澄禅著『四国辺路日記』の足取りの検証

 

                柴谷宗叔・高野山大学密教文化研究所受託研究員(「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会役員)

              
              (「善通寺教学振興会」第16号=2011年3月、善通寺教学振興会発行)



 【一】 はじめに


 四国遍路の本格的資料としては現存最古ともいえる澄禅(一六一三―八〇)の『四国辺路日記』(一六五三) を詳細に読み込み、そこに記載されている内容を検討することによって、江戸時代前期の四国遍路の実態を明らかにするとともに、現在との比較を試みる。澄禅の日記に記載された行程をたどり、現地調査をすることで、ルートの確定を試みた。
 その結果、日記に記載されている地名についてはすべて現在の地名に比定することができた。寺社名、所在地についても廃寺を含めほぼ比定できた。ルートについては一部選択肢が残る部分があるものの、ほぼ推定することができた。これまで、愛媛県、徳島県教委 などの力で古い四国遍路道の調査が試みられてはいるが、現存する江戸時代以降の標石を元に昭和期まで使われていた道を再現したものである。標石は真念(?―一六九一)が貞享年間(一六八四―八八)以後に建立したものが最古であり 、真念の『四国邊路道指南』(一六八七) に記されたルートにほぼ合致する。しかし、それ以前の道は残念ながらわかっていない。従って真念に先立つ一六五三年当時の遍路道の詳細をたどったのは初めての試みであるといえる。
 以下、日記に従って澄禅の足取りをたどってみる。


 【二】 阿波


 承応二年(一六五三)七月十八日、高野山(和歌山県高野町高野山)を出発、渋田(同県かつらぎ町渋田)に泊まる(1)。
 十九日に和歌山城下(和歌山市中心部)に入り駿河町(和歌山市駿河町)泊。
 二十日、湊(和歌山市湊)から船に乗るが波浪のため逗留。
 二十四日出船、淡路島(兵庫県淡路島)、武島(沼島)などを見て阿州渭津(徳島県徳島市)に着く。大河(新町川)があり大橋(新町橋)が架かる。西の山(眉山)際に寺町(徳島市寺町)がある。持明院(廃寺、跡に常慶院滝薬師、徳島市眉山町大滝山)に泊。願成寺(徳島市寺町に現存)とともに真言の本寺であった。持明院から四国遍路の廻り手形を請け取る。霊山寺(一番、鳴門市大麻町板東)から回るより井土寺(十七番井戸寺、徳島市国府町井戸)からの方が良いとの伝授を受ける。
 二十五日、持明院を発ち井土寺に行く(2)。観音寺(十六番、徳島市国府町観音寺)、国分寺(十五番、徳島市国府町矢野)、常楽寺(十四番、徳島市国府町延命)へ(3)。二町ほどの川(鮎喰川)を歩いて渡る(4)。一ノ宮(一宮神社、現在の十三番札所大日寺は道を挟んで北側、同市一宮町西丁)の前に反り橋がある(現存)。
 もと来た道を帰り川(鮎喰川)を渡った。「阿波一国を一目に見る」峠を越えた(5)。大道(伊予街道)に出て、一里ほどいってサンチ村(吉野川市鴨島町山路)の民家に一泊した(6)。
 二十六日、藤井寺(十一番、吉野川市鴨島町飯尾)へ。焼山寺(十二番、神山町下分地中)へは山坂を三里(7)。「阿波無双の難所也」とある。藤井寺の南の山を登り、峠(柳水庵=神山町阿野松尾=あたり)の先にさらに高い大坂があり、絶頂(一本杉庵=浄蓮庵、神山町左右内=あたり)から谷底に下り、清浄潔斎なる谷河(左右内谷川=垢取川)で手水を使い、三十余町登って焼山寺へ。奥ノ院禅定(現存、神山町下分地中)が山上にある。寺より山上へ十八町、中腹に大師作三面六臂大黒像、毒蛇を封じた岩屋(現存)がある。求聞持修行の所。前に赤井(閼伽井)という清水。山上に蔵王権現(現存)。護摩檀場あり。昔毒蛇の住んだ池も。
 二十七日、寺を出て東の尾崎(山の突き出た所。杖杉庵あたり)より真下りに谷底(神山町下分鍋岩)へ。谷川(左右内谷川、鮎喰川)沿いに東へ三里余り行って民家に一宿(神山町鬼籠野あたりか)。
 二十八日、また谷川(鬼籠野谷川もしくは佐那河内村の園瀬川か)を何度も渡る苦労をして田野(小松島市田野)の恩山寺(十八番、小松島市田野町恩山寺谷)に(8)。恩山寺より東南十町ほどの民屋に泊。
 二十九日、東南一里で立江(小松島市立江)の地蔵寺(十九番立江寺)に。西へ向かい徇啝(二十番鶴林寺、勝浦町生名鷲ヶ尾)の麓(同町生名)に出る。奥院(現在の慈眼寺、上勝町正木)へは二里、滝(灌頂瀧)の記述も。寺家の愛染院(廃寺、鶴林寺山内)に泊まる。
 三十日、鶴林寺から下って大河(那賀川)を舟で渡る。細谷川(若杉谷川)沿いに坂を登り、大龍寺(二十一番、阿南市加茂町竜山)で泊まる。
 八月一日、奥院身捨山(南舎心)へ。巌の突き出た所に不動堂(9)。三十町ほど下り岩屋(大龍窟という鍾乳洞、現存せず)があった(10)。下って、荒田野(阿南市新野町)の平等寺(二十二番、同市新野町秋山)へ。平等寺前の大河(桑野川)を渡って河辺の民家(阿南市新野町馬場)に一宿。
 二日、山と海の上り下りを繰り返し川を三瀬(木岐川、北河内谷川、日和佐川か)渡って、ヒワサ(美波町の旧日和佐町中心部)の薬王寺(二十三番、美波町奥河内寺前)へ(11)。薬王寺から右の道(美波町西河内経由の道か)を一里ほど行って貧乏在家(美波町西河内あたりか)に一宿(12)。
 三日、難所を上下して五里ほど行って(13)、浅河(海陽町浅川)の地蔵寺(廃寺)に一宿(14)。
 四日、寺から一里ほどの海部ノ大師堂(弘法寺、海陽町四方原) という辺路屋で納札。『辺路札所ノ日記』を購入した(15)。大河(海部川)に渡守なし。海部(海陽町の旧海部町)の真言寺は観音寺(廃寺、海陽町鞆浦)、藥師院(薬師寺、海陽町奥浦)、唱満院(万照寺=同町鞆浦=か)の三ケ所 。浦伝いに廉喰(海陽町の旧宍喰町)に至る。辺路屋(円頓寺=廃寺、海陽町宍喰浦)に宿泊を断わられる(16)。大河(宍喰川)を渡り、阿波土佐両国境の関所で廻り手形出し通る。坂を越え神浦(高知県東洋町甲浦)へ。千光寺(廃寺、東洋町甲浦千光寺谷)に泊まる(17)。


 【三】 阿波検証


 (1)翻刻本ではいずれも「黒田」と記しているが、そのような地名は付近になく、影印本で確認したところ「渋田」と読める。
 (2)後に「元来た大道」との記載があるので伊予街道(国道一九二号とほぼ並行)を行ったであろう。当時、鮎喰川に橋は無かったので現在の上鮎喰橋の少し上流を歩き渡ったと思われる。
 (3)井戸寺から常楽寺までは現在の遍路道とほぼ同じと考えられる。
 (4)現在の一宮橋の少し上流あたりと思われる。
  〈A〉一ノ宮、松竹ノ茂タル中ニ東向ニ立玉ヘリ、前ニ五間斗ノソリ橋在リ、拝殿ハ
  左右三間宛也。殿閣結講也。本地十一面観音也。札ヲ納メ念誦看経シテ、扨本来ル道
  エ帰テ件ノ川ヲ渡テ野坂ヲ上ル事廿余町、峠ニ至テ見ハ阿波一国ヲ一目ニ見ル所也。
  爰ニテ休息シテ又坂ヲ下リテ村里ノ中道ヲ経テ大道ニ出タリ、一里斗往テ日暮ケレハ
  サンチ村ト云所ノ民屋ニ一宿ス。
 
 (5)徳島市入田町月ノ宮と石井町石井を結ぶ山越え、地蔵峠ではないかと思われる。西側にある童学寺越、曲突越は「野坂を上る事廿余町」の記述から離れすぎるからである。なお、地蔵越は現在北の石井町側に道はあるが、南の月ノ宮側はゴルフ場造成で道がなくなってしまっていて通行不能。峠からは南側・北側とも眺望が開け、特に北側は吉野川流域が一望できる。峠には地蔵を祀る祠がある。
 (6)山路の地名は、峠の麓の石井町石井にもあるが、一里の行程から吉野川市鴨島町山路が適当と考える。伊予街道を下浦(石井町浦庄下浦)から分岐する森山街道に取れば街道沿いに鴨島町山路がある。藤井寺へは伊予街道より森山街道の方が近い。宮崎本では「サンチ村」を徳島県名西郡神山町左右内ではないかとしている。左右内は山の反対側にある地名で行程上ありえない場所である。また、近藤本では「サンケ村」と翻刻している。しかし、付近にサンケに相応する地名は見当たらない。影印本を見ると「ケ」のほうが近いが「チ」とも読める。従ってサンチと読み山路(サンヂ)に比定するのが妥当と判断した。
 (7)現在の歩き遍路道とほぼ同じと考えられる。現在でも阿波一番の難所である。現在の番外札所である長戸庵、柳水庵、一本杉庵の記載はない。
  〈B〉廿七日早天ニ寺ヲ出、東ノ尾崎より 真下リニ深谷ノ底ニ下ル。此谷河ニ付テ東
  へ往也。又跡ノ一宮へ往テモ道ノリハ同事也。多分ハ一宮ニ荷俵ヲ置テ藤井焼山ノ札
  ヲ納テ、焼山寺より一宮エ皈リテ田野ノ恩山寺エ往也。予ハ元ト来シ道ヘハ無益也ト
  順道コソ修行ナレト思テ此谷道ヲ通也。此道ノ躰、細谷川ノ一筋流タルニ付テ往道ナ
  レハ此三里ノ間ニハ二三十度モワタラント覚タリ。三里余リ往テ白雨降来ケル間、民
  家ニ立寄テ一宿ス。此夜ハ庚申トテ一家ノ男女沐浴潔斎シテ作業ヲ休テ遊居タリ。廿
  八日宿ヲ出テ又谷川ヲ渡リヽヽテ行程ニ終日苦身シテ田野恩山寺ニ至ル。焼山より是
  迄八里也。廻リヽヽテ元ノ猪ノ津ノ隣ニ出ル也。
 
 (8)一宮往復を避けたとの記述があることから、鮎喰川沿いに一宮付近に下ったのではなく、鬼籠野から佐那河内村経由の道を辿ったものと思われる。鬼籠野から国道四三八号旧道を二キロほど行ってトンネルの手前に南の神山町鬼籠野小原へ分岐する道がある。一キロほどで佐那河内村との境、府能峠(標高二九〇メートル)に出る。薬師を祀る祠がある。ここから佐那河内村中心部へは谷底へ下る感じで降りていく。根郷越、横峰峠などもあるが「法印のたお」と呼ばれ主街道だった府能峠が距離も短く標高も低く一番可能性が高い 。佐那河内村下高樋から県道一八号、三三号、一三六号沿いに小松島市田野へ出る。勝浦川(現在の野上橋、徳島市多家良町―小松島市田浦)も歩き渡ったか。
 (9)現在は小さな祠があり、弘法大師が三教指帰に記した場所で求聞持法を修したとされている。
 (10)昭和三十八年ごろにセメント会社の採石場となった。現在は洞窟の跡を偲ばせるものは無い。
 (11)澄禅の記述では海辺に出ているので現在の国道五五号線沿いの遍路道でなく由岐町(美波町の旧由岐町)経由のルートをとったと考えられる。阿南市福井町から県道二五号と離合しながら日和佐に至る旧土佐街道。現在でも海辺と山越えが繰り返される難路である。
 (12)薬王寺の山門を出て右であれば国道五五号沿いの土佐街道かと思われる。しかし、泊まった場所と距離の関係から見ていくと、進行方向(室戸)に向かって右、つまり日和佐川に沿っていくもうひとつの土佐街道、美波町西河内経由の道とみられる。泊まったのも西河内の集落であろう。両道の合流点である同町山河内には徳島藩の駅路寺である打越寺(現存、美波町山河内)があったのだが、その記述がないことからも、手前で宿泊したことがうかがえるからである。
 (13)難所は八坂八浜といい、浜と山の繰り返しが八回ある。途中、鯖大師(海陽町浅川鯖瀬)の記述なし。
 (14)地蔵寺は稲の観音堂(廃寺、海陽町浅川稲)に合併された 。現在、観音堂は津波避難所に改造されているが、敷地内に地蔵を祀る祠がある。
 (15)この記述から澄禅以前に既に遍路日記があり、ガイド本として販売されていたことがわかる。発見されれば遍路研究が進むことは間違いないが、現在のところどのようなものであったかを知ることはできない。
 (16)円頓寺は昭和二十一年の南海地震で被災し、同地の大日寺に合併された。
 (17)甲浦の集落に入って間もなく千光寺谷という場所があり、小高い丘の上に寺の址と見える広場と地蔵の祠がある。東寺の末という。東寺とは京都の教王護国寺のことではなく、室戸の最御崎寺を指すと思われる。
 
 
 【四】 土佐
 
 
 五日、雨で正午に出、二里ほど行って野根(高知県東洋町野根)に至る。大河(相間川)増水して幡多(高知県幡多郡)の辺路衆らと急ぎ渡る。野根ノ大師堂(東洋大師明徳寺、東洋町野根)という辺路屋で泊(18)。
 六日、難所の土州飛石ハ子石(飛び石跳ね石ごろごろ石という難所=東洋町野根から室戸市佐喜浜町に至る海岸)にかかる。三里の間は東は海、西は山で民家も無い所。海に七八里突き出した室戸岬への行道。海辺の岩石を飛び越えながら行く。難所を三里ほど行って佛崎(室戸市佐喜浜町水尻谷)という奇巌妙石が積み重なった所で札を納めた(19)。十余町行って貧しい漁父の家(室戸市佐喜浜町入木か)があり、ここまで六七里の間には米穀はないと記している(20)。六里ほど行って漁翁の家に泊(室戸市室戸岬町椎名あたりか)。
 七日は海辺を三里ばかりで土州室戸ノ崎(室戸岬)に至る。薬王寺より二十一里。
 東寺(二十四番最御崎寺、室戸市室戸岬町坂本)の山下の海辺の中央に岩屋(御厨人窟=御蔵洞、同市室戸岬町岬)がある。愛満室満権現という鎮守である(21)。(洞窟から海に向かって)左に地主の神社を祀る小さき岩屋(神明窟)がある。一町ほどで大師修行の求聞持堂(現存せず)。その奥に岩屋(観音窟) (22)。山上への登りは八町 。
 八日、寺から一里で津寺(二十五番津照寺、同市室津)へ。一里で西寺(二十六番金剛頂寺、同市元崎山)へ。麓(同市元)の民家に泊。
 九日、宿を出て田野(田野町)の大河(奈半利川)を渡し舟で渡り、田野新町(同町新町)から一里行って安田川(現行)を歩いて渡る。神峯の麓タウノ濱(安田町唐浜)で一泊。クワズ貝(貝の化石)あり。神峯(神峯神社、同町唐浜塩谷ヶ森、現在の二十七番札所神峯寺は少し下った所=同町唐浜竹林山=にある)に麓の浜より一里上る(23)。寺は麓にある(養心庵、同町唐浜薬師)(24)。
 十日、アキ(安芸市中心部)、新城(同市穴内新城)、砂浜を歩き赤野(同市赤野)の民屋に宿。
 十一日、小坂を越えテ井(香南市手結)へ。一里ほど松原を行って赤岡(同市赤岡町)に出る。一里ほどで大日寺(二十八番、香南市母代寺)。宿泊を断わられ麓の菩提寺(母代寺=廃寺、同市母代寺)の在所で泊(25)。
 十二日、雨の中、言云川(物部川)を渡る。民家(香美市の旧土佐山田町)で雨宿り。国分寺の近所の眠リ川(国分川)が大水で渡れないため、近辺の田島寺(廃寺、南国市廿枝西島、跡に観音堂)に一宿(26)。
 十三日、寺から川下の橋を渡り国分寺(二十九番、南国市国分)へ。大日寺より直行なら一里。一宮(土佐神社、現在の三十番札所善楽寺は東隣、高知市一宮)へ二里。一宮の社僧に神宮寺、観音院の両寺(27)。
 西一里ばかりの小山に華麗な社(掛川神社、高知市薊野中町)。社僧は天台宗日讃(現在の国清寺)(28)。そこから二十余町で高智山(高知市中心部)に至る。常通寺(廃寺、同市大膳町)、永国寺(廃寺、同市永国寺町)は土佐藩の祈願所(29)。常通寺、五台山(竹林寺)、西寺(金剛頂寺)が土佐の真言本寺。蓮池町(同市はりまや町)安養院(廃寺)に一宿。雨で五日逗留(30)。
 十九日、川舟(鏡川か)に乗って五臺山(三十一番竹林寺、同市五台山)へ 。逗留。
 二十四日、禅寺峯師(三十二番禅師峰寺、南国市十市)へ二里。一里ほどで浦戸(高知市浦戸)。大河(浦戸湾)渡し舟で自由に渡れる(31)。一里余行って高福寺(三十三番雪蹊寺、同市長浜)。西一里ほどの秋山(高知市春野町秋山)で泊。間に河二瀬(いずれも新川川)。
 二十五日、(雪蹊寺から)種間寺(三十四番、高知市春野町秋山)まで二里。西一里ばかりで新居戸ノ渡(仁淀川)渡船で自由に渡る(32)。新居戸(土佐市高岡町)の宿に荷物を置いて清瀧寺(三十五番、土佐市高岡町清滝)往復。清瀧寺へ一里。麓に八幡宮(松尾八幡宮、同市高岡町乙)。新居戸の宿で荷物を受け取り川(仁淀川)沿いに下り新村(同市新居)で泊。
 二十六日、浦伝いに一里ほどで福島(同市宇佐町福島)。井ノ尻瀧ノ渡(33)を舟賃払って渡る。対岸の井ノ尻(同市宇佐町井尻)の宿に荷物を置き青龍寺(三十六番、同市宇佐町竜)へ二十五町。七八町上り七八町平地へ下る(竜坂)、大師作という蓮池(池は現存だが蓮はない)があり奥に寺がある。清瀧寺より三里。北東に独鈷杵に似た独鈷嶽があり頂上に石堂(現在の奥の院) 。寺に泊。
 二十七日、雨で井ノ尻の漁父の小屋に宿。
 二十八日、船で三里入江を行く(34)。奥津横波(須崎市浦ノ内東分横浪)で上陸、陸路二十町ほどの大浦(同市浦ノ内西分大浦)の宿で朝食、カトヤ(同市須崎角谷)で休憩し一瀬(新庄川か)渡って、カトヤ坂(角谷坂)を越え谷底(同市安和)へ下って、土佐無双の大坂とされる焼坂(焼坂峠)を越えた。河(久礼川)を渡って久礼(中土佐町久礼)の曹洞宗龍沢山常賢寺(廃寺) に泊。
 二十九日、南西の一里ほどある焼坂に劣らぬ坂(久礼坂)を越え野を行き、新田ノ五社(仁井田五社、現在の三十七番札所岩本寺の北東一・五キロ、四万十町仕手原)へは北の山際道は川(仁井田川)が荒れて渡りにくいという行人の教えに従い、左の大道(幡多道)を行って平節(平櫛=四万十町平串)の川を歩き渡る。五社の前にある大河(四万十川)は舟も橋も無い難所で歩き渡る。洪水時には何日も足止めとなる。青龍寺より十三里。新田ノ五社は南向に四社並び建ち、一社は小高い山上に建つ(35)。納札し読経念誦して川渡って戻り窪川(四万十町窪川)で泊(36)。
 三十日、窪川を出、片坂(現行=四万十町と黒潮町の境)を越え、坂の下より細分(畑分=幡多郡)。大谷川(伊与木川)を何度も渡り下り四里ほど行きイヨキ土井村(黒潮町伊与喜)の真言宗随生寺(随正寺=廃寺) に泊。
 九月一日、一里半ほどでサガ(黒潮町佐賀)へ、大坂上下一里半、有井川(現行)を渡る。大道(幡多道)より北十町ほどの小高い所に後醍醐天皇一ノ宮(尊良親王)遠流配所の籠御所跡に世話をした有井庄司の五輪石塔がある(現存、黒潮町有井川)。坂を越え川口(黒潮町上川口)、坂越え武知(黒潮町浮鞭鞭)の民家に泊。
 二日、鞭を出、中居入野(黒潮町入野)の浜は満潮で通れず野坂を越え田浦(黒潮町田野浦)に出る(37)。海辺を行って高島(四万十市竹島)に出る。高島ノ渡(38)という大河(四万十川)に渡舟無く、通りがかりの舟に頼んで渡る。川上一里ほどに中村(四万十市の旧中村市中心部)の城。川向の真崎(同市間崎)の妙心寺流の禅寺、見善寺(廃寺) に泊。
 三日、津倉淵(四万十市津蔵渕)を過ぎイツタ坂(伊豆田坂)という大坂(39)越えるが、大雨大風で落石あり苦労する。峠を下り一ノ瀬(土佐清水市下ノ加江市ノ瀬)に至る、足摺山へ七里。下ノカヤ(土佐清水市下ノ加江)を過ぎ入江の松原の奥のヲ丶キ村(土佐清水市大岐)で泊。寺山(三十九番延光寺、宿毛市平田町中山)に行くのにヲツキ(月山神社、大月町月山)、ヲサ丶(篠山神社、愛媛県愛南町正木篠山)の番外札所がある(40)。
 四日、海辺を上り下りしながらイフリ(土佐清水市以布利)を過ぎ、窪津(土佐清水市窪津)には足摺山末寺の海蔵院(現存)がある。一里で津洛(土佐清水市津路)、さらに一里で足摺山(三十八番金剛福寺、土佐清水市足摺岬)に。五日、六日逗留。
 七日、足摺山ノ崎(足摺岬)を回って、松尾(土佐清水市松尾)、志水(土佐清水市清水)を経て、三崎(土佐清水市三崎)の浜で阿波国を同日に出て逆打ちしていた高野吉野の遍路衆と遭う。徳島を同日に出発して逆打ちしている(41)。川口(土佐清水市下川口)の浄土宗正善寺(廃寺、跡に大師寺)に泊まる(42)。
 八日、十町ほど行き大坂二つ越え貝ノ河(土佐清水市貝ノ川)。粟津(土佐清水市大津)サイツ野(大月町才角)など経由、浜坂を上り下りして御月山(月山神社、大月町月山)に至る(43)。下の寺に泊る。
 九日、御月を出て西伯(大月町西泊)、コヅクシ(宿毛市小筑紫町小筑紫)に出る(44)。イヨ野(同市小筑紫町伊与野)の真言宗瀧厳寺(現存だが無住)に泊。御月山より四里。
 十日、ミクレ坂(三倉坂)(45)を越え宿毛(宿毛市中心部)に。浄土寺(同市宿毛)(46)に荷物を置き寺山(三十九番延光寺、同市平田町中山)へ往復二里(五十町一里)。近所に南光院という妻帯山伏(47)。宿毛の浄土寺泊。足摺山より寺山まで十三里。御月山を掛ければ十六里。
 十一日、寺から一里で小山という所に関所(同市大深浦に松尾坂番所跡)(48)。伊与国松尾坂の下り付に関所(愛媛県愛南町小山)。宇和島藩が番所を置く。坂越えヒロミ(愛南町広見)へ。御篠山(篠山神社、愛南町正木)へはここに荷物を置いて二里行く。ヒロミより一里ほどの城辺(愛南町の旧城辺町中心部)の民屋に一宿。
 
 
 【五】土佐検証
 
 
 (18)野根ノ大師堂の手前で、「大河増水して幡多(同県幡多郡)の辺路衆らと急ぎ渡る」との記述がある。明徳寺の手前であれば相間川ということになるが、大河とはいいがたい川である。明徳寺の先には大河と言うにふさわしい野根川がある。川の先の辺路屋で泊まったとすれば、野根川南岸にある庚申堂(地蔵堂=同町野根)が該当するかもしれないが、住持するような堂ではない。
 (19)現在は当該の番外札所はないが、東洋町から室戸市佐喜浜町に入ってすぐの水尻谷あたりに佛崎と思われる場所を見つけた。海に突き出た岩が仏像のように見え、石仏も祀られている。石仏に年号を見つけることはできなかった。仏海上人(?―一七六九)作との説もあるが 、澄禅の時代にはなかったこととなる。飛び石跳ね石の難所から三里、十余町で室戸市佐喜浜町入木、六里で泊まった民家のある室戸市室戸岬町椎名、そこから三里で室戸岬の記述から距離的に適合する。
 
  〈C〉六日早天宿ヲ立テ、彼ノ音ニ聞土州飛石ハ子石ト云所ニ掛ル。此道ハ難所ニテ
  三里カ間ニハ宿モ無シ、陸より南エ七八里サシ出タル室戸ノ崎へ行道ナリ。先東ハ海
  上漫々タリ、西ハ大山也、京大坂辺ニテ薪ニ成ル車木ト云材木ノ出ル山也。其木ヲ切
  ル斧ノ音ノ幽ニ聞ユル斗也。其海岸ニ廣サ八九間十間斗ニ川原ノ様ニ鞠ノ勢程成石ト
  モ布キナラヘタル山ヲ飛越ハ子越行也。前々道リシ人跡少見ユル様ナルヲ知ヘニシテ
  行也。或ハ又上ノ山より大石トモ落重テ幾丈トモ不知所在リ、ケ様ノ所ハ岩角ニトリ
  付、足ヲ爪立テ過行、誠ニ人間ノ可通道ニテハ無シ。此難所ヲ三里斗往テ佛崎トテ奇
  巌妙石ヲ積重タル所在リ、爰ニテ札ヲ納、各聚砂為仏塔ノ手向ヲナシ読経念仏シテ巡
  リ、夫より十余町往テ貧キ漁父ノ家在リ。此道六七里ノ間ニハ米穀ノ類カツテ無シ、
  兼テ一鉢ノ用意無テハ難叶所也。猶海辺ヲ過キ行、其よりハ道筋ヲ見分ル様ナル砂也。
  彼是六里斗往テ漁翁ニ請テ一宿ス。
 
 (20)現在は国道五五号線が海岸線を走ってはいるが、野根から入木までの区間は民家はおろか自動販売機一つない難所であることは変わりない。
 (21)御蔵洞は現在「五所神社」とされ、祭神は大国主命となっているが、かつては愛満権現の表記があった。『南路志』には空海が毒蛇を退散させた跡に愛染明王を祀ったとある。室満権現は不明だが、現在、法満宮(崎山神社、室戸市元崎山)が二十六番金剛頂寺近くにあり 、祭神大海命はかつて法満大権現とされ、本地は不動明王であった 。澄禅は法満を宝満と書こうとして室満と誤記した可能性もある。真念『道指南』には愛満権現とある。小さき岩屋とは、現在の神明窟(神明宮)を指すと思われる。
 
  〈D〉東寺、先山下ノ海辺ニ踞虎幡龍ノ巌石西湖ノ数景、東陸ノ小嶋松島ト云トモ是
  程ニハ在シト思キ景地在リ。其中央ニ岩屋在リ、只一丈斗ニシテ奥ヘハ廿間モ可在、
  一段高キ所ニ石ヲ磨結構シタル社在リ、愛満室満権現トテ當山ノ鎮守也。又岩屋ノ左
  ノ方ニ小キ岩屋在リ、是モ地主ノ神社也又右ノ方エ壱町斗行、大師修行シ玉イタル求
  聞持堂在リ、何モ太守より再講シ玉フ也。其奥ニ又岩屋在リ、如意輪観音ノ石像在、
  斗有由緒在リ。其左右ニ長三尺斗ノ二王ノ石像在、何モ大師ノ作也ト云、誠ニ人作
  トハ不見、扨、夫より山上へ登事八町也。
 
 (22)観音窟には現在も如意輪観音の石像が祀られている。求聞持堂は現存しないが、観音窟前には建物跡とみられる広場がある。弘法大師が『三教指帰』に記した室戸岬での修行の霊跡は、現在では御蔵洞とする説が主流だが、澄禅の日記を読む限り、江戸時代前期には前に求聞持堂があった観音窟と考えられていたということであろう。また、澄禅の日記には登場しないが、二十六番金剛頂寺住職の坂井智光師は金剛頂寺麓の行当岬不動岩(室戸市新村行道)が求聞持修行の地であるという説を出している。
 (23)現在の神峯神社の本殿が江戸時代の観音堂で、本尊十一面観音が祀られていた。
 (24)養心庵は『道指南』にみえる。大正年間に再建された薬師堂のみ残る。同町安田に別当常行寺があったとの記録も 。
 (25)母代寺址は小高い森の中にある。
 (26)田島寺は国分川の南岸にあったらしい。西生寺ともいい、現在の西島観音堂のあたりと考えられる 。
 (27)現在の土佐神社が元々の札所。明治維新の神仏分離で廃寺となり本尊は国分寺に預けられた。明治九年、本尊を安楽寺に遷座、三十番とした。昭和四年、埼玉県与野市の東明院善楽寺(さいたま市中央区本町東)を当地に移転、国分寺から大師像を迎え再興。以来、札所の正当性を巡って争いが絶えず、昭和三十九年に開創霊場善楽寺、本尊奉安安楽寺とし二か寺を札所と定めることで一時決着したが、平成六年、善楽寺を三十番とし、安楽寺を奥の院とすることで決着した。澄禅の日記には神宮寺、観音寺の名は出てくるが、善楽寺の記載はない。
 (28)掛川神社は寛永十八年(一六四一)山内忠義が遠州掛川(静岡県掛川市)から牛頭天王を勧請して高知城東北の鬼門守護のため建立した。陽貴山見龍院国清寺は元和三年(一六一七)日讃和尚の開基で天台宗だった。寛永十八年牛頭天王宮の別当寺となった。明治維新の廃仏毀釈で廃寺となり、明治十三年(一八八〇)京都相国寺の独園大禅師が参禅道場として再興、退耕庵と名付けた。その後寺号を旧に復して国清寺とした。臨済宗相国寺派 。
 (29)永国寺は高知城東北にあった。山内忠義の時、栄元を開基として創建。真言宗御室仁和寺末。本尊不動明王。明治初年に廃寺。常通寺は元は岡豊(南国市)にあり行基の開基という。寛永五年(一六二八)小高坂村(高知市大膳町)に移転、明治三年に廃寺。本尊千手観音 。
 (30)澄禅は一宮から直接三十一番に行かず高知城下に入って逗留している。今の遍路より余裕を持っていたことがうかがえる。
 (31)大河と記すは浦戸湾を川と誤ったか。昭和四十七年に浦戸大橋が架かった現在も渡しのフェリー(県営渡船)は残っている。
 (32)仁淀の渡しは現在の仁淀川大橋の少し上流、高知市春野町弘岡上と土佐市高岡町丙を結んでいた。渡し跡の東岸には石仏がある 。仁居戸の地名に該当する場所は付近になく、場所的には土佐市高岡町が該当する。『道指南』にも「荷物を高おか町にをき」 とある。
 (33)昭和四十八年に宇佐大橋ができるまで存在した浦ノ内湾にかかる宇佐の渡し。瀧は龍の誤りか。
 (34)浦ノ内湾北岸を歩く遍路道と湾内を船で行く方法があり、澄禅は船に頼った。同湾には現在も須崎市営の巡航船がある。
 (35)現在も五つの社のうち一つは山上にある。高岡神社の前に現在は橋が架かっているが、四万十川はかなり深く、当時は記載のような難所であった。
 (36)現在の三十七番札所岩本寺は窪川の町中にある。澄禅の記載にはないが、『道指南』には「別当岩本寺」の記載が出てくる 。
 (37)入野松原の浜の遍路道は現在も満潮時は内陸部を迂回する。
 (38)渡しがあったのは現在の四万十大橋のあたりと推測される。平成十七年までは三キロほど下流の同市下田と初崎を結ぶ渡船「下田・初崎渡し」があった。
 (39)伊豆田坂は現在新伊豆田トンネルで抜けている。旧伊豆田トンネルは埋められ通行不能。旧峠を越える道は荒れてはいるが、発見できた。
 (40)現在も足摺から市ノ瀬打戻り三原村経由で行く道(五〇・八キロ)と、足摺から月山経由で宿毛に打ち抜けて行く道(七十二・五キロ)とがあり、距離の短い打戻りコースを取る人が多く途中宿に荷物を預けるが、同じ道は面白くないと敢えて月山経由コースを取る人もいる。澄禅も元へ帰るのは無益と月山打ち抜けコースを取った。月山道は海辺を通り難所多しとし、打戻りする人は一ノ瀬に荷を置いて行くと記している。現在、市ノ瀬には番外札所真念庵があり、江戸時代には遍路宿をしていたのだが、真念は澄禅より後の人であることから、澄禅の時代既に市ノ瀬に荷を置く風習があったとの記述は興味深い。
 (41)承応二年は閏年ではないので、通常の年も逆打ちする遍路がいたことがわかる。
 (42)現在同地に真言宗醍醐派大師寺がある。廃仏毀釈で部落に寺がなくなっていたところへ昭和十八年に真言宗泉涌寺末頭山寺として創建、正善寺の仏像を移す 。のち醍醐派に転派し大師寺に改称。澄禅当時に真言寺があればそこに泊まっていたはずだが、当時は浄土宗の寺しかなかった。澄禅日記では土佐清水から足摺へは往路は東海岸、復路は西海岸経由となっている。同じ道を避けたといえる。
 (43)守月庵月光院南照寺という寺があったが明治の廃仏毀釈で廃寺となる。神社境内に残る大師堂が名残をとどめる 。
 (44)七日島の記載があるが現在は陸続き。
 (45)三倉坂(御鞍坂)は宿毛市大浦から同市坂ノ下に至る山越えの道 。現在の遍路道は海岸沿いを歩く。
 (46)澄禅は「真言・禅・浄土・一向宗四ケ寺すべて浄土寺という」と記しているが、現在は浄土宗の浄土寺のみ現存 。
 (47)現在、延光寺の五百メートル北に奥院の南光院あり。
 (48)宿毛市大深浦に松尾坂番所跡がある 。宿毛市には小山という地名はないが、伊予側の関所がある所の地名が小山(愛南町小山)であることから誤記したものと思われる。
 
 
 【六】伊予
 
 
 十二日、城辺の宿を出て観自在寺(四十番、愛南町御荘平城)へ。寺山(三十九番延光寺)より七里。二里ほど行って柏(愛南町柏)へ。上下二里の大坂(柏坂)越えハタジ(宇和島市津島町上畑地または下畑地)へ。民家に泊。十三日は雨で宿に逗留。
 十四日、宿を出て、津島(宇和島市津島町岩松)颪 。野井坂(宇和島市津島町岩渕野井)を越え(49)宇和島(宇和島市中心部)に。(宇和島城下)追手門外に大師堂(馬目木大師、宇和島市元結掛)という辺路家あり。宇和島藩祈願所に地蔵院(地蔵院延命寺=廃寺、宇和島市大超寺奥の愛宕山麓)(50)、龍光院(現存、別格六番、宇和島市天神町)の両寺。字和島本町三丁目(宇和島市中央町)の今西伝介という人の所に泊まる。
 十五日宿を出て北西へ行き、八幡宮(八幡神社、宇和島市伊吹町)に詣で、北西に行って坂を越え稲荷ノ社(四十一番龍光寺、宇和島市三間町戸雁)へ至る(51)。田中に在る小さい社(52)。佛木寺(四十二番、宇和島市三間町側)へ二十五町。大坂(歯長峠)を越え、皆田(西予市宇和町皆田)の慶宝寺(宝満山慶宝院=廃寺、西予市宇和町皆田稲生) という真言寺に泊。
 十六日、寺を発って川(肱川)を渡り、北西の谷の奥の明石寺(四十三番、西予市宇和町明石)へ。仏木寺より三里。卯ノ町(西予市宇和町卯之町)を過ぎ、タヾ(西予市宇和町東多田)に至る。関所がある。戸坂(西予市宇和町久保鳥坂)の庄屋清右衛門宅で泊。高野山證菩提院の旦那である。(53)。
 十七日、宿を出、戸坂峠(鳥坂峠)から一里余下り大津(大洲市大洲)へ。城の東より西に流れる大河(肱川)があり、川に渡舟があって自由に渡る。川の西に中村(大洲市中村)という侍小路町家があり、堀内若宮(大洲市若宮)を過ぎ新屋(大洲市新谷)に至る。大道より北五町ほどの山際にある瑞安寺(現存、大洲市新谷甲)という真言寺に泊(54)。十八日は同寺に逗留。
 十九日、寺を発って谷川(矢落川)を十一度渡って内ノ子(内子町内子)へ。河(小田川)を渡り坂を越え谷沿いに行く。五百木(内子町五百木)、芦ノ川下田戸(内子町吉野川)に至る(55)。川(田渡川)を渡って東北へ行くのが辺路道。西にまっすぐ行けば、カマカラ(内子町吉野川泉にカマガラという場所がある)髴髴 という山道。一里ほど行って中田戸(内子町中田渡)の仁兵衛宅に泊。二十日は雨で宿に逗留。
 二十一日、上田戸(内子町上田渡)、ウツキミトウ(内子町臼杵)を経て、ヒワタノタウ(鴇田峠)に至る(56)。久間(久万高原町久万)の町を通って菅生山(四十四番大宝寺、久万高原町菅生)へ。本坊に泊まる。
 二十二日、寺に荷物を置いて岩屋寺(四十五番、久万高原町七鳥)往復。寺の後ろの坂を越え、畑川(久万高原町下畑野川)を経て岩屋山へ。大師は三里としたが、町石は七十五町である。岩屋寺へは、まず山を登りきり山頂から紅葉が錦のように積み重なった坂を下る。途中に仙人ノセリ破リ石(奥の院迫割禅定)がある。六七丈ある所に二十一の梯子があり、上に鋳鉄製の厨子(白山権現)がある。ここに札を納める。二町ほど下って仁王門。向かいは百丈ほどの石壁で、洞があり中に阿陀弥立像。往生岩屋(現在の穴禅定か)。十七の梯子があり上って札を納めた(57)。菅生山十二坊で輪番。当番は中ノ坊(廃寺)(58)。菅生山に帰り泊まる。
 二十三日、寺を発ち北西に行き、御坂という大坂(三坂峠)を越え、エノキ(松山市久谷町榎)を経て、浄瑠璃寺(四十六番、松山市浄瑠璃町)へ(大宝寺から)五里。岩屋より八里。八坂寺(四十七番、松山市浄瑠璃町八坂)へ二十五町。十町ほど行って円満寺(廃寺)という真言寺に泊(59)。
 二十四日、寺から二十五町行き西林寺(四十八番、松山市高井町)へ。浄土寺(四十九番、松山市鷹子町)へ二十五町。近くの八幡(日尾八幡神社、松山市南久米町)の別当を如来院(同所に薬師堂のみ現存)という。当所久米村(松山市南久米町あたり)の武知仁兵衛宅に泊。
 二十五日、宿を出、畑寺(松山市畑寺町)の繁多寺(五十番、松山市畑寺町)へ二十五町。石手寺(五十一番、松山市石手)へ二十一町(60)。十余町行って温泉(道後温泉)。近くに河野氏の古城があったが竹林なっている(現在の道後公園、湯築城跡)。さらに十余町行くと道後の松山(松山市中心部)。松山の三木寺(御幸寺、松山市御幸)に泊(61)。二十六日、三木寺に逗留し道後温泉で湯治。
 二十七日、柳堤を行き大山寺(五十二番太山寺、松山市太山寺町)へ(62)。石手より二里。大山寺は二十五町下から町石がある。大門から仁王門まで六町、仁王門より山(本堂のある場所)まで六町。和気(松山市和気町)の円明寺(五十三番、松山市和気町)へ十八町。北へ行って塩焼浜(塩田のある浜。和気浜塩田を指すか)に出る。宇和島より海を離れて初めて海辺に出た(63)。堀江(松山市堀江町)を経て間ノ坂(粟井坂)に。伊予国を二分した道前・道後の間の坂という意味だ(64)。柳原(松山市柳原)、カザハエ(風早郷=松山市の旧北条市一帯の旧称だが、この場合は旧北条中央部を指すか)経由。この四五里の間は宿を貸さない。山坂(鴻ノ坂)を越え浅波(浅海=松山市の旧北条市浅海地区)の民家に泊まる。松山より六里。
 二十八日、大坂二つ越す(65)。菊間(今治市菊間町浜)、新町(今治市大西町新町)を経て縣(今治市阿方)の円明寺(五十四番延命寺、今治市阿方)に至る。和気の円明寺より十里(66)。別宮の三嶋へ一里。三嶋ノ宮(別宮大山祇神社、現在の五十五番札所南光坊の北に隣接、今治市別宮町)。別宮というのは、海を七里北へ行ったところに大三島(今治市大三島町)があり、そこに大明神の本社がある(大山祇神社、今治市大三島町宮浦)。別宮は仮に御座する場所であり、本式の辺路は大三島に渡る。別宮に札を納めるのは略義である(67)。二三町行って今治(今治市中心部)の神供寺(現存、今治市本町) に泊まる。
 二十九日、寺を発って田中の細道を南に直進して泰山寺(五十六番、今治市小泉)へ。別宮より一里。日暮まで雨は止まず、ここに泊まる。
 十月一日、寺を発って南東の方へ行き河(蒼社川)を渡って南の山に上る。山頭に八幡宮(石清水八幡宮、今治市玉川町八幡、現在の五十七番札所栄福寺は山の中腹)。泰山寺より十八丁。山を下りてさらに南へ行き、野中の細道を通って佐礼山(五十八番仙遊寺、今治市玉川町別所甲)に登る。坂を北北東の方へ行くと、田舎に歓喜寺(現存、今治市町谷)がある。道筋を教えてもらい国分寺(五十九番、今治市国分甲)に。大門の端から南東に流れる小川(大川)があり、川沿いに一里ほど行って醫王山という坂(医王坂、西条市楠の県道一五九号沿いの坂)、少しばかり上るが二十町もあるだろうか。ここを過ぎ楠(西条市楠)という里、次に中村(西条市三芳中村) という里がある。中村に泊。
 二日、ニウ川(壬生川)(68)を渡って南へ行く。田中の畔を伝って一ノ宮(一宮神社、現在の六十二番宝寿寺から予讃線の線路を隔てた北側、西条市小松町新屋敷一本松)に。国分寺より四里。川(中山川)を渡って一本松(西条市小松町新屋敷一本松)という村を過ぎて、新屋敷(西条市小松町新屋敷)という所に社僧の天養山保寿寺(六十二番宝寿寺、西条市小松町新屋敷甲)がある。この寺に泊まる。
 三日、寺に荷を置いて横峯に往く。まず十町ほどで香薗寺(六十一番香園寺、西条市小松町南川甲)へ。一ノ宮より十八町。元の道に帰り小松(西条市小松町)という所を経て横峯にかかる。横峯寺(六十番横峰寺、西条市小松町石鎚)は、麓の小松から坂にかかり一里大坂を上る。それから三つの小坂を上下し、又大坂を上って少し平らな所に仁王門(69)。社壇の後薗を通って南西の方の峰を五町登ったところに鉄の鳥居(星が森、西条市小松町石鎚星森峠)があり、石鎚山を遥拝して札を納めて読経念誦する。元の坂を下って保寿寺に還り泊。上下六里。石槌山太権現(石鎚神社本社、西条市小松町石鎚山頂)。嶽(石鎚山)まで十二里。六月一日以外は山上に登れないので横峰に札を納める。石槌より吉祥寺までも十二里。四日、寺主が引き止めるので逗留。
 五日、十町ほど行ってヒミ(西条市氷見)の町を過ぎて吉祥寺へ。吉祥寺(六十三番、西条市氷見甲)。一里ほど行って前神寺(六十四番、西条市州之内甲)という札所が在る。石槌山の里坊である。ここにも札を納める(70)。そこから一里ほど行って西條の大町(西条市大町)に至る。西へ八九町行ったところに西條という城がある(西条市明屋敷、現在の西条高校の場所に城があった)。大町よりカモ川(加茂川)を渡って大道(金毘羅街道=現在の国道十一号とほぼ並行する旧街道)を行って、五里余りのところにある泉川という川を川下に十町ほど下って浦ノ堂寺という真言寺(隆徳寺、新居浜市外浜町)に泊まる(71)。
 六日、寺を出て件の川を渡って、上野ノ峠(上野峠)という山道を一里半ほど行って上野ノ里(四国中央市土居町上野)に出る。ここからは宇麻ノ郡(宇摩郡=現在の四国中央市)。野中の大道を行き、左は海である。中ノ庄(四国中央市中之庄町)という所で宿泊を断られた。そこから三島(四国中央市の旧伊予三島市中心部)という所まで行って興願寺(現存、四国中央市三島宮川)という真言寺に泊まる。
 七日、寺を出て田畔を行って柏寺(善法寺=同市下柏町=か)という寺(72)の前を経て坂にかかる。三角寺は与州第一の大坂大難所である。三十余町上ってようやく着く。三角寺(六十五番、四国中央市金田町三角寺甲)。奥院(仙龍寺、別格十三番、四国中央市新宮町馬立)へは大山(法皇山脈)を越えて五十町行く(73)。堂の前を通って坂を登る。辺路修行者の中でも奥院に参詣するのは稀というが、誠に人の通れる道ではない所々に草を結んでいるのを道しるべにして山坂をたどり上る。峠(堀切峠)から、また深谷の底へつるべ落としの急坂、小石交じりの赤土。鳥ですら通うのが困難な岩石の間から枯木が生えているのは絶景である。木の枝伝いに下ること二十余町で谷底に至る。
 八日、奥院を発って、足の踏みどころもいない細道を二十余町行って、阿波と伊与との境(境目峠、集落は徳島県三好市池田町佐野境目)に出る(74)。阿波の北分西の隅に出る。ここから下って谷川(馬路川)がある。この川は阿波の猪ノ津(徳島市)まで二十里流れている(吉野川)。佐野ノ里(三好市池田町佐野)に関所がある。北の山際に辺路屋がある(青色寺=三好市池田町佐野初作)。ここから雲辺寺(六十六番、三好市池田町白地)の坂にかかる。五十町というが三角寺の坂を三倍したような大坂がある。登りきって山上(雲辺寺山)に出る。三角寺からも奥院からも五里である。雲辺寺泊。
 
 
 【七】伊予検証
 
 
 (49)国道五六号沿いの松尾峠越えでなく、県道四六号沿いの野井坂を越えている。真念以後盛んになる満願寺(宇和島市津島町岩渕)経由の遍路道であるが、日記には満願寺の記載はない。
 (50)『宇和旧記』には祈願所の地蔵院延命寺が城下の愛宕山麓にあると記されている 。現在、愛宕山麓に大超寺(宇和島市大超寺奥、浄土宗)があり、ここと一宮神社の間あたりに地蔵院があったようだ。宇和島藩祈願所の由緒を残す寺としては神宮寺(宇和島市笹町、天台宗)があるが、別と思われる。西予市明浜町俵津に地蔵院という寺が現存するが、城下にあった地蔵院とは別の寺。また、現在の馬目木大師のところに対岸の九島の鯨大師(宇和島市九島蛤)にあった願成寺が寛永七年(一六三〇)に移築された。明治初年に龍光院に吸収合併されたが、澄禅の時代には存在していたはずで辺路家をやっていたのであろう。
 (51)現在八幡神社は宇和島市街地の北東にあり、龍光寺のある三間町はさらに北東の方角になる。城の北方と記された鬼カ城(現状は市域の南西に鬼が城山=標高一一五一メートル、宇和島市丸穂=がある)の記述といい、方角が現状とは異なる。
 (52)現在の社は丘の中腹、稲荷社をはさんで左右に本堂と大師堂。稲荷社、本堂とも南向、大師堂は西向。稲荷社は元禄元年(一六八八)に現在地に遷座した 。
 (53)高野山の小田原から金剛三昧院へ入る道のあたりが湯屋谷で、かつて證菩提院があった。證菩提院は現在、親王院に合併されている。
 (54)十夜ヶ橋(別格七番、大洲市十夜ヶ橋)の記載なし。
 55)吉野川はもと下田渡村といい、天保九年(一八三七)に吉野川村に変更した。『大洲旧記』によると「慶長(一五九六―一六一五)の頃迄吉野川と云う」とあり、また元和(一六一五―二四)の頃に上田渡・中田渡・下田渡に分かれたとされる 。芦ノ川は「悪し」に通ずるから「善し」の吉野川に改称したと思われるが確証はない。
 
  〈E〉十九日寺ヲ立テ谷川ヲ上ニ行、此川ヲ十一度渡テ内ノ子ト云所ノ町ニ至。此町
  ノ下ニ川在、河ヲ渡テ又坂ヲ越テ此谷ニ付テ往ク、五百木ト云所ヲ往テ芦ノ川、下田
  戸ト云所ニ至ル。爰ニテ川ヲ渡リテ東北ノ地ヲ行、是辺路道也。西ノ地ヲ直ニ往ケハ、
  カマカラト云山道ニ往也。夫より壱里斗往テ中田戸ノ仁兵衛ト云人ノ所ニ一宿ス。新
  屋より五里ナリ。 廿日雨天ニテ宿ニ留ル。廿一日宿ヲ立テ上田戸ウツキミトウナト
  云所ヲヘテ坂ヲ上リテ、ヒワタノタウト云所峠ニ至。是迄出羽守殿領分ナリ。此坂ノ
  下久間ト云所より北十五万石ハ當国道後松山ノ城主松平隠岐守殿領分也。扨、久間ノ
  町ヲ通テ菅生山ニ至。明石より是迄廿一里也。
 
 (56)臼杵の集落から下坂場峠を越えて久万高原町二名宮成、さらに鴇田峠を越え久万の中心部に至る遍路道を行ったと思われる。ウツキミトウは現在の下坂場峠を指すと思われ、澄禅の当時は薄木見乢と言っていたのか。現在の臼杵は江戸時代は薄木と書いていた。実際下坂場峠の途中から臼杵の集落が一望できる。鴇田の乢については鴇田峠に比定して問題ないだろう。
 (57)現在、堂はないが、堂跡として梯子で上って洞の中に入れる。
 (58)岩屋寺は大宝寺の奥の院とされ、輪番で管理していた。
 (59)松山市道後湯月町に浄土宗の円満寺が現存する。しかし八坂寺から十三キロ離れており宗派も違うことから、澄禅の記載とは別の寺と思われる。八坂寺から一キロ内外に円満寺という寺は現存しない。八坂寺はかつては四十八坊の塔柱・末寺寺院を有する大寺だった。円満寺が塔柱の一つであった可能性もあるが、現在確認できる史料は八坂寺に残っていない。同市窪野町には円福寺という真言宗の寺があるが、二キロほど打ち戻ることになる。
 60)衛門三郎伝説が記されているが文殊院徳盛寺(別格九番、松山市恵原町)の記載はない。番外札所の縁起とするため後世に作り変えられた可能性がある。
 (61)時代は下るが、種田山頭火(一八八二―一九四〇)が終焉を迎えた一草庵は御幸寺境内隣接地にある。
 (62)現状は御幸寺から大山寺への途中には、柳堤は失われているが大川沿いを行く遍路道がある。
 (63)宇和島からここまでは現在も山の中を通る遍路道である。
 (64)明治に海岸べりの旧国道が開通するまでは難所とされた坂越え。現在は国道一九六号の粟井坂トンネルで抜ける。合併前の旧松山市側が道後、旧北条市側が道前。旧北条市側に下った所に大師堂(松山市小川)がある。
 (65)『道指南』には「まど坂、ひろいあげ坂」の記載がある 。窓坂は松山市の旧北条市と今治市の旧菊間町の境に現存。ひろいあげ坂のあったあたり(今治市菊間町田之尻と同町長坂の境)は現在松山シーサイドカントリークラブになっており当時の坂の跡はわからない。
 66)江戸時代までは五十三番、五十四番ともに圓明寺と書き、五十三番は「えんみょうじ」、五十四番は「えんめいじ」と呼んで区別していた。しかし字面からは判別できないので地名を取って、和気の円明寺、阿方の円明寺と言っていた。澄禅の日記もこれに倣った。いずれにせよ隣り合う札所が同名では紛らわしく遍路泣かせであった。そこで、五十四番の方が明治初年に延命寺と改称した。
 (67)本来の札所は大三島にある大山祇神社であり、今治の別宮への参拝は略義であると記している。現在は南光坊への納経のみで、大山祇神社に参拝する人はほとんどいない。
 (68)字面からいけば壬生川であるが、実際は現在の境川であると推測される。
 (69)小松の街中から横峰への道をたどっていることから、現在の石鎚山ハイウェイオアシスの裏から上がる遍路道を行ったと思われる。現在は湯浪道あるいは香園寺奥の院滝道が主流であるが、当時は小松から直に上がる道が主流であったか。次に記載されているように大坂そして三つの小坂上下の記述に一致する道である。ただ、仁王門の位置は現在ここにはなく、寺域の逆側から入る湯浪道から登りきったところにあるので、確認は取れていない。
 (70)当時は石鎚山が札所であって、現在の札所である前神寺は里坊と記している。澄禅は石鎚山の納札を横峰寺の遥拝所と里前神寺の両方でしている。明治の神仏分離までは、山上に本寺があり神仏習合の霊地であった。明治初年の神仏分離で石鎚神社だけとなり前神寺は廃寺となる。前神寺は明治十一年に里坊の位置に移転し再建。現在はロープウェーの山頂成就駅から少し上ったところに奥前神寺(西条市小松町石鎚成就)があり、七月一―十日の山開き期間のみ開扉される。
 (71)隆徳寺は旧浦堂寺と正光寺を明治四十三年に合併してできた寺である。現在の寺地は旧浦堂寺があった境内というl 。泉川は隆徳寺前の小川を指すと思われるが、すぐ東に国領川もある。
 (72)善法寺は江戸前期は現在地より南の山寄りの四国中央市上柏町の戸川公園のあたりにあったというから、ここから三角寺の坂にかかるという表現と一致する 。l馭雹とは柏にある寺という意味か。
 (73)辺路修行者の中でも奥院に参詣するのは稀と記している。大山(法皇山脈)の峠(堀切峠)を越えて行く難所である。
 
  〈F〉八日奥院ヲ立テ、扨、件ノ坂ヲ山ノ半腹より東ニ向キテ恐シキ山ノカケヲ傳イ
  往ク。所々霜消テ足ノ蹈所モ無細道ヲ廿余町往テ少シ平成野中ニ出ツ。夫より阿波ト
  伊与トノ境ナリ。阿波之北分西ノ隅爰ニ指出ツ。夫より下テ又谷川在リ此川ハ阿波ノ
  猪ノ津迄廿里流出タリ、川舟自由ニ上下ス。此佐野ノ里ニ関所在リ、阿波守殿ヨリ番
  衆ヲ置テ往還ノ者ヲ改テ通ス。又北ノ山キワニ辺路屋在リ爰より雲辺寺ノ坂ニカカル、
  五十町ト云トモ三角寺ノ坂ヲ三続タル程ノ大坂アリ。登リヽテ嶽ニ至テ見ハ誠ニ雲ノ
  辺ニテ浮雲ハ皆山より下ニ在也。寒風ハケシクシテ閼伽モ手水モ皆氷タリ。此嶽より
  見ハ四国中ハ目ノ前也。先伊与ノ道前分、讃岐一国阿波ノ北分土州ノ山分只一目ニ見
  ル也。三角寺よりモ奥院よりモ五里也。
 
 (74)行程五里の距離からいって堀切峠(県道五号の旧道の旧川之江市と旧新宮村の境)から北へ四国中央市金田町半田平山に下り三角寺からの道と合流して椿堂(四国中央市川滝町下山)を経由する現在の遍路道ではなく、堀切峠から東進し呉石高原(四国中央市新宮町上山呉石)を経由して愛媛・徳島県境沿いに境目峠に至る尾根道をたどったと思われる。調査の結果、堀切峠から境目峠の尾根道があることを確認した。澄禅当時の道とは異なるかもしれないが、尾根道は現存する。実際踏破することができた。水が峯で土佐往還(現在の高知自動車道の近くを通る高知から旧川之江に至る参勤交代路)と交わる近世の主要道である。奥の院道は澄禅の時代も行く人少なく日記の記載のように山の崖を伝い行く厳しい道であったのだろう。現在は境目峠から雲辺寺に県境沿いの尾根道をたどるが、澄禅は佐野に降りている。阿波の番所跡は駅路寺であった青色寺境内隣接地にある。佐野から俗に「遍路ころがし」と呼ばれる坂を上がった雲辺寺山の尾根道は標高九百メートル近く寒風吹きすさぶのは現在も同じである。
 
 
 【八】讃岐
 
 
 九日、雲辺寺山を出て北の尾崎を下る。ここから讃岐である。この山坂五十町は荒れていたのを土佐・神峯の麓(高知県安田町)出身の在家遍路が勤労奉仕で切り開いたので、今は自由に通れる。麓(香川県観音寺市粟井町)から野中を行き小松尾寺(六十七番大興寺、香川県三豊市山本町小松尾)へ三里。西へ向かって野を行って観音寺(六十九番、観音寺市八幡町)へ二里。庫裏は神恵寺で六坊あり。二町ほどの坂を上って瑟引八幡宮(琴弾八幡宮、観音寺市八幡町。現在の六十八番神恵院は観音寺境内。八幡宮は観音寺の西二百メートル)。東北に一里行って、本山寺(七十番本山寺、三豊市豊中町本山甲)で泊。
 十日、寺を発って北へ三里行き、弥谷の麓の辺路屋(八丁目大師堂=三豊市三野町大見=か)に泊まる。
 十一日、弥谷寺(七十一番、三豊市三野町大見乙)へ。まず坂口に仁王門、自然石に階段を切り付けて寺庭に上る(現在の大師堂)。庭より一段上って鐘楼、また一段上って護摩堂。また一段上って石面に阿弥陀三尊。また一段上って本堂。近くに鎮守蔵王権現の社がある。護摩堂へ戻り、北へ行って北峯(天霧山)に上る。峠より真下に岩組みの谷間を下る。谷底より小さい山(小高い丘のある白方小学校=多度津町奥白方=のあたりか)を越えて白方屏風力浦(屏風浦=多度津町西白方)に出る(75)。白砂に松原の浦の中に御影堂がある。寺は海岸寺(別格十八番、多度津町西白方)という。五町ほど行って藤新大夫の住んでいた三角屋敷(八幡山仏母院、多度津町西白方)。大師御誕生所で御影堂がある。北西に五町ほど行って八幡ノ社(熊手八幡宮、多度津町西白方)。この寺で泊まる。
 十二日、寺を発って東へ行き弥谷の麓を通る。二十余町行って万荼羅寺(七十二番曼荼羅寺、善通寺市吉原町)へ。寺に荷を置いて出釈迦山(我拝師山、善通寺市吉原町、七十三番出釈迦寺=善通寺市吉原町=から南東二キロの山上)に上る。寺から十八町。小さな平らな所に昔の堂の跡がある(七十三番奥院・捨身ヶ嶽禅定、善通寺市吉原町)。釈迦如来・文殊・弥勒の石像などがある。曼荼羅寺の奥院というべき山である(76)。元の坂を下りて曼荼羅寺へ。八町行って甲山寺(七十四番、善通寺市弘田町)。五岳の一つ(77)。八町行って善通寺(七十五番、善通寺市善通寺町)へ。
 北東(実際は南東)へ一里行って金毘羅(金刀比羅宮、琴平町琴平山)に至る。本坊を金光院(廃寺)という。山は馬の臥した形に見えるから馬頭山という(78)。寺家の真光院(廃寺)泊。十三日、十四日は逗留。
 十五日に寺を出て善通寺に帰る。道具を取って東へ十八町、金蔵寺(七十六番金倉寺、善通寺市金蔵寺)に至る。北東に一里行って道隆寺(七十七番、多度津町北鴨)へ。
 十六日、寺を発って北東に行き、円亀(丸亀=丸亀市中心部)に至る。道隆寺より二里で道場寺(七十八番郷照寺、宇多津町西町東)へ。所はウタス(宇多津)といい、ここからなお野道を行って坂瀬(坂出)という塩屋の浜を通って大道(讃岐浜街道、県道三三号沿い)から右の山際に行く道を上って野沢ノ井(八十場の水、坂出市西庄町八十場)という泉がある。金山薬師(金山奥の院・瑠璃光寺、坂出市西庄町)から流れる水で霊験がある。二町ほどで崇徳天皇(白峯宮、坂出市西庄町、現在の七十九番高照院天皇寺は神社をはさんで右に本坊・左に本堂大師堂等)(79)。(道場寺から)二里。東へ行って綾川(現存)を渡って坂を越えて、国分寺(八十番、高松市国分寺町国分)まで五十町。国分寺泊。
 十七日、寺を発って白峯に。屏風を立てたような山坂の九折(つづらおれ)(80)を五六町上る。白峯寺(八十一番、坂出市青海町)まで五十町。鷲峯(八十二番奥院・鷲峰寺、高松市国分寺町柏原)が府中(旧国分寺町から国府のあった坂出市府中町につながる一帯)にある。青峯山根香寺(八十二番)、赤峯吉水寺(廃寺、高松市国分寺町国分国分台)、黒峯馬頭院(廃寺、坂出市青海町北峰)に、当寺を加えて五岳である。小屋山頓證寺崇徳院と号す(81)。根香寺に行く途中に吉水という薬水(82)。白峯より五十町で根香寺(八十二番、高松市中山町)に至る。根香寺泊。
 十八日、東の浜に下ってカウザイ(高松市香西地区)から南へ向かって、大道(金毘羅高松街道)を横切り三里行って一ノ宮(田村神社、高松市一宮町、現在の八十三番一宮寺の東隣)に至る(83)。北へ二里ほどで高松(高松市中心部)に至る。祈願所は天台宗喜楽院(克軍寺=高松市西宝町=か)(84)。高松城は昔はムレ高松(牟礼高松=高松市高松町)(85)で、八島(屋島)の南東にあった。高松の寺町(高松市番町)にある實相坊(実相寺、高松市桜町、もと三番町にあった)l に泊。
 十九日、寺を発って東の浜に出る。干潮だったので汀を直に行って屋島寺(八十四番屋島寺、高松市屋島東町)の麓へ。寺まで十八町の石がある。松原の坂を上って山上へ。東の屏風を立てたような坂を五町ほど下って壇ノ浦(現存、現在海はかなり埋め立てられている)に至る。安徳天皇内裏の旧跡がある(安徳天皇社、高松市屋島東町)。奥州佐藤次信(継信)の石塔(現存)。波打際に洲崎の堂の跡(86)。八栗へは海面六七町ほど。浦伝いに南に行けば相引という所(87)。これを渡ってムレ高松(高松市高松町)に至る。惣門の跡(現存、高松市牟礼町牟礼)、射落(現存、同)、駒立石(現存、同)。次信を火葬した墓所(現存、同)。浜から二十余町上って八栗寺(八十五番、高松市牟礼町牟礼落合)に至る。頂上は磐石の五鈷形へ上る恐ろしい所である。上には当山権現・天照太神・愛岩権現・弁財天女の社壇あり(88)。これを拝んでまた本堂の前に下る。八栗寺泊。二十日、雨天なので逗留。
 二十一日、南東に二十町ほど行って六万寺という寺の跡(高松市牟礼町田井)(89)。細道を行って高松より東へ通じる大道(東讃浜街道)に出て浜を行って志度ノ浦(志度浦、さぬき市志度)に出る。志度寺(八十六番、さぬき市志度)まで五十町。薗ノ尼が木像を造り堂を建立した様子を描いた図一幅がある(90)。房崎(高松市牟礼町原の琴電房前駅周辺からさぬき市志度にかけての地域)は惣名。新珠嶋(真珠島、さぬき市志度弁天)(91)という場所がある。寺の東南東には海士野ノ里(さぬき市志度天野、弁天川の東から天野峠にかけての一帯)。南二里で長尾寺(八十七番、さぬき市長尾西)へ。七観音は、国分寺・白峯寺・屋島寺・八栗寺・根香寺・志度寺・長尾寺。寒川古市(さぬき市の旧長尾町中心部あたりか)で宿泊(92)。
 二十二日、宿を出て山路を越え行く。元暦(二年=一一八五)に義経が矢島(屋島)に進軍した時に夜中に通ったという山路である(93)。長尾より三里で大窪寺(八十八番、さぬき市多和兼割)へ。大窪寺泊。
 二十三日、寺を発って谷河(日開谷川)沿いに下る、一里ほど行って長野(東かがわ市五名長野)に至る、ここまでが讃岐。尾隠(おおかげ=徳島県阿波市市場町大影)という所より阿州(徳島県)である。一里行って関所(阿波市市場町大影南谷)あり、また一里行って山中から広い所に出る(阿波市市場町犬墓平地)。(大窪寺から)切畑(十番、阿波市市場町切幡観音)まで五里。讃岐に六院家として法燈を守る六ケ所がある。東より夜田(与田)の虚空蔵院(与田寺、東かがわ市中筋)、長尾の法蔵院(極楽寺、さぬき市長尾東)、鴨の明王院(七十七番道隆寺)、善通寺誕生院(七十五番善通寺)、勝間の威徳院(威徳院、三豊市高瀬町下勝間)、荻原の地蔵院(萩原寺、観音寺市大野原町萩原)である。切幡寺から二十五町で法輪寺(九番、阿波市土成町土成田中)。近所の民屋で泊。二十四日、雨で逗留。
 二十五日、宿を出て法輪寺へ。熊谷寺(八番、阿波市土成町土成前田)へ十八町。十楽寺(七番、阿波市土成町高尾法教田)へ一里。安楽寺(六番、上板町引野)(94)へ二十一町。地蔵寺(五番、板野町羅漢)(95)へ一里。庫裏は二町ほど東。黒谷寺(四番大日寺、板野町黒谷)には十八町。黒谷参詣往復一里打ち戻り。地蔵寺に還って泊。
 二十六日、地蔵寺を発って東に一里行って金泉寺(三番、板野町亀山下)へ。黒谷からも一里。東二十五町で極楽寺(二番、鳴門市大麻町桧段の上)へ。霊山寺(一番、鳴門市大麻町板東)へ十八町。霊山寺より南に行って大河(吉野川)あり。河は雲辺寺麓より流れ出て渭津(徳島市)まで二十里。島瀬(96)を舟で渡る。それから井戸寺の近所に出て大道(伊予街道)を行って渭津に至る。船場の源左衛門という船頭の舟に乗って二十八日に和歌山に着く。
 
 
 【九】讃岐検証
 
 
 (75)弥谷寺には現在も仏像や梵字、名号を彫った摩崖仏が数多く現存する。澄禅は当時の摩崖仏の様子を詳しく記している。梵字の筆法にまで触れているのはさすがである。澄禅は本堂から仁王門に下りて七十二番を目指す遍路道を選ばず、護摩堂から分岐する天霧山への山道をたどり白方の海岸寺付近に下りる道を行っている。実際岩場の急坂である。
 (76)現在の出釈迦寺本堂は我拝師山の麓にあるが、元は現在の奥院の堂がある山上にあった。なお釈迦石像等は堂からさらに岩をよじ登った上に有る。距離や描写から言って澄禅は山上に参拝したとみられる。

  〈G〉出釈迦山、先五町斗野中ノ細道ヲ往テ坂ニカ丶ル。小キ谷アイノ誠ニ屏風ヲ立
  タル様ナルニ、焼石ノ如ニ細成カ崩カ丶リタル上ヲ蹈テハ上リヽヽ恐キ事云斗無シ。
  漸峯ニ上リ付、馬ノ頭ノ様成所ヲ十間斗往テ小キ平成所在、是昔ノ堂ノ跡ナリ。釈迦如
  来石像文殊弥勒ノ石像ナト在、近年堂ヲ造立シタレハ一夜ノ中ニ魔風起テ吹崩ナル
  ト也。今見ニ板ノワレタルト瓦ナト多シ、爰只曼荼羅寺ノ奥院ト可云山也。夫より元
  ノ坂ヲ下テ曼荼羅寺ニ至ル。
 
 (77)現在の五岳は香色山、筆ノ山、我拝師山、中山、火上山であり、甲山は数えられていない。
 (78)現在は象頭山。象の頭の形に見えることから江戸時代も象頭山と呼ばれていたはずである。澄禅の誤記か。金刀比羅宮は四国札所ではないけれど、番外として江戸時代はよく参られた。澄禅もこれに従ったといえる。真念『道指南』、寂本『四国徧禮霊場記』(一六八九)などの記述にもあることからl 、明治初年の神仏分離前は遍路必参の場所であったといえる。澄禅の記述に有る堂寺等は神仏分離でなくなった。観音堂が本堂という記述があるが、神仏分離後独立した松尾寺(琴平町琴平、金刀比羅宮の麓に有る)の本尊は釈迦如来で観音ではない。
 
  〈H〉崇徳天皇、世間流布ノ日記ニハ如此ナレトモ大師御定ノ札所ハ彼金山ノ薬師也。
  實モ天皇ハ人皇七十五代ニテ渡セ玉ヘハ大師ニハ三百余年後也。天皇崩御ノ後、子細
  在テ王躰ヲ此八十蘓ノ水ニ三七日ヒタシ奉ケル也。其跡ナレハ此所ニ宮殿ヲ立テ神ト
  奉崇、門客人ニハ源為義同為朝カ影像ヲ造シテ守護神トス。御本堂ニハ十一面観音ヲ
  安置ス。其外七堂伽藍ノ数ケ寺立、三千貫ノ領地ヲ寄。此寺繁昌シテ金山薬師ハ在テ
  無カ如ニ成シ時、子細由緒ヲモ不知辺路修行ノ者トモカ此寺ヲ札所ト思ヒ巡礼シタル
  カ初ト成、今アヤマリテ来ト也。當寺ハ金花山悉地成就寺摩尼珠院ト云、今寺ハ退転
  シテ俗家ノ屋敷ト成リ。
 
 (79)澄禅は崇徳天皇(白峯宮あるいは天皇寺)が本来の札所ではなく金山薬師(瑠璃光寺、坂出市西庄町)が正当な札所であると記している。現在の七十九番天皇寺は明治の廃仏毀釈で廃された寺を近くの末寺であった高照院を持ってきて再興した。摩尼珠院は天皇寺の奥の院とされ、天皇寺の南一・五キロ、坂出市西庄町城山の城山山上近くの滝の脇にある。本尊不動明王。
 (80)俗に遍路ころがしと言われる急坂。
 (81)白峯寺の境内・崇徳天皇陵の前に頓証寺殿が現存する。現在は堂の前脇に相模坊の石像がある。
 (82)足尾大明神(高松市中山町)が吉水寺の跡の地蔵堂があった所という説も 。l
 (83)讃岐一宮の神仏分離は、松平頼常(一六五二―一七〇四)の命により延宝七年(一六七九)に行われており明治の神仏分離より二百年早い。だが、澄禅遍路時には分離されていなかった。
 (84)松平家の菩提寺は仏生山法然寺(高松市仏生山町、浄土宗)である。『英公実録』によると頼重がよく参詣したのは他に浄願寺(高松市番町、浄土宗)、克軍寺(巌松山本門寿院、高松市西宝町、天台宗)、広昌寺(もと神智院、高松市天神前、日蓮宗)との記録がある。天台宗に該当するのは克軍寺であるが、頼重再建時は巌松山延命院、その後の改称で蓮門院。また円珍開基時は延命院、生駒藩時代は閑松院である。喜楽院は分からないが、たびたび院号を変えていることから喜楽院と称していた時期があったのか 。l
 (85)俗に古高松という地域で琴電古高松駅の南側一帯。
 (86)現在、洲崎寺は高松市牟礼町牟礼にある。
 (87)相引川沿いにあった浜。屋島が地続きになった現在は埋め立てられて住宅地になっている。高松市屋島東町・屋島中町・屋島西町・高松町。屋島を中にして両側から潮が一度にさし引く時も一度に引くので相引という。澄禅は「源平合戦の時分までは干潮時も人馬が歩渡れなかったが、近年浅くなったので干潮時は白砂の上を歩行できる」と記す。
 (88)伽藍は八栗山の中腹標高二三〇メートルのところにある。本尊は千手観音であるが、歓喜天を祀っている事から聖天信仰の寺として有名。頂上は奥院とされ、最高地点は三六六メートル、澄禅の記載のほかに不動明王なども祀る。伽藍から上には鎖場伝いの行場があり、実際恐ろしいと感ずる所である。五岳縦走すると三時間以上かかる。宝永三年(一七〇六)の地震で一峰が崩れ四峰しかない。危険なので寺では現在入山禁止にしている。
 (89)六万寺は現存。天正十一年(一五八三)に焼失、延宝七年(一六七八)の再建なので澄禅当時は跡だけだった。
 (90)謡曲「海人」で有名な海人の珠取伝説の元となった話が志度寺縁起絵(重文、同寺に現存)に書かれている。澄禅はこのことを記している。現在、寺には海女の墓という五輪塔がある。
 (91)現在島は陸続きになっており、弁天社がある。
 (92)一帯は旧寒川郷であり、その中心である長尾のあたりには市が立っていた。古市というは当時の市(さぬき市長尾西)に対し昔の市があった場所という意味か。七観音に関しては、松平頼重(一六二二―九五)が天和三年(一六八三)に国分寺、白峯寺、根香寺、屋島寺、八栗寺、志度寺、長尾寺を讃岐七観音に指定したとされるl 。澄禅日記の記述からは、それ以前から七観音が普及していたことを伺わせる。根香寺山門脇には七観音を示す石標が現存。
 (93)義経進軍の道は大坂越とされる(徳島県板野町から香川県東かがわ市に至る道)。長尾寺から大窪寺への遍路道とは異なるルートである。
 (94)駅路寺として瑞雲寺と称していた時期もあったが、澄禅の日記の記載では現在と同じ安楽寺となっている。
 (95)五百羅漢の記載なし。
 96)大阪の淀川のように大きな川という意味で「淀川の様な川だ」と記す。島瀬とは、四国三郎橋東側にあった大麻街道の隅瀬渡し(徳島市応神町東貞方―同市不動東町地先)かl 。
 
 
 【十】まとめ
 
 
 澄禅の足取りについてであるが、井戸寺(十七番)から打ち始め、一宮(十三番)―藤井寺(十一番)、焼山寺(十二番)―恩山寺(十八番)という経路を取っている。恩山寺以降はほぼ現在の行程と同様である。そして大窪寺(八十八番)を打ち終えた後、切幡寺(十番)から霊山寺(一番)に至り打ち終えている。
 澄禅は井戸寺から巡拝を始めることについて「大師は阿波の北分十里十ケ所霊山寺を最初にして」とし霊山寺から回り始めないことの言い訳をしている。このことから、当時すでに霊山寺を一番にして巡拝することが一般的であったことがわかる。参拝した札所に番号をつけてはいないけれど、最後に世間流布の日記として札所八十八ヶ所と記していることからも、現在に通ずる番付がなされていたことは想像に難くない。一方同時に井戸寺から回るのを「中古より以来云々」として持明院から伝授を受けているので、そのような回り方もされていた、つまり必ずしも一番から回らなければならないということではないことがわかる。
 他に、現在の徒歩遍路の順打ちの基本コ―スと異なるところを挙げる。まず、現在と番次を違えている箇所であるが、伊予国分寺(五十九番)―一ノ宮(六十二番)―香園寺(六十一番)―横峰寺(六十番)―吉祥寺(六十三番)の順に回っている。六十一番から六十四番は近くに並んでおり、六十番のみ距離が離れている所へ登山するので、現在も六十番を後回しにする行程が組まれることがある。六十一番より六十二番を先に打っているのは今治街道(現在の国道一九六号沿い)を行った場合、その方が近かったと思われる。六十一、六十二番の間は一キロ強しかなく、打ち戻っても大したことではない。
 次に三角寺(六十五番)の奥院に参詣している。ここは現在も難所とされ訪れる人が少ないが、あえて行っている。奥院から雲辺寺(六十六番)に至る経路は前述の通り尾根道が現存することを確認した。
 琴弾八幡宮(六十八番)、観音寺(六十九番)の打ち順も日記では逆となっているが、琴弾八幡と観音寺は隣接する境内であり、どちらを先にと言う意識はあまりなかったようだ。明治の神仏分離以後は観音寺境内に二札所が併存することとなってしまったので、まったく番次の意味はなくなってしまった。日記に番付の記載が無いことと合わせ澄禅自身が番付を重要視していなかったことがわかる。
 弥谷寺(七十一番)からは曼荼羅寺(七十二番)に直行せず、大師ゆかりの海岸寺、三角寺(現仏母院)、熊手八幡などの番外札所を巡ってから曼荼羅寺に至る。また善通寺(七十五番)から金毘羅を往復している。金毘羅は現在は四国の札所ではないが、当時の遍路は参詣していたことを裏付けるものといえる。
 澄禅の日記は和歌山で終わっている。その後高野山に参ったのか、京都・智積院に直に帰ったかは判然としない。ともあれ四国の札所を回り終えたことで完結しているという意識があることは記載から確かである。このことから高野山にお礼参りする風習はまだ確立していなかったことがうかがえる。十月二十六日に霊山寺を打ち終え、和歌山には二十八日着だから、徳島城下で二十六、二十七日と泊まったと思われるが、記録上からはわからない。巡拝日数は九十一日間と記している。これも四国内のみの勘定である。現在の四国徒歩遍路の平均的日数四十―五十日l の二倍ほどかかっている。雨の日は逗留しているし、城下ではゆっくりするなど、現在よりは余裕を持って巡っていたことがわかる。
 以上、澄禅が歩いたルートについて、文献と現地調査を交えてほぼ確定するとともに、現在との違いを明らかにした。遍路をしたルートをたどれる現存最古の史料を元にしたルートの再現であり、現在地名との整合性を図った研究は他にない初めての試みである。これについてほぼ確定できたのは、先行研究にない成果であると思う。今後の現地調査で分かったことがあれば、それを追加して確定したいと思う。
 
   (高野山大学密教文化研究所受託研究員・四国八十八ヶ所霊場会公認大先達)
 
 
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顱慂嬾日記』の「辺」は正しくは、しんにゅうに鳥の「桓」。「辺」の異体字。本論では引用文は「辺路」と表記、地の文は一般的な「遍路」を使用した。底本に塩竃神社(宮城県塩釜市)所蔵の正徳四年(一七一四)写本の影印本(高野山大学図書館所蔵)を使い、宮崎忍勝『澄禅四国遍路日記』(大東出版社、一九七七)、近藤喜博『四国遍路研究』(三弥井書店、一九八二)、伊予史談会『四国遍路記集』増訂三版(愛媛県教科図書、一九九七、以下『史談会本』)を参照し校訂した。
髻悵僕修諒從道』(愛媛県生涯学習センター、二〇〇二)、『徳島県歴史の道調査報告書第五集遍路道』(徳島県教育委員会、二〇〇一)。
鶸鄲綉卑篤繊愡郵颪諒嬾石と道守り』(海王舎、一九九一)一五頁。
底本に『史談会本』を使用。以下『道指南』と記す。
『海南町史上巻』(一九九五)一二二七―一二二八頁。

『徳島県の地名』(平凡社、二〇〇〇)七一六―七一八頁。
「纏」は「より」と表記した。以下同じ。
『神山町史上巻』(二〇〇五)六二七頁。『ふるさと佐那河内』(佐那河内村、一九九二)三三頁。『鬼籠野村誌』(一九九五)四五一頁。
『海南町史上巻』四八一―四八二頁。
金剛頂寺坂井智宏師は、現在の行当岬不動岩(金剛頂寺麓、室戸市新村行道)が空海求聞持の遺跡であるとの見解を出しておられる。
餮淆羯蛎Δ砲蓮現在の文殊通のあたりに御船着場があった。大野康雄『五台山誌』(土佐史談会、一九八七復刻)一一五頁。
魃の院のある方角は実際は南東
鵝愧翕攤環史』(一九八六)によれば、佐竹氏の菩提寺であったが、明治四年に廃寺。七〇、九四五―九四七頁。
大塚政重『佐賀町郷土史』(佐賀町教育委員会、一九六五)五九頁。
『中村市誌続編』(一九八四)六八六頁。
『佐喜浜郷土史』(佐喜浜郷土史編集委員会、一九七七)二四九―二五一頁。
崎山の台地の崎にあたるところに神社がある。不動岩に下る遍路道の入口である。『室戸町誌』(一九六二)四六、七二―七三頁。
安岡大六『安田文化史』(安田町役場、一九五二)二一九―二二四頁。『高知県の地名』(平凡社、一九八三)八〇頁。『史談会本』八七頁。
小松勝記『土佐西国観音巡り』(毎日新聞高知支局、二〇〇一)三六―三七頁。
顱惺眞慮の地名』(平凡社、一九八三)三六九頁。
髻惺眞慮の地名』三三六、三五四頁。
鸚饗貉伊東聖隆師からの聞き取り。
堯愡肪眠駛棔拔紂司如
『史談会本』九二頁。
『土佐清水市史下巻』(一九八〇)六六二頁。
『大月町史』(一九九五)一〇八七―一〇九七頁。
山本弘光「月山道について(上)」(『西南四国歴史文化論叢よど第十号』四一―五三頁、西南四国歴史文化研究会、二〇〇九)。
『宿毛市史』(一九七七)七九一―七九二頁
『宿毛市史』七四九頁、『一本松町史』(一九七九)三八三―三八四頁
馮地に下りていることから津島の中心部である岩松への遍路道をたどったのは確かであろう。野井に行くには岩渕経由であると推測される。

鶺貍田町役場での聞き取り。
堯愃治郷土史現代の今治地誌近・現代4』(今治市役所、一九九〇)八三二頁。
明治九年に東中村、西中村、黒本村が合併して三芳村に。その後の合併で東予市、さらに西条市に。『東予市市誌』(一九八七)一四四四頁。
『三間町誌』(一九九四)八〇〇―八〇一頁。『宇和舊記上巻』(愛媛県青年處女協会、一九二八)一七六―一七七頁。

『小田町史』(一九八五)一九二―一九三頁。『愛媛県の地名』(平凡社、一九八〇)四四三頁。
『史談会本』一〇二頁。
l『新居浜市史』(一九六二)八二二頁。
l顱悵僕住暗膸垰法戞憤豢緘四)一〇五〇頁。
l髻惺眈昌垰法戞憤豢緘六復刻)二九八―二九九頁。
l鵝愡肪眠駛棔抂谿譟察一三一―一三三頁。
l堯慍竺浹鐶嫉法戞憤豢絽渭察忙融亜察住融案麒如
l 『香川県史第三巻』(一九八九)五六六―五六九頁。『新修高松市史供戞憤豢縅始察貌鷦啓景如『高松市史』(一九八六復刻)二九一―二九二頁。『松平頼重伝』(松平公益会、二〇〇二改訂)三一九頁。
l『香川県史第三巻』五六九―五七三頁。
l『吉野川の渡しガイドブック』(国土交通省四国地方整備局徳島河川国道事務所、二〇〇六)七四頁。
l拙著『公認先達が綴った遍路と巡礼の実践学』(高野山出版社、二〇〇七)二八頁。


 ※県史・市町村史誌については、当該自治体・教育委員会・編集委員会等の編になるものは著者名・発行所名を省略した。


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