四国遍路ブームの背景



              梶川伸・大阪経済法科大学非常勤講師(現客員教授)

              大阪経済法科大学科学技術研究所紀要・第11巻第1号

                      (2007年3月31日発行)

                  

1.はじめに


 四国八十八カ所の札所を巡る遍路がブームになっている。四国八十八ヶ所霊場会の庄野光昭会長(十九番立江寺住職、徳島県小松島市※当時)は、年間の参拝者を10万〜15万と推定する。
 遍路は四国にある空海(弘法大師、774〜835)ゆかりの88の寺を回るもので、平安時代にはその片鱗が見え、歴史は古い。その長い歴史の中でも、ここ20年ほどの巡拝者の多さは特異である。
 春の遍路シーズンになると、バスツアーの遍路が札所で鉢合わせするケースが目立つ。土曜、日曜の多い日には、一つの札所に何十台ものバスが、ツアー客を送り込む。そのほかに、マイカーの利用者、歩き遍路(歩き遍路という言葉はまだ新しいようだが、便利なので使用する)、公共交通機関利用者、マイクロバスやタクシーでの巡拝者もいる。札所の本堂や大師堂、納経所が人であふれることは少なくない。
 私は1996年に、9回に分けて自転車で四国八十八カ所を回った。道のりは約1400舛任△襦0貪戮鵬鵑襪里髻崢未径任繊廚箸いΔ里紡个靴董何回かに分割するのを「区切り打ち」という。私の場合は、自転車による区切り打ちだった。
 なぜ、遍路に出たのか、自分を分析してみる。一つの大きな要因は、1995年1月17日午前5時46分に起きた阪神大震災に結びつく。私は毎日新聞の記者である。大震災は6434人の死者を出した。そのおびただしい死者の一端に接し、命というものを考えるようになった。考える手段として選んだのが、遍路だった。
 もう一つは、50歳という人生の節目を目前にしていたことだ。遍路に出たのは49歳で、回っている最中に50歳を向かえた。人生というものを、もう1度考えてみようという気持ちがあった。
 八十八番まで参って結願すると、また行きたくなる人がいる。「お四国病」とよく言われるが、私もそうだった。そこで、いくつかの旅行会社のバスツアーを渡り歩いて、15回に分けて1周した。移動はほとんどバスで、バスが入れない寺はタクシーに分乗する方式だった。
 二つの遍路の経験は記事にした。そのことがきっかけで、2003年から2回、毎日新聞旅行の遍路ツアーの案内人をした。そのツアーは、昔から残るいい遍路道を歩き、ほかはバスで移動する。歩き遍路とバス遍路の混合型と言っていい。案内人としての1回目は、11回の区切り打ちだった。2回目は逆に回る「逆打ち」で、八十八の霊場のほかに別格二十霊場も組み入れたもので、15回の区切り打ちで完結した。以下、1回目のツアーを毎日順打ちツアー、2回目を毎日逆打ちツアーと表記する。
 この稿は、4回の遍路の体験と、記事を書くにあたって取材した内容をもとに、現在の遍路ブームの背景を探ってみる。
 「遍路」と言う言葉は、三つの使い方がされる。一つ目は四国八十八カ所を回ること、二つ目は四国八十八カ所を回る人、三つ目は四国八十八カ所の文化である。この稿でも、この三つを使い分けながら進める。
 
2.四国遍路とは 
 
 四国八十八カ所の霊場を巡る遍路を定義づけるのは、なかなか難しい。その成立と定着の過程で、いくつもの要素が入り込んでいるからだ。
 高野山真言宗の村上保寿教学部長は、大きな要素は三つあるとみる。第1に空海信仰、第2に歩いて回る修行形態、第3に一般の人を引き付けた聖の役割だ。
 空海は若い時に著した「三教指帰」で、讃岐で生まれ、四国の室戸岬、太龍ヶ嶽などで修行したと書いている。四国は空海のふる里であり、修行の場であったことは間違いないだろう。このため、真言宗に限らず、他宗の僧も含めて、空海の修行の追体験を試みたケースはいくつも知られている。
 しかし、空海の修行は点であり、遍路の特徴である線を歩くこと自体が重視されるには、別の要素がいる。線として形式を導くもの一つとして、村上部長は補陀洛(ふだらく)信仰を挙げる。補陀洛は観音菩薩の住む浄土とされ、平安中期以降に補陀洛信仰が盛んになる。観音浄土の周辺を「辺地(へじ)」と言う。四国も辺地に擬せられ、観音浄土の周辺をへ巡る修行が行われた。「辺地」が「辺路」になり、やがて「遍路」になるという見方である。
 補陀洛信仰では、四国とともに和歌山県那智勝浦町の補陀洛山寺がよく知られる。この寺では、補陀洛渡海というしきたりが続いていた。僧が1人で小さな船に乗り、浄土を求めて帰ることのない船出をするものである。死の船出は、26回が記録されているという。このことから、補陀洛信仰が当時の人の心に深く入り込んでいたことがわかる。
 四国遍路の大きな特徴は、僧ではない一般の人に支えられている庶民信仰という点だろう。そうなると、上記の二つの要素では十分に説明されているとは言えない。そこで、村上部長は聖が大きな役割を果たしたと見る。応仁の乱によって、聖は京を離れて地方に行った。聖が生計を立てる手段の一つとしたのが、弘法大師信仰を広めることだったと推測する。これにより、四国遍路は庶民の信仰になったという考えである。
 四国遍路の大きな柱は弘法大師信仰であることは間違いない。では、札所は真言宗の寺ばかりかというと、ばかりかというと、そうではない。札所の宗派は次の通りである。▽高野山真言宗22▽真言宗豊山派18▽真言宗御室派12▽真言宗善通寺派7▽真言宗智山派7▽真言宗大覚寺派5▽真言宗醍醐派4▽真言宗東寺派2▽真言宗石鈇派1▽真言律宗1▽真言宗単立1▽天台宗2▽天台寺門宗2▽臨済宗妙心寺派2▽曹洞宗1▽時宗1。真言宗が圧倒的に多いが、他の宗派も混じる。真言宗のとらわれない信仰の場で、これが庶民宗教の場であるあかしでもあるだろう。
 四国遍路が定着するのは16世紀と見るのが一般的だ。江戸時代になると、八十八カ所も確定する。同時に、各地に四国八十八カ所を模したミニ四国八十八カ所ができる。瀬戸内海の島にできた島四国が代表的だ。
 島四国で一番知られているのは、小豆島八十八カ所だろう。ここは1696年に整備されている。距離は約150舛如∧發と普通は6泊7日かかる。岡山県の神島八十八カ所は今は干拓で笠岡市と地続きになっているが、元は島だった。ここも250年ほど前の江戸時代に整備されている。愛媛県今治市の大島の八十八カ所も、2006年に200年の節目を迎える。
 八十八カ所は島に限ったことではない。京都府福知山市の夜久野八十八所は1816年に住民が弘法大師を刻んだのが起こりで、翌年にはコースが整備されている。奈良県十津川村のような山間部にも、八十八カ所が残っている。これらは、四国遍路が深く住民の中に浸透したことを物語る。本家の四国八十八カ所の信仰も衰えることはなく、現在の遍路ブームもその延長線上にある。
 
3.遍路の作法

 四国八十八カ所の遍路には、一定の作法がある。スタイルもほぼ一定している。笠をかぶり、首に輪袈裟を掛け、手には金剛杖を持つ。白衣に身を包み、ずだ袋を提げ、数珠を手にする。
 札所に着くと、本堂の前でロウソクと線香を立てる。納め札や写経を納め、賽銭を入れて、わに口を鳴らす。仏前勤行集を開き、祈願文、開経偈、懺悔文、三帰、三竟、十善戒、発菩提心真言、三摩耶戒真言、般若心経、本尊の真言、光明真言、大師宝号、回向を唱える。次に大師堂に行き、同じことを繰り返すが、本尊の真言は省く。お参りをすませると、納経所で朱印をもらう。
 仏前の勤行は省略形もあるが、おおまかにはこの作法とスタイルは参拝者に共通している。ただし、遍路の象徴である白衣のスタイルについては、それほど古いものではなさそうだ。
 1690年刊行の真念著「四国偏礼功徳記」の冒頭に、江戸・元禄時代の遍路姿が描写され、それが四国八十八ヶ所霊場会の「先達教典」に掲載されている。菅笠状の笠、竹の杖、負俵(おいだわら)の姿である。白衣や輪袈裟は描かれていない。
 1909(明治42)年5月に発行された四国遍路最初の写真集「四国霊場名勝記」の一部も、先達教典に掲載されている。十八番恩山寺、四十番観自在寺の写真だ。これを見ても、輪袈裟や白衣はない。

4.ブームの現状

 年間10万〜15万人もの参拝者のうち、多いのは個人や小グループで回る人だろう。しかし、この全体像はつかみにくい。その点、バスツアーはある程度わかる。
 バスツアーの歴史は古い。森正人さんの「四国遍路の近現代」によると、1933年に阿南自動車大阪出張所がバスツアー企画した。ただし、実際に行ったかどうかは確認されていない。確認されている最初のバスツアーは1953年に伊予鉄道に行ったものだ。
 JTB西日本広報部によると、同社の大阪発の遍路ツアーの年間の参加者は延べで5000人から1万人の間である。2001年9月に取材した時は、2000〜3000人だった。数は着実に増えていて、JTB西日本広報部自体も「ここ数年は微増」と分析している。
 JTBは旅行会社の中の最大手で、他の旅行会社も遍路ツアーに力を入れている。旅行が娯楽の中で大きなウエートを占め、膨大なツアーが企画されている中で、遍路ツアーは旅行会社にとってヒット商品である。旅慣れした人は、変わった所に行ってみたい、目的のある旅をしたい、と考える。その層が選択したツアーの一つが、四国遍路だと言える。
 旅行会社にも大きなメリットがある。ほとんどは、区切り打ちのツアーである。切り打ちツアー10〜15回前後に分けるものと、阿波(徳島県)、土佐(高知県)、伊予(愛媛県)、讃岐(香川県)に分ける一国参りが主流だ。いずれにしても、1回のツアーに参加すると、最後まで参加する人の割合が高く、旅行会社はリピーターが期待できる。さらに、結願しても、「お四国病」でまたツアーに参加するリピーターもいる。
 札所では、参拝者は名前を書いた納め札を奉納する。納め札は参拝回数によって色が違う。4回までは白、5〜6回は緑、7〜24回は赤、25〜49回は銀、50〜99回は金、100回以上は錦である。私が案内人を務めた毎日順打ちツアーには毎回20〜35人が参加した。ほとんどは白の納め札だったが、緑が1人、赤が2人いた。2回目の毎日逆打ちツアーにも、1回目の6割が参加した。このリピーター率一つをとっても、遍路が魅力あるツアーであることがわかる。
 参拝者の中で特徴的なのは、歩き遍路の動向である。歩き遍路の数は特定できないが、いくつか推定できるものがある。一番霊山寺(徳島県鳴門市)は、歩き遍路の心得を聞いて出発した人が名前や住所を書き込むノートを置いている。記帳した人が歩き終わったかどうかはわからないが、少なくとも歩き始めた人の数はかなり程度は把握できる。
 ノートは1989年から置かれている。そのノートから記帳者を数字を、霊山寺の芳村超全住職に教えてもらった。ただし、最初の数年はノートの存在が十分に認知されていないと見た方がよい。
 ▽1989年=137人▽90年=240人▽91年=670人▽92年=450人▽93年460人▽94年=500人▽95年=450人▽96年=900人▽97年=760人▽98年=1261人▽99年=1403人▽2000年=1700人▽01年=4218人▽02年=4173人▽03年=3350人▽04年=3045人▽05年=4516人。1990年代の後半から急激に増え、2000年から爆発的なブームになっていることがわかる。
 もう一つ数字を挙げる。八十八番大窪寺の手前に、お遍路交流サロン(香川県さぬき市)がある。歩き遍路が結願の前にここに寄ると、四国八十八ヶ所遍路大使任命書をもらうことができる。完歩証のようなものである。四国4県のロータリークラブが発行主体になっている。歩き遍路の大半が任命書を受けると見られるので、結願した歩き遍路の概数がわかる。
 任命書は2004年4月8日に交付を始めた。2006年10月31日までの発行数は4815である。これはおおよそ2年半の数字なので、1年では1900あまりになる。2006年7月1日から11月末までは約1000だという。任命書が知れ渡ったこともあるかもしれないが、歩き遍路は増えていると見てもいい。霊山寺で把握している歩き始めた人数は、2005年で最高を記録したが、その増加傾向が続いていると判断できる。
 任命書の発行数の分析で、もう一つおもしろい数字がある。歩き遍路の住所地を、交流サロンが調査している。2006年10月31日までの歩き遍路の住所ベスト5は、‥豕都558人大阪府519人神奈川県367人な叱妨315人ダ虱娶262人。
 これに対して地元では▽愛媛県102人▽高知県57人▽徳島県50人▽香川県254人(ある団体に一括交付したため数字が跳ね上がっているが、実数は他の3県なみと交流サロンは分析)。四国の地元以外の歩き遍路が多く、首都圏と阪神地区が際立っている。
 任命書から見る歩き遍路は、47都道府県を網羅している。少ない五つは▽佐賀県11人▽秋田県12人▽山形県14人▽山梨県15人▽宮崎県16人。四国から遠い県が占めている。
 八十八カ所を歩くには、40〜60日かかる。結願するには、体力もいるし、金銭の用意もいる。それでも歩き遍路が増え、高い水準で安定している。この傾向は、バスツアーや車での参拝を含めた全体にも言える可能性がある。つまり、いまは遍路史上、最大のブームであると言える。

5.遍路の動機

 私が案内人を務めた2回のツアーで、参加動機を私なり分析した。延べの参加者は約50人だった。参加動機は、身近な人の死(先祖供養を含む)、自分の病気の回復祈願、人生の転機における自分の見つめ直し、観光、ウオーキング、宗教心である。  さまざまなツアーがある。当然、主流は観光の要素が強いツアーである。毎日順打ち、逆打ちツアーも観光的色彩は持っていた。ただし、1泊2日の日程の中で、10〜15舛亙發というのが特徴だった。たくさんのツアーの中からこのツアーを選んだ参加者は、何か心の底に思いを沈めている人が目立った。沈めた思いの中で多かったのは、身近な人の死による悲しみである。
 兵庫県丹波市から参加した女性は、24歳の娘を交通事故で亡くした。娘の写真を持っての参加だった。女性は教師だったが、勤めていた学校をやめ、生きる望みを失いかけていた。そんな時に瀬戸内寂聴さんの話を聞き、四国遍路を勧められたのだった。その女性が後にツアーに誘った別の女性も、20歳の息子を病気で失っていた。
 大阪府四條畷市の女性は、夫を病気で亡くした。病気の夫の延命治療をやめる決断を下した人だった。自分も仕事を持ち、夫とは遊びに行くことも少なかった。「命は永遠ではないのに」と語り、ツアーでは夫が使っていた男物の数珠を手にしていた。夫の死から数年たっても、遺骨を墓に納められず、悲しみの深さを物語っていた。
 大阪府大東市の男性は、妻を亡くした。ある回のツアーの夕食の時、「今日が妻の1周忌で」と話したので、そのことがわかるのである。
 がんで闘病中の人も3人いた。四国遍路には、悲しみや苦しみを持つ人を引き付ける何かがある。一番霊山寺の芳村超全住職は「本を読んでも答が見つからない、相談しても、自分で考えても答が出ない時、ならば四国とやらに行ってみようか、という思いになる」と話す。
 現代社会では、「癒し」「ヒーリング」という言葉がよく使われる。四国遍路も「癒し」と結びつけれて語られることが多い。もちろん、その側面もあるだろうが、霊場会の庄野会長は「癒しというより、見つめ直し」と語る。「昔はお大師さんに救われたいと願う人が大多数だった。今は目的意識持っている人が増えた。知的な層や、若い人も増えた。哲学的な遍路もいる。不確かな時代だから、自分の生き方に疑問を持つ人いる。そんな人が四国来る」という分析である。人生の転機に四国遍路をしてみようと考える層が、これに当たるのではないか。
 健康志向も、四国遍路に影響を与えていると思われる。トレーニングジムがはやり、トレーニングマシンがよく売れ、マラソン、ジョギング、登山、トレッキングもブームである。歩き遍路が増えたのも、この流れの中にある。私が自転車遍路を結願した1997年に、八十八番大窪寺のそばの遍路宿で、「22日で歩き終わった人が今年は2人いた」と聞いた。1日に60訴發い燭海箸砲覆襦これは遍路というより、スポーツ感覚だろう。
マラソンで遍路をしている女性に出会ったこともある。十一番藤井寺(徳島県吉野川市)から十二番焼山寺(徳島県神山町)への遍路道は難所の一つで、遍路転がしと呼ばれる。高低差で600辰曚錨个襦その途中には谷もあるので、途中で1度下り、また登ることになる。毎日順打ちツアーの際に、この遍路転がしを走って往復するグループに出会った。これもスポーツの域である。
 遍路に出る動機は多様化している。そのことが、遍路ブームの底辺を広げているとも言える。
 
6.年齢層

 毎日順打ち、逆打ちツアーの参加者の平均年齢は60代後半だった。仕事などが一段落し、人生のセカンドステージに立つ世代といえる。1人で四国に行って歩くのは自信がないので、ツアーに参加したという分析ができる。四国遍路は中高年が多いのは間違いない。しかし、ここ10年の私の実感では、若い層が増えている。
 河野端子(大阪市)の社長を退いた河野耕作さんが2006年7月、高松市の実家を改造して、歩き遍路のための休憩所を造った。八十二番根香寺(高松市)から八十三番一宮寺(高松市)への道筋にある。
 この休憩所の利用者についての、河野さんの分析が興味深い。利用者の5割は定年後や50代後半の人、30代から50代前半の人が2割5分、20代以下の人が2割5分という。歩き遍路に限ってはいるが、若い層が増えていることを裏付ける。
 愛媛県の明徳短期大学は遍路の講座があり、学生が歩くカリキュラムも組んでいる。香川県の四国学院大学にも遍路の講座がある。四国の大学のこのような試みは増えている。これも遍路ブームの年齢層において底辺を広げている。
 
7.ブームの社会的要因

 ブームはいくつかの要因が複合して起きる場合が多い。四国遍路ブームもそうで、その要因は社会状況と遍路をする人の側の状況の双方にあり、相互にに作用し合っているように見える。
 
7.1 交通網の整備

 社会的要因では、交通網の整備が挙げられる。特に本州四国連絡橋の完成は、本州側から四国へのアクセスを便利にした。四国遍路は、四国以外の人が圧倒的に多く、遍路にも大きな影響を与えた。
 1988年4月に、岡山県倉敷市と香川県坂出市を結ぶ瀬戸大橋が開通した。橋の開通により、四国観光が脚光を浴びた。この橋は鉄道と道路の併用橋で、歩き遍路にとっても、マイカーを使った遍路、バスツアーにとっても、四国に行きやすい状況を作り出した。
 1998年4月には、神戸市と淡路島を結ぶ明石海峡大橋が開通した。淡路島と徳島県鳴門市を結ぶ大鳴門橋はすでにできていて、明石海峡大橋によって関西圏と四国がつながったことになる。
 四国遍路の出発点は鳴門市である。本州側の遍路志向者にとっては、明石海峡大橋の完成で遍路が実質的にも気分的にも簡単に行ける場所となった。2001年のJTBの取材の際には、「遍路ツアーは中小の旅行会社が中心だったが、明石海峡大橋の開通によって大手が参入した」と話していた。大手の参入によって、ツアー客は大幅に増えたのである。
 1999年5月には、広島県尾道市と愛媛県今治市を結ぶしまなみ海道が開通した。しまなみ海道は島を結んでいく地域連絡橋として順次整備され、全通によって中国地方西部からアクセスを容易にした。また、関西から四国に行く際にバラエティーを持たせることにもなった。
 瀬戸三橋によって、四国の各自治体は観光客誘致に力を入れた。その柱の一つにしたのが四国遍路で、このPR効果も大きいと言える。
 四国4県を結ぶ四国自動車道の整備の影響も大きい。整備が遅れていた高松道も、2006年3月に高松中央インターチェンジから高松西インターチェンジの間が開通し、四国4県の中心部を結ぶ自動車道が全通した。
 これにより、関西から明石海峡大橋、大鳴門橋経由で香川県や愛媛県に行く時間がさらに短縮された。歩き遍路にとっては、大阪方面から高松行きの高速バスに乗り、高松道の鳴門西インターチェンジで下車すれば、一番霊山寺までは歩いて20分ほどの便利な場所になった。
 
7.2 メディアの役割

 情報発信という視点では、メディアの力が大きい。四国遍路に関しても、メディアは大きな役割を果たした。  最近のブームを作り上げる力になったものに、NHKが1998年から2年間にわたって放映した「四国八十八か所 こころの旅」がある。著名人が遍路兼レポーターとなり、各札所の紹介や遍路道での出会いなどをまとめて番組とした。
 バブル経済がはじけた後、21世紀を迎えるにあたり、物の豊かさから心の豊かさを求める風潮があった時期である。癒しやヒーリングも流行語になった。この時代状況にマッチした番組で、根強い人気を得た。この番組は視聴者のうちの中高年を、遍路バスツアーなどに向かわせる力になったと推測される。
 2004年には、「ロード88」という映画が上映された。主人公の若い女性が遍路をする内容だった。これは若い層にも、遍路を浸透させる一定の役割を負った。

 NHKは2006年に、教育テレビで遍路の入門講座を番組とした。また、総合テレビでは歩き遍路をテーマにしたドラマ「ウォーカ−ズ」を放映した。07年に、団塊の世代が定年を迎えることを根底に置いてのことを想像できる。

 新聞や雑誌、出版社も遍路本を多く出した。遍路ブームに乗った面もあるが、その記事や本がまたブームを後押しすることにもなった。私自身も▽「銀輪巡礼」(1997〜98年、9回)▽「同行二人 心の共同体」(2002〜03年、12回)▽「遍路の仲間」(03〜04年、11回)▽「金剛杖を手に」(04年、7回)▽「こころ遍路」(05年、20回)の記事を毎日新聞に連載した。遍路ブームがあり、読者の求めがあったからでもある。
 
7.3 情報の共有化

 マスメディアの情報提供のほかに、インターネットの普及によって、個人や団体が提供する情報も、遍路に行きやすくする状況を作り出している。
 四国八十八カ所は、いくつもの札所が山中にある。標高の高い所にある主な札所を挙げてみる。▽徳島県=十二番焼山寺(神山町、標高約800叩法二十番鶴林寺(勝浦町、約560叩法二十一番太龍寺(阿南市、約500叩法∀蚕夙岷席媚(池田町、911叩泡高知県=二十七番神峯寺(安田町、約450叩泡Πι恩=四十五番岩屋寺(高原町、約700叩法∀蚕夙峅J寺(西条市、約750叩法∀蚕集淅峪鯵兒(四国中央市、約430叩泡θ十二番根香寺(高松市、約400叩法八十五番八栗寺(高松市、約300叩法□θ十八番大窪寺(さぬき市、約400叩法
 初めての歩き遍路がこれらの札所に登るには、不安がつきまとう。山中の札所以外にも、峠越えや中山間部の遍路道がある。へんろ道保存協力会(松山市、宮崎建樹代表)設置した道しるべはあるが、それでも不安を感じるのは当然だろう。インターネットが普及する前は、遍路道に関する情報はほとんどは口込みだった。今はいくつもの遍路のサイトがあって、情報が得やすくなった。このことが、安心感を与えているとも言える。
 遍路は体力的、気分的に容易になり、便利になった。そのことが、遍路の底辺を広げていることは間違いない。ただし、その便利さが、本来の歩き遍路の特徴である苦労を軽減し、修業的な色彩を弱めているとの指摘があることを、留意する必要がある。

8.ブームの人的要因
 ここまでは主として、遍路を取り巻く社会的要因を見てきた。ここからは、四国八十八カ所を回る人側の要因を考える。しかし、人的要因は社会的要因と密接な関係がある。

8.1 お接待

 四国八十八カ所を回り、良い印象を持った人たちがよく口にするのは、お接待の存在である。四国遍路をする人、特に歩き遍路に対して、食べ物や飲み物、現金などを提供するもてなしのことを、お接待という。歩き遍路は弘法大師の身代わりという考え方がある。あるいは、自分の代わりに八十八カ所を回ってもらうという意味を込めることもある。
 お接待は、札所やその周辺、遍路道沿いで行われる。中には土産物屋などが、客に来てもらう呼び水をするケースもあるが、ほとんどは大師信仰や遍路文化に裏打ちされているといってよい。私が自転車遍路をしている際に体験したお接待をいくつか紹介する。
 六十番横峰寺に参ったのは梅雨の最中だった。雨に打たれたものの、登りは自転車を押して行ったので、寒さはさして気にならなかった。下りでは自転車に乗るので風を切り、急激に体が冷えた。ある建物を見つけて雨宿りをした。そこにいた人が「雨の中、自転車は寒かろう」と話し、カンコロ餅を焼いて差し出し、お茶も沸かしてくれた。体が温まり、おいしかったのを覚えている。
 後日、高知市の日曜市をのぞくと、カンコロ餅を売っていて、懐かしくなって食べた。カンコロ餅は、サツマイモをつぶし、小麦粉と一緒にして丸めた郷土の食べ物のようだ。日曜市のものは、それほどおいしいとは思わなかった。
 では、自転車遍路で食べた時のおいしさは何か。多分、見ず知らずの人の遍路に対する思いやりが、味に加味されたためであろう。私に限らず、遍路の多くは四国の人の温かさ、遍路に対する思いやりを、印象深く感じている。特に都会に住む人の日常生活では、体験することのない人間関係である。お四国病に取り付かれる最大の理由が、そこにある。
 お接待で多いのは、飲み物や食べ物だ。私が受けた飲食物は、焼きイモ、ミカン、菓子、コーヒー、赤飯などである。  お接待は飲食物に限らない。無償で宿を提供する家がある。善根宿と呼ばれる。二十八番大日寺(高知県香南市)の善根宿を紹介する。農家の納屋を改造し、歩き遍路が宿泊できるように2部屋を造っていた。私の場合は自転車だったが、「歩きも自転車も人力だから」と言って、泊めてもらった。
 入浴は家族より先だった。夕食は家族と一緒で、その家の主は「うちは農家だから食べ物はある。家族4人で食べるものを、5人で分ければいいだけ」と話した。「遍路と酒を飲むのが好きじゃきに」と言って、酒も酌み交わした。翌朝は朝食をごちそうになり、昼食用のおにぎりも用意してもらった。すべて無料である。決して裕福な家ではないが、お接待は欠かさない。
 宿泊者は、備え付けのノートに住所、名前を書く。ノートの表紙に書かれている文字が、お接待の本質をついている。「本日家族 増員名簿」。ノートを見ると、1年間で約200人が世話になっていた。このような密な関係は、四国の遍路道ならではのことと思われる。
 四国で知り合った歩き遍路の女性から、現金のお接待について聞いたことがある。一回りする間に、2万円ほどのお接待を受けたという。100円単位から1000円が多かったようだ。その女性は1人で歩き、年齢も高く、やや足が悪い。お接待を受けやすい面はあったが、四国以外では考えにくいことだろう。

8.2 共同体の崩壊

 私は遍路道における人間関係を、「心の共同体」と呼んでいる。その一方で、昔からの共同体が都会を中心崩壊しつつある。
 日本は長い間、農耕社会としての歴史をたどってきた。農作業にとっては、共同作業や助け合いが不可欠で、強い地域共同体が存在していた。例えば「お互いさま」の言葉が象徴するように、日本には支え合う思想があった。 
 江戸時代の寛政改革では、七分積金の制が設けられた。町内会費のようなものを節約して財源を生み出し、政府(幕府)も補助金を出して、江戸の窮民救済活動をした。富の再配分の考えが入っていて、明治維新期まで社会政策、都市政策の根幹をなしたと評価されている。これも共同体を重視する考え方だろう。
 戦後は、国民全体が復興という大目的のためにまとまった。これもある種の共同体である。また、福祉国家、福祉社会の形成が、一つの理念となった。「平等」や「一緒に」という思想に裏打ちされた価値を持った。高度経済成長のいざなぎ景気(1965年11月〜70年7月)では、「1億総中流化」という言葉がはやったが、これも共同体の意識に結びつく。
 ところが、1973年のオイルショックを機に、経済成長は鈍化し、バブル経済の崩壊で不況や低成長経済時代になった。行政主導だった福祉社会の構築は、行政の予算不足から足踏みを始める。日本を支える根本的な思想に変化が起きたのではないか。2002年2月に始まった景気はいざなぎ景気を超えたが、格差社会と言われ、1億総中流は昔話となった。
 その流れと平行して、さまざまな共同体の崩壊が目立つようになった。地域共同体の崩壊はよく言われることである。地域共同体の最も強いきずなは、PTAだろうが、その組織率は下がっている。PTAが、もっとつながりの緩やかな子育てサークルに衣替えしているケースもある。
 戦後日本を支えてきた会社共同体もきしんできた。会社への帰属意識が薄れ、転職に対して抵抗感がなくなりつつある。最後のとりでであろう家族の結びつきも、家庭内暴力や虐待などによってピンチに陥っている。
 人間関係は希薄化の一途をたどっている。大家族だった家庭は、核家族化の道を歩んでいる。市場での買い物は、会話のいらないスーパーに取って変わられた。面と向った関係ではなく、パソコンを通した関係が進んでいる。
 このような状況の中で生活をする人が、遍路道の人間関係に出会って、懐かしさを感じ、一時でもその中に身を置きたいと考えても不思議ではない。共同体はわずらわしい一面を持つが、反面では心地よさを感じることもある。社会の大きな流れのアンチテーゼを遍路に求める人もいて、そのことが遍路ブームの背景の一部を成しているように思う。
 毎日順打ちツアー、逆打ちツアーも、たまたま出会った参加者が回を重ねるに従って、共同体的性格を持った。一緒に歩く、一緒に参る、一緒に食事をすることが連帯感をもたらした。宿では男同士、女同士が何人かまとまって就寝する。その場が、身の上話の場となった。  膠原病の女性が病気の話をすると、別の女性が肺がんであることを打ち明けた。肺がんで痛みに耐えかねると、同室の女性が痛み止めの薬を背中に塗った。肺がんの2度目の手術を受けるかどうか迷っていた時期だった。ある回のツアーが終わり、バスから降りて100辰曚品發い晋紂△錣兇錣競丱垢飽き返し、「手術を頑張ってみる」と告げて帰宅した。ツアーは自助グループの役割を持ったと言える。そうなったのは、根底に遍路という共同体があったからである。
 京都府宮津市から参加した女性の家が、台風で床上浸水の被害を受けた。状況を聞き、メンバーの10人が大阪から泥のかき出し作業にかけつけた。毎日ツアーに限らず、遍路を通した共同体はさまざまな形で存在している。
 人間関係の希薄化の流れの中で例外的に、阪神大震災(1995年1月17日)では避難所となった学校で共同体が機能し、多くの人が被災地にボランティアとして入った。
 この年、霊山寺のノートに記載された歩き遍路の数が減っている。芳村住職は被災者の遺族が回るので、数は増えると予想したが、被災地からの遍路は皆無に近かったと言う。このことについて、芳村住職は興味深い見方をする。「被災地の中に、四国八十八カ所と同じような働きをする要素が生まれたのではないか」というものだ。被災地は遍路どころではなかったのだろうが、芳村住職の見方も一面の真理をついているように思う。阪神大震災は悲しみと苦しみ大きすぎ、日常生活にはなかった共同体を作りあげたのかもしれない。私は「悲しみの共同体」と呼んでいる。

8.3 価値観のアンチテーゼ

 へんろ道保存協力会の宮崎建樹代表は何度も歩き遍路を重ね、昔の遍路道を探し出し、歩けるように整備して、道しるべをつける活動を続けている。その宮崎代表が歩き遍路について、「時代の価値観とは相反するものがある」と語る。それは、古い、非能率、不愉快、不安、欠乏、危険などである。
 確かに私たちの社会の価値観は、それらとは反対のものが支配している。新しいもの、効率、愉快、安心、充足、安全などだ。車のような新しい便利なものを使わずに八十八カ所を歩けば、長い期間がかかる。歩くことは苦しいこともあるし、雨が降れば不愉快でもある。山道に入れば不安でもあるし、食べ物を買うコンビにやスーパーもない。危険な場所もある。それでも歩き遍路は増えている。
 経済成長を支えた大きな理念の一つは効率だった。手間をかける価値観は軽んじられてきたと言ってもよい。しかし、その行き着く先に公害や薬害もあった。最近ではBSE(牛海綿状脳症)による国産牛肉偽装詐欺、ライブドア事件も起きた。企業が負の部分や手間を省き、効率的なもうけを優先するあまり法律に違反したケースである。
 効率主義でいいのか、という反省も一方ではある。スローフード、スローライフ、自然回帰の動きもその方向である。その延長線上に遍路も位置づけられるのではないか。効率化にはなじまない農業などの一次産業が衰退しているが、四国ではかろうじて命脈を保っているのは象徴的である。手間のかかる農作業と、手間のかかる歩き遍路が共鳴し合っているような気がしてならない。

8.ブームの行方

 四国遍路のブームは、交通網の整備、メディアや個人による活発な情報提供、失われつつある共同体や現代の価値観に対するアンチテーゼといった要素を背景にしている。このブームはしばらくの間は継続すると推測する。それは、人を遍路へと向わせる新たな要素が付け加わわってきているからだ。  60歳定年の場合、団塊の世代が2007年からその年を迎える。日本の人口の年齢分布の最大の層が、一定の自由時間を持つことになる。その一定の割合が旅にでかけ、旅の中の遍路を選ぶことになる。母数が多いので、遍路に追加される数は多くなる。  団塊の世代は、大学闘争など反体制的な考えを共有し、主体的な動きをした世代でありながら、卒業すると自分を抑え、企業戦士やモーレツ社員として、日本の経済を支えてきた。つまり二面性を持つ。定年によって、再び主体的な生き方に戻る可能性を秘めている。スローフード、エコロジー、農業志向の動きを見せるのも、そのためだろう。遍路はその志向性の中に入ると見る。
 遍路ブームを後押しするだろう新しい動き、新しい組織も生まれてきた。建築家で歌一洋・近畿大学教授は、2001年から遍路道にヘンロ小屋を建てるプロジェクトを進めている。ヘンロ小屋は、歩き遍路のための簡単な休憩所である。歌教授がボランティアで設計し、地元の人がボランティアで建設する。
 歌教授は徳島県出身で、幼いころからお接待を見てきた。ヘンロ小屋プロジェクトは自身のお接待であり、「支え合い」を理念としている。八十八カ所にちなんで八十八の小屋を造り、最後にプロジェクトの象徴としての小屋を一つプラスして建てる予定で、2006年12月までに20軒が完成した。
 2006年4月には、このプロジェクトを応援する「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋をつくる会」(後に「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会に改称)ができた。年会費3000円で会員を集め、プロジェクトの支援金などに支出している。会員は2006年12月で約350人を数える。
 2006年3月には、四国の経済人などがNPO法人「遍路とおもてなしのネットワーク」を設立した。遍路の支援、遍路文化の活性化、観光誘致などを掲げている。また、四国八十八カ所の遍路文化を世界遺産にしようという動きや組織もある。
 これらの動きや組織は、新たな人を遍路に呼び込む力になりうる。21世紀になって、遍路は年間10万〜15万人という高いレベルで安定している。さらに遍路に行きやすい環境と魅力を増しながら、遍路ブームは当分続くと見る。

主な参考文献
「先達教典」(四国八十八ヶ所霊場会)
森正人「四国遍路の近現代」(創元社)
「ひとり歩き同行二人」(へんろ道保存協力会)
辰濃和男「歩き遍路」(海竜社)


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