澄禅著『四国辺路日記』を読み解く――札所の様子を中心に――

 

                柴谷宗叔・高野山大学密教文化研究所受託研究員(「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会役員)

              
              (―」(「高野山大学密教文化研究所紀要」第24号=2011年2月、高野山大学密教文化研究所発行)



 (一)はじめに


 四国遍路の本格的資料としては現存最古ともいえる澄禅(一六一三―八〇)の『四国辺路日記』(一六五三)颪鮠楮戮貌匹濆み、そこに記載されている内容を検討することによって、江戸時代前期の四国遍路の実態を明らかにする。また、その後の変遷、現在との比較を試みた。まず、澄禅の日記に記載された行程をたどり、現地調査をすることで、ルートの確定を試みた。その結果、日記に記載されている地名についてはすべて現在の地名に比定することができた。寺社名、所在地についても廃寺を含めほぼ比定できた。
 本稿では、日記に記された札所の様子について検証した。四国霊場の札所である各寺社の様子について記された資料としては現在確認できるものとしては最古であり、江戸時代前期の寺社の様子を知るのに格好の資料となると考える。日記の記載によると、荒廃している寺社が目立ち、その理由などについて考察を試みた。
 澄禅の日記についての先行研究としては、宮崎忍勝『澄禅四国遍路日記』 、近藤喜博『四国遍路研究』 のほか、近藤喜博『四國遍路』 、頼富本宏・白木利幸『四国遍路の研究』 、喜代吉榮徳「四国大師の所在」 、白木利幸「澄禅大徳の『四国遍路日記』」 、武田和昭「澄禅『四国辺路日記』から分かること」 がある。いずれも日記の内容に沿った紹介か、文献のみに頼る研究であり、現状との比較検討等は不十分であるといえる。本論は現地調査の結果をふまえ、他の史料も比較しながら検討した。


  (二)阿波


 澄禅の遍路は阿波(徳島県)から始まっているが、回る順番は現在の一番霊山寺からでなく、井土寺(十七番井戸寺、徳島市国府町井戸)から打ち始めている。ここでは日記の記載順に従って論を進める。
 遍路初日の承応二年(一六五三)七月二十五日に巡ったのは、井土寺、観音寺(十六番、同市国府町観音寺)、国分寺(十五番、同市国府町矢野)、常楽寺(十四番、同市国府町延命)、一ノ宮(一宮神社、現在の十三番札所大日寺は道を挟んで北側、同市一宮町西丁)の五寺社である。

  井土寺、堂舎悉ク退転シテ昔ノ�A (礎)ノミ残リ、二間四面ノ草堂在、是本
  堂也。本尊薬師如来也。寺ハクズ家浅マシキ躰也。住持ノ僧ノ無礼野鄙ナル様難述言語。(17)
  観音寺、本尊千手観音是モ悉ク退転ス。少(ママ)キ 草堂ノ軒端朽落テ棟柱傾タル在、是其形
  斗也。昔ノ寺ノ旧跡ト見ヘテ畠ノ中ニ大ナル石共ナラへテ在、所ノ者ニ問エハイツ比
  より ケ様ニ成シヤラン、シカト不存、堂ハ百性共談合シテ時々修理ヲ仕ヨシ。(16)
  国分寺、本尊薬師、少キ草堂是モ梁棟朽落テ仏像モ尊躰不具也。昔ノ堂ノ跡ト見ヘテ
  六七間四面三尺余ノ石トモナラヘテ在、哀ナル躰也。(15)
  常楽寺、本尊弥勒菩薩是モ少キ草堂也。(14)
  一ノ宮、松竹ノ茂タル中ニ東向ニ立玉ヘリ、前ニ五間斗ノソリ橋在リ、拝殿ハ左右三
  間宛也。殿閣結講也。本地十一面観音也。(13)

 一ノ宮に至って初めて「殿閣結構也」という記述が出てくるが、他の四か寺は「礎のみ残り」とか「小さき草堂」などと記され、ことごとく荒廃している様子がわかる。寂本『四国徧禮霊場記』(一六八九、以下『霊場記』と略す)でも常楽寺は「茅堂の傍一菴」、国分寺は「小堂一宇」、観音寺は「堂舎廃毀」などと荒れた様子が記されている 。鬚海譴蕕了ソ蠅篭繧┝膺夕漫愡郵徧礼名所図会』(一八〇〇) に至ってやっと寺観が整っている図が載せられているが、国分寺は『名所図会』でも本堂以外はみすぼらしく描かれている。なお、国分寺は古い礎石が並ぶ風景は現在も同じである。寂しい境内であることは変わりない。なお『霊場記』には「大日寺」という記述も出てきて一ノ宮の境内に描かれている 。

 以下同様に、阿波の札所の記載を見ていく。澄禅は藤井寺(十一番、吉野川市鴨島町飯尾)から焼山寺(十二番、神山町下分地中)、恩山寺(十八番、小松島市田野)、立江寺(十九番、小松島市立江)、鶴林寺(二十番、勝浦町生名)、大龍寺(二十一番、阿南市加茂町竜山)、平等寺(二十二番、阿南市新野町秋山)、薬王寺(二十三番、美波町奥河内寺前)の順に回り、土佐(高知県)へ入っている。

  藤井寺、本堂東向本尊薬師如来地景尤殊勝也。二王門朽ウセテ礎ノミ残リ、寺楼ノ跡、
  本堂ノ礎モ残テ所々ニ見タリ。今ノ堂ハ三間四面ノ草堂也。二天二菩薩十二神二王ナ
  トノ像、朽ル堂ノ隅ニ山ノ如クニ積置タリ。庭ノ傍ニ容膝斗ノ小庵在、其内より法師
  形ノ者一人出テ仏像修理ノ勧進ヲ云、各奉加ス。(11)
  焼山寺、本堂五間四面東向本尊虚空蔵菩薩也。イカニモ昔シ立也。古ハ瓦ニテフキケ
  ルカ縁ノ下ニ古キ瓦在、棟札文字消テ何代ニ修造シタリトモ不知、堂ノ右ノ傍ニ御影
  堂在、鎮守ハ熊野権現也。鐘モ鐘楼モ退転シタリシヲ先師法印慶安三年ニ再興  セラレ
  タル由、鐘ノ銘ニ見ヘタリ、當院主ハ廿二三成僧ナリ。(12)
  恩山寺、大道より右ノ谷エ入事五町斗ニシテ二王門在リ、夫より二町斗リ行テ寺 在、
  寺より右坂ヲ一町斗上テ本堂ニ至ル。本堂南向本尊薬師如来、右ノ方ニ御影堂在、其
  傍五輪ノ石塔ノコケムシタル在、此ハ大師ノ御母儀ノ御石塔也。地景殊勝ナル霊地也。
  寺ハ真言宗也。坊主ハ留主也。(18)
  立江寺、本堂東向本尊地蔵菩薩、寺ハ西向、坊主ハ出世無学ノ僧ナレトモ世間利発ニ
  シテ冨貴第一也。堂モ寺モ破損シタルヲ此僧再興セラレシト也。堂寺ノ躰誠ニ無能サ
  ウ也。(19)
  徇啝、山号霊鷲山本堂南向本尊ハ大師一刀三礼ノ御作ノ地蔵ノ像也。高サ壱尺八九
  寸後光御板失タリ、像ノム子ニ疵在リ。堂ノ東ノ方ニ御影堂在リ、鎮守ノ社在、鐘楼
  モ在、寺ハ徇啝ト云。寺主ハ上人也。寺領百石、寺家六万在リ。(20)
   大龍寺、山号捨身山本堂南向本尊虚空蔵菩薩、宝塔御影堂求聞持堂鐘楼鎮守ノ社大伽
  藍所也。古木回巌寺楼ノ景天下無双ノ霊地也。寺領百石六坊在リ。寺主上人礼儀丁寧
  也。(21)BR>   平等寺、本堂南向二間四面本尊薬師如来、寺ハ在家様也坊主□□ 。(22)
  薬王寺、本尊薬師本堂南向。先年焔上ノ後再興スル人無フシテ今ニコヤカケ也。二王
  門焼テ二王ハ本堂ノコヤノ内ニ在、寺モ南向是ハ再興在テ結構成。(23)

 藤井寺も荒れており、再興のための勧進をしていると記されている。焼山寺も退転、鐘楼を慶安二年(一六四九)に再建したとある。平等寺は「在家のよう」と記す。一方、恩山寺、鶴林寺、太龍寺は寺観が整っているような様子が書かれている。薬王寺は火災で仮設の本堂であることが記されているが、庫裏は再興されている。
 吉野川北岸の十か寺は、讃岐(香川県)の大窪寺(八十八番)を打ち終えてから最後に回っている。切幡寺(十番、阿波市市場町切幡観音)、法輪寺(九番、阿波市土成町土成田中)、熊谷寺(八番、阿波市土成町土成前田)、十楽寺(七番、阿波市土成町高尾法教田)、安楽寺(六番、上板町引野)、地蔵寺(五番、板野町羅漢)、黒谷寺(四番大日寺、板野町黒谷)、金泉寺(三番、板野町亀山下)、極楽寺(二番、鳴門市大麻町桧段の上)の順に回り、霊山寺(一番、鳴門市大麻町板東)で打ち納めた。

  阿波切幡寺、本堂南向本尊三如来、二王門鐘樓在、寺ハ妻帯ノ山伏住持セリ。(1  0)
  法輪寺、本尊三如来、堂舎寺院悉退転シテ小キ草堂ノミ在リ。(9)
  熊谷寺、普明山本堂南向本尊千手観音、春日大明神ノ御作ト云。像形四十二臂ノ上ニ
  又千手有リ、普通ノ像ニ相違セリ。昔ハ當寺繁昌ノ時ハ佛前ニテ法花ノ千部ヲ読誦シ
  テ其上ニテ開帳シケルト也。近年ハ衰微シテ毎年開帳スル也ト住持ノ僧開帳セラル拝
  之。内陣ニ大師御筆草字ノ額在リ、熊谷寺ト在リ、誠ニ裏ハ朽タリ。二王門在リ、二
  王ハ是モ大師御作ナリ。(8)
  十楽寺、是モ悉ク退転ス。堂モ形斗、本尊阿弥陁如来御首シ斗在リ。(7)
  安楽寺、駅路山浄土院本尊薬師如来、寺主有リ。(6)
  地蔵寺無尽山荘厳院、本堂南向本尊地蔵菩薩、寺ハ二町斗東ニ有リ。當寺ハ阿州半国
  ノ法燈ナリ。昔ハ門中ニ三千坊在リ、今モ七十余ケ寺在ル也。本堂護摩堂各殿庭前< ノ
  掛リ高大廣博ナル様也。當住持慈悲深重ニテ善根興隆ノ志尤モ深シ。寺領ハ少分ナレ
  トモ天性ノ福力ニテ自由ノ躰也。(5)
  黒谷寺、本尊大日如来、堂舎悉零落シタルヲ當所ニ大冨貴ノ俗有リ杢兵衛ト云、此仁
  ハ無二ノ信心者ニテ近年再興シテ堂ヲ結構ニシタルト也。(4)
  金泉寺、本堂南向本尊寺三如来ト云トモ釈迦ノ像斗在リ、寺ハ住持在リ。(3)
   極楽寺、本堂東向本尊阿弥陁、寺ハ退転シテ小庵ニ堂守ノ禅門在リ。(2)
  霊山寺、本堂南向本尊釈迦如来、寺ニハ僧在。(1)

 ここでも法輪寺、十楽寺、極楽寺を「退転」と表記、熊谷寺を「衰微」としている。地蔵寺、黒谷寺は復興の様子を記している。安楽寺は駅路山とあり、駅路寺であったことが示されている。駅路寺とは、徳島藩主蜂須賀家政(一五五八―一六三九)が慶長三年(一五九八)に作った制度である。遍路などの旅人を泊めるための寺で長谷寺(鳴門市撫養町木津)、瑞運寺(現在の六番安楽寺、上板町引野)、福生寺(吉野川市山川町川田)、長善寺(東みよし町中庄)、青色寺(三好市池田町佐野初作)、梅谷寺(阿南市桑野町鳥居前)、打越寺(美波町山河内)、円頓寺(廃寺、海陽町宍喰浦)の八か寺である 。戦国時代に荒れた寺を藩が費用を負担して伽藍整備をするとともに寺領十石を与えた。旅人の便を図るだけでなく不審者を監視する機能も持っていた。徳島城下で同様の役割を果たしたのが澄禅も泊まった持明院である 。九か寺とも真言寺である。
 澄禅の記載によると、阿波の札所は荒れ果てている寺が多い。二十三か寺中十二か寺が荒廃していた。その理由として考えられるのが戦国時代の被災である。長宗我部元親(一五三八―九九)による天正(一五七三―九二)の兵火で焼失したとみられ、寺伝等によると、霊山寺、極楽寺、地蔵寺、安楽寺、十楽寺、法輪寺、藤井寺、大日寺(一ノ宮)、常楽寺、国分寺、観音寺、井戸寺、恩山寺、立江寺、太龍寺、平等寺の十六か寺が罹災している 。ことに澄禅が最初に回った井戸寺から一ノ宮にかけては羽柴秀長(一五四〇―九九)との一宮城の攻防(一五八五)で主戦場になったあたりで被害甚大だったであろう。寺により復興の度合いが異なるが、寺領を持たない寺は苦しかったであろうことが推測される。


 (三)阿波の考察


 現状と比較してみる。まず、現在の札所の様子を記す。その上で澄禅の記載と比較する。
 (1)本堂南向、本尊釈迦如来。ここまでは澄禅の記載通り。現在は仁王門、多宝塔、大師堂、鐘楼、放生池あり。一番札所ということで参拝者が多く遍路用品の売店があるが、現在は本坊、宿坊(休業中)の一部も団体向けの臨時売店として利用している。
 (2)本堂東向、本尊阿弥陀。仁王門あり。本堂と大師堂は階段を上った山の中腹にある。澄禅の日記には樹齢千二百年とされる長命杉の記載なし。現在は本坊に宿坊あり。
 (3)本堂南向、本尊釈迦如来。仁王門、多宝塔、大師堂、放生池あり。澄禅は本尊三如来なれども釈迦のみと記すれど、現在も釈迦しかない。
 (4)本堂南向、本尊大日如来。仁王門、大師堂。本堂と大師堂の間に回廊あり、西国三十三観音の写し本尊を祀る。
 (5)本堂東向、本尊勝軍地蔵。仁王門、大師堂。境内北側に五百羅漢を祀る堂あり。
 (6)本堂東向、本尊薬師如来、仁王門は唐風、大師堂、多宝塔あり。現在は本坊にて宿坊経営す。
 (7)本堂南向、本尊阿弥陀。仁王門は唐風。大師堂あり。現在は本坊を兼ねる新築の宿坊あり。
 (8)本堂南向、本尊千手観音。仁王門は県重文、納経所から三重塔を経て中門、さらに上って本堂。大師堂は本堂から階段を昇ったところにあり。本坊は山の下にあり。 (9)本堂東向、本尊涅槃釈迦如来。仁王門、大師堂あり。澄禅は三如来と記すれど現状は釈迦しかない。
 (10)本堂南向、本尊千手観音。仁王門から三百三十三段の階段を上がる。本堂と大師堂あり。多宝塔は本堂からさらに上。本尊は澄禅は三如来と記すれど、現在は千手観音。寺の縁起等では江戸時代以前から弘法大師と幡切娘の千手観音の縁起を記しているので当時も本尊は千手観音であったと思われる。澄禅の誤記か。
 (11)本堂東向、本尊薬師。仁王門、鐘楼、大師堂あり。
 (12)本堂東向。本尊虚空蔵菩薩。右に大師堂、左に大黒堂。仁王門から階段を上がり納経所、さらに上がって本堂等がある。鐘楼あり。山上には奥ノ院禅定。中腹に毒蛇を封じた岩屋、閼伽井、山上に蔵王権現、護摩檀場という澄禅の記述の如く現存している。本坊で宿坊経営。
 (13)大日寺は本堂東向、本尊十一面観音。一宮の本地仏を本尊とし寺名の元となった大日如来は脇持。大師堂は本堂と向き合う形で西向。山門は一宮と向き合う境内南側に平成二十年建立。本堂西側の宿坊は休業中。道を隔てて南側に一宮神社。神社本殿は東向。反り橋は現存。現在は寂しい境内だが澄禅が「結構」と記した往時の繁栄をしのばせる造りである。
 (14)本堂南向、本尊弥勒。山門なし。大師堂は本堂の東側に西向。流水岩の一枚岩の上に建つ。
 (15)本堂北向、本尊薬師。仁王門あり。昔の礎石が並ぶ風景は現在も同じ。現在も独立した大師堂はなく烏瑟沙摩明王堂に大師が祀られている。
 (16)本堂南向、本尊千手観音。仁王門、大師堂あり。町中の小さな寺である。
 (17)本堂南向、本尊七仏薬師。仁王門、大師堂、観音堂あり。本坊で宿坊経営。  (18)本堂南向、本尊薬師。山門から三百メートルほど上がって境内。階段の上に本堂、階段の下左側に大師堂、その右側に続いた棟が大師母公を祀る母公堂。階段右に納経所を兼ねる本坊。
 19)本堂南向、本尊地蔵。大師堂は本堂と向かい合う形で北向。本坊は西向で宿坊を兼ねる。本堂東向云々の澄禅の記載と現状とは建物の方角が異なる。
 (20)本堂南向、本尊地蔵。仁王門に阿吽の鶴。階段左に本坊兼大師堂、階段上って本堂。鐘楼、三重塔あり。宿坊は休業中。
 (21)本堂東向、本尊虚空蔵菩薩。大師堂は東向、裏に大師廟あり。階段下に本坊。仁王門は徒歩遍路道沿いにあり。澄禅の日記に記載の岩屋は現存せず。昭和の戦後にセメント会社の石灰採掘場となった。
 (22)本堂南向、本尊薬師。仁王門、鐘楼あり。本坊は右、大師堂は左側。本堂は正面階段を昇った上。
 (23)本堂南向、本尊薬師。本坊横の山門を潜って三十三段と四十二段の厄除階段を上って本堂へ。大師堂は右側。左の六十一段の階段を上って多宝塔。境内南側に宿坊あり。
 荒廃して草庵のみだたった所は再建で風貌が異なるのは当然であるが、それ以外で澄禅の記載と現状が異なのは、金泉寺、法輪寺、切幡寺の本尊と、立江寺の諸堂の方角である。本尊については三如来を本尊とするところが現在全くないのに澄禅は三か寺で記載している。
 切幡寺については前記の通り誤りであると推定できる。金泉寺については現在も脇持に薬師如来、阿弥陀如来を奉安していることから三如来としても問題ない。法輪寺については、真念『四国邊路道指南』(一六八七、以下『道指南』と略す)ではすでに現在と同じ釈迦となっていることから 、澄禅の誤記である可能性は否定できない。法輪寺は天正年間(一五七三―九二)の兵火で焼失、正保年間(一六四四―四六)の再建とされるから、澄禅の遍路時には再建されていたはずである。にもかかわらず三如来と記しているのは見逃せない。現在は涅槃釈迦如来のみである。
 立江寺の諸堂の方角については、寺(庫裏)は西向というのは現在と一致しており、真念『道指南』も澄禅同様本堂東向と記していることから、本堂が南向である現在とは異なった伽藍配置であったことがわかる。
 『奉納四国中邊路之日記』(一六八八)では、金泉寺、法輪寺の記載は「三如来」と読める 。澄禅は海部の大師堂(弘法寺、徳島県海陽町四方原)で『辺路札所ノ日記』を購入しているのだが、内田九州男氏はこれが『奉納四国中邊路之日記』と非常によく似た内容で「世間流布ノ日記」といわれるようにかなり広がっていたとし、澄禅が参考にしていたとの見解を示している 。そうであるとすれば、澄禅が入手した『辺路札所ノ日記』の記載をそのまま写したという可能性は否定できない。なお、切幡寺の本尊については『奉納四国中邊路之日記』でも「千しゅ」(千手)と記されているので、澄禅の誤記の可能性は強まる。


 (四)土佐


 土佐(高知県)は結構寺観が整っていたようだ。長宗我部は自領内の寺を焼き討ちにすることはなかった。澄禅の日記によると、太守(山内忠義、一六〇九―六九)の再興とされる寺が多く、工事中も含め、東寺(二十四番最御崎寺、室戸市室戸岬町坂本)、津寺(二十五番津照寺、同市室津)、神峯(神峯神社、現在の二十七番札所神峯寺は少し下った所にある、安田町唐浜塩谷ヶ森)、大日寺(二十八番、香南市母代寺)、国分寺(二十九番、南国市国分)、一宮(土佐神社、現在の三十番札所善楽寺は東隣、高知市一宮)、五臺山(三十一番竹林寺、同市五台山)、種間寺(三十四番、同市春野町秋山)、清瀧寺(三十五番、土佐市高岡町清滝)、青龍寺(三十六番、同市宇佐町竜)、新田ノ五社(仁井田五社、現在の三十七番札所岩本寺の北東一・五キロ、四万十町仕手原)、寺山(三十九番延光寺、宿毛市平田町中山)の十二寺社の記載がある。「太守は信心者で殊に真言家に帰依」と記されていることからもわかる。また「小倉庄助(小倉勝介、一五八二―五四)に命じて悉く修造」との記載も見える。
 足摺山(三十八番金剛福寺、土佐清水市足摺岬)については天正年中に衰微との記載があるものの、なお寺領百石を有する大寺であり寺観も整っている。西寺(二十六番金剛頂寺、同市元崎山)、禅寺峯師(三十二番禅師峰寺、南国市十市)、高福寺(三十三番雪蹊寺、高知市長浜)についても衰退している様子は見えない。

  東寺、先本堂ハ九間四面ニ南向也。本尊虚空蔵菩薩左右二天ノ像在、堂ノ左ニ宝塔有、
  何モ近年太守ノ修造セラレテ美麓ヲ尽セリ(24)。
  津寺、本堂西向本尊地蔵菩薩、是モ太守より再興ニテ結構ナリ。寺ハ山下ニ有リ、寺
  主他行也(25)
  西寺、龍頭山金剛頂寺光明院、本堂南向本尊薬師如来、堂塔伽藍寺領以下東寺ニ同シ
  (26)。
  神峯、本堂三問四面本尊十一面観音也。扨、峯より下ニ寺ハ麓ニ有、無礼ノ僧ナリ  (27)。
  大日寺、山ノ少シ高キ所ニ在リ、本堂南向本尊金剛界ノ大日如来。是モ太守より近キ
  比修造有、四間四面ニ堅固ニ奇麗ナル作ナリ(28)。
  國分寺、本堂東向五間四面本尊千手観音也。摩尼山院ト号宝蔵院ナリ寺領三百石、寺
  家六坊有リ、近年堂塔破損シタルヲ太守右修理シ玉フ。其普請最中ニテ大工数十人居
  タリ。寺主ハ六十斗ノ僧也(29)。
  一宮、南向本地阿弥●如来宮殿樓門鳥居マテ高大廣博ナル大社也。前太守長曾我部殿
  修造セラレタル儘也。當守護侍従殿時々修理ヲ加ラルヽト云。山号ハ百々山、社僧神
  宮寺観音院トテ両寺有リ(30)。
  五臺山、本堂南向本尊文殊。誠ニ殊勝ナル境地也。本堂ハ太守より修造セラレテ美麗
  ヲ尽セリ。塔ハ當寺主宥厳上人ノ造工ナリ。鐘樓御影堂二王門山王権現ノ社、何モ太
  守ノ願ナリ(31)。
  禅寺峯師、本堂南向本尊十一面観音二王門在リ(32)。
  高福寺、後ハ山前ハ河也。中古より禅宗ニ成テ本尊薬師如来ノ堂也。玄関方丈ノ カヽ
  リ禅宗ノ寺立テ也。當住持ハ妙心寺流ノ大和尚也。本寺前ノ住也ト語ラレタリ。保福
  山雪蹊寺ト号ス。方丈ノ額ニ雪蹊寺ト書リ(33)。
  種間寺、本堂東向本尊薬師、是モ再興在テ新キ堂ナリ。山下ニ寺在リ(34)
  清瀧寺、醫王山本堂南向本尊薬師如来。是再興有テ結構也(35)。
  青龍寺、本堂東向本尊不動明王也。鎮主ハ白山権現也。頂上ニ不動堂在リシカ先年野
  火ノ余焔ニ焼失シタリ。然ヲ本堂再興ノ時太守より小倉庄助方ニ被仰付、不動ノ石像
  ヲ六尺斗ニ造テ同石堂ヲ九尺四方ニ立テ其内ニ安置セリ(36)。
  新田ノ五社、南向横ニ双ヒテ四社立玉フ、一社ハ少高キ所ニ山ノ上ニ立、何モ去年太
  守より造宮セラレテ結構也(37)。
  足摺山、勅額ノ号ハ金剛福寺ナリ。昔ハ寺領七千石余ニシテ七百坊在シヲ、天正年中
  ニ如此衰徴シタルナリ。今ハ十二坊在リ、寺領百石也。本堂南向本尊千手観音也。鐘
  楼二王門ノ掛リ中々大伽藍也(38)。
  寺山、本堂東向本尊薬師、二王門鐘樓御影堂鎮守ノ社、何モ此太守より再興在テ結構
  ナリ(39)。


 (五)土佐の考察


 土佐も現状を記した上、澄禅の日記の記載と比較して考察する。
 (24)山上に地形の平らな所。本堂南向、本尊虚空蔵菩薩。本堂に向かって右に多 宝塔、左手前に大師堂。護摩堂は西向。仁王門、鐘楼あり。北側にある本坊は宿坊。 (25)階段の途中に鐘楼門、山上に本堂西向、本尊地蔵菩薩。大師堂、庫裏は山下。
 (26)山上の階段を上る。本堂南向、本尊薬師如来。仁王門、鐘楼あり。大師堂は西向。西側にある本坊は宿坊。
  (27)山上に神峰神社、本殿南向。中腹に神峯寺。右に鳥居、左に仁王門の並ぶ場所で分岐。鐘楼、庫裏のある所から階段を上る。本堂南向、本尊十一面観音。大師堂は南側。
 (28)山の少し高いところ。本堂南向、本尊金剛界大日如来。山門、大師堂、鐘楼あり。
 (29)本堂南向、本尊千手観音。向かって左並びに大師堂。仁王門、鐘楼、開山堂あ(30)土佐神社。本殿南向、祭神一言主命・味鉏高彦根神。山門、鳥居、鐘楼あり。西側に善楽寺。本堂南向、本尊阿弥陀如来。向かって左並びに大師堂あり。り。
 (31)五台山上にあり。本堂南向、本尊文殊菩薩。大師堂は向き合う感じで北向。仁王門、鐘楼、宝物館、五重塔あり。少し下った所にある本坊には庭園。
 (32)本堂南向、本尊十一面観音。山上に至る参道の途中に仁王門。大師堂は本堂向かって左隣。鐘楼あり。
 (33)本堂南向、本尊薬師。大師堂は本堂右手前南向。鐘楼あり。東隣に秦神社。 (34)寺は平地にある。本堂北向、本尊薬師。大師堂は本堂右手前東向。大師堂向かいに柄杓を奉納する子安観音堂。
 (35)山上に本堂南向、本尊薬師如来。左隣に大師堂。前に薬師の大仏。鐘楼、仁王門あり。
 (36)本堂東向、本尊不動明王。大師堂は左隣。山への登り口に仁王門。麓に三重塔、恵果堂。
 (37)仁井田五社(現高岡神社)は南向に四社並び、西端の一社は小高い山の上。岩本寺は本堂東向、大師堂、鐘楼、仁王門あり。本坊で宿坊。
 (38)本堂南向、本尊千手観音。鐘楼、仁王門、多宝塔、権現堂、大師堂、愛染堂などを備えた大伽藍。西側の本坊で宿坊。
 (39)本堂南向、本尊薬師。大師堂は本堂左に東向。仁王門、鐘楼あり。

 神峯は江戸時代は、現在の神峯神社の本殿が観音堂で本尊の十一面観音が祀られていた。「寺は麓にある」との記載があるが、別当は常行寺(安田町安田、明治維新の廃仏毀釈で廃寺)で、養心庵(安田町唐浜、廃寺)で札を納める遍路もいたという 。 一宮は現在の土佐神社であるが、澄禅の日記に社僧として神宮寺、観音寺の二か寺を挙げているが、善楽寺の記載はない。
  仁井田五社は現在の高岡神社。四社立ち並び一社は少し高いところにあるのは現在も同じ。現在の三十七番札所である岩本寺は窪川の町中にあるが、澄禅の日記には一言も書かれていない。


 (六)伊予


 伊予(愛媛県)の札所もかなり荒廃していた。澄禅の日記では、観自在寺(四十番、愛南町御荘平城)、稲荷ノ社(四十一番龍光寺、宇和島市三間町戸雁)、明石寺(四十三番、西予市宇和町明石)、浄瑠璃寺(四十六番、松山市浄瑠璃町)、八坂寺(四十七番、松山市浄瑠璃町八坂)、浄土寺(四十九番、松山市鷹子町)、繁多寺(五十番、松山市畑寺町)、大山寺(五十二番太山寺、松山市太山寺町)、縣の円明寺 鵝文渊住揚岷簗浸、今治市阿方)、泰山寺(五十六番、今治市小泉)、香薗寺(六十一番香園寺、西条市小松町南川甲)、吉祥寺(六十三番、西条市氷見甲)の十二寺社が「退転」「小庵」「住持なし」等の記述となっている。
 天正の兵火の影響を受けたのは、菅生山(四十四番大宝寺、久万高原町菅生)、八坂寺、三嶋ノ宮(別宮大山祇神社、現在の五十五番札所南光坊の北に隣接、今治市別宮町)、国分寺(五十九番、今治市国分甲)、香園寺、一ノ宮(一宮神社、現在の六十二番宝寿寺から予讃線の線路を隔てた北側、西条市小松町新屋敷一本松)、吉祥寺、三角寺(六十五番、四国中央市金田町三角寺甲)の八寺社瑤如∪〜菊記の荒廃寺社と重なるのは三か寺しかない。他に理由があるのかもしれない。
 石手寺(五十一番、松山市石手)、菅生山を「大伽藍」と記している。その他の佛木寺(四十二番、宇和島市三間町側)、岩屋寺(四十五番、久万高原町七鳥)、西林寺(四十八番、松山市高井町)、和気の圓明寺(五十三番、松山市和気町)、八幡宮(石清水八幡宮、今治市玉川町八幡、現在の五十七番札所栄福寺は山の中腹)、佐礼山(五十八番仙遊寺、今治市玉川町別所甲)、横峯寺(六十番横峰寺、西条市小松町石鎚)、前神寺(六十四番、西条市州之内甲)については日記からは盛衰不明である。

  観自在寺、本堂南向本尊薬師如来、寺号ハ相違セリ。堂ノ内陣ニ観音ノ像モ在リ、香
  花供養ノ役者ニ法師ノ形ノ者一人在ケレトモ由緒等無案内ナリ(40)。
  稲荷ノ社、本地十一面観音田中ニ在リ小キ社ナリ(41)。
  佛木寺、本堂東向本尊金剛界大日如来座像五尺斗、一孰山毘盧舎那院ト号。堂ノ後ニ
  楠在リ。此枝ノ落タルヲ拾ヒテ諸国ニテ病ヲ治ト云(42)。
  明石寺、本尊千手観音本堂朽傾テ本尊ハ小キ薬師堂ニ移テ在リ、源光山延寿院ト云。
  寺主ハ無ク上ノ坊ト云山伏住セリ妻帯也(43)。
  菅生山、本堂九間四面、二王門鐘楼経蔵御影堂護摩堂鎮守ノ社双、賢固廣博ナル大伽
  藍也。本尊ハ生身ノ十一面観音也(44)。
  岩屋寺、二王門在リ。本堂三間四面本尊不動。堂ノ上ニ岩ノ洞木ヲ打渡シテ下より只
  柱一本ニテ持様ニカヲクミテ、其上ニ九尺方ノ宝形作ノ堂ヲ立テ、中ニ彼仙人ノ像ヲ
  人長ニ造玉テ置玉フ。爰ニ十七ノ桟子ヲ掛リ是ヲ上テ札ヲ納。其傍ニ六尺斗ノ塔婆在、
  顕ノ塔ナリ。扨、堂ノ下寺在リ(45)。
  浄瑠璃寺、本堂三間四面本地薬師如来日光月光十二神在、昔ハ大伽藍ナレトモ今ハ衰
  微シテ小キ寺一軒在リ(46)。
  八坂寺、熊野権現勧請也。昔ハ三山権現立ナラヒ玉フ故ニ廿五間ノ長床ニテ在ケルト也。
是モ今ハ小社也、本寺堂ハ本尊阿弥陁ナリ(47)。
  西林寺、本堂三間四面本尊十一面観音(48)。
  浄土寺、本堂五問四面本尊釈加如来、西林山吉祥院ト号、三蔵院ト云。又近所八幡ノ
  別當ヲ如来院ト云。此本堂零落シタリシヲ遊西禅門ト云道心者十方旦那ヲ勧テ再興シ
  タル也。堂ノ傍ニ祖師在リ、善導大師ノ影像、五躰不具ノ像トモ五六躰在リ(49)。
  繁多寺、本堂三間四面本尊薬師ナリ。此寺ハ律寺ニテ昔六十六坊ノ所ト也。實ニ大門
  ノ跡より二王門迄ハ三町斗也。本堂二王門モ雨タマラス、塔ハ朽落テ心柱九輪傾テ哀
  至極ノ躰ナリ(50)。
  石手寺、札所ノ本尊ハ薬師、本社ハ熊野三所権現、廿余間ノ長床在リ。ツ丶イテ本堂
  在リ、本尊文珠菩薩、三重ノ塔御影堂鐘樓二王門、与州無双ノ大伽藍也(51)。
  大山寺、廿五町下より町石在。大門ヲ入テ二王門迄六町、二王門より山迄六町、本堂
  九間四面本尊十一面観音也。少下テ五佛堂在リ悉朽傾テ在。楊柳山大山寺護持院ト云、
  昔ハ三千石ノ寺領ナレトモ天正年中ニ無縁所ト成ル、今モ六坊トテ在(52)。
  圓明寺、本堂南向本尊阿弥陀、行基菩薩ノ開基也。須賀山正智院ト云、寺主ハ関東辺
  ニテ新義ノ学シタル僧也(53)。
  円明寺、本尊不動明王、堂ハ小キ草堂寺モ小菴也(54)。
  三嶋ノ宮、本地大日ト在トモ大通智勝佛ナリ。此宮ヲ別宮ト云ハ爰より北、海迄七里
  往テ大三島トテ島在リ、此島大明神ノ本社在リ。今此宮ハ別宮トテカリニ御座ス所ナ
  リ本式ハ辺路ナレハ其島エ渡。爰ニ札ヲ納ルハ略義ナリ(55)。
  泰山寺、本堂東向本尊地蔵菩薩寺ハ南向、寺主ハ無シ、番衆ニ俗人モ居ル也(56)。
  八幡宮、本地弥陁、此山より見ハ今治三万石ヲ目ノ下ニ見ナリ(57)。
  佐礼山、本堂東向本尊千手観音也。大師此観音ノ像ヲ海中より求サセ玉イ山ヲ開キ安
  置シ玉フト也。廿八部衆二王ハ湛慶作ナリ。寺ハ遊仙寺トテ山下ニ在(58)。
  國分寺、本堂南向本尊薬師、寺樓庭上前栽誠ニ国分寺ト可云様ナリ(59)。
  一ノ宮、道より一町斗田ノ中ニ立玉ヘリ。地形余リヒキクシテ洪水ノ時悪鋪故、南ノ
  山エ度々移奉シカトモ元ノ地エ安座可在由、度々咤宣在ル故此所ニ御座ト也。本地十
  一面観音也。夫より川ヲ渡テ一本松ト云村ヲ過テ、新屋敷ト云所ニ右ノ社僧天養山保
  寿寺卜云寺在リ。寺主ハ高野山ニテ数年学セラレタル僧也(62)。
  香薗寺、本堂南向本尊金界大日如来。寺ハ在トモ住持無シ(61)。
  横峯寺、大坂ヲ上リテ少平地ナル所ニ二王門在リ。爰ニ佛光山ト云額在、銅ニテ文宇
  ヲ入タリ。本堂南向本尊大日又権現ノ社在リ。寺ニハ加賀ノ国ノ僧住持ス(60)。
  石槌山太権現、本地阿弥陀如来、嶽迄ハ十二里也。杆レトモ六月一日ニ山上ス、余時
  ハ山上不成也。右横峯ニ札ヲ納ルナリ(64A)。
  吉祥寺、本堂東向本尊毘沙門天、寺ハ退転シタリ(63)。
  前神寺トテ札所在リ、是ハ石槌山ノ里坊也(64B)。
  三角寺、本堂東向本尊十一面観音、前庭ノ紅葉無類ノ名木也。寺主四十斗ノ僧也(65)。


 (七)伊予の考察


 (40)本堂南向、本尊薬師。大師堂は左隣。本堂前に聖観音像。鐘楼、仁王門、宿坊あり。
 (41)龍光寺は山の中腹に本堂南向、本尊十一面観音、稲荷明神も鎮座。右側に大師堂西向。本堂と大師堂の間の階段を登ったところに稲荷社。鐘楼あり。麓の参道入口に鳥居。稲荷社は元禄元年(一六八八)に現在地に遷座した 。
 (42)本堂南向、本尊大日如来。大師堂は左隣。仁王門、鐘楼あり。
 (43)本堂東向、本尊千手観音。大師堂は右隣。仁王門、鐘楼あり。
 (44)山の中腹に本堂南向、本尊十一面観音。大師堂は右隣。鐘楼、宿坊あり。麓からの参道途中に仁王門。
 (45)山中に本堂東向、本尊不動明王。左側に大師堂。左に旧山門。山上、奥院方面から降りて来る遍路道からの入口にあたる。庫裏は一段下がった所に。本堂右に法華仙人堂跡の岩屋。新山門は麓からの参道の途中に。
 (46)本堂東向、本尊薬師。大師堂は右隣。鐘楼あり。
 (47)本堂東向、本尊阿弥陀。大師堂は左。間に閻魔堂。鐘楼、山門あり。
 (48)本堂南向、本尊十一面観音。大師堂は右隣。鐘楼、仁王門あり。
 (49)本堂南向、本尊釈迦如来、空也上人像あり。大師堂は右隣。鐘楼、仁王門あり。
 (50)本堂西向、本尊薬師。大師堂は右隣。鐘楼、山門あり。
 (51)本堂南向、本尊薬師。大師堂は右側。仁王門、鐘楼、三重塔、宝物館などの大伽藍。
 (52)一ノ門、大門入って右側に本坊。参道を登り三ノ門。本堂南向、本尊十一面観音。西側一段上がった所に大師堂東向。鐘楼、長者堂、聖徳太子堂など大伽藍。
 (53)本堂南向、本尊阿弥陀。大師堂は左手前東向。鐘楼、仁王門あり。
 (54)本堂南向、本尊不動明王。大師堂は左の階段を登った上に東向。鐘楼、山門あり。
 (55)別宮大山祇神社は本殿東向、祭神大山祇大神。南隣に南光坊。本堂東向、本尊大通智勝如来。大師堂は東側に西向。山門あり。
 (56)本堂南向、本尊地蔵菩薩。左に本坊。大師堂は南側に北向。鐘楼あり。
 (57)山上に石清水八幡宮。中腹に栄福寺。本堂南向、本尊阿弥陀。大師堂は右手前西向。
 (58)山上に本堂東向、本尊千手観音。東南に大師堂北向。鐘楼、宿坊あり。参道登る途中に仁王門。
 (59)本堂南向、本尊薬師。大師堂は右側西向。
 (60)山上に本堂東向、本尊大日如来。大師堂は向き合う形で西向。鐘楼あり。一段下がった所に本坊。西側に仁王門。六百メートル西に石鎚山遥拝所の星ガ森。
 (61)本堂兼大師堂の大聖堂東向、本尊大日如来。子安大師堂、鐘楼、宿坊あり。
 (62)宝寿寺旧本堂東向、本尊十一面観音。右に仮本堂、大師堂が南向で並ぶ。一宮神社は線路隔てた北側に。
 (63)本堂東向、本尊毘沙門天。左に大師堂北向。鐘楼、山門あり。
 (64A)石鎚山中腹のロープウェー山頂成就駅南西二百メートルに奥前神寺。南西七百メートルに石鎚神社成就社、さらに南西四キロの頂上に石鎚神社本社。
 (64B)前神寺は本堂北向、本尊阿弥陀。大師堂は北側一段下った所に西向。本坊はさらに北側下った所。鐘楼、権現堂、薬師堂など。西側に石鎚神社口之社。
 65)山の中腹に本堂東向、本尊十一面観音。右側奥に大師堂東向。北側に本坊。鐘楼門あり。

 稲荷(龍光寺)は田中に在る小さい社と記されている。現在の社は丘の中腹にあり、稲荷社をはさんで左右に龍光寺本堂と大師堂がある。明治の神仏分離後に現在の形となったが、寂本『霊場記』では稲荷社、大師堂とも中腹に描かれており 、澄禅が巡った時は移転前だったので、まだ田中にあったようだ。
 三嶋ノ宮について、本来の札所は大三島にある大山祇神社が本社であり、今治の別宮への参拝は略義であると記している。現在は南光坊への納経のみで、大山祇神社に参拝する人はほとんどいない。
 一宮と宝寿寺の関係について澄禅の日記には、新屋敷(西条市小松町新屋敷)という所に社僧の天養山保寿寺(宝寿寺)があると記している。また、寂本『霊場記』では札所名として「天養山観音院宝寿寺」と記されており一宮は前面にでてこない 。 
 前神寺は石槌山の里坊として澄禅の日記に登場する。ここにも札を納めている。当時は石鎚山が札所であったが、現在の札所である前神寺が里坊として既に存在していたことがわかる。澄禅は石鎚山の登拝は六月一日のみであるとし、石鎚山の納札を横峰寺の遥拝所(星が森、西条市小松町石鎚星森峠)と里前神寺の両方でしている。明治初年の神仏分離までは、山上に本寺があり神仏習合の霊地であった。神仏分離で石鎚神社だけとなり前神寺は廃寺となる。前神寺は明治十一年に里坊の位置に移転し再建。現在はロープウェーの山頂成就駅から少し上ったところに奥前神寺(西条市小松町石鎚成就)があり、七月一―十日の山開き期間のみ開扉される。


 (八)讃岐


 讃岐(香川県)は寺観が整っていた。荒廃していたのは、小松尾寺(六十七番大興寺、三豊市山本町小松尾)が「小庵」、出釈迦山(我拝師山、善通寺市吉原町、七十三番出釈迦寺=善通寺市吉原町=から南東二キロの山上)が「吹崩」、崇徳天皇(白峯宮、坂出市西庄町、現在の七十九番高照院天皇寺は神社をはさんで右に本坊・左に本堂大師堂等)が「退転」、大窪寺(八十八番、さぬき市多和兼割)が「本坊ばかり」と記されているぐらいである。
 雲辺寺(六十六番、徳島県三好市池田町白地)は讃岐の一番となっているが、実際は阿波にあり「近年阿波守(蜂須賀光隆=一六三〇―一六六六)が再興して結構」と再興された様子が書かれている。
 金蔵寺(七十六番金倉寺、善通寺市金蔵寺)、道隆寺(七十七番、多度津町北鴨)が「昔は七堂伽藍」として衰微したことをにおわせてはいるが荒廃しているということはない。
 天正の兵火にかかったのは、大興寺、本山寺(七十番、三豊市豊中町本山甲)、弥谷寺(七十一番、三豊市三野町大見乙)、甲山寺(七十四番、善通寺市弘田町)、金倉寺、道隆寺、国分寺(八十番、高松市国分寺町国分)、根香寺(八十二番、高松市中山町)、一ノ宮(田村神社、高松市一宮町、現在の八十三番一宮寺の東隣)、八栗寺(八十五番、高松市牟礼町牟礼落合)、志度寺(八十六番、さぬき市志度)、長尾寺(八十七番、さぬき市長尾西)、大窪寺の十三寺社 で、四国中一番多いが、日記を読む限りは大興寺、大窪寺以外は荒廃している様子はなく復興が早かったのだろう。また、曼荼羅寺(七十二番、善通寺市吉原町)は、慶長(一五九六―一六一五)の戦火で被災した 。
 瑟引八幡宮(琴弾八幡宮、観音寺市八幡町。現在の六十八番神恵院は観音寺境内。八幡宮は観音寺の西二百メートル)、観音寺(六十九番、観音寺市八幡町)、善通寺(七十五番、善通寺市善通寺町)、道場寺(七十八番郷照寺、宇多津町西町東)、白峯寺(八十一番、坂出市青海町)、屋島寺(八十四番、高松市屋島東町)の盛衰は日記からは読み取れない。

  雲辺寺、巨鼇山本堂東向本尊千手観音廿八部衆在リ、此山ハ阿讃伊三国ノ境トハ云ト
  モ山ハ阿州ノ内、札ハ讃州ノ最初ナリ。本堂ヲ近年阿波守殿より再興在テ結構ナリ。
  寺ハ古義学者丗余歳ノ僧住持セリ(66)。
  小松尾寺、本堂東向本尊薬師、寺ハ小庵也(67)。
  観音寺、本堂南向本尊正観音、大師ノ開基、桓武天皇ノ御願大同年中ノ造営也。寺ハ
  神恵寺六坊在リ(69)。
  瑟引八幡宮、南向本地阿弥陁如来(68)。
  本山七宝山長福寺持宝院、本堂南向七間四面本尊馬頭観音、二王門鐘樓在リ。寺主ハ
  四十斗ノ僧也(70)。
  弥谷寺、劔五山千手院、先坂口ニ二王門在。寺ハ南向、寺ノ広サ庭より一段上リテ鐘
  樓在、又一段上リテ護摩堂在、又一段上テ本堂在。山中石面ハ一ツモ不残佛像ヲ切付
  玉ヘリ(71)。
  曼荼羅寺、本堂東向本尊金剛界大日如来(72)。
  出釈迦山、近年堂ヲ造立シタレハ一夜ノ中ニ魔風起テ吹崩ナルト也。今見ニ板ノワレ
  タルト瓦ナト多シ、爰只曼荼羅寺ノ奥院ト可云山也(73)。
  甲山寺、本堂東向本尊薬師如来(74)。
  善通寺、本堂ハ御影堂、又五問四面ノ護摩堂在リ。札所ハ薬師如来大門サキニ有(75)。
  金蔵寺、本堂南向本尊薬師、鶏足山金蔵寺天台智證大師ノ開基也。昔ハ七堂伽藍ノ所
  也。四方築地ノ跡今ニ有(76)。
  道隆寺、本堂南向本尊藥師、道隆ノ親王建立ノ寺也。桑多山道隆寺明王院、是モ昔ハ
  七堂伽藍ノ所ナリ。本堂護摩堂由々敷様也。寺主ハ高野山ノ学徒ニテ有(77)。
  道場寺、本尊阿弥陁、寺ハ時宗也(78)。
  崇徳天皇、世間流布ノ日記ニハ如此ナレトモ大師御定ノ札所ハ彼金山ノ薬師也。實モ
  天皇ハ人皇七十五代ニテ渡セ玉ヘハ大師ニハ三百余年後也。御本堂ニハ十一面観音ヲ
  安置ス。其外七堂伽藍ノ数ケ寺立、三千貫ノ領地ヲ寄。此寺繁昌シテ金山薬師ハ在テ
  無カ如ニ成シ時、子細由緒ヲモ不知辺路修行ノ者トモカ此寺ヲ札所ト思ヒ巡礼シタル
  カ初ト成、今アヤマリテ来ト也。當寺ハ金花山悉地成就寺摩尼珠院ト云、今寺ハ退転
  シテ俗家ノ屋敷ト成リ(79)。
  国分寺、白牛山千手院、本堂九間四面本尊千手観音也。丈六ノ像也。傍ニ薬師在リ、
  鐘楼在、寺領百石ニテ美々鋪躰也(80)。
  白峯寺、當山ハ智證弘法両大師ノ開基五岳ノ随一也。智證大師一木ヲ以テ千手ノ像ヲ
  五躰彫刻シテ五所ニ安置シ玉フト也。當山ハ崇徳天皇ノ遺骨ヲ奉納セシ地也(81)。
  根香寺、青峯本尊千手観音五岳ノ一ツナリ(82)。
  一ノ宮、社壇モ鳥居モ南向本地正観音也(83)。
  屋島寺、先ツ當寺ノ開基鑑真和尚也。千手観音ヲ造本堂ニ安置シ玉フ(84)。
  八栗寺、本堂ハ南向本尊千手観音。峯ハ大磐石金輪際より出生テ形如五鈷杵。爰ニ寺
  ヲ立五鈷山八栗寺千手院ト号玉フ。絶頂ハ彼磐石ノ五鈷形エ上ル間中々恐キ所ナリ、
  上ニハ當山権現天照太神愛岩権現弁財天女ノ社壇在リ(85)。
  志度寺、本尊十一面観音本堂南向(86)。
  長尾寺、本堂南向本尊正観音也、寺ハ観音寺ト云當国ニ七観音トテ諸人崇敬ス。国分
  寺白峯寺屋島寺八栗寺根香寺志度寺當寺ヲ加テ七ケ所ナリ(87)。
  大窪寺、本堂南向本尊薬師如来、堂ノ西ニ塔在、半ハ破損シタリ。是モ昔ハ七堂伽藍
  ニテ十二坊在シカ今ハ無縁所ニテ本坊斗在(88)。


 (九)讃岐の考察


 (66)山上に本堂東向、本尊千手観音。鐘楼、護摩堂、本坊など。北に一段上がった所に大師堂東向。さらに上に毘沙門天展望館。南側の遍路道の登山途中に仁王門。 
 (67)山上に本堂東向、本尊薬師。左隣に大師堂、右隣に天台大師堂、右に本坊。麓の階段登り口に仁王門。
 (68)琴弾八幡宮は山上に本殿南向、祭神八幡大神。麓に社務所。
 (69)観音寺本堂南向、本尊聖観音。西側階段を登った所に神恵院旧本堂の薬師堂。南へ順に観音寺大師堂東向、神恵院新本堂東向、本尊阿弥陀、神恵院大師堂東向。鐘楼あり。麓に仁王門。
 (70)本堂南向、本尊馬頭観音。右手前に大師堂東向。五重塔、十王堂、鐘楼、仁王門など。
 (71)登山道途中に仁王門。賽の河原と呼ばれる参道から階段を登り、大師堂南向、獅子の岩屋と呼ばれる石窟に大師と両親の像。東側の鐘楼脇から階段を登り本堂南向、本尊千手観音。途中に摩崖仏多数。
 (72)本堂東向、本尊大日如来。左側に大師堂北向。右側に本坊。鐘楼、仁王門あり。
 (73)出釈迦寺は本堂東向、本尊釈迦如来。右隣に大師堂。山門あり。奥院は一・四キロ南の山上に西向。
 (74)本堂東向、本尊薬師。左隣の一段高いところに大師堂、さらに上に毘沙門窟。鐘楼、山門あり。
  (75)東院と西院に別れた大伽藍。東院に本堂の金堂南向、本尊薬師。五重塔、鐘楼、佐伯祖廟、南大門、赤門など。西院に大師堂である御影堂西向。宝物館、宿坊、遍照閣、仁王門など。
 (76)本堂南向、本尊薬師。西側に大師堂東向、弘法大師と智証大師、神変大菩薩。鐘楼、仁王門あり。
 (77)本堂南向、本尊薬師。右手前に大師堂。奥に多宝塔。鐘楼、仁王門あり。 
 (78)山の中腹に本堂南向、本尊阿弥陀。左手階段上に大師堂南向。西側の本坊に庭園。鐘楼、山門あり。
 (79)白峰宮は本殿東向、祭神崇徳天皇。正面に鳥居。南側に天皇寺本堂東向、本尊十一面観音。左隣に大師堂北向。鐘楼あり。神社挟んで北側に庫裏。
 (80)本堂南向、本尊千手観音。東側に大師堂兼寺務所。鐘楼、仁王門あり。
 (81)山中に本堂南向、本尊千手観音。右隣に大師堂。階段下の西側に崇徳天皇を祀る頓証寺殿。東に護摩堂、宿坊。境内西側に崇徳天皇陵。
 (82)山中に本堂東向、本尊千手観音。階段下北側に大師堂、南に庫裏。谷を隔てた東に仁王門。
 (83)田村神社は本殿南向、祭神倭迹々日百襲姫命。西隣に一宮寺。本堂東向、本尊聖観音。北に大師堂南向。鐘楼、仁王門あり。
 (84)山上に本堂南向、本尊千手観音。東に大師堂西向。鐘楼、宝物館など大伽藍。南に仁王門、四天門。
 (85)山の中腹に本堂南向、本尊聖観音。左手前に聖天堂。裏参道を東に行くと大師堂、多宝塔、さらに東に本坊。鐘楼、二天門あり。
 (86)本堂南向、本尊十一面観音。右隣に大師堂。南側に本坊。五重塔、鐘楼、仁王門ある大伽藍。
 (87)本堂南向、本尊聖観音。右隣に大師堂。仁王門あり。
 (88)山中に本堂南向、本尊薬師。西側一段上がった所に大師堂南向。多宝塔、鐘楼、仁王門あり。旧参道に二天門。

 弥谷寺には現在も仏像や梵字、名号を彫った摩崖仏が数多く現存する。澄禅は当時の摩崖仏の様子を詳しく記している。
 出釈迦山について、現在の七十三番出釈迦寺本堂は我拝師山の麓にあるが、元は現在の奥院の堂がある山上にあった。なお釈迦石像等は堂からさらに岩をよじ登った上に有る。距離や描写から言って澄禅は山上に参拝したとみられる。
 崇徳天皇(白峯宮)では、大師が定めた札所は金山薬師(金山奥の院・瑠璃光寺、坂出市西庄町)であるとしている。七十五代崇徳天皇(一一一九―六四、在位一一二三―四一)は大師より三百余年後である。天皇崩御の後、子細在って玉体を八十蘓ノ水(八十場の水、坂出市西庄町八十場)に三七日(二十一日)浸した。その跡だからここに宮殿を建てて神とあがめる。この寺が繁昌して金山薬師は衰退し、子細由緒を知らない辺路修行の者がこの寺を札所と思い巡礼しているが、これは誤りであると澄禅は記している。当寺は金花山悉地成就寺摩尼珠院といい、寺は退転して俗家の屋敷となっている。七十九番奥院・摩尼珠院は天皇寺の南一・五キロ、坂出市西庄町城山の城山山上近くの滝の脇にあり本尊不動明王。
 讃岐の寺社の復興は天正の兵火以降に入部した歴代領主の政策に負うところが多い。天正十三年(一五八五)豊臣秀吉から讃岐を与えられた仙石秀久(一五五二―一六一四)は、同十四年(一五八六)に白峯寺に百石の寄進米の請取について指示を出し、一宮田村神社には百石の寄進状を遣わした。
 同十五年(一五八七)に入部した生駒親正(一五二六―一六〇三)は『生駒記』に「神を尊び仏を敬ひ、古伝の寺社領を補ひ、新地をも寄附し、長宗我部焼失の場を造営し」とあるように信仰心厚く寺社の保護に努めた。さらに、一正(一五五五―一六一〇)、正俊(一五八六―一六二一)、高俊(一六一一―五九)の時代も寺社の保護は続き寛永十七年(一六四〇)までの生駒家治世期に、一宮田村神社、屋島寺、白峯寺、善通寺などの修復が行われている 。
 寛永十九年(一六四二)入部の松平頼重(一六二二―九五)も寺社保護を続け、屋島寺、根香寺、白峯寺などを加増したほか、摩尼珠院(天皇寺)、郷照寺、国分寺などで生駒家寄進の石高を安堵。さらに八栗寺、金倉寺、長尾寺などを復興した。延宝七年(一六七九)には一宮田村神社から別当大宝院(一宮寺)を分離、天和三年(一六八三)に国分寺、白峯寺、根香寺、屋島寺、八栗寺、志度寺、長尾寺を讃岐七観音に指定した 。


 (十)まとめ


 長宗我部元親の四国統一と豊臣秀吉の四国征伐による一連の天正の兵火は四国の寺社に大きな損害を与えた。これを含めた戦国時代の荒廃からの寺社の復興度合いは国によって異なる。
 澄禅の日記によると、阿波では二十三寺社中十二か所、伊予では二十六寺社中十二か所が荒廃している様子が書かれている。一方、土佐は十六寺社すべての寺観が整っており、讃岐も退転しているのは二十三寺社中四か所にすぎない。
 土佐では山内忠義が、讃岐は生駒氏をはじめとする歴代当主が再興に熱心に取り組んだ結果、澄禅の時代には復興はかなり進んでいた。それに比べ阿波、伊予では一部を除いて未着手であったことがうかがえる。その後各地で復興が進められ、寂本の『霊場記』が書かれた元禄二年(一六八九)には一部を除いて寺観が整っていることは同書の絵で明らかであるから、澄禅以後の復興であることがわかる。
 現状との比較でいけば、明治維新の神仏分離とそれに伴う廃仏毀釈による影響がある。神社が札所であったところが寺院に移管され札所が変更となった。神社の別当寺は廃寺とされたし、それ以外でも廃寺の憂き目にあっているところがある。特に高知での影響が大きかった。その後に昭和の太平洋戦争における被災も少なからずある。これらについては、今後詳細に検証することとし、今回は触れなかった。


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顱慂嬾日記』の「辺」は正しくは、しんにゅうに鳥の「桓」。「辺」の異体字。本論では引用文は「辺路」と表記、地の文は一般的な「遍路」を使用した。底本に塩竃神社(宮城県塩釜市)所蔵の正徳四年(一七一四)写本の影印本(高野山大学図書館所蔵)を使用。考察部分の引用は私に翻刻した。翻刻にあたっては、宮崎忍勝『澄禅四国遍路日記』(大東出版社、一九七七)、近藤喜博『四国遍路研究』(三弥井書店、一九八二)、伊予史談会『四国遍路記集』増訂三版(愛媛県教科図書、一九九七、以下『史談会本』と記す)の先行翻刻本を参照し校訂した。
鯀圧注1。
鸛圧注1。
桜楓社、一九七一。
国際日本文化研究センター、二〇〇一。
『善通寺教学研究会紀要第三号』(善通寺教学研究会、一九九六)五六―七四頁。 『善通寺教学研究会紀要第五号』(一九九八)七三―九六頁。
『善通寺教学研究会紀要第十四号』(二〇〇九)五〇―九七頁。
石扁に居。礎(いしずえ)の異体字とみられる。澄禅の作字か。本論では以下「礎」で表記。
「少キ」は澄禅の書き癖で「小さき」のこと。以下同じ。
顱崚察廚蓮屬茲蝓廚班週した。以下同じ。
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村上護『四国徧礼霊場記』(教育社、一九八七)一九二頁。
判読不能。
『徳島県史第四巻』(徳島県、一九六五)二七一頁。
三好昭一郎「徳島藩駅路寺制の研究」(『地方史研究二五三号』地方史研究協議会、一九九五)。
判読不能。
『徳島県史第四巻』(徳島県、一九六五)二七一頁。
内田九州男『資料紹介・「奉納四国中辺路之日記」』(「四国遍路と世界の巡礼研究」プロジェクト、二〇〇八)七、八頁。
顱愡駑曽匆陝Α嵎納四国中辺路之日記」』一頁。
髻惺眞慮の地名』(平凡社、一九八三)八〇頁。
鷙掌融代までは五十三番、五十四番ともに圓明寺と書き、五十三番は「えんみょうじ」、五十四番は「えんめいじ」と呼んで区別していた。しかし字面からは判別できないので地名を取って、和気の円明寺、阿方の円明寺と言っていた。澄禅の日記もこれに倣った。いずれにせよ隣り合う札所が同名では紛らわしく遍路泣かせであった。そこで、五十四番の方が明治初年に延命寺と改称した。
堯慇菽6掬機抛麁麋―二七九頁。
『三間町誌』(一九九四)八〇〇―八〇一頁。
『史談会本』一八七頁。
『史談会本』二〇四頁。
『先達教典』二八〇―三二五頁。
『先達教典』二九三頁。
『香川県史第三巻』(香川県、一九八九)五六二頁。
顱惺畧邯史第三巻』五六三―五六五頁。
髻惺畧邯史第三巻』五六九―五七三頁。


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