柴谷宗叔・高野山大学密教文化研究所受託研究員(「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会役員)
(「宗教研究」第85巻第4輯=2012年3月、日本宗教学会発行)
四国八十八ヶ所と西国三十三所の二大霊場について巡拝者の実態を調査した。その結果、四国遍路は大別して三つのタイプに分かれること、西国は四国に比べ観光的要素が強く、徒歩巡拝はほとんどいないということなどが裏付けられた。
巡拝者がどこから来ているかを見ると、四国遍路の場合、全国的な広がりをみせている。地元四国からが二二%だが近畿からが三〇%とこれを上回り、以下、関東一四%、中部一一%、中国八%など。西国は地元近畿が六六%と三分の二を占め、中部が二〇%で三十三番札所が岐阜県で中部に在ることを考えれば、なんと八六%が地元で占められていることになる。全国区の四国、地方区の西国という差が現れている。
四国について地域と日程の相関をみると、地元四国の人たちは車の日帰りで、家族、知人など小グループで巡拝する。近畿、中部など中距離地区からは団体バス(あるいは車)の区切り打ち。関東以遠の遠距離地区からは徒歩(か公共交通機関利用)の単独行動で通し打ちというスタイルが多いことがわかった。西国では日帰りが七五%を占め、地元近畿の人が車の日帰りで回っているという構図がわかる。徒歩は〇・三%(実数一)で誤差の範囲でゼロに等しい。
動機(複数回答)は四国、西国ともにが先祖等の供養が過半数の人が挙げ、近しい人の死が遍路にかきたてるという構図が浮かび上がる。観光目的は西国が二〇%、四国が九%で、西国が四国の二倍以上の比率となっているのが特徴だ。プロフィールを見てみると、四国、西国ともに六十歳代が四割以上を占め、定年退職後に巡礼に出るというケースが多いという図式が浮かび上がった。調査は二〇〇四年から二〇〇五年にかけ、各二千枚のアンケート用紙を配布。回収率は四国二五・二%、西国一四・三%。
西国ではなぜ徒歩巡拝が廃れたのか。これは鉄道の発達と大いに関係がある。一八七四年以後、関西圏には鉄道網が張り巡らされていく。都市間を結ぶのみならず、有名な寺社への参詣の便が図られる。現在も公共交通機関が利用できない寺は、ごくわずかである。
歩くしかなかった巡礼道が、交通機関利用の札所巡りに変貌していく。京都、大阪、奈良といった、都市周辺の札所が多い西国にあっては、かつての巡礼道は忘れ去られ、巡礼宿も廃業していく。明治後期から大正にかけ、すでに現在に近い巡礼スタイルになったものと思われる。荻原井泉水(一八八四―一九七六)の『観音巡礼』(一九二八)には、「徒歩する者は洋服にリュックを負うたあるかう会の会員といふてあひか、運動会気分のおばあさん連かになってしまふ」と記し、「先を急ぐほんとうの巡礼は却て電車に乗る」と明言している。このことから、当時の巡礼が鉄道を積極的に利用していたことがわかる。というか、徒歩巡礼は昭和の戦前にしてすでに異端であったのである。 一方、四国は鉄道の発達が遅れた。各県を結ぶ幹線は高徳本線は一九三五年、予土線の全通に至っては一九七四年である。都市周辺の一部札所を除いては鉄道の恩恵をこうむることはできず、昭和になっても、昔ながらの徒歩遍路をするしかなかったのである。現在まで連綿として徒歩遍路が続いているのは、西国と異なり交通の便が悪かったゆえに徒歩の遍路道が保存されていたこと、そして同様の理由で、遍路宿が残っていたことに尽きるといえる。
三月の東日本大震災以後、四国遍路の数が減ったと聞くが、遍路宿に宿泊する関東以北の巡拝者が減ったのが影響していると思われる。日帰りが主体の四国、近畿からの巡拝者はもともとあまり宿泊しないからである