澄禅『四国辺路日記』から読み取る江戸時代前期の様相

 

                柴谷宗叔・高野山大学密教文化研究所受託研究員(「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会役員)

              
              (「印度學佛教學研究」第60巻第2号=2012年3月、日本印度学佛教学会発行)



 (一)はじめに

 四国遍路の本格的文献史料として最古ともいえる澄禅(一六一三―八〇)の『四国辺路日記』 顱憤賚燦淹亜砲鯑匹濂鬚ことで、江戸時代前期の遍路の実態を明らかにした。昨年度は澄禅の日記に登場する人物を中心にスポットを当て、当時の遍路を取り巻く人々の様子を考察した。これまでに澄禅の歩いたルートや、番外札所を含む当時の寺社の様子などについても発表した。


 (二)城下町の様子

 四国各地の城下町の様子が克明に記されている。
 たとえば徳島城は当時は三方を海に囲まれた半島のようであったと記している。西側に川があり山麓に寺町があると書いてある。ところが寛永年間(一六二四―四四)の忠英様御代御山下画図 では、川をはさんで四方を街に囲まれている、現在に近い形の城下町が形成されている。東方の現在の沖洲にあたる部分が島であった。澄禅は城を取り囲む川を海と理解したのであろうか。侍屋敷を含めた広域の城下で見ると、北側に海のような吉野川の大河があり、南側の富田浦には湾が深く入りこんでいた。東側の海から城下に入った澄禅には三方を海に囲まれているように見えたのであろう。西側の川は現在の新町川にあたる。

  城ハ海上ニ浮ミ出タル櫓ニテ三方ハ海ニテ西一方平地也。爰ニモ西ノ山トノ間ニ大河
  流大橋在、河ノ両岸ハ皆町家也。西ノ山キワニ寺町在、真言禅浄土也。

 松山では城下の四郡の田園地帯が本丸から一望できる様が書かれている。澄禅が登城したとは思えないが、聞き知ったのであろう。現在も本丸から松山平野が一望できる。松山市周辺は住宅地や商工業地に変化しているが、郊外には田園地帯が広がっており往時の姿は偲ぶことができる。

  和気郡温泉郡伊与ノ郡久米郡此四郡八万石ノ所只一面ノ田地也。其直中ニ松山トテ廻
  リ一里斗ノ城在リ、此本丸より 見ハ四郡ヲ一見ニミル。扨、西ハ海手也、向ハ豊後日
  向迄目ノ下ニ見也。

 高知では野中主計頭(野中兼山、一六一五―六三)とその相談相手であった還俗僧の安斎(山崎闇斎、一六一八―八二)が権勢をふるい、葬儀も儒教式で行なわれていたことが記されている。世間ではキリシタンの作法のようだと言っているとも記している。澄禅は野中の儒学至上主義を批判的な眼で見ている。一方で仏教寺院は小倉庄助(小倉勝介、一五八二―五四)が、太守(山内忠義、一六〇九―六九)の命で修復したことが書かれている。

     家老ハ太守一門野中主計頭ト云仁ナリ、知行六千五百石、其外老中衆トテ三千石以上
  ノ衆七人在リ、国政等相談也。彼主計頭ハ学門好ニテ絁蔵主ト云禅坊主ニ帰伏シテ此
  年月儒道ヲ学セラル、此比彼僧ヲ還俗セサセテ安斎号ス。此安斎ト万事相談セラルヽ
     也。タトヘハ一門中ニ人死スレハ唐様トテ葬礼ノ義式皆儒道ノ作法ナリ。世ニハ只切
  死丹ノ作法ノ様ニ云也。然間、顕密ノ僧徒何モ無所作ニテ居也。其上出家程世ニイタ
  ツラ者ハ無シト主計頭云ルヽ間、其権勢ニヲソレテ国中大略此作法也。又小身ノ出頭
  人ニ小倉庄助卜云人在、此庄助天性利発ニテ万事正路ナル者迚、太守より国中ノ仕置
  ヲ被仰付。誠ニ廉直成政道ニテ諸山ノ堂塔破損シタルヲ、此庄助分別ニテ此廿四年ノ
  年間二悉ク修造シ、仍テ諸町人百姓僧俗トモニ思付タル由也。扨、又太守ハ無二無三ノ信心者ニテ殊ニ真言家ヲ皈依シ玉フト云。
  ノ信心者ニテ殊ニ真言家ヲ皈依シ玉フト云。

 宇和島では、城下町の様子を記したあと、名物として鰯の美味しいことを挙げている。明石寺 の観音が衆生済度のために変身したのだと詠歌を引いて説明している。現在の名物ジャコ天の原料はホタルジャコであるが、これを鰯と言っていたのだろうか

  此宇和島ハ昔より万事豊ニテ自由成所ナリ、殊ニ魚類多シ。鰯ト云魚ハ當所ノ名物也。
  是ハ當郡明石観音衆生斎度ノ為ニ分身反作シテ鰯ト也玉フト也。古此菩薩在人ニ示シ
  玉フ御詠哥
  伊与ノ海ウワノ明石ノ魚ナレヤ我コソハナレ世ヲ救迚
  今ノ世迄、此郡十里ノ海ニ住魚ノ形質味マテ世ニ勝タルト也。


 (三)庶民の風俗

 各国の庶民の風俗もまとめられている。これによると阿波、土佐の人は素朴で慈悲深く、伊予、讃岐は都会的で信心深かったとがわかる。
 また、僧侶であることから寺院の宗派についてもまとめている。阿波は各宗入り混じり真言は古義が多いこと、土佐は新義であること、伊予は真言宗が多いこと、讃岐は弘法大師誕生の地だけあって整備されていることなどがわかる。これらは現在にも通じる傾向であり、四百年前から形成されていたことがわかる。

  惣テ阿波ノ風俗貴賎トモニ慈育ノ心深シ。土民野鄙ニシテ馬ニハ履ヲカケス人ハ足中
  ヲ作リハケリ。言語口ヲ開テヲヽアニ易タリ、牛馬トモニスクナシ。僧徒禅密浄土一
  向相交リ密家多クハ古義ノ学者也。

  凡土州一国ノ風俗貴賤トモニ慈悲心深キ、身ヲ立テ家ヲ持程ノ者ハ僧俗トモニ馬ニ乘
  テ道ヲ往行ス。竹木米穀多シ、山海野沢多シ、殊川多シテ行路ニ苦労在リ。言語野ニ
  シテ、スツノ中音ヲ云イテノ拗音ヲ仕フ。儒学専ラ盛ニシテ政道厳重ナリ。佛法繁昌
  ノ顕密ノ学匠多、真言僧徒二百余輩、大途新義ノ学衆也。

  凡与州ノ風俗万事上方メキテ田舎ノ風儀少ナシ。慈悲心薄ク貪俗厚、女ハ殊ニ邪見也。
  又男女共ニ希ニ仏道ニ思入タル者ノハ信心専深シ、偏ニ後生ヲ願フ是モ上方ノ様也。
  国中ニ真言多シ余ハ希也。

  讃岐一国ノ風儀万与州ニ似タリ、サスカ大師以下名匠ノ降誕在シ国ナル故ニ密徒ノ形
  義厳重也。當国ニ六院家トテ法燈ヲ取寺六ケ所在、東より初テ夜田ノ虚空蔵院大師再
  誕増雲僧正 ノ旧跡ナリ。長尾ノ法蔵院、鴨ノ明王院、善通寺誕生院、勝間ノ威徳院、
  荻原ノ地蔵院以上六ケ寺也。其外所々寺院何モ堂塔伽藍結構ニテ例時勤行丁重ナリ。
  荻原ノ地蔵院以上六ケ寺也。其外所々寺院何モ堂塔伽藍結構ニテ例時勤行丁重ナリ。

 土佐・田浦でのくだりでは、塩田作業をする庶民の姿をみることができる。男女の区別もわからない粗末な身なりながら子連れで一所懸命に作業に励む様子が書かれている。

  田浦ト云濱ニ出タリ。平砂泙々タル所也。爰ニテ塩焼海士トモノ作業ラヲ見ルニ、中々
  衾成躰ナリ。先男女ノワカチモ慥ナラス、女トモカ小キ子ヲ脇ニハサミ来テ、件ノ児
  ヲ白砂ノ上ニ捨置テ、荷ヒト云物ニ潮ヲ汲テ柄ノ長キ柄杓ニテ平砂ニ汲掛テ砂ヲ染タ
 ル有様、誠ニ浮世ヲ渡ル業ハ扨モ品多キ者哉ト弥思ヒシラレタリ。


 (四)物語

 澄禅の日記には当時伝承されていた物語も多数登場する。八十場の水の讃留霊王伝説、白峯寺の崇徳天皇と天狗の話、八栗寺の弁慶伝説、弘法大師誕生にまつわる藤新太夫説話など枚挙に暇がないが、ここでは遍路元祖とされる衛門三郎伝説のみ取り上げる。

  石手寺、昔ハ熊野山安養寺虚空蔵院ト云タリ。然ヲ中古より石手寺ト号スル由来ハ、
  昔此国ノ守護河野殿トテ無隠弓取、四国中ノ幡頭ナリ。石手寺近所ノ温ノ泉ノ郡居城
  ヲカマエ猛威ヲ振フ。天正年中迄五十余代住ケルト也。扨、右ノ八坂寺繁昌ノ砌、河
 野殿よりモ執シ思テ衛門三郎ト云者ヲ箒除ノタメニ付置タル毎日本社ノ長床ニ居テ塵
  ヲ払フ。此男ハ天下無双ノ悪人ニテ慳貪放逸ノ者也。大師此三郎ヲ方便ヲ教化シテ真
  ノ道ニ入度思召ケルカ、或時辺路乞食ノ僧ニ化シテ長床ニ居玉フ。例ノ三郎来リ見テ
  何者ナレハ見苦キ躰哉ト頻テ追出ス。翌日又昨日居玉フ所ニ居玉ヘハ又散々ニ云テ追
  出ス。三日目ニ又居玉フ、今度ハ箒ノ柄ヲ以テ打擲シ奉ル。其時大師持玉ヘル鉄鉢ヲ
  家ニカエレハ嫡子物ニ狂テ云様ハ、吾ハ是空海也、誠ニ邪見放逸ニシテ我ヲ如此直下
  ニスル事慮外ノ至也、汝カ生所ノ八人ノ子共ヲ一日カ内ニ蹴死ヘケレトモ、物思ノ種
  ニ八日可死云テ手足ヲチ丶メ息絶ヌ、其後次第ヽヽニ八人ノ子共八日ニ死セタリ。其
  子ヲ遷セシ所トテ八坂ノ近所ニ八ツノ墓在リ、今ニ八墓ト云。其時三郎懺悔シテ髪ヲ
  剃、四国中ヲ巡行シテ子共ノ菩提ヲ弔。廿一度ト辺路ヲ修行シケル内、大師モ様々ニ
  形ヲ替テ同行同修シテ彼カ心ヲ鑑玉フ。實ニモ廿余年ノ修行シテ八旬ニ及ケレハ、邪
  見ノ心失果テ慈悲心深重ノ僧ト成。在時阿波ノ国焼山寺ノ札ヲ納テ麓へ下ルカ谷ノ辻
  堂ニ休居タリ、大師モ僧形ニテ爰休玉フ、大師ノ云ク、汝ハ老躰ニテ何事ニカケ様ニ
  数年修行スルソト。三郎禅門承リ由緒トモヲ委語リ、大師聞玉テ汝不知ヤ吾ハ空海也。
  汝カ心ヲ引見トテ此年月付テ巡行シテ今ハ早汝カ心モ決定シタリ、此上ハ何事成共所
  望次第ニ叶エテ得サスヘシ、トノ玉ヘハ禅門承テ、我ハ河野下人ニ候エハ一度主ノ子
  ニ生度ト望申ス。大師聞召、何より安キ事成サラバ此石ヲ握テ往生スヘシトテ、八歩
  方ノ石ニ八坂ノ衛門三郎ト書テ下サル。此ヲ請取テ則其儘死タリ。大師是ヲ其辻堂ノ
  後ニ土中ニ籠、印ニ杉ヲ二本植玉フ。今焼山寺ノ麓三郎カ墓トテ在。其後大師河野殿
  ノ城ニ往エモ不知僧ニ化シテ来テ、當腹ニ世続ノ子孫可在由、其印ハ衛門三郎ト云銘
  可在ト示玉フ、如案其月より懐妊在男子ヲ生ス。三日メニ左ノ手ヲ開ケルニ小石在リ
  取上テ見ハ八坂ノ衛門三郎ト在リ。親父河野殿奇妙ニ覚ヘテ則祈願所ノ安養寺ニ堂ヲ
  立テ本尊ノ御首ニ此石ヲ作籠、安養寺ヲ改テ石手寺ト号ス也。

 中身的にはほぼ現在伝えられる衛門三郎伝説に通ずるが、いくらか異なる点がある。現在は衛門三郎は江原颪領い猟梗圓蚤膸佞三郎宅に行乞したとされ 鬚修淋が文殊院という番外札所になっている。ところが澄禅の記述によれば、最初の出会いの場は八坂寺鵑濃囲困篭内を掃除をしていたとある。また現在は三郎は二十一回目に逆打ちして大師に会えたとされているが、そのような記述はない。
 話の内容がどの時代に変わったかは定かではないが、河野通宣刻板瑤榔箆十叔(一五六七)のもので、澄禅の日記より百年以上遡るが、現在伝わる話とほぼ同じである。

  淳和天皇天長八辛亥戴。浮穴郡江原郷右衛門三郎、求利欲而富貴破悪逆而佛神、故八
  人男子頓死。自爾剃髪捨家順四国辺路。於阿州焼山寺麓及病死、一念言望伊豫国司、
  爰空海和尚一寸八分石切、八塚右衛門三郎銘封左手。経年月、生国司息利男子継家号
  息方、件石令當寺本堂畢。

 衛門三郎略縁起も同様に三郎は江原の富豪となっているので、澄禅の記述の方が稀有な例であるといえる。八坂寺説について八坂寺に聞いてみたが、当寺には伝わっていないという返事であった。
 なお、二十一回目に逆打ちという話は石手寺に伝わる史料からも確認できなかった。時代とともに伝承が変化するうち最近になって付加された話かもしれない。
 澄禅の日記には文殊院あるいは徳盛寺の記述が登場しない。八墓は物語中に記載がある。


 (五)まとめ

 澄禅の日記は江戸時代初期の遍路の様子を知るのみならず、世相や社会一般を知る上でも貴重な史料であることを明らかにした。たとえば高知において野中兼山らの儒教至上主義が蔓延し、葬儀においても儒教式におこなわれていたことなどである。また、当時伝承されていた物語の引用も随所にみられる。近世史、説話文学については専門ではないため、表面をぬぐったに過ぎないが、これまでの同分野の研究にもし欠落していた部分があるとすれば、それを埋めることができるのではないかと、あえて提示した次第である。

―――――――――――――――――――――――――――――――――― 顱慂嬾日記』の「辺」は正しくは、しんにゅうに鳥の「桓」。「辺」の異体字。本論では引用文は「辺路」と表記、地の文は一般的な「遍路」を使用した。底本に塩竃神社(宮城県塩釜市)所蔵の正徳四年(一七一四)写本の影印本(高野山大学図書館所蔵)を使い、宮崎忍勝『澄禅四国遍路日記』(大東出版社、一九七七)、近藤喜博『四国遍路研究』(三弥井書店、一九八二)、伊予史談会『四国遍路記集』増訂三版(愛媛県教科図書、一九九七)を参照し校訂した。 鮃駑史料館蔵(蜂須賀家文書)。
鵝崚察廚蓮屬茲蝓廚班週した。以下同じ。
四十三番。西予市宇和町明石
増吽(一三六六―一四四九)。
高知県黒潮町田野浦。
七十九番天皇寺近くの番外札所。坂出市西庄町。
八十一番。坂出市青海町。
八十五番。高松市牟礼町牟礼落合。
番外仏母院。多度津町西白方。
馼盞蠏換掌橋拭8什澆両昌鎧垠淡仰。
荒井浩忍『お大師さまと衛門三郎』(文殊院)七―六三頁。
麩蚕充携屐松山市浄瑠璃町八坂。
五十一番石手寺蔵。
八三一年。
石手寺蔵巻物(年代不詳)。


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