四国遍路の瀬戸内海への広がりと現代的意義

  

                梶川伸・大阪経済法科大学客員教授(「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会副会長)

              
              (「洞窟環境ネット学会紀要」5号=2014年3月31日発行)



    1.はじめに

 四国八十八ヶ所霊場会は2014年、多彩な行事を繰り広げている。四国遍路は空海(弘法大師、774〜835)が修行したとされる場所や、ゆかりがあるとされる寺を訪ねてゆくが、霊場会は空海が四国霊場を開いて1200年という年に位置づけにしているからだ。
 霊場会だけでなく、八十八カ所の札所になっている寺でも、秘仏の特別開帳など、さまざまな記念行事を行っている。また2015年は空海の高野山開創1200年とされる年にあたり、金剛峯寺を中心とする高野山真言宗は大々的に記念行事を展開する予定だ。そのため、四国遍路は再び脚光を浴びている。
 四国遍路は江戸時代に広がり、各地にミニ八十八カ所も設けられた。写し霊場と言われる。その中で、瀬戸内海の島々の写し霊場は「島四国」とも呼ばれる。この稿では、島四国のいくつかを取り上げる。その代表は香川県・小豆島だが、拙文「小豆島遍路と洞窟霊場の魅力」を洞窟環境NET学会紀要・第1巻に掲載していただいたこともあり、ここではそれ以外の場所を中心に取り上げる。岡山県笠岡市の神島(こうのしま)八十八カ所と、愛媛県今治市の大島八十八カ所を中心とする。
 論の展開は、実際に現地を歩いたことに基づく概観が中心で、それに私なりの考察を付け加えた。島四国ができて長い歳月が流れているが、ここも再び注目され、あるいは注目される可能性を帯びていると分析できる。それは時代的な背景と無関係ではない。
 「遍路」と言う言葉は、さまざまな使い方がされる。まず、四国八十八カ所を回ることを言う。次に四国八十八カ所を回る人のことを示し、四国では「お遍路さん」と親しみを込めて呼ばれる。三つ目に、遍路もお遍路さんも含めた四国八十八カ所の文化を指すこともある。この稿では、巡拝することを「遍路」、巡拝する人を「お遍路さん」と表現として使い分ける。また、本来の四国八十八カ所を「本四国」と書き、島にある写し霊場を「島四国」として区別する。


    2.島四国

 四国遍路は空海が弘仁6年(815年)に開創したとされるが、それが定着したのは16世紀と見るのが一般的だ。やがて江戸時代になると、八十八カ所の札所も確定し、ルートも定まって、道標も設置された。
 江戸時代は伊勢参りに代表されるように、旅がブームとなった。戦国時代というすさんだ時代が終わり、生活にゆとりができ、庶民を娯楽としての旅に向かわせたと考えられる。四国遍路も、その潮流の中で発展したのであろう。
 札所でお遍路さんは、納め札を寺に納める。納め札は自分の住所や名前を書いたもので、いわばお遍路さんの名刺である。宿などの主人や世話になった人らに、名刺代わりに渡すこともある。大月へんろみち保存会(高知県大月町)の西田忠雄さん宅は、江戸時代から善根宿(善意でお遍路さんを泊める家)をしていて、江戸時代から大正時代にかけての遍路札(納め札)がいくつもの米俵に入れて残してある。
 また、香川県坂出市郷土資料館でも、古い納め札の展示を見たことがある。吉田省三さんの屋根裏から出てきたと説明にあった。嘉永年間から明治、大正にかけてのもので、これも俵の中に入っていたという。
 これらは、江戸時代に遍路は一種のブームになっていたことを裏づける史料である。ブームを支えたのは庶民だった。修行僧の遍路が、庶民も含めた遍路へと変わり、そのことが四国遍路の大きな特徴となっていく。
 四国遍路が盛んになるにつれ、各地に写し霊場ができていく。四国八十八カ所を身近な場所に再現しようとする動きで、四国から遠い場所では、「四国までは出向けないので」の理由もあったに違いない。写し霊場は四国から近い所から遠い所へと広がっていったようだ。初期は瀬戸内海の島々に、島四国ができていく。
 写し霊場、島四国の代表は香川県の小豆島八十八カ所だ。霊場会によると、小豆島八十八カ所が整備されたのは1686年(貞享3年)とされる。本四国の定着から1世紀ほどの時期にあたる。距離は15キロあり、札所は寺のほか、地域の人たちが世話をしている堂、洞窟を使った霊場などバラエティーに富んでいる。特に洞窟霊場が特徴的で、最近ではその特異性を強調する傾向がみられる。
 小豆島は観光地でもある。2010年、2013年に開かれて人気を得た瀬戸内国際芸術祭の会場の1つの島でもあり、芸術と観光と遍路という組み合わせが、新しい動きを作り出す可能性がある。


    3.瀬戸内海の島の現状

  瀬戸内海には、人が住んだり働いたり、人の生活がある島が約150ある。しかし、ほとんどの島で、過疎化の進行という大きな問題を抱えている。過疎が進めば、島の活力がなくなり、島を出ていく人がさらに増え、過疎化に拍車がかかる悪循環を繰り返す。
 瀬戸内海の中でも活気のある島として知られる兵庫県姫路市の坊勢島も例外ではない。1990年代に人口が増えた時期があったが、2000年代になると増加は頭打ちとなった。姫路市の人口統計によると、ここ数年は2008年3月に2980人、2010年3月に2866人、2013年3月に2662人と減り続けている。
 国や自治体は離島振興法などを活用して、島の活性化施策を繰り返しているが、必ずしも成功しているとは言えない。私は1996年から97年にかけて、香川県の島のうち19島を訪ね、過疎化の実態に触れた。
 香川県三豊市の粟島では、公営宿の支配人が冗談交じりに、「自分を埋めてもらう場所は自分で掘っておくことになる」と話していたのが印象的だった。瀬戸内海の島は土葬のところが多い。島に火葬施設がないためだ。遺体を埋める場所を「埋め墓」や「うずめ墓」という。土をかぶせた上に簡単に墓石を乗せる。遺体は朽ちて容積が小さくなり、しっかりした墓石をその上に建てても、倒れてしまうからだ。そのため、遺骨を納めていないが、きちんとした墓を別に作る。これを「参り墓」「拝み墓」という。墓を2つ立てるので、両墓制とも呼ばれる、埋め墓を掘るのは島の若い人たちの役割だ。ところが支配人は島の中では若い方で、高齢化はさらに進むため、自分が死ぬ時には、自分の墓は自分で掘っておかなければならない、という冗談だが、皮肉にも現実味を帯びている。それだけ、大きな問題というわけである。
 香川県多度津町の高見島で島の男性に話を聞くと、空き家を指しながら、「あっちも空き家、こっちも空き家」と自嘲的に語った。多度津港まではフェリーで25分ほどの近さだが、それでも若い人は島を出て行き、漁業などの仕事のために高見島に通うという。それなら、島に住めばいいと思うが、男性は「島にはカラオケも何もないから、若い人は面白くないのだろう」と分析していた。
 瀬戸内海には、島四国が根付いている島が多い。歴史は古いものが目立つ。過疎化の影響で、遍路の伝統がすたれているケースもあるが、その反対に、町おこしならぬ島おこしの力として、島四国を位置づけている島もある。
 四国遍路は円を描いて四国を1周する。1回だけの巡拝に限らず、何度も回るお遍路さんも多く、世界の巡礼旅では循環という特異性がある。これは、日は沈み日は昇る、季節は巡る、といった太陽信仰に基づく蘇りの思想と関係があると見る。
 徳島県上勝町の四国霊場別格3番慈眼寺(徳島県上勝町)には、穴禅定という修行場があり、お遍路さんに親しまれている。ロウソクを手に、真っ暗な鍾乳洞の中に入って行くが、通路は非常に狭く、体をよじりながら進み、1番奥の大師像に参拝して、入り口と同じ場所に戻ってくる。出口近くにはことさら狭い個所があり、はいつくばってくぐり抜ける。これは母親の胎内からもう1度出てくると意味づけられている。生まれ直し、蘇りの思想に結びつく。
 ほかにも、戒壇という真っ暗な中を歩く場所がいくつかある。これも穴禅定と同じ思想に基づくとも推測できる。そうであるとすれば、島の再生、蘇りに島四国が使われることは、ふさわしいこととも言え、興味深いことである。


    4.神島八十八カ所の成立

 岡山県笠岡市に、神島(こうのしま)八十八カ所がある。神島はその名の通り、元々は島だった。今は干拓によって、笠岡市の中心部から陸続きになっている。八十八カ所は成立時に戻れば、島四国である。
 神島八十八カ所の遍路と観光用のパンフレット「神島八十八カ所めぐり」には、島四国の成り立ちについて、次のように記してある。
 「今田卯兵衛(慧弦)が晩年、最愛のひとりっ子を失い、救いを仏の道に求め、愛児の位牌を持って四国遍路に旅立ち、四国八十八ヶ所霊場を五年かけて巡拝した。その途中、『四国そっくりの霊場を神島につくるよう』夢のおつげを受け自分の全財産をなげうっても霊場を建設したいと計画した。時を同じにして神島の住人、池田重郎兵衛も同じ計画を持っていることを知った。そこで二人そろって四国に渡り、各札所の土を袋に入れて持ち帰り、元文五年(1740)より延亨元年(1744)まで五カ年の間、苦心惨憺の末に成就したと伝えられる。道程29劼涼罎忙郵颪了ソ蠅汎韻厳舛砲覆襪茲Δ帽洋犬気譴討り、各札所の本尊の下に四国の札所より持ち帰った土を埋めその上に堂を立てた。」
 この説明から、いくつかのことが分かる。1つは、各地にできていく写し霊場の成立過程の基本形があるということだ。供養など何らかの思いを持った人が本四国を回り、そこで功徳を得て、そのミニチュア版を自分の地元に整備するというパターンだ。
 また、札所の砂を持ち帰り、その砂を埋める方法で、写し霊場の札所にすることが、島四国とともに伝播していったのかもしれないということだ。近年は寺の境内に超ミニ八十八カ所を設置することがあるが、砂を札所に埋めるケースが目立つ。また、本四国の札所の砂を持ってきて行う「お砂踏み」とという行事も、四国から遠く離れた場所でしばしば行われる。
 神島八十八カ所の成立は、小豆島八十八カ所の開創から約半世紀後である。その間に、本四国への巡拝者が増え、写し霊場を整備しようという動きが増えていったことが推定される。ちなみに、京都府福知山市の夜久野八十八カ所は文化13(1816)年、兵庫県西宮市の甲山神呪四国八十八カ所は寛政12(1800)年、京都市の仁和寺・御室八十八所は文政10(1827)年の完成と伝えられている。
 神島八十八カ所の遍路道は、全長29銑辰△蝓島外からのお遍路さんは1泊2日で歩く。神島自体が四国に似た形をしていて、本四国と同じように1番札所は神島の北東部にある。巡拝は時計回りに歩く。ただし、笠岡市中心部からのバスなど、神島地区に入るアクセスの関係で、厄除神島大師と呼ばれる79番札所を起点にするお遍路さんが多い。このため、ここには遍路用品も売っていている。
 私も歩いたことがあるが、厄除神島大師から77、76……73番と逆打ち(正規の順路とは逆に回ること)をし、79番に戻り、88番まで回った後、1番から進んでいき、神島厄除大師で結願(一周すること)した。このような順路をたどるお遍路さんが多いと思われる。札所の間が短いところもあり、参拝は必ずしも順番通りにはならない。
 寺が札所になっているのは3カ所だけで、残りは小さな堂であったり、ほこらであったりする。札所はすべて、本四国の寺の名前をつけている。例えば神島1番は小さな堂だが、本四国1番の霊山寺(徳島県鳴門市)と呼ばれる。寺以外の札所には、札所番号に該当する本四国の寺の本尊と弘法大師の石仏が安置されている。
 神島八十八カ所は、本四国を強く意識している。本四国で1番高い場所にあるのは、標高900辰裡僑業岷席媚(徳島県三好市)である。神島の66番も、遍路道で1番高い場所にある。標高は100辰曚匹隼廚錣譴襪、車の通る道から遍路道を登り、往復で40分ほどかかり、コースの中の最大の難所となっている。
 本四国の12番焼山寺(徳島県神山町)や27番神峯寺(高知県安田町)は急な登り坂を歩くため、「遍路転がし」の異名がついている。神島の12番、27番も坂道を登るように設定してある。本四国の38番金剛福寺は高知県土佐清水市・足摺岬の切り立った断崖の上にある。37番岩本寺(高知県四万十町)からは約80舛竜離で、札所間の距離では最も長い。波打ち際を行き、最後は急な登り坂となる。神島の38番も海岸から登っていった場所にある。
 このようなことから、神島八十八カ所を整備した当時の人たちの遍路への思いの強さが分かる。それは、神島の住む人たちの心には引き継がれてきたのではないか。


      ↑神島の島四国は、小さな堂の札所が多い
 

      ↑神島38番へ向かう遍路道は波打ち際を歩く
 

    5.神島八十八所の現状と新しい動き

 では、島四国の現状はどうか。笠岡市立神島公民館の宇根山肇館長に聞いてみた。  年間のお遍路さんは延べ500人から600人。冬場に回る人はほとんどいない。40年ほど前はその倍くらいの参拝者があった。地域外からのお遍路さんが多く、神島に向けて臨時バスが出ることもあったという。宇根山館長の話によれば、神島の遍路は衰退の道をたどったことになる。
 しかし、新しい動きが出てきた。1984年に厄除神島大師が建立された。その数年後から、毎年11月3日に大祭を行うようになった。この大祭に今でも約300人が訪れ、巡拝をするお遍路さんも多い。つまり、現在のお遍路さんの半分は、大祭の時に訪れていることになる。逆に言えば、遍路だけに訪れるのは200〜300人ということだ。大祭は衰退していった遍路に、一定の蘇りの効果をもたらしたといえる。
 子どもたちも、遍路の蘇りに寄与している。笠岡市立神内(こうち)小学校1991年度の6年生が、教師の協力を得て、「わたしたちの宝 神島八十八所」と題したホームページを作った。自分たちの思いと、神島八十八所の情報を全国に発信した。発信元が小学生というのが興味深く、「わたしたちの宝」としているのも訴える力を持つ。
 絵や写真をたくさん使った楽しい内容になっている。パソコン技術は教諭が担当したが、寺にまつわる言い伝え、お遍路さんが神島を巡る目的、お接待をする理由など、13項目にもわたる内容は、すべて子どもたちが調べた。
 「朝、たくさんお遍路さんが回っとったで」という情報が入れば、追いかけていき、インタビューをした。「健康になりたい」「ぼんのうを振りはらう」「気持ちがよくなる」といったお遍路さんの言葉を集め、「ごりやくがあるみたい」と、子どもなりにまとめた。どこからのお遍路さんが多いか、ということにも関心を持った。77番札所に、寄付者の名前と住所を刻んだ石柱があったので、それを数えた。その結果、1千葉県、2東京都、3福岡県の順番だった。
 いずれも子どもらしい調査結果や結論ではあるが、人や実物にあたっていることで、一定の説得力を持つ。それ以上に、遍路文化を継承していく努力は評価されて良いのではないか。
 また、神島公民館が呼びかけて、2009年度に神内小学校に入学した子どもたちから、実際に遍路道を歩く「てくてく神島」を行っている。少しずつ歩き、6年間で結願する。宇根山館長によると、幼いころに両親に連れられて遍路をした人が、大人になって再び訪れ、遍路用の地図を求めに来たことがきっかけだったという。宇根山館長は、子どものころの体験や印象が大事なことを知った。そこで、子どもたちの歩き遍路を提案したという。
 子どもへの継承は、地域の文化を考えるうえで、大きな意味を持つ。地域文化を守るのは、たやすいことではない。情報媒体の発達もあり、文化の大きな流れは全国化、画一化に向かっている。その潮流に押し流されるかのように、地域共同体も結束が弱まり、都市部への人口流出が続いていると感じる。逆に言えば、神島の子どもたちのように、地域の文化を守り、引き継いでいくことは、地域に安心感と未来を与えるような気がする。地域の蘇りの原動力が、若い世代や子どもたちにあるのは間違いない。そのフックに、島四国が使われている。
 本四国については、遍路文化を世界遺産にしたいという動きがある。この運動も、文化の継承という側面を持つ。
 「四国八十八カ所ヘンロ小屋プロジェクト」という活動がある。徳島県出身で大阪在住の建築家、歌一洋さんが提唱者である。お遍路さんが足休めをできる簡単な休憩所「ヘンロ小屋」を、遍路道沿いに造るものだ。土地の提供、設計、建設資金など、すべてがボランティアで成り立っている。ヘンロ小屋は2001に第1号ができ、2014年1月現在で49棟が完成している。
 歌さんはヘンロ小屋を、お遍路さんと地元の人、地元の人同士の交流の場として位置づけるとともに、世代間の交流の場としている。歌さんの活動に同調した人たちが、「四国八十八カ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会を2006年に結成し、歌さんと一体となってプロジェクトを推進している。支援する会の会則の2条は会の目的として、「ヘンロ小屋プロジェクトを支援し、遍路文化の保存と継承をするための活動を行う」とうたっている。このように、本四国でも遍路文化を引き継いでいこうとする動きが目立ってきている。
 人の一生は短いが、文化は長く続く可能性がある。四国遍路の歴史は、空海から数えれば1200年に及ぶ。文化の継承は、人が移り変わっていくたびに、新たな人が担い手となって再生していくことと見ることができる。


      ↑神島厄除大師
 

      ↑愛媛県西予市に完成したヘンロ小屋49号「ひじ川源流の里」の落成式のテープカット。次世代への継承を意識し、子どもが中央で主役を務めた
 


   6.大島八十八カ所

 愛媛県今治市に大島がある。四国本土とは、しまなみ海道の来島海峡大橋で結ばれている。大島にも島四国があり、地元では「大島准四国霊場」とも呼ぶ。
 大島准四国霊場のパンフレット「お大師さんのいる島 えひめ大島 島四国」によると、文化4(1807)年に、島民の医師、毛利玄得、修験者の金剛院玄空、庄屋の池田重太によって開創された。玄得は幼少のころに出家して仏門に入ったが、成人になって医業を継ぐことになり還俗した。後年、志を断念したことを悔いて、本四国を数回巡拝し、 その地理地形に合わせて、大島に島四国霊場を開いた。
本四国に比べて簡単に巡拝できることから、多くの巡拝者を迎えるようになったが、当時の今治藩は多くの民衆が集まることに危惧を感じ、霊場巡拝を禁止し、3人を流罪とした。
 しかし、民衆の信仰は篤く、巡拝者が絶えることがなかったため、文化7(1810)年4月3日に、京都にある真言宗御室派の総本山、仁和寺から「准四国八十八ヶ所霊場」の称号と仁和寺紋章の使用許可が与えられた。これにより、自由に巡拝ができるようになった。
 大島の島四国の開創は、小豆島八十八カ所の開創から221年後、神島八十八カ所の開創から67年後となる。島四国の広がりを示す1つの例である。ちなみに、仁和寺の裏山にも、御室八十八カ所と呼ばれる写し霊場がある。文政10(1827)年に、仁和寺29世・済仁法親王の本願によって、本四国の札所の土を持ち帰り、堂を建てたのが始まりとされている。仁和寺八十八カ所は、大島に影響を受けたとも考えられる
。  大島も四国に近い形をしている。四国を90度ほど左に回転させたようなイメージである。島四国は、行程63繊E膤阿らのお遍路さんの場合は2泊3日で歩いて回るのが一般的だ。
 札所は4つの住職のいる寺のほか、無住の寺、堂と小さな庵が混在している。札所名は、地元の寺や堂や庵の名をそのまま使いながら、本四国の札所名も使っている。地形上、本四国の1番霊山寺にあたる場所を1番とし、おおむね時計回りに札所ができている。
 大島の島四国の札所も、地形的に本四国に似せた場所に設けようという意思が見られる。足摺岬にある本四国の38番金剛福寺は、大島では仏浄庵だが、やはり海岸の崖の上に作られている。本四国45番岩屋寺(愛媛県久万高原町)は、バスツアーで行ったとしても、最後は15分ほど上りのきつい坂道を歩くこととなる。島四国の45番も同名の岩屋寺で、急な坂道になっている。このため、足の弱いお遍路さんのために、海岸沿いにももう1つ45番の札所を設けているほどだ。
 島外からのお遍路さんは、来島海峡大橋からの降り口や、フェリー乗り場に近かった関係から、44番十楽庵から回る人が圧倒的だ。本四国では札所に参ると、有料ではあるが朱印を押してもらう習慣がある。小規模な写し霊場では、朱印のないところがほとんどだが、大島の場合は朱印をもらう。ただし、小さな堂では、お遍路さん自身が用意されている朱印を押すケースもある。


      ↑大島の島四国の札所は、堂になっているところが目立つ


   7.大島の島四国の特徴と現状

 大島の島四国の特徴は、年に1度の「島四国へんろ市」だ。空海の命日(3月21日)をまたぐ3日間がそれにあたる。長い間、旧歴の3月21日を新暦に直して続けられてきた。ただ、毎年日程が変わるので、2014年から4月の第3日曜日を中心にした土曜、日曜、月曜日に固定した。
 へんろ市の日は、島をあげてお遍路さんを接待する。「お接待」とは、お遍路さんをもてなすことだ。このため、島四国を巡拝するお遍路さんは、この時期に集中する。今治市吉海支所産業建設課によると、毎年2000人ほどだという。私は2006年と2007年に巡拝したが、人であふれていた。その一方で、へんろ市の期間以外に巡拝するお遍路さんはほとんどいない。
 お接待は地元の人たちが、札所ごとに行っている。そのほかにも接待所が設けられ、全部で100カ所ほどの展開となる。これまでは、へんろ市の日程が変動するため、3日間がウィークデーに当たると、仕事を休む人もいた。その点を考慮して、休日である土曜、日曜を含む3日間に固定したようだ。
 お接待の内容は、バラエティーに富んでいる。私が訪れた時を振り返ってみる。当然のように、お茶は用意されている。それ以外に、飲み物ならコーヒーやお酒を出すところがあり、持って帰るように乳酸菌飲料、缶ビール、缶ジュースなどを手渡してくれる。中には抹茶をたてる野点のような席をしつらえている接待所もあった。
 食べ物はお菓子やミカンが多かった。ほかに、おにぎり、竹輪、ゆで卵、スイカもあった。熱いうどんのお接待も受けた。ある接待所では、地区の婦人会がヨモギなどの天ぷらと、鯛のアラでだしをとったみそ汁をふるまっていた。持ち帰り用として、名産のヒジキや、食べ物以外ではちょっとした工芸品や炭もいただいた。
 このようなお接待が、お遍路さんを呼び寄せると言っても過言ではない。人間関係が希薄化している現代で、お遍路さんということだけで、見ず知らずの人をもてなす。そのことに感銘したり、人間づきあいが今よりも活発だった昔の状況を、大島に見出す人が多いのではないか。
 ただし、大島も瀬戸内海の多くの島と同様、苦しい事情も抱えている。44番札所に近かった港では、私が訪ねた後にフェリーが廃止され、2013年には快速線がなくなり、船便は姿を消した。以前はへんろ市に3000人が詰めかけたことがあったそうだが、船便の廃止が影を落としているかもしれない。
 それでも、人口が約5000人の島に、2000人の入れ込みは大きい。島の活性化や再生の1つの原動力にはなっていると思われる。島外からのお遍路さんは、島の中で宿をとる人が多い。それどころか、満室のため、四国本島の今治市中心部に宿泊し、島に通う人もいるほどだ。そのような人が島に渡る際、船を利用していたが、航路がなくなったことで、島が受けた痛手は大きいはずだ。
 へんろ市には、もう1つ大きな役割があると見る。島あげて、地域あげてのお接待は、そこに住む人々の結束を強めるはずだ。都会を中心に地域共同体が崩れつつある。そのような傾向の中で、近所の人たちが協力する日があることは、地域力の維持に役立つに違いない。ここでも遍路が一役買っていることになる。


      ↑お接待のうどんを食べるお遍路さん


   8.豊島八十八カ所と直島八十八カ所

 香川県土庄町の豊島にも豊島八十八カ所があるが、西国三十三カ所と混合していて複雑である。元豊島公民館の藤田秀一・元館長による話を紹介する。
 豊島に八十八カ所が入ってきた時期はわからない。その後、島の豪族が天保8(1833)年に西国三十三所を山に設けた。大正8(1918)年に三十三カ所を分散した。八十八カ所の方は長年の間に風化し、石仏などもどれが何番札所のものかわからない状態になっていて、小さな堂も朽ちていた。しかし、中には崩れていないものもあり、大師堂に西国の石仏と四国の石仏を一緒に安置したという。
 このため、豊島では西国三十三カ所の方を「お大師さん」として信仰している。空海の命日である旧暦の3月21日にあたる日は、大島と同様、島をあげてのお接待を繰り広げる。33の札所ごとに接待があり、おにぎり、ゆで卵、お菓子などを手渡す。最近では会社がツアーを組むほどだ。
 豊島は50万鼎砲盖擇峪唆版儡物が島外から不法投棄され、島と島民は大きな被害を受けた。名前の通り、豊な島であったが、島民は「ごみの島」という不名誉で理不尽なレッテルに苦しんだ。
 1970年代後半から、島内の産廃処理業者が島外の産業廃棄物を受け入れ、島の西側の山を削り、海を埋めて不法投棄を始めた。兵庫県警は1991年、この会社を摘発し、社長ら6人を廃棄物処理法違反の疑いで逮捕した。
 摘発までの不法投棄は13年間に及ぶといわれる。廃棄物の大部分はシュレッダーダスト(自動車の破砕くず)で、京阪神を中心にした21社の排出業者が処理を委託した。  不法投棄された廃棄物はごく一部が撤去されたが、東西500叩南北200辰糧楼呂烹毅伊鼎鯆兇肯未放置されたままになった。1994年に国が実施した調査では、猛毒のダイオキシンのほか、鉛、PCB、水銀、トリクロロエチレン、有機塩素化合物、ベンゼン、ヒ素などの有毒物質が、土壌や地下水、周辺海域の海の生物から検出された。
 豊島住民は反対運動を展開し、廃棄物の島外撤去を求めて運動を続けた。住民は、業者の廃棄物持ち込みを事実上黙認した香川県の責任も追及した。1993年11月11日には、排出業者や処理業者とともに、県も相手取って公害紛争処理法に基づく調停を申請した。国の公害等調整委員会では7つの処理案が示されたが、県の責任の有無などを巡って、住民と県の主張は対立が続いた。
 1997年1月31日の第14回公害調停になってようやく、県が「遺憾」の意を表明。これにより、廃棄物を島内で溶融させる中間処理を行うことで、香川県と豊島住民側が合意し、解決に向けて動いた。住民側の合意は「苦渋の決断」と称された。その後、廃棄物は香川県直島町・直島の三菱マテリアルで処理され、豊島は再生への道を進んでいる。
 豊島は漁業、農業、観光の島だった。ところが、不法投棄の問題が表面化して以降、風評被害も含めて、すべてが打撃を受けた。島はいま蘇りの途上だが、その過程でもう1度、お大師さん=島四国が一定の役割をはたしている。


      ↑豊島の島四国の札所の1つ


      ↑豊島の島四国の遍路道にある道しるべ

 国土交通省は2009年、「島の宝100景」を選定した。その1つに、豊島の「唐櫃(からと)の清水」が入った。豊島の中央部の壇山のふもとの唐櫃岡にある湧き水である。空海がのどの渇きを覚えて地面を掘ると、水がこんこんと湧き出したという言い伝えがある。豊島の住民の大師信仰の強さを示すものだ。お大師さんといい、唐櫃の清水といい、連綿と続く大師信仰が新しい豊島をつくるうえで再び脚光を浴びている。
 豊島の廃棄物を処理する直島にも、島四国はある。道端に石仏を並べたもので、島内全体に広がり、2体は離島に安置されている。直島町教育委員会によると、1988年に島内の有志が発起人会を作って、八十八カ所を復興したという。詳しいことはわからないものの、古くから島四国の石仏はあったようで、残っていた石仏は再利用し、そのほかは新しく造ったようだ。
 これは平成元年のことである。篤い大師信仰を示す動きである。同時に、新時代を迎えるにあたり、地元に根付いていた習俗・文化を再評価したとも解釈できる。
 2006には芸術家の小沢剛さんが、「スラグブッダ88」と題した作品を島内に設置した。豊島の産業廃棄物を三菱マテリアルで処理し、そこで生まれたスラグを形成し、焼成された立体作品である。モチーフには島四国の八十八カ所を取り込んでいる。島の蘇りが象徴的に表現された例といえる。


   9.まとめ

 瀬戸内海の島に四国八十八カ所という信仰、文化、習俗が入っていったのは、本四国が大衆化してからである。小豆島の島四国の成立が17世紀の終盤で、その時期以降に各島々に広がったとみられる。島民の島四国への信仰は、いまだに強いものがある
。  日本の島はどこも、人口流出による過疎化をどう克服するかという課題に直面している。それは島の活性化というテーマでもあり、島の再生の道を探ることでもある。再生のためには原動力が必要だ。ここで取り上げた島は、島四国が一定の役割を担っている。
 ほかにも再生へのアプローチが展開されている。瀬戸内国際芸術祭は2010年に第1回、2013年に第2回を開いた。島を舞台に、現代アートを中心とした芸術作品を展示し、多くの芸術愛好家を集め、会場となった島々にとっては、その年に観光の中心となった。島の活性化が成功した例であろう。
 岡山市の犬島も注目を集めている。1909年に銅の精錬所が建設された。しかし銅の暴落などにより、約10年で操業を中止し、閉鎖に追い込まれた。その後、製錬所の建物はほとんど崩壊し、レンガ造りの煙突や壁、塀などの一部が残っているだけだ。
 島の人口は約50人。ひっそりと暮らす島だったが、精錬所跡の荒漠とした光景がテレビドラマで使われて再び知られるようになった。また近年は精錬所跡は近代産業遺産しての評価も高まった。2008年には犬島精錬所美術館がオープンした。建築家、三分一博志さんが設計し、精錬所跡の一部を取り込んでいる。人工的な空調設備をつけず、サンルームのような部屋で暖められた空気を精錬所の煙突の吸引効果で、館内を温めるなどの工夫がしてある。精錬所の煙突は1世紀近くを経て、蘇ったといえる。
 展示作品で、アーティストの柳幸典さんは、犬島で産出される石、製錬の過程でできるスラグといった地元のものと、三島由紀夫が若いころに住んだ家の部材を組み合わせた。これも、精錬所と三島の蘇りであり、島の再生の力である。


      ↑犬島精錬所美術館。産業遺構を巧みに取り入れている


 直島に建設された安藤忠雄さん設計の地中美術館や瀬戸内国際芸術祭など、瀬戸内海の島では、アートによる島起こしが脚光を浴びている。また、地味ではあるが、島四国も島外の人を引き付けるととともに、島の共同体にとっての接着剤となっている。あるいは、その可能性がある。八十八カ所があるほかの島でも、同様のことが言えるはずだ。これは島の蘇りとともに、島四国の復活でもある。



●参考文献など


1)姫路市のホームページ(http://www.city.himeji.lg.jp/)
2)「四国八十八カ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会のホームページ(http://www.geocities.jp/henrogoya/)
3)「四国八十八カ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会のホームページ(http://www.geocities.jp/henrogoya/)
4)パンフレット「神島八十八カ所めぐり」、笠岡市立神島公民館、2003年 5)毎日新聞2002年12月15日朝刊「余禄」
6)パンフレット「お大師さんのいる島 えひめ大島 島四国」、吉海町観光協会・宮窪町観光案内所、2007年
7)公益財団法人・福武財団のパンフレット「犬島『家プロジェクト』 犬島精錬所美術館」
8)「四国八十八カ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会のホームページ(http://www.geocities.jp/henrogoya/)