四国遍路における洞窟の役割

 

                梶川伸・大阪経済法科大学客員教授(「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会副会長)

              
              (「洞窟環境ネット学会紀要」3号=2012年3月31日発行)


    1.はじめに


 四国遍路は、空海(弘法大師、774〜835)が修行したとされる場所や、ゆかりがあるとされる寺を訪ねてゆく。そのような霊場には洞窟もいくつかある。
 空海は若いころ、山に入って修行したことを自ら記していて、山岳宗教とのかかわりも深い。洞窟が霊場化していく背景には、空海の修行の場としての要素と、山岳宗教の影響があると考えても良いだろう。
 四国八十八カ所霊場(本四国)を模した写し霊場(ミニ八十八カ所)が、江戸時代の1600年代後半から各地にできていく。そのさきがけのような位置を占める小豆島八十八カ所(香川県)には、洞窟自体が札所になっている場所が10カ所もある。本四国には完全な洞窟になっている札所はないが、洞窟が札所や霊場の一部になっているケースはあり、洞窟が遍路において重要な役割を果たしていることは間違いない。
 本四国には、戒壇巡りという暗闇の中を歩く札所もある。ただし、戒壇巡りは本四国に限ったことではない。長野県の善光寺の戒壇巡りはその代表格でもある。しかし、本四国の場合、暗闇という点で、空海の修行の場としての洞窟と共通項がある。これは、蘇りの思想に結びつくと考える。
 本稿では、四国遍路の洞窟と戒壇巡りに焦点を当てる。なお、「遍路」という言葉は、「巡拝すること」と「巡拝する人」の両方に使われる。があるのは興味深い。ここでは、混乱を避けるため、「巡拝すること」を「遍路」と表現し、「巡拝する人」のことは、四国の人が親しみを込めて使う「お遍路さん」と書くことにする。


    2.四国八十八カ所の特徴


 四国八十八カ所は、空海ゆかりの八十八の寺を言い、四国八十八カ所霊場会として組織されている。寺は霊場と位置づけられ、札所という呼び方もある。お遍路さんは札所で、自分の名前を書いた札を納め、本堂の本尊と、大師堂の本尊である空海に向けて、般若心経を唱える。
 徳島県鳴門市に一番霊場・霊山寺がある。ほとんどのお遍路さんは、霊山寺を出発し、四国を時計回りに札所を巡ってゆく。結願の八十八番大窪寺は香川県さぬき市にある。全体の距離は、歩く場合は約1200銑辰如⊆屬世硲隠苅娃悪銑辰傍擇屐寺と寺の間で1番距離が長いのは、三十七番岩本寺(高知県四万十町)から三十八番金剛福寺(高知県土佐清水市)の間で、約80銑辰發△襦
 ルートとしての特徴の1つは、円を描き、循環型になっている点だ。霊山寺を出て結願の大窪寺にたどり着くと、四国を1周したことになる。つまり八十八番大窪寺から一番霊山寺までは、案外近いのである。道のりで60銑端紂札所の間が最も長い岩本寺〜金剛福寺より20銑辰眞擦ぁさらに▽二十三番薬王寺(徳島県美波町)〜二十四番最御崎寺(室戸市)75銑但四十三番明石寺(愛媛県西予市)〜四十四大宝寺(愛媛県久万高原町)67銑辰犯罎戮討癲△気蕕肪擦ぁ
 このため、大窪寺で結願のあと、一番霊山寺にお礼参り戻るお遍路さんも多い。そうすると、円は完全に完成する。中には、そのまま、あるいは時を隔てて、2巡目、3巡目と遍路を続ける人も少なくない。四国遍路の特徴の1つは、この循環性にある。
 この点に関しては、さまざまな解釈ができるが、農耕を基本にしてきた日本においては、太陽の循環性に結びつけることもできる。農業にとって太陽の恵みは大きい。その太陽には、人間側から見ると、1日循環と1年の循環がある。朝太陽が昇り、夕方沈む。1日の半分は夜で太陽は見えないが、翌日また朝日として蘇る。
 1年のサイクルで見ると、植物が芽吹く春から夏を過ぎ、秋の実りのあとは、枯れ絶える冬がやってくる。しかし、また春になり、新しい命として蘇る。この循環性と蘇りは、人々の生活のリズムや考え方の奥底に根付いていただろう。
 四国遍路は、空海の死後に平安時代からすでに、僧侶を中心に始まったとされる。平安時代は観音信仰が盛んだった。観音菩薩が住む浄土が補陀洛で、土西方浄土とも言った。補陀洛浄土は海の彼方と考えられ、そこに行くことは難しい。そこで、補陀洛に近い場所への憧れがあった。その点で四国は補陀洛浄土の周辺部にあると考えられ、当時の人々の精神に大きな影響を及ぼしていただろう。周辺を「辺地」と呼び、それが「辺路」に変わり、「遍路」となったという説もある。
 一方で、平安時代には朝廷関係者や貴族階級が、盛んに熊野詣でをした。熊野へ向かう道には中辺路、大辺路、小辺路などがあった。ここでも「辺路」の字が使われる。紀伊半島についても、常世の国である補陀洛浄土の辺地という捕らえられ方がされたと推測できる。
 紀伊半島の南端に近い補陀洛山寺(和歌山県那智勝浦町)では、補陀洛渡海というしきたりが続いていた時期がある。僧が1人で小さな船に乗り、浄土を求めて帰ることのない船出をするものである。死の船出は、26回記録されている。このことからも、補陀洛信仰が当時の人の心に深く入り込んでいたことがわかる。この補陀洛渡海の風習は、高知県・足摺岬周辺などでも行われていた。
 平安時代の朝廷関係者や貴族階級の中には熊野詣でを繰り返しているケースが見受けられる。これは、浄土に近づき、再び帰ってくることで、蘇りの意味合いを持っていたのではないか。
 四国遍路の方は、最初は僧侶の修行の場だったと思われる。やがて、室町時代の終盤から安土桃山時代のころにかけ、庶民の間に広がっていく。江戸時代には庶民の遍路が盛んになる。
 庶民の信心に基づいていることも、遍路の特徴である。弘法大師への信心とともに、補陀洛への憧憬が底にあるのではないか。四国を循環すること、四国を回って帰ることは、生まれ変わり、蘇りに通じる。近年、定年退職した後に回るお遍路さんが目立つ。その人たちの動機の中で、「自分の見つめ直し」が目立つが、これは遍路を機に生き直すということだろう。では、なぜ生き直しの場として四国八十八カ所を選ぶのかといえば、循環や蘇りの思想に裏打ちされたシステムがすでに用意されているからだ。


    3.御蔵洞


空海は讃岐の国(現在の香川県)に生まれた。24歳の時に著したとされる「三教指記」には、修行した場所として「阿国大滝の嶽」とともに、「土州室戸の崎」が出てきて、そこで「勤念す。」とある。「室戸の崎」は室戸岬だろうが、勤行をしたのはどこであろうか。修行の場として伝承されているのが、御蔵洞(みくろど)という洞窟である。
 最御崎寺は室戸岬の先端近い、標高160辰両貊蠅砲△襦8翅洞は最御崎寺の東側で、海岸のそばにある。国道55号に沿い、道を隔てて反対側は岩場が続き、その向こうは海が広がる。岩山にある横穴の洞窟で、奥行きは15辰曚匹如五所神社がまつってある。
 言い伝えでは、空海はこの洞窟にこもって虚空蔵求聞持法の修行を行った。虚空蔵菩薩の真言「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おんありきゃ まりぼり そわか」を100万回唱えたという。三教指記では、「勤念す。」の後、「谷響きを惜しまず。明星来影す」と続いている。このため、虚空蔵菩薩の真言を100万回唱えると、明星が口に飛び込み、虚空蔵求聞持法を修得した、となる。空海はここで、人生の新たな段階に入ったという解釈が成り立つ。「蘇り」まではいかないが、「生まれ変わり」の印象があるのは興味深い。
 仏教を志した空海にとって、室戸は重要な位置を占める。空海は幼名を真魚という。やがて空海を名乗るが、そのいわれを御蔵洞に結びつける説もある。洞窟の奥から外を見ると、空と海しか見えない。その修行中の体験から空海とした、というものだ。
 御蔵洞は遍路の中で、番外霊場という位置づけをされる。番外霊場は、88の札所以外で、空海伝説のある場所を言う。このため、多くのお遍路さんが立ち寄る。御蔵洞自体が観光スポットで、前の岩場には散策道が設けられているため、お遍路さん以外にも立ち寄る人は多い。


      ↑空海が修行した洞窟との言い伝えが残る御蔵洞の入り口


    4.穴禅定


 私は毎日新聞旅行の遍路旅で、先達を務めている。先達は四国遍路の案内人で、私はお遍路さんと一緒に88カ寺を6巡した。このうち3回は、別格二十霊場も組み込んだ。別格二十霊場は、本四国以外で空海にゆかりのある寺を20カ寺選んだもので、四国別格二十霊場会が組織している。
 遍路旅の参加者に1番印象に残った札所を聞くと、別格3番慈眼寺(徳島県上勝町)と答える人が1番多い。境内の岩山に穴禅定(あなぜんじょう)という洞窟の修行場があり、ここの印象が強いからだ。
 穴禅定は、空海が修行をした洞窟として伝えられている。本来は、約2億5000年前に形成された細長い亀裂型の鍾乳洞である。それが空海伝説を結びついて、霊場になっている。
 三教指記の「阿国大滝の嶽」という記述について、二十一番太龍寺(徳島県阿南市)は「空海が19歳のころ、境内から南西600辰亮某間屬箸いΥ箴紊如百日間の虚空蔵求聞持法を修行された」と案内している。また、別格二十番大瀧寺(徳島県美馬市)も、「大滝」と「大瀧」の近似性を挙げている。いずれにしても、慈眼寺は「阿国大滝の嶽」から遠く離れているわけではなく、空海伝説が結びつきやすかったといえる。  洞窟の奥行きは100辰曚匹澄7蠢議蠅寮菽が待っていて、参拝者はその案内で中に入っていく。中は真っ暗で、参拝者はそれぞれ手にロウソクを持って火をつけ、それを明かりにして進む。1番奥に空海をまつり、そこで般若心経を唱えて、同じ道を帰ってくる。先達が途中で見所を説明してくれるが、その説明を入れても、通常なら往復で1時間もかからない。
 しかし、洞窟の中の道は極めて狭い。私と一緒に入った人が「世界1狭い場所」と言ったほどである。洞窟内の道の両側は岩の壁だが、コンクリート壁のように垂直になっているわけではない。もともと人一人が通れるくらなのに、いたる所で岩がこぶのように張り出して複雑な断面とつくり、最も狭まっている場所は20足辰發覆ぁ
 それではなぜ通れるか。背中がこぶに当たれば、背は柔軟性がないので、通ることができない。ところが腹の方がこぶに当たれば、腹はへこむので通れる。また、左右の壁のどこかの高さの所に少し広い場所があり、その部分に頭など変形がきかない部分を合わせて通すような工夫をする。先達は「左肩から入って沈み込み、斜め前の方に立ち上がる」などと指示を出す。その指示に従わないと、体がつかえて前に進めない。このような体験が、印象に残るのだろう。
 先達として20人近くを案内した遍路旅の際、穴禅定に1時間半以上かかったことがある。途中で3人が、体が引っかかって動けなくなってしまったからだ。そうすると、先頭を行っていた先達がその場所まで引き返してきて、個別指導をして通り抜けさせる。その間、引っかかった人の後続の人たちは、狭さのために体をひねったような態勢のまま、暗い中で待たなければならない。不安が募り、ある人が「南無大師遍照金剛」という大師宝号(弘法大師・空海を讃える言葉)を唱え始めると、ほかの人も唱和し、洞窟の中に響いて異様の状態となった。そのことが、さらにパニック状態を引き起こし、動けなくなった女性が「この岩、どけて」と大声を出すなどして混乱し、脱出までの時間を長くさせてしまった。
 往復は同じ道だが、出口に近い場所で1カ所違いが出る。そこは2段構造になっていて、行きは2階部分を歩いて行く。帰りは1階部分を通るのだが、狭いトンネル形になっていて、腹ばいになって進む。先達はこの箇所を母の胎内と案内し、「トンネルは産道で、通り抜ける時に悪いものを落とし、生まれ変わる」と説明する。ここでも体が詰まる人は多い。トンネルの出口側から、詰まった人の両手を持って引きずり出すこともある。これも、出産のイメージに近い。遍路の中に、分かりやすい形で蘇りの思想を組み込んだのが、穴禅定だともいえる。


      ↑穴禅定がある別格三番慈眼寺の岩山
 

    5.弥谷寺


 本四国の霊場には、山岳宗教の色合い濃い札所もある。標高の高い所にあるのは▽十二番焼山寺(標高800叩泡ζ鷭夙崢疥啝(550叩泡ζ鷭衆貳崑昔胸(600叩泡ζ鷭充携嵜席寺(450叩泡四十四番大宝寺(490叩泡四十五番岩屋寺(700叩泡ο蚕夙峅J寺(750叩泡ο蚕集淅峪鯵兒(430叩泡ο蚕熟使岷席媚(910叩泡θ十八番大窪寺(450叩砲覆匹澄
 <岩屋寺は駐車場からでも、15分ほど歩いて登る。本堂は切り立った岩山に寄り添うように建っている。本堂の横には、岩の壁の5メートルほど上に、テラス状になった窪みがある。奥行きの短い洞窟で、仏像が安置してある。その洞窟までは、木のはしごがかけてあり、参拝者はそのはしごを使って登る。BR>

      ↑岩屋寺本堂の横の岩壁には洞窟があり、参拝者ははしごで登る
 

 七十一番弥谷寺(いやだにじ、香川県三豊市)も山岳色が強い。標高は220辰如△修譴曚氷發はない。しかし、駐車場からでも、山道を約15分歩いて登る。本堂は岩山の横の小さな建物。お遍路さんは本堂参拝の後、岩山の磨崖仏を見ながら少し下り、大師堂に向かう。
 大師堂は、建物と洞窟を組み合わせた構造になっている。大師堂部分のさらに奥には、獅子の岩屋を呼ばれる場所がある。空海は幼少のころ、この岩窟にこもり学問をしたとも伝えられている。このため、今でも受験時期になると、合格祈願のために、絵馬を奉納する人も多い。
 ここも山岳宗教、洞窟、空海の関係を保っている。岩屋寺もそうだが、本堂や大師堂に苦労して登り、下りて戻ってき時には、あらたかな気持ちになるという庶民の信心の心が垣間見える。


      ↑空海が幼少のころに勉強したと伝えられる岩窟


    6.戒壇巡り


 札所の中には、地下などに戒壇巡りを設けている寺もある。暗闇の中を歩くことで、それまでの自分を振り返り、罪を取り除くための精神修養の場だ。これも生まれ変わりの儀式と言える。
 七十五番善通寺(香川県善通寺市)は、大師堂を御影堂と呼ぶ。その場所で空海が生まれた、とされているからだ。御影堂の地下に、戒壇巡りがつくられている。入り口から入っていくと、中には照明がない。参拝者は左手で壁をさわりながら進む。距離は約100叩E喘罎剖海と結縁する場所があり、ここには少し明かりがあるが、また暗闇となる。
 明るい場所から暗闇に入り、また明るい場所に出てくる。これは昼から夜になり、夜を耐えて朝になる、日々の循環に近似している。暗闇から戻ってくるのは、蘇りなのであろう。
 私が先達を努めた毎日新聞旅行の遍路旅の参加者の中に、娘を25歳の直前に交通事故で亡くした女性がいた。可愛い娘を失い、生きる喜びを失った中で遍路だったが、彼女は善通寺の戒壇巡りで娘に合った、と話したことがある。以下は、彼女の言葉である。
 「戒壇の中は不安で、『あの子がいたら』と思うと、真っ暗な中で娘の姿が鮮明に浮かんできた。声もはっきり聞こえてきた。うれしかった」
  当然のことながら、亡くなった娘が見えるわけではない。強い思いが、娘のイメージを浮かびあがらせたのだろう。「明るかったら見えない。戒壇は日常では体験できない暗闇なので、自分の心の中で思っているものが浮かんでくる」と自らの体験を分析していた。遍路が結願した時に話したもので、彼女はそれ以降、精神的な立ち直りのきざしを見せた。戒壇という暗闇が、彼女に再度生きる力を与えたともいえる。
 戒壇めぐりは、三十五番清瀧寺(高知県土佐市)や五十一番石手寺(愛媛県松山市)にもある。清瀧寺はミカン畑の山を登り、標高150綻貊蠅砲△襦2壇めぐりは、屋外にある薬師如来像の台座の下に造られている。薬師如来像は昭和8年の建立。山の下の人たちが手作業で資材を運んだ。わざわざ戒壇めぐりを併設するところに、人々の暗闇に対する思いの強さを感じる。


      ↑清瀧時の薬師如来像。像の台座の下には戒壇めぐりがあり、昭和になってから像とともにわざわざ造られた


    7.まとめ


 四国は4つの県に分かれている。県が設置される前も、阿波、土佐、伊予、讃岐の4つの国に分かれていた。四国遍路は4つの国をもじって、▽阿波=発心の道場▽土佐=修行の道場▽伊予=菩提の道場▽讃岐=涅槃の道場と呼ばれることがある。
 4つの国というのは、遍路を説明するのに都合が良い。4つの国を春夏秋冬に結び合わせ、1年のサイクルと関係付けて説明することもできる。遍路は循環する。それはルートとしてのものだが、季節の循環も連想させる。それは、農耕民族として、太陽を崇める気持ちが根底にあるからかもしれない。
 太陽は夜を経て、朝蘇る。遍路の札所や別格霊場、番外霊場にある洞窟も、暗闇に入り、暗闇から出てくる。ここに蘇りの思想との接点がある。戒壇巡りも、暗闇という点では洞窟と同じだ。戒壇巡りのことを、胎内巡りと言うこともある。まさに生まれ変わることを意味する。
 日本の仏教は、太陽信仰と無縁ではないと考える。四国遍路の場合は、観音信仰、補陀洛信仰も結びついているので、一般の仏教よりも蘇りの思想との関係性が深いといえる。日本は経済にかげりが見え、国民全体が鬱屈した状態の中で暮らしている。そんな中で、歩き遍路の数は199年当時に比べると、8倍程度に増えて、年間4000人前後と推測される。蘇りを願う心が遍路ブームの背景にあるのかもしれない。