の死から1年半あまりたっていた。
 最初の夜、千怜さんの写真を宿坊で同室のメンバーに披露した。流れ落ちる涙を見て、小林幸子さん(59)=大阪市淀川区=が「泣きたいだけ泣けばいいじゃない」と言い、自分自身のことも語った。
 1971年、フランスで車がパンクし、道路下の畑に落ちた。「3回目のバウンドまでは覚えている」。首の骨を折り、ヘリコプターで大学病院に運ばれた。奇跡的に一命を取りとめたが、いまだに左足がしびれる。
 細見さんが心の傷なら、小林さんは体の傷だろう。子宮筋腫、乳がん、胆石。手術を数えると7回もある。「体中にメスが入っている」が口癖になった。
 97年冬、寝返りも打てないほど、体中の関節が痛んだ。膠原病(こうげんびょう)と診断された。「針で突いたら、パンとはじけそうなくらい顔がはれた」。鏡を見て悲しかった。「この顔が一生続くのか」
 すぐにあきらめがついた。フランスの事故の後は、おまけの人生と思っているからだ。
 医師の薬の調合がうまくいき、膠原病の痛みはおさまっている。ただ、きつい遍路道はつらい。
 十二番焼山寺(しょうさんじ)(徳島県神山町)は標高800辰砲△襦山すそにある十一番藤井寺(吉野川市)からの13舛瞭擦蓮◆嵎從転がし」の異名をとる難所だ。2回目のツアーのハイライトだった。
 小林さんはグループの最後尾であえいだ。両手で金剛杖を握り締め、少し先に地面については、手の力で体を引き上げた。男性2人が励ました。「一歩出せば、一歩進んでいるんだから」
 「私が歩いているんじゃない。歩かせてもらっている」。6時間半かかって登り切ると、待っていた仲間が拍手で迎えた。
 ヨロヨロの姿を、みんなが見た。そのことが、夜の部屋で身の上を語り合うきっかけになったのではないか。細見さんが仲間入りした4回目のツアーのころには、胸の内をさらけ出してもいいような雰囲気ができていた。






      ↑雪の六十六雲辺寺(連載記事の写真とは別です)





◇◆◇こころ遍路Α,修譴任發泙拭∋郵颪悄複横娃娃鞠10月18日、毎日新聞夕刊)◇◆◇

 「一に焼き山、二にお鶴、三に太龍(たいりゅう)。阿波(徳島県)の遍路道について、語り継がれている言葉だ。十二番焼山寺(神山町)、二十番鶴林寺(勝浦町)、二十一番太龍寺(阿南市)と、山道の厳しい順に並べている。
 「ウオーキング・ザ・空海」の一行は9月11日、標高600辰梁昔胸から歩いて谷に下り、標高550辰猟疥啝に登った。赤いミズヒキソウや薄紫の野菊が目に優しいが、道はきつかった。
 小林幸子さん(59)は、左足をひきずった。わずか15造涼覆なかなか上がれない。ほかの人は左右の足で交互に段を踏んでいく。小林さんは右足を上の段に乗せ、金剛杖の力を借りて、左足を同じ段に引き上げる。それを繰り返す。だから、どんどん遅れていく。膠原病(こうげんびょう)が少し進行しているのかもしれない。
 心配した渡辺栄枝さん(67)=大阪府池田市=が寄り添い、たまりかねて、「何でそこまでして頑張るの」と聞いた。「半分、趣味みたいなものよ」と返ってきた。
 小林さんにとっては7巡目の遍路である。1991年に父が亡くなった。その供養も兼ねて92年に、ジャンボタクシーを利用したツアーで回ったのが最初だった。慣れない旅で、食事がのどを通らなかった。ところが、結願したとたん、また四国に行きたくなった。
95年の春からは10回に分け、1人で歩いた。距離は約1400繊60日ほどかかった。「足が疲れてしゃがむことすらできないこともあった。あわれな格好だったんでしょう、何台もの車が止まって、乗せてくれようとした」。それも断って、歩きにこだわった。
 歩いていると、お金や食べ物をもらうことがある。「お接待」と言う。「歩き遍路は弘法大師」との考え方が四国にはあるからだ。
 小林さんも数え切れないお接待を受けた。お金は合わせると1万円を超える。スーパーのレジで、小林さんの買い物分も払ってくれた人もいた。道路の反対側から声をかけられ、食べきれないほどの天ぷらをもらい、遍路宿で一緒になった人と食べたこともあった。そんな触れ合いが、また四国に呼び寄せる。






      ↑八十八番大窪寺への遍路道(連載記事の写真とは別です)





◇◆◇こころ遍路А_やんで悔やんで(2005年10月19日、毎日新聞夕刊)◇◆◇

 茶色に黒い木目の大きめの玉が連なっている。一目で男物と分かる数珠を手に、中村和子さん(63)=大阪府四條畷市=は巡拝を続けている。
 数珠の本来の持ち主は、夫俊雄さんだった。00年7月31日に亡くなった。67歳だった。お骨はいまだに墓に納められない。仏壇に置いている。
 俊雄さんは不整脈が出た。一緒に病院に行くと、肺がんが見つかった。「初期ですよね」と念を押した。「いいえ、違います」。かなり進んでいることを察知したが、聞けなかった。「あと半年」と宣告されたのは、それから半年後だった。
 入院中に中村さんが書きつづったノートが残っている。
 <7月28日。今日の夜から強い睡眠剤を使用する。その場合、対話をすることは不可能になり、数日で眠りのうちに死に至ることになる。>
 中村さんは、医師の説明を受け、薬の投与に同意した。「夫の死を、自分で決めたんです」
 <29日。「和子」と叫び出す。>
 <30日。一晩中眠り続ける。>
 <31日。2時26分没。(大きな字で書かれている)>
 「亡くなって初めて、身勝手だったことを思い知らされた」と悔やむ。中村さんは会社務めだった。忙しく、帰宅時刻は不規則だった。俊雄さんは自営業。「夫はすべて私の都合に合わせてくれた。老後は一緒に過ごそう、と言ってはいたが、生きている間は自分優先、仕事優先だった。人間って永遠じゃないのに」
 夫のために何もしなかった、との思いにさいなまれる。「自分が生きていることが申し訳ない」と責めるのは、長女を亡くした細見善子さん(56)と同じだ。思いを共有して二人は、明け方近くまで話したことがある。
 「いずれ年をとったら、お遍路をやってみたい」「それもいいな」。夫婦でそんな会話をしたこともあるが、実現しなかった。一緒に回ってはいるのは数珠である。
 「自分を極限まで痛めつけたい」。遍路ツアーに参加したのは、歩き遍路の下調べだった。ツアーと平行して、順打ちで四十番観自在寺(愛媛県愛南町)まで歩き終えた。





      ↑歩く前のストレッチ体操(連載記事の写真とは別です)





◇◆◇こころ遍路─ 岼κ摸ザ譟徊笋瓩鵑ため(2005年10月20日、毎日新聞夕刊)◇◆◇

 四苦八苦と言う。四苦は生病老死で、誰にでもある。さらに愛別離苦(愛する人と別れる悲しみ)など四つを加えて、八苦となる。四国霊場一番霊山寺(りょうぜんじ)の住職、芳村超全さんは、「歩き遍路で目立つのは、愛別離苦。自分ではよう埋めん時、強制的に自分を追い込む」=大阪府大東市=は、02年5月17日、妻幸代さんを白血病の一種の難病で亡くした。57歳だった。
 自宅で療養して、急に息が荒くなった。「救急車を呼ぼうか」「うん」。それが今生の別れの言葉になった。救急車に乗ったのは息子だった。病院に駆けつけると、医師が「奥さんの心臓は動きません」と告げた。体が凍りついた。「幸代、戻ってこい」。声は病院の中に響きわたった。
 父の死などをきっかけに、四国八十八カ所をバスで巡拝した。途中からは、妻の病気回復を願うことになった。高野山まで参って満願したのは、02年5月12日。「満願を待っていたように、家内は逝った」
 幸代さんは最後の半年、両手両足が不自由になっていた。トイレに行けないので、おまるを使った。木本さんが幸代さんの脇の下に手を入れて立たせ、母がズボンを下ろして、おまるに座らせた。「終わると、パンツ、ズボンとはかせる。長いこと支えるので大変だった」
 おまるに座った幸代さんを前にして、食事をしたことは何度もある。しかし、自分の苦労よりも、幸代さんの気苦労を思いやる。「しゅうとめに下の世話をしてもらって気を使ったやろう」
 このツアーに入ったのは、歩き遍路が含まれているからだ。病状が悪化している時も、自動車販売の仕事に追われていた。「医者からの情報を十分聞けなかったのが最大のミス」と悔やむ気持ちが残る。
 しかし、木本さんは言う。「私は恵まれている。お遍路に行く日が近づくと、そわそわする。帰ってくると、遍路道でのやり取りを思い出す」。順打ちの最中、二十三番薬王寺(徳島県日和佐町)に参った後の夕食で、「今日は家内の一周忌」と打ち明けてからは、特にそう感じる。






      ↑菜の花は遍路に似合う(連載記事の写真とは別です)





◇◆◇こころ遍路 手差し伸べる友を得て(2005年10月21日、毎日新聞夕刊)◇◆◇

 「ウオーキング・ザ・空海」のメンバーをながめ、岡野敦子さん(63)=京都府宮津市=は四国を回る動機を、四つのタイプに分類したと言う。/閥瓩平佑了爿⊆分の病気信仰心せ笋里茲Δ癖見遊山(ものみゆさん)。
 長女千怜(ちさと)さんを亡くした細見善子さん(56)を見て、岡野さんは「そのままでは深みにはまってしまう」と感じた。高松京子さん(57)=同=も気になった。「この人の涙はいつ止まるんやろう」。
 高松さんの母は、列車の風圧で倒されて亡くなった。線路での事故という意味では、千怜さんと同じだ。岡野さんも長男を11歳で失った。ともに、随分の時はたつが。  二人は「仏壇にお参りさせてもらうわ」と理由をつけ、兵庫県丹波市の細見さん宅を訪ねた。次には宮津に細見さんを招いた。
たくさんの目が細見さんに向いた。実家のある香川県・佐柳島(さなぎしま)の春祭りに連れて行った人もいる。遍路を離れた付き合いも始まった。
 昨年10月20日、台風23号が猛威をふるい、川からあふれた水が岡野さん宅の床上まで侵入した。翌日、遍路仲間内で電話が駆け巡った。22日朝、大阪から10人がワゴン車で岡野さんの家に向かった。細見さんも合流した。2日かけて泥のかき出し作業に精を出した。
 一番霊場霊山寺(りょうぜんじ)には、「徒歩巡拝者名簿」があり、歩き遍路が記帳する。1992年は450人で、その後、急激に増え、01年には4218人のピークを迎えた。最近も3000人台だ。
 住職の芳村超全さんは不思議がる。上昇カーブの中で、阪神大震災の95年は前年より50人ほど減ったからだ。「被災者が大勢歩きに来ると思った。見舞金にと、祝儀袋に1万円を入れて待った。全然来んかった」
 芳村さんの分析は興味深い。「震災の避難所で、四国参りと同じ状態が生まれたのではないか。回らなくても、相談し、信頼できる友だちがいたのではないか」
 「いろいろな人に出会えてよかった」と、細見さんも岡野さんも口をそろえる。遍路仲間も、避難所でできた共同体のような役割を果たしたのかも知れない。






      ↑線香の煙を浴びて(連載記事の写真とは別です)







◇◆◇こころ遍路 肩を貸す人 あおぐ人(2005年10月22日、毎日新聞夕刊)◇◆◇

 
 遍路の回を重ねるうち、メンバーが役割を分担をするようになり、ニックネームもついた。道端に咲く花の名前を教える「花博士」がいる。宿で折り紙を披露する「おり姫」もいる。中津留友安さん(69)=兵庫県川西市=は「ストレッチの先生」だった。遍路道を歩く前後に、体操の号令をかける。
 歩き始めると、中津留さんら体力のある人が列の最後を守った。落伍者を出さないためだ。
高知県中土佐町から窪川町にかけて、「添蚯蚓(そえみみず)と呼ばれる道が残っている。順打ちで行けば、三十七番岩本寺(窪川町)の手前になる。5.4舛箸気曚苗垢はないが、峠越えの難所である。
 道の入り口で農家の女性が、さい銭を入れる手作りの袋を、歩き遍路にお接待として手渡している。添蚯蚓を説明した町の広報誌をコピーして、袋に添える。
 その説明によると、約300年前に書かれた「土佐州郡雑誌」に、ミミズがはった跡のように曲がりくねっているので、この名がついたと記されている。昔のままの姿で道が残り、歩けば遍路というものを実感する場所だ。
 一行が順打ちで通ったのは、7月の暑い日だった。初参加の石橋敬子さん(68)=大阪府東大阪市=は、体の変調を感じていた。休憩した峠で、飲んだものをはき出した。少し歩いては座り込み、そのたびにもどした。間もなく、立ち上がることもできなくなった。「眠とうて、眠とうて」と思い出す。
  熱中症ではなかったか。看護経験のある女性が余分な服を脱がし、1枚にした。日が暮れてくる。何とか石橋さんを車の通る道路まで下ろさなければ危険だ。
 4人がチームを組んだ。中津留さんが肩を貸し、石橋さんを抱くようにして歩かせた。道にある木の枝や石を取り除く人。うちわで風を送る人。後から石橋さんのズボンを引っ張る人。
添蚯蚓を脱出したのは午後7時だった。想定した時刻より、2時間近く遅れていた。宿に着いた中津留さんは、精魂尽きていた。それでもビールを流し込みながら言った。「仲間やないか」。グループの結束を強める合言葉になった。






      ↑秋明菊のそばを(連載記事の写真とは別です)





◇◆◇こころ遍路 杖と「お連れ」を傍らに(2005年10月24日、毎日新聞夕刊)◇◆◇

 「家の中を整理していたら、横峰寺(四国霊場六十番、愛媛県西条市)のてぬぐいが2本出てきたんです」。石橋敬子さん(68)が遍路に出かけた遠因となった。1997年のことだった。
 父吉次郎さんは81年に亡くなった。その数年前に、四国八十八カ所を回っていたことを覚えている。てぬぐいは、その時の土産だったのだろう。
 99年7月、乳がんが見つかった。直径4造亮陲茲Δあり、8月に右の乳房を切除した。「行けということかなあ」と考えた。直接的には、それが遍路に結びついいた。
4年後に遍路ツアーに初参加したものの、熱中症のような状態に陥り、散々だった。「手術をして以来、あまり汗が出ん」。それが理由だったふしがある。
 四国から帰って、助けてもらった仲間にお礼の電話をかけた。「気にせんでええ」と言われたが、次回の遍路ツアーをどうしようかと思い悩んだ。とりあえず翌日から毎日3舛鯤發トレーニングを重ねた。
 工場は新幹線の先頭車両の鼻の部分も造っている。華やかなようだが、バブルがはじけた後は、資金繰りに追われる日々。社員もいつの間にか3分の1に減っていた。ストレスはたまるばかり。どうしても四国に行きたくなった。
 四十番観自在寺(愛媛県愛南町)から四十一番龍光寺(宇和島市)の間の柏坂越えの遍路道を歩いた。また、へたばった。男性3人が秘策を考えついた。金剛杖2本を石橋さんの両脇の下に通して体を起こし、杖の前後を3人で支えながら山を下りた。  同行二人(どうぎょうににん)とは、弘法大師とともに修行することを意味する。金剛杖は大師の身代わりである。その杖が石橋さんを助けた。大師のいきな計らいだろう。
 体調不良によるトラブルをその後訴えることがあるが、石橋さんはツアーを休まない。「いいお連れができた」と、仲間に感謝する。






      ↑杖のそばで(連載記事の写真とは別です)





◇◆◇こころ遍路 光は自分野中にある(2005年10月26日、毎日新聞夕刊)◇◆◇

 「少なく見て10万人、多くて15万人」。四国八十八ケ所霊場会会長の庄野光昭さん(十九番立江寺・たつえじ=徳島県小松島市=住職)は、年間の遍路の数を推測する。歩きもツアーもマイカーも含んでいる。
 「身内が亡くなった劇的な理由の人もいれば、日常生活の中で自分の生き方に疑問を持って回る人もいる」。庄野さんは高度経済成長を引き合いに出し、「物豊かになって心滅ぶ」の言葉を出した。「遍路は癒しというより、自分の見つめ直しだ」とも言う。
 一番霊山寺(りょうぜんじ)の住職、芳村超全さんも、話すことは似ている。「歩くのは退屈じゃよ。だから自分と対話するようになる。もう一人の自分が冷静に見ているのに気づく。空海はその本当の自分にすがれ、と説いている。自分こそが導いてくれる」
大仏師、松本明慶さん=京都市左京区=の話にも、どこか通じるところがあった。遍路とは少し離れた舞台ではあるが、亡くなった人との関係を、飾らない口調で語った。
 ――13歳の弟が死んだ。おれは17歳だった。母は悲しんでいた。しかし、おれだって、同じように悲しいんやで、苦しいんやで、悔しいんやで。おれはどうなってもええんか。「お母ちゃんは家族のこと考えて。おれは生活を支える」と言った。
 弟を慰めるために、仏像を彫った。仏像を作ってなかったら、死んでいたかもしれん。悲しい人はいっぱいいる。その人たちの心を癒す仏像を作るために努力した。自分への挑戦だった。大仏師という偉そうな肩書きを名刺にも書く。それに恥じない仕事をせな、と思うからや。
 家族が亡くなったから仏像を彫ってくれ、という注文がしょっちゅうある。「何考えてんねん。そんなに泣いていても、何も解決せん。悲しみを演じているだけちゃうか。残った家族を思いやらんか」と言うこともある。
悲しみは普通の生活の中でしか乗り越えられん。余生はいま生きている人のためにある。DNAをもらった最終ランナーが自分や。自分を大事にせん人は、先祖や亡くなった人を大事にできん。60歳になって悟った。






      ↑一休み(連載記事の写真とは別です)





◇◆◇こころ遍路 壮絶な「生」見届けて(2005年10月27日、毎日新聞夕刊)◇◆◇

 1999年1月15日、植木時子さん(54)=兵庫県丹波市=の二男崇久さんは病室で、小学校時代の作文と写真に見入った。成人式を記念してタイムカプセルを開け、友だちが届けたものだ。崇久さんは白血病だった。20年の短い生を終えたのは1月23日だった。
 骨髄移植のドナーも2人見つかり、手術日も決まっていた。これで大丈夫と思ったとたん、再発した。「抗がん剤でたたいて、たたいて、体はボロボロになっていた。それでも、生きたい、生きたいと願っていた」
 余命3カ月と医者から言われたが、1年生きた。ひどい時は40度を超す熱が出て、ベッドごと体が揺れた。壮絶だった。生命力の強さ、生きようとする意思の強さを、病院のみんなが見ていた。崇久さんに「頑張れよ」と声をかけて病室の前を通った患者は、翌日亡くなった。「その人の命をもらってに永らえた」と、植木さんは感じたりする。
「もう、いいわ」と、気力を失いかけた時期もあった。兄の和也さん(30)はスケッチブックを持って行った。窓を指して言った。「雲の形は毎日違う。これに描け」
 妹の美好(みよ)さん(23)は高校生だった。「新薬を発明して白血病を治すから」と励ました。文科系から理科系に志望変更し、予備校に通って薬科大学に進んだ。
 病院は兵庫県西宮市にあった。植木さんは夫が経営するスーパーの役員だった。仕事を休み、毎日通った。強いお母さんで通したが、1度だけ涙がボロボロ流れた。「生きとってもしゃあない」と、窓から飛び降りようとしたからだ。「トイレに駆け込んだ。あの子の前では泣かないから」
 「あの子と過ごした貴重な1年間だった。できることはすべてした」と思っている。逆に、亡くなってからは何もする気にならなかった。3年目に商工会の婦人部長の役が回ってきて、やっともう一度、頑張る気になった。
 <そんな時期に、長女を亡くした同じ市内の細見善子さん(56)から、遍路に誘われた。札所では、和也さんのために手を合わせる。「遍路に行くと、気持ちが落ち着く」と穏やかである。時の流れも大きいのだろうが。BR>





      ↑そろって般若心経(連載記事の写真とは別です)





◇◆◇こころ遍路 みんな一生懸命(2005年10月28日、毎日新聞夕刊)◇◆◇

 偶然の出会いだった。荒田宮子さん(62)=京都府福知山市=は講演会を聴いた後、JR大阪駅のホームで帰りの列車を待った。信号機の故障で、列車の到着が大幅に遅れた。金剛杖(づえ)を手にした3人連れに目が止まった。
  列車も一緒になり、話し掛けた。岡野敦子さん(63)ら、ウオーキング・ザ・空海のメンバーだった。逆打ちをしていると聞き、心が動いた。
 帰宅した荒田さんは、友人の大槻紀代子さん(65)=同=に逆打ちを持ちかけた。大槻さんは義母、夫、義父らを相次いで見送った。「無常をなめさせられた」と、言葉がこぼれる。そんな悲しみを、荒田さんは見ていた。
 二人は00年に、順打ちはすませている。しかし、逆打ちなら、順番通りに回って修行している空海に、必ずどこかで出会える、という言い伝えがある。二人は今年から逆打ちツアー参加した。
 大槻さんの夫幸弘さんは肺梗塞(はいこうそく)だった。血液中の酸素の量が足りなくなる。「長距離を走った後のような荒い息がずっと続く」と、夫の苦しさ伝える。のどに穴を開ける措置もしたが、58歳で人生を閉じた。
 <大槻さんは会社勤めだった。幸弘さんに加えて義父の入院も重なり、目一杯の生活をしていた。考える力もなかった。BR>  義父の葬儀もすませ、楽になったはずだった。ところが、空虚さが襲った。「大変やね。可愛そうで見ていられん」といった気遣いの言葉を聞くのもいやだった。「寒いですね」のあいさつだけでいいじゃないか、といら立った。
ラジオの宗教番組に聴き入った。写経がうまくいくと、無の状態になっていることに気づいた。そんな延長線上に四国があった。1巡目の遍路は、夫の死から8年たっていた。
 大槻さんの心に変化が起きた。「お遍路でしんどい目をしますわね。体を委ねると、苦しみが楽しみに変わる」。逆打ちの仲間を見て、「みんな一生懸命いきてるんやな」と感じる。気遣いの言葉も、そのまま受け止めるようになった。
 荒田さんは「遍路が生活の一部になった」と言う。二人は毎回、午前5時前に家を出て、四国に向かう。






      ↑さまざまなスタイルで(連載記事の写真とは別です)





◇◆◇こころ遍路 お接待のありがたさ(2005年10月29日、毎日新聞夕刊)◇◆◇

 「家の中を整理していたら、おやじの写真が出てきた。裏に立江寺(たつえじ)(四国霊場十九番=徳島県小松島市)の朱印が押してあった」。中津留友安さん(69)が遍路のとりこになるきっかけだった。逆打ちツアーは16巡目になる。
 96年に車で回ったのが最初だった。八十八番大窪寺(おおくぼじ)で、歩き遍路が般若心経をあげながら、ボロボロ涙をこぼしていた。もらい泣きをした。
 02年に建材会社お社長を退任した。その機会に、歩いて<巡拝した。思い出はいくつもある。
 十二番焼山寺(徳島県神山町)から十三番大日寺(徳島市)の間で、大きくルートをそれた。道を聞こうにも、人と出会わない。気力がなえた時、一軒家を見つけた。訪ねると、「引き返すしかない」と言う。肩を落とすと、お接待として軽トラックで正しい道との分岐点まで4キロほどを送ってくれた。お接待のありがたさが、疲れた身にしみた。
 徳島県海南町の野村カオリさん(80)は、遍路のための休憩所を建て、菓子などのお接待をする。逆打ちツアーの一行も8月21日に立ち寄り、小麦をいって作ったお茶でのどをうるおした。
 野村さんは夫を亡くしたのを機に、40歳で遍路を始めた。巡拝は40回を超え、歩いたのは3回。困ったのはトイレだった。新聞紙を敷いて、その上にしたこともある。
 建築家で近畿大学教授の歌一洋さんは、海南町に隣接する海部町出身だ。00年から、遍路道に89軒の休憩所「ヘンロ小屋」を造る計画を進めている。歌さんが設計し、地元の人たちに地元の材料で建ててもらう。
  その第1号が01年12月に完成した。野村さんが300万円を出した。「年がいっとるけえ、早くしたかった」と言う。念願のトイレも設けた。足が痛くてしゃがむこともできなかった遍路の経験から、様式にした。
  シーズンには休憩所に詰める。手の具合が悪く、食器を洗うことができなくなり、湯のみ茶碗は紙コップに変わった。それでも遍路が立ち寄ると、笑顔がこぼれる。








      ↑ヘンロ小屋「そえみみず・酔芙蓉」の前で(連載記事の写真とは別です)





◇◆◇こころ遍路亜,燭箸道に迷っても(2005年10月31日、毎日新聞夕刊)◇◆◇

 古い、非能率、不快、不安、欠乏、危険。へんろみち保存協力会代表の宮崎建樹さん(70)=松山市=が、歩き遍路の真髄を語る。今の時代の価値観と相反するものばかりだ。
 歩いて霊場を回る人が宮崎さんに感謝することが、少なくても二つある。遍路道の道しるべと、地図である。
 宮崎さんは胆嚢(たんのう)を患ったことがきっかけで、43歳から歩き始めた。気になったことがあった。「遠回りをしているんじゃないか」。当時は遍路道がそれほど整備はされていなかった。「ほかの遍路に、余分な苦労はさせたくない」と考えた。
 金剛杖(づえ)を持った遍路の姿を型紙で作り、小さな白いプレートに赤で色をつけ、札所の方向を示した。まず、自宅に近い五十一番石手寺(松山市)から五十六番泰山寺(今治市)までの道に取り付けた。
 全行程に広げるのには、10年近い歳月がかかった。道しるべは2000個にのぼる。車で野宿しながらの作業だった。昔からの遍路道を知っている人を聞き歩いた。草ぼうぼうの道は草を刈った。今の遍路道のルートは、宮崎さんの功績によるところが大きい。
 歩き遍路用の地図「ひとり歩き同行二人(どうぎょうににん)]は、1989年に自費出版した。距離は細分して示し、目印、遍路宿、飲食店などを詳細に書き込んだ。
 03年に第6版を出した。北が上ではなく、道が右から左へ流れるような新しい工夫も盛り込んだ。「机に座って見るものではない。持って歩くと分かりやすい」と、実務用だと強調する。初版からの総数は5万3000部になった。。  「歩行旅行者と歩き遍路は違う」。それが口癖だ。「歩行旅行者は計画を立てて行く。遍路は道中でいろんなことに遭遇し、忍耐、努力、感謝で心を昇華していく。不平、不満を言い、楽なことを考えていたら遍路じゃない」。苦しみ、道に迷っても、一つ一つに意味があるということだろう。
 遍路の素晴らしさの一つに、人との出会い挙げる。「道中は生活空間を頼り、人と対話しながら歩く。それが庶民信仰や」と。








      ↑花と遍路はよく似合う(連載記事の写真とは別です)





◇◆◇こころ遍路院ヽ阿旅さを思い知る(2005年11月1日、毎日新聞夕刊)◇◆◇

 「この世で一番狭い所」。9月10日に参った別格三番R[慈眼寺、じ、げん、じ]R(徳島県上勝町)のR[穴禅定、あな、ぜん、じょう]Rで、逆打ち仲間の1人が言った。オーバーではあったが、みんな納得した。
 四国八十八カ所霊場とは別に、空海にちなむ寺が四国別格二十霊場会をつくっている。足せば百八煩悩(ぼんのう)の数となる。穴禅定は鍾乳洞(しょうにゅうどう)で、慈眼寺の行場である。石灰岩が溶けてできた通路はわずか100辰世、狭いのがみそだ。
 上平サツキさん(85)が先導する。亡くなった夫の後を継いだ。42年になる。毎朝7時に洞に着き、参拝客を待つ。「おかげで、ようけいお力をいただいた。ありがたいことで」と話す。難しい病気も治すと、さらりと言う。
 「私の言う通りにしなさい」と注意を受ける。上平さんの指示を、順番に後の人に伝達することも確認した。中は真っ暗。ろうそくを手にして入った。
 狭すぎる。幅が20造曚匹両貊蠅發△襦しゃがみ込み、腹ばいにもなる。「右肩から入って体を沈め、斜め上に立ち上がる」。上平さんの声がするが、そう簡単ではない。携帯電話一個が引っかかっても動けない。
 進退窮まった女性が出た。もがけばもがくほど、にっちもさっちもいかなくなる。「この岩どけてえ」と、大声で叫び出す。やがて、「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と唱え始めた。すぐ後の女性も唱和し、洞内は異様な響きに包まれた。上平さんは先行グループを広場になった奥の院まで導いてから、引き返して女性を救出した。
 後続グループも大変だった。不自由な姿勢のまま待った。ろうそくが短くなり、帰り道のことを考えて、1人おきに火を消した。
 帰りもトラブルが続いた。腹ばいになる所で、別の女性が詰まり、仲間が両足を持って引きずり出した。上平さんの説明時間を入れても1時間の行程のはずだったが、全員が脱出するまで2時間近くかかった。
 後になれば、笑い話のような体験だった。外に出て、世界の広さと明るさを思い知る。遍路道には、面白い仕掛けもある。








      ↑紅葉の下をゆく遍路(連載記事の写真とは別です)





◇◆◇こころ遍路押ヾ躙韻肋誼里両紂複横娃娃鞠11月2日、毎日新聞夕刊)◇◆◇

 十四番常楽寺(徳島市)は、境内に露出した青石が、雨に濡れると美しい。一行が参った10月22日も雨だった。
 16巡目の中津留友安さん(69)にとって、ここは大事な寺だ。境内を掃除している子どもたちを見かけたことがある。養護施設で生活していると聞き、施設を訪ねて1万円を置いた。毎年1回、遍路の途中に寄り、寄付を続ける。年ごとに1万円を増やすことにし、今年は5万円だった。「回れる間は」と言う。
 その日の遍路宿では、吉井一造さん(72)、操さん(70)=大阪府堺市=が主役だった。金婚式の直後だったので、仲間が二人を座布団に座らせ、質問攻めにした。「金婚さんいらっしゃ〜い」である。「結婚届けを出したのは1年後」「足入れ婚だったんや」。笑いが続いた。
 今年1月の遍路では、鋒山(ほこやま)昭さん(78)、きぬさん(74)の金婚式を祝い、寄せ書きの色紙を贈った。「大家族でもなかったら、金婚式のお祝い会なんかないやろね」と言う人がいた。
 翌日は十二番焼山寺(神山町)から十一番藤井寺(吉野川市)までの遍路転がしだった。難所中の難所だが、逆打ちなので800辰旅發気ら下りていく。ただし、2舛肋紊蠅世辰拭
 逆打ちは、道の分岐点で迷う。へんろ道保存協力会代表の宮崎建樹さん(70)には、「1000万円出すので、逆打ちの道しるべをつけてほしい」という依頼があったという。断った。「逆打ちは迷うことや危険を承知で、思いを遂げようとするのだから、つけたら物笑いになる」。それが理由だった。
 きつい下りは、足の疲労が早い。遍路転がしの中間点で、1カ所だけタクシーが乗り入れられる場所がある。三人が乗り込んだ。石垣美智留さん(55)=兵庫県尼崎市=も迷ったが、歩き続ける決断をした。しかし、ひざにきた。仲間が自分の金剛杖(づえ)を差し出し、石垣さんは2本杖で何とか下り切った。昼食休憩を入れて7時間。先着のタクシー組が、カメラを構えて迎えた。
 遍路転がしで出会った順打ちの遍路は男性9人、女性5人だった。「頑張ってください」と互いに声をかけるだけで、心が通じ合う








      ↑春は遍路の季節。桜の下をゆく(連載記事の写真とは別です)





◇◆◇こころ遍路魁,△了劼鵬颪┐拭複横娃娃鞠11月4日、毎日新聞夕刊)◇◆◇

 順打ちを終え、高野山にお礼参りをし、宿坊に泊まった夜のことだった。メンバーがそれぞれ、満願の思いを語った。細見善子さん(56)は、思いがけないことを口にした。「お遍路をして、娘に会うことができたんです」
 細見さんは参拝した寺で、観音の仏像ばかりを見ていた。亡くなった長女千怜(ちさと)さんの法要をした住職は「観音さんのような子やったなあ」と言った。その言葉が耳に残っていたからだ。
 「四国に行ったら、娘さんに会えるわよ」「あなたの愛する人は、あなたのすぐそばにいるのよ」。瀬戸内寂聴さんのそんな言葉も力なった。「魂の存在を感じられるようになったら、心が安らかになるのにな」と思いながら遍路を続けていた。
 五十八番仙遊寺(愛媛県今治市)に参ったのは、03年12月6日だった。境内に大きな石仏の子宝観音が立っていた。見上げて、ハッとした。「娘に会えるというのは、このことだったんや」。優しい微笑が、千怜さんの顔だった。
 寺の小山田敬泉さんによると、仏像は今治市内の夫婦が建立した。一行が参る1年ほど前のことらしい。子どもがなかった夫婦は「これからの方々が、子どもに恵まれるように」との願いを込めた。その1年後、二人は相次いで亡くなったという。何か、因縁を感じる話である。
 もう1度、出会いがあった。七十五番善通寺(香川県善通寺市)で、御影堂(みえいどう)の下の真っ暗な場所を歩く戒壇(かいだん)巡りをした時だった。御影堂のある場所は、空海の母玉寄姫(たまよりひめ)の部屋があったと伝えられ、空海が生まれた所とされる。
 細見さんは暗闇を手探りで歩き出した。「あの子がいたら、と思っていると、目の前に千怜さんが現われて導いてくれた」。一瞬の出合いだったが、涙があふれた。
 愚にもつかないことのように聞こえるが、細見さんには確かに見えたのだろう。闇の中でしか見えないことがあるのかもしれないし、強く思っているからこそ浮かんだとも言える。戒壇から出れば、現実の明るい景色が広がっていた。








      ↑札所の境内は石段が多い(連載記事の写真とは別です)





◇◆◇こころ遍路粥〔疑瓦法ー分の足で(2005年11月5日、毎日新聞夕刊)◇◆◇

 丹波彫刻会の会長、足立迪雄(みちお)さん(73)の工房で、ゆったりとした時間が流れる。会員が足立さんの指導を受け、冗談を言いながらノミを持つ
 細見善子さん(56)も月曜日に通う。五十八番仙遊寺(愛媛県今治市)の境内にある子宝観音の写真をモデルに、仏面を彫っていく。その顔に、事故で亡くなった長女千怜(ちさと)さんの面影を重ねながら。
 彫刻を始めて3年。仏像ばかりを作ってきた。顔の細かい部分は難しい。「未熟なくせに、自分の思いばかりが立って」。足立さんに手伝ってもらっても、やっぱり自分が作りたい顔に直してしまう。先に仏像に託して、千怜さんを彫っていた。
 足立さんの長男哲志さんは1983年のクリスマスイブに、バイクで事故に遭った。当て逃げで相手がわからないまま、1月4日に息を引き取った。25歳だった。
 当時、足立さんは中学の教師をしていた。生徒には「七転び八起き」と教えていたが、自分自身はだめで、泣きながら彫った。だるまの木彫を生徒の卒業記念にすることを思いつき、贈った数は1500個にもなった。
 細見さんは工房に、居心地のよさを感じている。年上の人が多いが、みんな前向きで元気だ。「年をとるのも、悪いもんじゃない」と思えてきた。無心に彫る、その今を大事にするようになった。
 ウオーキング・ザ・空海は12月で2巡を終え、区切りをつける。細見さんが遍路で知り合った仲間は40人ほど。「重いもの」を持った人と胸の内を分かち合い、笑いが絶えない人には救われた。みんな「ぐじぐじした話」を聞いてくれた。「いろんな人に励まされた。遍路道はしんどいが、歩いていると、前向きに考えられるようになってくる」。それが細見さんにとっての遍路だった。
 千怜さんの墓参りは、5日に1回に減った。ただ、「背負うのは一生。だれも肩代わりしてくれない」と思っている。千怜観音はやっと半分ほど彫り進んだ。(おわり)
 
 








      ↑杉の巨木に包まれた高野山奥の院(連載記事の写真とは別です)