四国遍路に託す思いの一考察

  

                梶川伸・大阪経済法科大学客員教授(「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会副会長)

              
              (「洞窟環境ネット学会紀要」4号=2013年3月31日発行)



    1.はじめに

 四国八十八カ所を回る遍路は、巡拝する人数の面で21世紀に入って以降、衰えを見せていない。歩いて回れば約1200銑叩⊆屬嚢圓韻侈1400銑辰離襦璽箸鮃圓、空海(弘法大師)にちなむ霊場(札所)に参り、ただ般若心経を唱えるだけのことなのだが、なぜブームになっているのか。
 背景には明石海峡大橋の開通、四国自動車道の延長など、交通網の整備によって、遍路が容易になったことがある。また、政治・経済の閉塞感、戦後の日本を支えてきた価値感への疑問など、時代の状況も写していると思われる。さらに、高齢社会の到来によって、定年をきっかけにして、団塊の世代などが大量に遍路に参入したとも分析できる。
 これらは社会的な状況から見た背景である。しかし、個々人がなぜ遍路に行くかは分かりにくい。この稿では、私の遍路体験の中で知り得た遍路への動機を取り上げる。その手法は取材、聞き取りである。原稿は特徴的な人を中心に構成したため、タイトルは「一考察」とした。そこで見えるのは、家族の死と自分の見つめ直し、そして再出発である。いずれも個人体験に基づくが、実は多くの遍路に共通するものがあるように思う。
 「遍路」という言葉は、「巡拝すること」と「巡拝する人」の両方の意味を持ち、さらに幅広い使われ方をする時もある。本稿では以下、「巡拝すること」を「遍路」と表現し、「巡拝する人」は、四国の人が親しみを込めて使う「お遍路さん」と書くことにする。


    2.遍路の形と数

 お遍路さんの数ははっきりしない。歩き遍路、自転車遍路、バイク遍路、マイカー遍路、公共交通機関遍路、ツアー遍路など、四国を回る手段がさまざまであることが、実数を分かりにくくしている。また、人数のチェックポイントがあるわけではない。札所の納経所で参拝者は寺の朱印をもらう習わしがある。しかし、参った人のどの程度が朱印をもらうのかは推定するしかない。一番札所霊山寺(徳島県鳴門市)では、歩いて回る人は記帳することが多いのが、これも全体数は推測になる。そのような不確かさを持ってはいるが、一般的にお遍路さんは全体で年間10万人台、歩き遍路は3000〜4000人ではないかと言われている。
 遍路を続けている私の実感では、遍路の中で大きな割合を占めるツアー遍路は2002〜2004年がピークだった。札所で各旅行会社のバスがかち合い、多い時には10台前後がひしめき合うこともあった。そのようなブームは去ったが、旅行会社は相変わらず遍路ツアーに力を入れている。一方、歩き遍路は1990年代から増え始め、すでに定着した感がある。


    3.先達の役割

 先達は簡単に言えば、お遍路さんのための四国八十八カ所の案内人である。八十八カ所霊場を4周すると最低限の条件が整い、札所の寺などを通じて四国八十八カ所霊場会に先達の資格取得の申請をする。霊場会は毎年秋に1日講習会を開き、申請者が受講すると、先達の資格を授与する。
 先達にはランクがあり、1周した回数などにより、権中先達、中先達、権大先達、大先達と上がっていく。私は先達になってからも巡拝しているが、上級へ進む申請をしていないので、先達のままだ。
 遍路ブームの到来によって、先達に1つの役割が回ってきた。それは旅行会社のバスツアーに添乗して、案内をすることだ。大手旅行会社は遍路バスツアーを数多く企画するので、先達をたくさん確保する必要に迫られたからだ。当初は先達のないツアーも多かったが、各社間の過当競争によって、先達の同行が必須条件のようになってしまった感がある。
私は毎日新聞の記者として、2007年まで勤めた。1995年からは個人的に自転車遍路、ツアー遍路、歩き遍路を体験している。そのため、会社に頼まれて2003年から毎日新聞旅行の先達をしている。私が先達をするのは、「梶川伸とゆく四国八十八カ所『ウォーキング・ザ・空海』』というシリーズである。  その遍路旅は原則として月に1回、1泊2日で巡拝に出掛ける。JR大阪駅に近い毎日新聞大阪本社をバスで出発、大阪駅のあたりまで戻ってきて散会する。1周は10回あまりで完結する(結願)。昔から残っているような良い遍路道を歩き、あとはバスで移動する変則的な遍路である。
 この遍路旅は回を重ねている。1周目はオーソドックスに巡拝した。2周目は逆打ち(逆回り)。その後、コースや行程は私が考えるようになり、3周目は観光の要素も入れた「ゆったり編」。4周目は温泉のある宿坊や旅館を選んだ「湯ったり編」。四国には八十八カ寺のほかに、20の寺を回る「別格霊場」がある。5周目は別格霊場をも組み込んだ「別格つき湯ったり編」とした。2012年4月からの6周目は、札所の花を楽しみ、花の名所にも寄る「ちょっと歩き花へんろ」。花の時期に合わせるので、札所の順番通りではないのが特徴になっている。



      ↑先達用の杖


    4.歩くことの意味

 6シリーズの間に、100人を大きく上回るお遍路さんに同行した。ほとんどの人に共通するのは、この遍路旅に参加したのは「歩く」という行程が入っているからだ。おおむね1回2日間で10銑蛋宛紊鯤發。札所は山にもあり、軽い登山を体験することもある。十二番焼山寺(徳島県神山町)は標高800辰如⊇衆貳崙0羯(徳島県吉野川市)から約13舛了各擦鬘胸間あまりかけて登る。遍路道の難所の1つで、坂が急なため、お遍路さんが転がり落ちるという意味の「遍路転がし」の異名がある。
 一般的な遍路ツアーは、ほとんど歩くところがない。バスが入れない札所は、マイクロバスやタクシーに乗り換えて寺のそばまで行く。毎日新聞旅行の「ウォーキング・ザ・空海」は、歩くことを取り入れているのが違う。このため、歩くことに自信がある人、全行程を通して歩きたいがそれには自信がない、といった人の参加が目立つ。
 歩き遍路の中には、心の底に重たいものを沈めている人がいる。願をかけで回っている人もいる。近い身内の死などに遭遇し、悲しみの中で周っている人がいる。そのような遍路は、歩くことを修行のように課しているケースが多い。その点で、「ウォーキング・ザ・空海」は、歩き遍路と完全バス遍路の中間段階にあるといっていい。
 参加動機はさまざまである。参加者の話を聞いていると、おおまかに4つのタイプに分かれる。/汎發龍〕椨⇔垢粒擇靴澂ウォーキングの楽しみな發遍路への準備である。特に、歩き遍路への準備の目的で加わる人が多いことは、ほかの遍路ツアーにはあまい見られないことだろう。


      ↑遍路道には険しい山道もある(88番大窪寺への道)
 

    5.娘の死と遍路

 遍路の動機を具体的に見るために、「ウォーキング・ザ・空海」に参加した個人を取り上げる。1人目は兵庫県の女性Yさんに焦点を当てる。
 Yさんは「ウォーキング・ザ・空海」の第1クールのメンバーだが、その4回目からの合流だった。Yさんから聞いた内容で、以下を構成する。
 さんは教師だった。普段は学校から帰って、夫や2人の娘のために夕食の用意をする。ところが、学園祭の準備で忙しい日が続き、夕食は長女に頼ることが多くなった時期があった。久し振りに早めに帰宅できることになり、そのむねを長女に連絡しようと、電話をかけようとしたが、思い留まった。電話器を握ったのは、夕食の食材を買いに出なくてもいいと長女に知らせるためだった。電話かけるのを思い留まったのは、自宅までは車であまり時間がかからないからだった。
 帰宅すると長女は外出していた。夕食の買い物に行ったと思った。間もなく、警察から電話があり、長女が交通事故で亡くなったと知らされた。25歳の誕生日の6日前だった。
 Yさんは悔やんだ。電話をかけていれば、長女は買い物に出なかったのではないか。出なければ死ぬことはなかったのではないか。学校で忙しくして、家や子どものことを忘れていたのではないか。Yさんは長女の死が自分のせいだと考えて、自分を責めた。生きる気力を失い、教師をやめた。手帳に墓参りの欄を設け、毎日2僧イ譴進茲吠發い胴圓、欄にチェックを入れた。あとは、瀬戸内寂聴さんの本を読むくらいの日々だった。
 初盆が来た。経をあげる住職が、あまりにも沈んでいるYさんを見て、善意のつもりで言った。「そろそろ区切りをつけたらどうですか。娘さんも安心できないでしょう」 この言葉がYさんにはこたえた。「生きている間、何もしてやれなかっただけでなく、今も成仏できないように足を引っ張っているのだろうか」。そのことを聞いてみたくて、京都・嵯峨野の寂庵に、瀬戸内寂聴さんを訪ねた。
 「お墓に参らなくてはいられない気持ち、これだけは治す薬はないの。泣きたいだけ泣きなさい。それで娘さんが成仏できないことはない。ただ、お墓には燃えかすが入っているだけよ。霊はあなたのそばにいるの」。そう言ったうえで、瀬戸内さんは四国遍路を勧めた。
 Yさんは最初、一般的なバスツアーの遍路に参加した。しかし、札所から札所へベルトコンベアのように運ばれていると感じ、「何か違う」と考えた。その結論が、歩き遍路が入っているウォーキング・ザ・空海への途中参加だった。長女の死から1年半がたっていた。
 Yさんの遍路への動機は身近な人の死だった。身内の人の供養のために遍路をする人は多い。そうではなくても、お遍路さんとして札所で亡くなった身内の供養のために般若心経をあげる人は大変多い。ただ、その死は親や兄弟姉妹であったり、配偶者であったりする場合がほとんどだ。Yさんのケースは身内には違いないが、娘の死という深刻さがあった。通常なら、親が先に死ぬのだが、順番が逆になっている。しかも愛娘である。
 「自分のことより、他人のことを優先させる子で、だれにでも好かれた」と言うほどの自慢の娘だった。そんな優しい子をほっておいて、仕事や自分のことばかり考えていたと考え、「自分が生きていることが許せない」とまで思いつめた。Yさんが遍路を志した思いの中には、どこかに贖罪の意識があったのではないか。しかも自分は、命を失った抜け殻のような状態だった。
 Yさんは遍路の仲間にすぐに打ち溶けたわけではない。運の悪いことに、初参加の際には、たまたまYさんと長女とほぼ同じような年齢の母子がメンバーの中にいた。その親子が楽しそうに話しながら遍路道を歩くのを見て、涙が止まらなかった。「私は遺影と歩いているのに」と。
 1泊2日の遍路を重ねるうち、Yさんは次第に遍路仲間に入ってきた。一緒に歩くという連帯感がそうさせたのだろう。また、夜になると女性参加者は相部屋で、互いの動機などを話し合う機会があり、それがセルフヘルプのグループのような働きをしたことも影響したと思われる。
 遍路仲間は悲しみの包まれているYさんを、ほっておくことはなかった。家を訪ねて長女の仏壇の手を合わせる人がいた。Yさんは仏像を彫り始めていたので、Yさんを自宅に招き、近くの仏師を紹介することもあった。実家のあるのどかな瀬戸内海の島に招待する人もいた。
 それで、Yさんの悲しみが消えたわけではない。しかし、結願の夜の宿でYさんは2つの興味深い体験を、仲間に披露した。1つは五十八番仙遊寺(愛媛県今治市)でのことだった。
 Yさんは参拝した寺で、観音の仏像ばかりを探していた。亡くなった長女の法要をした住職は「観音さんのような子やったなあ」と言った。その言葉が耳に残っていたからだ。「四国に行ったら、娘さんに会えますよ」「あなたの愛する人は、あなたのすぐそばで感じられますよ」と話してくれた瀬戸内寂聴さんの言葉も忘れられなかった。「魂の存在を感じられるようになったら、心が安らかになる」と思っていた。
 仙遊寺の境内に、大きな石仏の子宝観音が立っていた。見上げて、ハッとした。「長女に会えるというのは、このことだったんや」。微笑む顔が、長女にそっくりだと思った。
 仙遊寺によると、仏像は今治市内の夫婦が建立した。一行が参る1年ほど前のことらしい。子どもがなかった夫婦は「これからの方々が、子どもに恵まれるように」との願いを込めた。その1年後、つまり一行が参拝したころに、2人は相次いで亡くなったという。
 2つ目は七十五番善通寺(香川県善通寺市)で、御影堂の地下の真っ暗な場所を歩く戒壇巡りをした時だった。暗闇に身を置くと、心の中で思っていることが浮かんできた。「あの子がいたら」。そう思うと、真っ暗な中で鮮明に浮かんできて、声もはっきり聞こえたという。愚にもつかないことのように聞こえるが、Yさんにとっては確かに見えたのだろう。強く思っているからこそ浮かんだとも言えるが。
 Yさんにとっては、2つの不思議な体験によって、遍路の目的は達したとも言える。瀬戸内寂聴さんは「四国に行けば娘に会える」と言って送り出してくれた。Yさんは2つの寺で、長女に会ったと感じた。それはYさんが願った、魂の存在を感じられるようになること、だったのかもしれない。特に善通寺の戒壇は、四国の洞窟霊場と同様に、暗闇に入ってまた出てくることで、蘇りの思想に結びつく。暗い場所は母親の胎内で、そこから出ることは生まれ変わりを意味するともいえる。
 四国遍路のことを、「お四国病院」と言うお遍路さんがいる。心が疲れた時に遍路をすると治る、という意味を込めている。Yさんのケースも、遍路は一定の力を与えたと推測できる。しかし、完全に蘇ったわけではなかった。Yさんは結願のあと、歩き遍路に出た。遍路ツアーは、歩き遍路への準備でもあった。まだまだ、「お四国病院」の力が必要だったのかもしれない。
 Yさんは歩いて巡拝の途中、仙遊寺で子宝観音を建立した夫妻の墓参りをしたという。長女に会わせてくれた人へのお礼の報告でもある。それは蘇りのためには、どうしても必要なことだったのではないか。
 一方でYさんは、同じ市内の女性Tさんを遍路旅の仲間に引き入れた。Yさんの次女とTさんの次男が、学校の同級生だった。次男は白血病のため、20歳で亡くなった。子を失った者同士の共感が遍路に誘ったのだろう。Yさんが、四国や遍路が持つ力を感じていたので、そのことを同じ境遇の人にも感じてもらおうとしたに違いない。


      ↑仙遊寺の境内に立つ子宝観音
 

   5.夫の死と遍路

 次は大阪市のK子さんという女性を取り上げる。やはり「ウォーキング・ザ・空海」の1周目のメンバーだった。五十一番石手寺(愛媛県松山市)で参拝の最中、数珠を落とした。拾った人がすぐに私たちのグループに届けてくれた。数珠が男物だったので聞いてみると、亡くなった夫のものだった。以下はKさんの話から構成した。
 K子さんは会社勤めで、夫は自営業だった。夫に不整脈が出た。一緒に病院に行くと、肺がんが見つかり、間もなく医師から「あと半年」と宣告された。やがてその時期が来た。K子さん日記が残っている。
 <7月28日。今日の夜から強い睡眠剤を使用する。その場合、対話をすることは不可能になり、数日で眠りのうちに死に至ることになる。>
 K子さんは、医師の説明を受け、薬の投与に同意した。
 <29日。「K子」と叫び出す。>
 <30日。一晩中眠り続ける。>
 <31日。2時26分没。(大きな字で書かれている)>
 67歳の死だった。K子さんは、「夫のために何もしなかった」との思いにさいなまれた。夫はすべて自分の都合に合わせてくれた。「老後は一緒に過ごそう」と言ってはいたが、生きている間は自分優先、仕事優先だった。「人間って永遠じゃないのに」と悔やんだ。
 夫は「いずれ年をとったら、お遍路をやってみたい」と夫は話していた。「それもいいね」とKさんは答えた。しかし、それは実現しなかった。その申し訳なさが、ウォーキング・ザ・空海へと向かわせた。夫の死から3年足らずの日が過ぎていた。その時点で、遺骨を墓に納めることができず、仏壇に置いたままだった。
 <Kさんと一緒に回ってはいるのは数珠である。これはYさんが長女の写真を持って巡拝したのと共通する。2人に限らず、亡くなった人にちなむものを携行して遍路をする人にはしばしば出会う。BR>  ただ、Kさんの場合はもっと深刻度が強い。夫の最終局面で、夫に代わって死を受け入れたからだ。そのことで、「夫の死を、私が決めた」と思い詰めることになった。だから、「自分が生きていることが申し訳ない」と責める。さらに、「自分を極限まで痛めつけたい」と考えた。その行き着く先が歩き遍路で、ウォーキング・ザ・空海は本番への足慣らしだった。
 Kさんは結願を果たしたあと、1人で歩き遍路に出た。良い遍路道だけを歩くツアーでは、夫に対してなしたこととの関係で、不十分だったのではないか、と自分に問いかけ続けた。すべての行程を歩いて、自分を痛めつけてやっと、夫への償いが終わると考えたに違いない。自分が再び生きていくこと、自分の再生は、その時から始まる、との思考になったと思える。ここでも、遍路が再生システムとして機能していることを示している。


      ↑お遍路さんは雪の中を歩くこともある(六十五番雲辺寺で)


   6.病気と遍路

 もう1人の例として、和歌山市の男性、Hさんを取り上げる。第5シリーズお最初のうちだけ参加した。
 Hさんは大きながんの手術をした。自分の死も覚悟したうえでの手術だった。手術は施行し、強い生命力も加わって、回復の道をたどった。ウォーキング・ザ・空海に参加したのは、大手術からまだ3カ月したたっていない時だった。Hさんは強引に、医師に許可を求めた。医師はHさんを留めることはできなかった。
 Hさんの遍路は、病気回復のお礼参りの性格を帯びる。「いったんはあきらめた命」だったのに、生きている。その喜びと不思議さを考えるとき、何らかの目に見えない力が働いたと感じ、その力への敬虔な思いとなる。
 では、なぜ遍路なのか。Hさんは和歌山に住んでいることもあり、高野山への信仰心が強く、しばしば参拝に出かけていた。高野山は真言密教の聖地として、空海が開いた。お遍路さんが結願したあと、お礼参りに行くのが高野山だ。Hさんが見えない力を「お大師さん(弘法大師)」に結びつけたことは不思議ではない。
 Hさんはボーイスカウトにかかわっていたこともあり、体力や歩くことには自信があった。しかし、何といっても病み上がりの身。風呂に入ると体ややせていて、食は細かった。睡眠を十分に取るなど、体調管理に気を使っての参加だった。
 直接的な動機の1つは、2回目に組み込まれていた十二番焼山寺への遍路転がしを歩くことだった。十一番藤井寺との標高差は700蛋宛紊世、実際の道は登って下りて、登って下りて登るので、登る高さを加えていくと1000辰歪兇┐襦そこを歩くことができれば、自分自身の中では「全快」と認めようとした。
 Hさんは遍路転がしを乗り切った。自信がついたのだろう、遍路ツアーは2回で離れ、間もなく1人で歩き遍路に出た。先の2人は区切り打ち(何回かに区切って参拝)と違って、通し打ち(1回で全部参拝)だった。ただし、途中で1回は医師の診断を受けるためなどで、いったん和歌山へ帰り、また四国へ舞い戻るという行程だった。Yさんにとっても遍路ツアーは、歩き遍路へのステップだった。
 先の2人は身内の死が、遍路への動機づけになっていたが、Hさんのケースは自らの病気だった。しかし、人の死と生がからんでいるのは共通している。
 先の2人は、かけがえのない人の死が自らを追い詰め、その悲しみと苦しみの底からの再生を、遍路に求めていた。Hさんは重篤な病気だったが、見事に蘇った。自分の中での再生に成功したことになる。そうさせた力は、自らの生命力と医療の力ではあるが、それだけでは説明できないとして、お大師さんや遍路に答を求めたと分析もできる。


      ↑十二番焼山寺への「遍路転がし」の道にある杉の巨木

   
7.まとめ

 紹介したのは、わずか3人ではある。「死と再生」の視点で述べ、そのためのシステムが遍路にはあるということだ。そのことを、多くのお遍路さんが感じているように思う。遍路ルートが円となっていて、結願するとまた一番に戻れるように組まれているのは、再生や蘇りを象徴しているような気がする。
 YさんとKさんは歩き遍路が終わった後も、遍路の仲間としばしば顔を合わせる。蘇りのシステムの中には、遍路仲間の存在も組み込まれているようだ。辛い遍路道を一緒に歩くことで、連帯感が生まれからだ。
 ある遍路の夜、ある参加者が食事のあと、「その名を呼べばこたえてし 笑顔の声はありありと 今なお耳にあるものを おもいは胸にせき上げて……」と、追弔御和讃を披露した。Kさんの目には涙が浮かんでいた。それは長女を思い出したからではあるが、追弔御和讃が自分のために歌われていることが分かり、仲間の優しさを感じたからであろう。お遍路賛同士という共通性が、辛く悲しい心を蘇らせるために、大きな力となるはずだ。
 遍路に出る動機の1つに、自分の見つめ直しがある。再生という大げさなものではないが、再出発という点で似ている。このパターンの人は多い。
 一番霊山寺の住職、芳村超全さんは言う。「歩くのは退屈じゃよ。だから自分と対話するようになる。もう一人の自分が冷静に見ているのに気づく。空海はその本当の自分にすがれ、と説いている。自分こそが導いてくれる」。遍路で歩くことが、見つめ直すうえで好都合だと語っている。
 結願したあと、Yさんは告ぎのように話した。
 「重いもの」を持った人と胸の内を分かち合い、笑いが絶えない人には救われた。みんな「ぐじぐじした話」を聞いてくれた。「一緒にいると、少し元気が出る。遍路道はしんどいが、歩いていると、どうしよもなく落ち込んでいくことはない」。それがお四国病院と呼ばれるゆえんであり、再生と蘇りの装置の実感だといえる。


●参考文献


1)四国八十八ヶ所霊場会「先達教典」。2006年。
2)梶川伸:「こころ遍路」。2005年、毎日新聞大阪本社版夕刊。