梶川伸「ちょっと歩き四国遍路・のんびり湯ったり編」(毎日新聞旅行「ちょっと歩き四国遍路・のんびり湯ったり編」の先達メモ)(1)▽第1回

  

              梶川伸・毎日新聞旅行「ちょっと歩き四国遍路・のんびり湯ったり編」先達(「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会副会長)

              

   ◆◇ちょっと歩き四国遍路・のんびり湯ったり編(1)◇◆
(毎日新聞旅行「ちょっと歩き四国遍路・のんびり湯ったり編」の先達メモ)


 毎日新旅行の新しい遍路旅シリーズ「ちょっと歩き四国遍路・のんびり湯ったり編」が始まった。私が先達を務める第9シリーズとなった。とは言っても、前シリーズ「のんびり逆打ち」が途中で立ち消えになったので、今回はその穴埋めも兼ねている。
 
 行程は私が考えた。1泊2日ずつ16回に分けて、四国88カ所と高野山に参拝する。基本はバスを使った霊場の参拝だが、昔から続く良い遍路道の一部を歩くので、「ちょっと歩き」と銘打っている。以前はたくさん歩いたが、私が年齢を重ね、何かトラブルがあった時に、参加者を十分にサポートする力が衰えてきているという自覚があり、このところ「ちょっと歩き」に変更している。
 
 また、遍路は四国の風土を抜きには考えられないという私の考えから、霊場以外にも寄り道をする。四国の良いところを知ってもらいたいと思う。昼食はなるべく地元の料理、食べ物を選んだが、これも四国全体を体感してもらいたい、という思いからだ。
 しかもシリーズのタイトル通り、せかせか回らず、ノンビリと余裕を持って回る。宿もできるだけ温泉に泊まる。日本人は少し急ぎすぎているので、ゆっくりと四国を回って、人生や自分を見つめ直すきっかけになればいいと思っている。そんな遍路旅の、先達メモをお届けする。

【淡路島ハイウェイオアシス】

 第1回目の参加者は12人だった。前シリーズからのメンバーが9人で、新しい人が3人という構成になった。いつもながらのミニグループ。それも特徴で、打ち解けた仲の良い遍路になる。

 寒い時期なので、天気を心配した。出発日の直前から寒波が西日本を覆い、天気予報も雪だという。出発前から、「雪」が今回のキーワードになった。

 毎回、大阪市・西梅田の毎日新聞社前をバスで出発する。今回も同じ。出発時点では寒さだけだったが、やがて雪に見舞われる遍路となった。前途多難を思わせるスタートだが、印象に残る遍路にもなった。

 大阪環状線で事故があり、環状線の列車が大幅に遅れた。大阪府南部から参加者が影響を受け、タクシーで駆けつける人がいたり、到着が遅れる人がいたりで、バスは予定時刻から遅れて走り出した。

 まず明石海峡大橋を渡って淡路島に入った。いつものように、淡路島ハイウェイオアシスで最初の休憩。お土産に人気の玉ネギスープは試飲もできるので、久し振りに飲んでみた。試飲コーナーの横に商品が山積みになっていて、4500万食が売れたと書いてあるから驚く。建物の裏の公園「花の谷」に出ると、水仙がよく咲いていて、遠くの方には紅梅も見えた。


      ↑花の谷のスイセン


【1番・霊山寺】

 天気が目まぐるしく変わった。淡路島を走っていると、小雪が時折ば明日のフロントグラスに当たった。風が強く、力負けした鳥が風の流れに巻き込まれてバスのボデーの激突もした。ところが、1番霊山寺に着くと、青空が広がった。ただし、寒い。

 本堂は修理中で近づけず、少し手前にろうそくや線香立てが設けてあり、そこで般若心経をあげた。大師堂でのお参りをすませると、山門から小さな子どもたちが境内に入ってきた。近くの板東みやま保育園の園児だった。参拝と花を求めて回った「ちょっと歩き花へんろ」のシリーズの1回目、2012年の4月に、この保育園の園児からお接待を受けたことがある。

 その時のことを思い出してみる。大師堂参拝を終えると、保育士の女性が「子どもたちが引き上げるので、先にお接待を受けてもらえないか」と言ってきた。子どもたちは、わざわざ待っていてくれたのだ。先にお接待をいただきに行く。子どもたちは小さな透明の袋を手に手に差し出す。その中には、あめが2つ、梅ごのみ、しおりが入っていて、しおりにはつくしの絵と、「気をつけてね」の文字と「ほのか」「しおり」といった名前が書いてあった。遍路の最初に可愛いお接待を受け、みんなが喜んだ。

 聞けば、この保育園では毎年春に、園児たちが霊山寺でお接待をするのだという。2016年2月、お遍路さんのための休憩所づくりをしている「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会の総会兼記念シンポジウムを徳島で開いた。そのシンポジウムのパネリストに、坂東みやま保育園の園長と園児をお願いしたことがある。残念ながら受けてはもらえなかったが、また子どもたちに出会うことができ、縁を感じた。

 今回はお接待ではなく、園児たちは境内のハトや池のコイに餌をやって歓声をあげていた。何人かと握手をして山門を出たが、またいろいろな人と出会う遍路となることを予感した。


      ↑板東みやま保育園の園児


      ↑池には小さな子どもの像


【昼食】

 初遍路の人もいるので、遍路用品をそろえる時間も取ったため、霊山寺の次は昼食となった。鳴門市の北灘漁協が運営する食堂「うずしを」までバスを走らせた。海に面した魚介類の販売所兼食堂。用意したのは海鮮丼だった。

 <ご飯の上に大根の細切りとワカメを敷き、その上に刺し身が乗っている。この日は、ハマチ、マグロ、タコ、イカ。それぞれ1切れずつだが、1つが大きいので、ご飯を覆う。さらにその上に、イクラが乗っていた。大きなワカメのみそ汁がセットになっている。ワケメは柔らかい。1週間後のワカメ祭りがあるとPRしてあったので、みそ汁のワカメは多分、新物だったのだろう。BR>

      ↑うずしおの海鮮丼


      ↑うずしおの前の海は、波が白いしぶきを上げていた


【2番・極楽寺】

 2番・極楽寺の境内を進み、少し石段を登って、本堂と大師堂に参拝した。風が強くて、ロウソクや線香に火をつけにくい。大師堂の横に安産大師が立ち、そばには安産のお守りがたくさん奉納されている。樹齢1200年という長命杉に結ばれた紐を握り、その力をもらった。

 売店の前を通ると、年配の男性がレンコンと鳴門金時を並べていた。声をかけると、レンコンの方は自分が掘ったものだという。「6月ごろまでがシーズン」だとか。寒いのに大変だ。どこから来たのかを聞かれ、「大阪」と答えると、「それなら、大麻比古神社とドイツ館も寄ったらええ」と、すぐ近くの名所に行くことを薦めた。この2つは時々遍路旅に組み込むが、今回は寄る予定がない。そう告げると、「そうかいな」と、残念がっていた。

 売店ではちらしずしを売っている。1995年に初めてお四国さんを回った時、買って食べた。そんなことを寺の女性に話した。最後は、寺の女性とレンコンの男性に、「お気をつけて」の言葉で見送られた。



      ↑安産大師


      ↑売店に並べられた地元のレンコンと鳴門金時


【3番・金泉寺】

 極楽寺から3番・金泉寺までは、今回のちょっと歩きのコースの1つだった。距離は2キロ弱だから短い。歩き出した時は日が出ていて心地良かったが、やがて雲が太陽を隠し、風も出て、パラパラと雪が舞った。手袋をバスに置いてきたのを悔やんだ。道端の水仙や、民家の梅の花を見ながら、寒さを紛らわせた。

 金泉寺へは裏から入ったので、改めて山門から入り直す。大師堂ではわに口の布の綱が強風に揺れて、わに口にあたり、ガランガランと鳴る。空海ゆかりの井戸を見て、弁慶の力石も眺めた。ゆっくりしたいところだが、寒いので急いてバスに戻った。


      ↑山門を通してみた金泉寺


【4番・大日寺】

 バスで4番・大日寺に向かい、二層になった赤い山門をくぐって境内に入る。何度も通った山門だが、1階の柱は角柱で、2階は円柱だと、初めて知った。

 大きくはないが、赤が目立つ山門で、私は好きだ。以前の遍路旅シリーズに参加していた女性は、定年になってから水彩画を本格的に習い始めた。所属する団体の展覧会に出品し、賞を取るほどになった。題材は遍路や四国霊場からとったものが多い。昨年展覧会に出品したのが、この大日寺の山門だった。展覧会は大阪市立美術館であり、遍路仲間と見に行った。大きな作品を前に話をすると、彼女も山門の赤さが気に入ったのだという。

 本堂でお参りの際は、風がやんでいた。太陽が背中をポカポカと暖めてくれ、冬を忘れて心経を唱えることができた。本堂から大師堂までは短い回廊があり、西国三十三カ所の本尊が祭ってある。それを見ながら大師堂へ行った。何とその間に太陽はかげり、寒さが戻ってしまった。風が強まり、ロウソクに火がつくにくい。一瞬の間に春は去ってしまった。
 


      ↑大日寺の赤い山門


【5番・地蔵寺】

 大日寺から5番・地蔵寺までは近いが、寒さもあってバスで移動した。本堂のお参りをした後、境内の梅の木をみんなで鑑賞した。裏側の五百羅漢寺まで、梅の並木が続いている。木は盆栽のように低く抑えられているのが特徴で、木によって2〜3分咲きのものがあった。

 樹齢800年を超える大イチョウを眺める。葉を落として、寒そうに立っている。大師堂で読経を始めると、チラチラと雪が舞ってきた。ついに、だ。雪は次第にはっきりと見えるようになり、最後に唱える回向文のころは本格的な降りになった。唱え終わると、みんなあわててバスに走った。


      ↑地蔵寺の梅


      ↑地蔵寺でとうとう雪が本格的に降ってきた


【6番・安楽寺】

 バスで6番・安楽寺へ急ぐ。雪はますます強くなる。乗っている時間は10分ほどだが、その間にすっかり雪景色になってしまった。安楽寺も雪景色で、植栽の上、本堂の屋根の上は雪をかぶっていた。特に赤と白の多宝塔は、雪との組み合わせが印象的で、さらに雪が線を引くように降って、浮世絵的な風情を醸し出していた。

 寒さは増したが、幸い本堂の中で心経を唱えることができ、大師堂でも同様だったので助かった。しかも、宿は安楽寺の宿坊。運が良かった。私たちは幸いだったが、雪の中を歩いてきた男性がいた。本堂でカッパを脱ぎ、雪を払っていたので、声をかけた。この男性も安楽寺泊り。宿坊の風呂で話すことになる。
 
 おお参りの後、雪がうれしくて写真を何枚も撮った。参加者の中に、北海道で1人暮らししている女性がいる。冬の間は金沢の子どもの家で過ごすが、どちらの土地も雪は珍しくなく、北海道ではうんざりするほどで、はしゃぐ私を白い目で見ていた。
 
 宿坊に入ると、まず風呂へ。風呂は「湯ったり編」なので温泉。湯船で暖まっていると、先ほどの歩き遍路の男性が入ってきた。男性は2回目の歩き遍路だった。前回は二層になっている山門の2階で“野宿”し、その際に安楽寺が気に入り、次は宿坊に泊まってみたいと考えていたそうだ。今回は逆打ちだから、翌日結願する。その後、88番にお礼参りに行くと話していた。

 1回目に回ったのは、20代前半だったいう。勤めを辞めて歩き、霊場を巡るうちに、寺の庭に魅せられた。結願してから東京で庭師の修行を始め、やがて京都の寺の庭の素晴らしさを知り、現在は京都で庭師をしているそうだ。

 ところが15年ぶりに2度目の遍路に出た。実家が静岡で、そこに移りたいと思っている。また今回も、転機としての遍路なのだろう。
 
 風呂ではもう1人、年配の男性と話をすることになった。10年間で5回目の歩き遍路だという。今回は2度に分けて回り、来年結願して、遍路を終えるとか。
 
 兵庫県西宮市に住み、夙川の桜を増やすボランティアをしている。桜が弱ってきているので、バイオ技術で育てて植えているそうだ。はからずも、木に関係する活動をしている2人、相次いで話すことになった。私自身は花が好きで、押し花などをしているので、不思議な巡り合わせだった。
 
 夕食は私たちのグループはまとまって食べた。隣のテーブルに、風呂で会った2人が座っていた。夕食のメニューは、エビ、ジャガイモ、タケノコ、シシトウ、ナスなどの天ぷら、エビとコンニャクの刺し身、高野豆腐、練り物の天ぷら、ニンジンなどの煮物、酢の物などだった。
 
 食事の後は、寺独特のクス供養。祈願する言葉を書いた短冊をクスノキの枝に結ぶ。それらを持って、本尊の裏の広いスペース移動する。そこにはせせらぎが設けてあり、中洲のように砂の島が5カ所ほど作ってある。まずカップに入れたロウソクに火をともし、カップごとせせらぎに浮かべて流す。精霊流しのような趣がある。クスノキの枝は砂の島にさす。最後に護摩木を自分の手で燃やす。静かな夜の行事に、心が洗われる。
 
 雪は宿坊に入った直後に小降りになり、2日目の朝にはすっかりやんでいた。積雪も少しになっていた。朝食の後、寺のすぐ近くの休憩所を見に行った。結構大きなスペースで、水回りもあり、トイレも完備している。完全に締め切った建物ではなく、開放状態の造りだが、下部には壁があり、壁に沿って長いすが設けてある。今回のような時期は無理だが、暖かい季節ならお遍路さんが十分に一晩を過ごすことができる。
 
 安楽寺に帰り、山門をくぐったついでに、庭師の男性が15年前に寝た山門の2階に上ってみた。何ど、そこには野宿のお遍路さんが寝ていて、起きたところだった。


      ↑安楽寺に着いた時は強い雪だった


      ↑安楽寺の夕食


【7番・十楽寺】

 バスで出発すると、田畑が薄く雪をかぶっている。降っているわけではないが、雪遍路の風情の朝だった。

 2日目の最初のお参りは、7番・十楽寺だった。本堂の前に行って、参加者の1人声をあげた。屋根から雨水を流す鎖のような金具に氷が厚く付き、まるで氷柱のようになっていた。ただ、太陽が照っていて、背中が暖かい。境内の桜が1輪、2輪咲いていた。中門の役割を果たしている愛染堂にも上り、愛染明王にお参りをした。


      ↑本堂の屋根から下がった“氷柱”


【8番・熊谷寺】

 8番・熊谷寺は、駐車場から本堂までは少し登りの道になる。駐車場からすぐ石段を登るが、通行止めにしてあって、寺の人が「凍って危ないので、少しだけ遠回りですが坂道を行ってください」と注意してくれた。本堂の前の手水で、また参加者の1人が声を上げた。ひしゃくに氷がこびりついて、手のような形をしていたのだ。

 大師堂で拝んでいると、屋根の雪が解けて、雨だれのように落ちている。駐車場まで戻る途中、境内の雪をはいて取り除いている女性がいた。「よく雪が降るんですか」と尋ねてみた。女性は「山はなあ、こんな程度やね。冬中に2回ほど」と答が返ってきた。それほど標高が高いわけではないのだが、それでも吉野川沿いに比べれば大分寒いのだろう。


      ↑氷をくっつけたひしゃく


【9番・法輪寺】

 熊谷寺から9番・法輪寺までは、2日目の「ちょっと歩き」だった。四国では最大級の山門をくぐって、緩い下りを歩いていく。春になると、山門は桜とモクレンに飾られる。ただし、桜はまだつぼみもつけていない。歩くのは30分ほど。熊谷寺を出た時は、それほど寒くなかった。そこでまた、手袋をバスに置いてきた。ところが雪がチラついてきて、また後悔した。

 法輪寺に着くと、また暖かくなってきた。困った天気だ。境内で若い男性の歩き遍路に会った。初めての遍路であること、アナウンサーを目指していることを話した。参加者の1人が、お接待として1000円札を男性に手渡した。20年ほど前に自身が歩いて回った時に、お金のお接待も受けたからだという。私自身も歩いている時に、1000円を3回お接待していただいたことがあるが。


      ↑雪景色を見ながら歩いてゆく


      ↑法輪寺に着くと暖かくなった


【百姓一】
 今回のお参りは法輪寺まで。まだ正午前だったが、四国の良いところを知ってもらうために、寄り道をすることにしたので、早い打ち止めにした。まずは地元の農産物を扱っている徳島県石井町の「百姓一」へ。徳島県は農業県で、多くは大阪方面に出荷する。種類も豊富で安い。そんな農産物を集めた場所も見てほしい。

 建物の外面にはツバメの絵が描かれている。毎年、ツバメが巣を作るからだそうだ。ただし、昨年一部改装したため、「今年はツバメが来てくれるだろうか」と、店の人が心配していた。

 高知県の45番・清滝寺は山の中腹にあり、寺から下りてきた人里に、「ツバメのアパート」と呼ばれる民家がある。広い納屋兼ガレージのような建物の天井に、たくさんのツバメの巣ができている。家主は1つ1つの巣に、できた年月日を書いて残している。そんな優しさが、四国ににはある。

 建物に入ると、大きな大根が1本110円で売られているのに目が行った。安いので眺めていると、参加者の1人が催しのチラシに気づいた。ぜんざいのサービスだったのだ。メンバーみんなでごちそうになることにした。テーブルといすが用意してあり、座るとプラスチックのお椀に入ったぜんざいが運ばれてきた。餅が2つも入っている。テーブルの上には2種類のたくわんと野沢菜の漬け物が盛ってあった。

 その場のリーダーと思われる男性が「お遍路さんですか?」と話しかけてきた。ぜんざいのサービスは年に1回の催しだという。「いい日に来た。お遍路のご利益があったね」。食べ終わると、「お代わりもしてよ」と勧めてくれた。それは辞退をして、テーブルの上に出ていたたくわんと野沢菜漬けを買った。リュックサックは急に重くなった。


      ↑ぜんざいのお接待をいただいた


【昼食】

 ぜんざいを食べて買い物をし、その後はすぐに昼食という変なスケジュールになった。石井町の直心庵というそば屋さんで、バスで10分足らずの所にあった。店の横はソバの製麺工場になっている。つまり工場直営の店ということになる。

 10年近く前、遍路の仲間で独自にバスをチャーターして、四国霊場を回ったことがある。工程表は私が作った。気心の知れた仲間なので、一任されたのだ。

 その際、徳島での昼食場所の1つに選んだのが、直心庵だった。ガイドブックを見て電話をかけ、女性店員に予約した。こちらの連絡先として、自宅の電話を告げていた。しばらくして別の女性から自宅に電話があった。「先ほどは私が留守をしていて、大変申し訳ありませんでした」と言う。直心庵の女将だった。それだけの内容の電話に、女将の気遣いを感じ、その後は時々この店にお世話になる。  この日のメニューは、「季節のそば」といなりずし、それに小さなそば粉のだんご。そばは細いが腰がある。その上に菜の花とエビしんじょう、かまぼこ、揚げが乗っていた。

 このあたりは全く雪がなく、太陽も出てきて暖かい。女将や店員の女性に安楽寺の雪景色や、熊谷寺の氷のついたひしゃくの写真を見せると、びっくりしていた。バスに乗り込むと、女将がわざわざ見送りに来て手を振った。昼の忙しい時間だったのに。こういった細かい気遣い、心遣いがうれしい。


      ↑直心庵で食べた季節のそば


【阿波史跡公園】

 昼食の後、行程を1つ追加した。実は午後2時から徳島市の阿波踊り会館で、阿波踊りを見ることになっていたが、時間があまってしまったのだ。

 安楽寺の宿坊の朝食は午前6時半からだった。一行は思ったより早めに朝食をすませ、身支度も早めに終わったので、結果的に時間に余裕が出たのだった。

 そこで、徳島市の阿波史跡公園を訪ねることにした。私が計画した遍路旅は、ゆっくりしたタイムスケジュールにしているので、普段でも予定にない寄り道が多いが、今回はとりわけ自由に使える時間がたくさんできた。雪の「ゆ」の字もなくなって太陽の恵みも受け、散策には都合がいい。公園には弥生時代の住居が4棟復元してあり、それを1つずつ見て回った。

 公園から少し離れた場所に、徳島市立考古資料館があり、入館無料なので、ここも寄ってみた。土曜日なのに、私たちのグループ以外に人はいない。古墳の出土品、器台や埴輪などを見て、バスに戻った。

      ↑阿波史跡公園


【モラエスの墓】

 阿波踊り会館に着いたが、会館に入る前に、すぐ横の潮音寺を訪ね、ウェンセスラウ・デ・モラエスの墓に参った。モラエスはポルトガルの外交官で、1998年にポルトガルの領事館が設置されると、在神戸副領事として赴任し、やがて総領事となって1913年まで務めた。モラエスはボルトガルの新聞に当時の日本を紹介した。

 モラエスは徳島出身の芸妓、おヨネと暮らした。おヨネが亡くなると、徳島に居を移し、おヨネの姪のコハルと生活をともにした。潮音寺には、モラエスとおヨネ、コハルの墓が並んでいる。

 40年ほど前、徳島で勤務した。その当時、作家の新田次郎さんが毎日新聞にモラエスをテーマにした小説「サウダーデ(孤愁)」を執筆していた。小説の舞台が神戸から徳島に移る前に、新田さんは取材で徳島を訪れ、モラエスの足跡を追った。案内役をしたモラエスの研究家が知り合いだったので、運転手役を私が務めた。新田さんは「ポルトガルの音楽、ファドは、日本の歌に共通するようなところがある。モラエスは日本に故郷を重ねたのではないか」と話し、題名を「孤愁」とした思いを語った。

 取材が終わった夜、3人で酒を飲んだ。モラエスの研究家は阿波踊りの名人でもあったので、新田さんに踊りの手ほどきをして、3人で踊った。新田さんが恥ずかしそうに踊っていたのを覚えている。その後間もなく、新田さんは亡くなってしまった。このため、孤愁は絶筆となり、小説の舞台が徳島に移る前に終わってしまった。そんな思い出に浸りながら手を合わせた。


      ↑モラエス、おヨネ、コハルの墓


【阿波踊り会館】

 今回の遍路旅で、お参り以外のお楽しみは阿波踊りだった。阿波踊り会館では、専属の連が毎日、阿波踊りの解説と公演をしている。それを楽しむわけだが、公演の最後は観客も一緒になって踊る。私たちのメンバーも何人かが舞台に出て踊った。「手を上げて足を運べば阿波踊り」という句があるように、みんなが楽しむのが阿波踊りの本質だと思うので、その一端を味わってもらう趣向だった。

 大阪へ帰る途中、淡路島で「たこせんべいの里」で休憩時間を設けた。せんべいの製造販売所で、試食ができてコーヒーを無料で飲むことができるため、たくさんの人でにぎわっていた。すぐそばに地元の商品を売る大小2つの施設があり、そこでも土産を物色し、シリーズの1回目を終えた。


      ↑阿波踊り会館で阿波踊りを鑑賞


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   ◆第2回(10番・切幡寺〜15番・国分寺)
     =2017年3月10日〜11日


【淡路島ハイウェイオアシス】

  四国遍路「ちょっと歩きシリーズ」の「のんびり・湯ったり編」の第2回は、参加者が11人だった。以前のシリーズに参加してくださった方も加わったが、相変わらずの少数メンバーだった。

 出発はいつも通り、大阪市・梅田の毎日新聞社前。ちょうどこの日は、センバツ高校野球抽選日だった。テレビの中継車が道路に停車し、カメラを持ち、脚立を抱えた記者が出入りしていた。

 毎日新聞は「春はセンバツから」という言葉をよく使う。奈良のお水取りのクライマックスは12日で、関西ではお水取りがすめば、暖かくなるともいう。ちょうどその時期ではあるのだが、出発日の朝は大変寒い朝だった。しかし、天気はいいので、昼間は暖かくなることを期待して、バスは走り出した。

 いつも淡路島ハイウェイオアシスで、最初の休憩をする。到着は午前9時過ぎだった。海からの風が冷たい。天気がいいのに、気温が上がるスピードは遅いように感じる。

 ここでは、人気の玉ネギスープが試飲できる。すでに4500万食を売ったという大ヒット商品で、私も含めて参加者はしばしば土産に買って帰る。試飲はこれまで澄んだスープだが、今回は新商品のポタージュスープだった。当然のように飲んでみた。なかなかいける。

 建物の外の「花の谷」に出てみた。まだ花は少ない。トサミズキは鎖のように連ねて吊り下げて黄色い咲かせるが、まだ連なりは1つか2つで、全体の数も少なかった。春はまだ浅いということだろう。


      ↑淡路島ハイウェイオアシスで新発売のタマネギのポタージュスープを試飲


【ひょうたん島クルーズ】

 今回はまず、お参りの前に船に乗った。徳島市内の新町川などを、台船のような船で巡る。それを「ひょうたん島クルーズ」と名付けていて、徳島城跡の外側である市の中心部を30分ほどかけて一周する。

 運航しているのは新町川を守る会。徳島市のPRのためで、徳島市が川の街であることを知ってもらうのが目的だという。だから料金は保険料だけで、1人200円。

 徳島市は阿波踊りを別にして、大きな観光資源がない。そこで、集客の手段の1つとして、クルーズを計画したのだろう。そのような活動を、遍路旅の参加者にも知ってほしいと考えて、遍路旅に組み込んだ。遍路文化はそれ自体で独立しているわけではなく、四国の人々の生活や風土に深くかかわっていると私は考えるので、遍路を取り巻くさまざまな四国を遍路スケジュールに組み込んでいる。

 吹き曝しの船なので、暖かくなってほしいと祈っていた。それぞれライフジャケットを身につけて、船に乗り込んだのは11時前。動き出すと、風を切るので寒い。ライフジャケットは窮屈だが、防寒着としてありがたいほどだった。祈りは通じなかった、と思った。

 船長が案内してくれる。市内には168もの川があるという。そのうち、クルーズは約6キロを行く。川は吉野川に流れ込み、そこから海までは近い。だから何種類もの魚が泳ぎ、養殖の種も入ってくるので、ワカメもあるのだとか。

 「寒い」と話していると、船長が「次の川の合流点で右に曲がったら寒くないから」と言う。その通り、風がなくなり、気持ちいいクルーズに変わった。徳島城跡の川に面したところに、蜂須賀桜が並木のように植えてある。早咲きの桜で、ちょうど満開だった。幼稚園か保育園かの子どもがたくさん、桜見物に来ていて、しきりに船に向かって手を振り、「こんにちわー」と声を上げていた。

 遍路で歩いていると、四国の子どもたちはよくあいさつをする。「こんにちは」「さようなら」「頑張って」……。「知らない人には声をかけない」と教えている都会とは正反対で、これも四国の文化なのだろう。

 このクルーズは定着したようで、8月は1万2000〜3000人が乗るそうだ。寒い2月は2000人程度。3月になると約5000人に増えるとか。ただし、この日のこの時間帯は、私たちのほかに乗る人の姿はなかった。


      ↑ひょうたん島クルーズ


      ↑船から見える蜂須賀桜は満開だった


【昼食】

 船を下りると昼食。店は歩いて5分もかからない場所にあり、まだ11時半にもなっていない。早めだが、店からの要望もあって、あえてそう時間設定をした。

 店の名前や「はやし」。実はお好み焼き屋である。ツアーの昼食でお好み焼きを選ぶのは、皆無ではないだろうか。では、なぜ選んだかというと、徳島独特のお好み焼きがあるからだった。「豆焼き」という。甘い金時豆が入っていて、徳島のソールフードになっている。その代表格の店が「はやし」で、40年近くも前に徳島に住んでいたころ、しばしば食べに行った。

 事前に頼んでいたのは「肉豆玉」。豚玉のお好み焼きで、生地に金時豆も入れたものと思ってもらえばいい。

 大きな長い鉄板に、店の人4人が横に並んで、流れ作業のように次から次へと焼いていく。正面から見ていると、まず1番右の人がキャベツと生地を混ぜたものを、1人前ずつ鉄板の上に広げる。次の人は形を整えながら焼く。3人目の女性がトッピングも受け持ちながら、焼け具合を見ている。1番左の人が完成具合を確認し、ソースを塗るなどの仕上げをした後、2つ折りにしてでき上がり。焼かれているお好み焼きは、右から左へと動かされる。息の合ったチームプレーだが、3番目の女性が全体に指示を出していた。

 キャベツの多いお好み焼きで、ボリュームがある。それを客の鉄板の上に運んできてくれる。だから、暖かい状態で食べられる。甘い豆と辛いソースの組み合わせがおもしろい。おにぎり1つもつけてあったが、おにぎりを食べきれない人もいた。

 食べている最中、電話での注文が相次ぐ。ほとんどが持ち帰り用。注文内容が告げられると、やはり3番目の女性が、でき上がるまでの時間を、電話受けの担当者に教えていた。その忙しい仕事ぶりを見て、まだ客が混まない早めの時間帯の来店を求めたわけが分かった



      ↑運ばれてきた肉豆玉


      ↑流れ作業のようにお好み焼きを焼いていた


【10番・切幡寺】

 今回の最初のお参りは、10番・切幡寺だった。バスで寺の下まで行き、そこから坂道を登る。帰りも徒歩で、この往復が今回のちょっと歩きの遍路道の1つだ。寺の標高は155メートルだから、それほどきついわけはない。遍路用品の店や遍路宿、表装の店など、古い建物が並ぶ所を過ぎ、ゆったりとした坂道を歩いた後、最後に333段の石段がある。その石段が、ちょっと厳しい。

 88カ所はうまくできていると思う。1番から歩き始めると、最初は平地で寺と寺との間隔も短い。これは足慣らしの区間なのであろう。切幡寺でお試しの山登りをさせ、12番焼山寺の遍路転がしで試練を与える。それを乗り越えれば、自信がついて、怖いものがなくなる。計算されたようなコース設定だ。

 咲き始めたツルニチニチソウを見て、ウグイスの声を聞きながら緩い坂を登っている時には、やや肌寒いと感じていたのに、石段になると、汗が出てきた。そんな変化せいか、メンバーの1人が調子を崩し、境内にたどり着くと、いすに座り込んでしまった。

 ほかのメンバーはお参りをすませ、1段高い場所にある大塔も見学に行った。重文のどっしりした塔。そばには、まだ苗木のような蜂須賀桜が植えてあり、2〜3輪だけ花をつけていた。ここからの眺めがいい。吉野川と川から広がる平野が、ゆったりとした気分にさせる。


      ↑切幡寺への石段


【ヘンロ小屋・空海庵切幡】

 切幡寺から12番藤井寺に向かうには、吉野川を渡る。吉野川に行くまでに、「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」が建設した休憩所、ヘンロ小屋45号・空海庵切幡がある。バスはその前の道を通るので、参加者にも見学してもらった。

 ここは2階建ての造りになっていて、ソーラーで2階には簡単な照明もついている。参加者の何人かは2階まで上がり、建設に出資した人の名簿などを眺めていた。


      ↑ヘンロ小屋・切幡空海庵を見学


【JA麻植郡ひまわり市】

 トイレ休憩は、道の駅や産直市でとることが多い。女性の参加者は、農産物などの買い物が好きだからだ。藤井寺に行く前にも、JA麻植郡ひまわり市に寄った。ここは野菜もいいが、建物の前で売っている焼き芋が人気を集めている。鳴門金時で、細長くやや貧弱そうに見えるが、1つ100円だからお得感があり、地元の人の中には10本も買っていく人があるという。食べてみると、ほくほくとして甘みがある。


      ↑人気の焼き芋


【11番・藤井寺】

 11番・藤井寺に着いたのは午後3時を回っていた。午後は暖かくなったが、夕方が近づき、少しだけヒンヤリしてきた。寺の山門の前に、ピンクの桜が7分咲き程度に花をつけていた。緋寒桜系の種類かもしれない。藤井寺は山門を入った所の藤棚が象徴になっていて、「五色の藤」と呼ばれている。当然ながら、この時期は枯れ木状態で味気ない。

 本堂にお参りをし、雲竜の天井絵も眺める。天井が低いので、竜が大きく見え、迫力がある。本堂の横には大きな修行大師像が立っている。12番・焼山寺への遍路転がしの難所はここから始まる。

 過去のシリーズでは、12キロ余りの遍路転がしを何度か歩いたが、このシリーズは「ちょっと歩き」なので、組み込んではいない。その代わりとして、遍路転がしの入り口付近にあるミニ88カ所を巡ることにした。コンクリートのほこらに入った石仏が、1番から順番に並んでいる。1周でゆっくり歩いて15分ほど。ミニの33カ所もあり、それも結願寺にあたる石仏に手を合わせた。


      ↑遍路転がしの入り口にあるミニ88カ所


【四季の里】

 宿泊は徳島県神山町の四季の里にした。「のんびり湯ったり編」とうたっているように、ここも温泉の宿。

 ここは4月の初めがいい。前シリーズの逆打ちでも、そうなるように計画を立てていた。ところが、シリーズの途中で中止となってしまい、新しく順打ちスタートさせたため、3月になってしまった。

 神山町は町をあげて、枝垂れ桜を育てている。その見ごろが4月の初めにくる。しかも、四季の里は農業公園の一角にあり、公園にもたくさんの枝垂れ桜がある。かなり名所化してきたが、もう少し木が大きくなれば、神山町は西日本でも有数の桜の名所になるに違いない。

 夕食は1人用のボタン鍋がメーンの料理だった。ほかにエビ、タイ、マグロの刺し身、地元の固い豆腐を使った揚げ豆腐、フキノトウ、ナノハナ、タケノコ、コゴミ、シイタケの天ぷらに先付けとサラダ。

 この日は3月10日で、東日本大震災から6年目の前日に当たった。風呂のサウナの入ると、テレビで震災特集をしていて、そのことを夕食の席で話した。すると、同じ番組を見ていた人もいて、食卓での全体の話題となった。その番組は次のようなものだった。

 主人公は震災発生当時17歳で、現在は23歳の女性だった。8人家族で、彼女以外は犠牲になり、震災孤児となってしまった。被災1月後の取材の際、彼女は2つの決意を語った。「決して泣かない」「管理栄養士になる」だった。2つ目の決意は、震災のしばらく前に母親に語った将来の夢だった。彼女は今、約束を守って、管理栄養士になっている。

 「泣かない」という約束は守れたか、と改めて聞かれ、「それは自分に言い聞かせる言葉だった。実際には涙を流した」と答えた。「震災孤児として特別に見られていたが、悲しいのは私だけではないということを知った」とも語った。

 人はそれぞれの歴史を持っている。ほかの人との違いであり、特色ではある。しかし一方で、それぞれに共通するものがある。彼女の場合は、被災の悲しみであろう。他人の悲しみを自分の悲しみに重ね合うことも多かっただろう。だから、涙を流すこともあったのではないか。そんな話を食卓でした。

 夕食の後は、私の部屋に何人か集まることがある。今回も8人が夕食の時の話の延長戦をした。話題は少し変わったが、また興味深い展開があった。ある男性の昔話がきっかけだった。何度も見合いをした後に結婚したが、新婚当時に腹が立つことがあり、妻を突き飛ばした。それを反省して、今まで妻を大事にしてきたと明かしたのだ。

 それを受けて、ある女性は「私なんか何度も血みどろのけんかをした」と言う。別の女性は「夫は自分勝手で、私は家を出たことはあったが、面と向かってけんかしたことはなかった」と語った。

 3組の夫婦は、全く異なる歴史を刻んだ。しかし、よくけんかした女性は6年間、病気の夫の面倒をみて、送ったという。その間、3時間続けて夫のそばを離れることはなく、どうしても離れなければいけない時は、ヘルパーに頼んだそうだ。けんかをしなかった女性の場合は、夫の死が遍路に行くきっかけになっていた。そう考えると、個性は別々の夫婦ではあるが、伴侶を大事に思っている、あるいは思っていたことは共通しているような気がした。

 翌日の朝食の前、宿の周りの公園を散策した。東屋で、カップラーメンを作って食べている年配の男性がいた。バイク遍路だと分かり、声をかけてみた。広島市の男性で、遍路は3回目だという。お金がないので野宿をしていると話した。

 いつもはテントを張るが、東屋なので寝袋だけで寝た。温度計を持っていて、未明は2度まで下がったとか。テントを張れば、2度くらい暖かくなるが、そうしなかった。寝袋の中で足をこすり合わせていたが、寒くて眠れなかったとこぼしていた。

 男性は「たくさんの仏を背負って回っている」と話した。身近な人が何人かなくなったのであろう。バイクに取り付けたケースの中を見せ、2枚の紙を指さした。1枚は「同行二人」のおなじみの言葉が書いてあった。もう1枚には「一切供養仏」の文字。それを見ると、詳しい事情は聞きづらかった。

 朝食には大きなみそ汁がついていた。名物だという。具だくさんで、それだけでお腹いっぱいになるほどだった。朝食をすませ、全員で公園を歩いてから出発した。


      ↑朝食は大きなみそ汁が特徴


【12番・焼山寺】

 12番・焼山寺へは、途中からマイクロバスに乗り換え、S字カーブの多い道を登る。標高900メートルに近く、まだ午前中だということもあって、気温が低い。

 寺の駐車場の端に、積み上げられた雪が残っていた。参道を歩いていくと、谷を渡ってくる風が冷たい。本堂と大師堂の横にも、雪が少し残っている。今回の1泊2日の遍路で雪を見たのはここだけで、寺が高い場所にあるのが分かる。

 本堂には、本尊と結ぶ白い布が設置してあった。鐘楼の前にはブランコがある。山深い寺には不釣り合いな感じもするが、寺の特徴だと思って写真を撮った。


      ↑本堂の横に雪が残っていた


      ↑鐘楼の前にあるブランコ


【阿川梅の里】

 焼山寺の後は、同じ神山町の大きな梅林を訪ねた。「阿川梅の里」という。

 山間の梅林。1万6000本もの梅の木があり、徳島県内では最大らしい。梅まつりののぼりがたくさん立っているが、交通の便が悪いためか、客は少ない。

 添乗員が事前に連絡していたため、地元の男性が梅林の案内をしてくれた。梅まつりの法被を着た親切な人だった。それも地元の梅・梅干を知ってほしいという思いが現われている。

 満開だった。しかし、よく実がなるようにするには、手入れが大変なのだと、苦労を説明してくれた。緑の葉が散った冬場に、伸びた枝を切る。肥料も一苦労。受粉はミツバチを借りて行う。参加者の1人が、南高梅の粒の大きさを口にした。すると、案内の男性が「その品種自体が大きいのではなく、手入れの仕方、肥料のやり方で大きくなる」と説明した。

 民家が点々としている。男性によると、半数近くが空き家になっている。その家の住人はもっと都会に住み、梅を作るために通ってくる。それが山の中の梅農家の現実なのだろう。

 梅林の見学が終わると、そばの農家の女性が梅干を売っていて、ショウガ湯をお接待してくれた。少し寒かったので、体が温まった。女性は去年のもの、3年、5年、10年ものの梅干を売っていた。迷ったが無難な3年ものを買った。親切にしてもらったお礼のつもりだった。

      ↑地元の男性に梅林を案内してもらった


      ↑ショウガ湯をお接待してもらった


【昼食】

 2日目の昼食は、神山町の「粟カフェ」の玄米キーマカレーとデザートのアイスクリームにした。山の町でカフェは違和感があるかもしれないが、選んだには理由がある。

 神山町は地方の活性化で、全国から注目されている。Iターンで移り住む人が続き、すでに100人を超える。徳島市から案外近いこと、町が積極的に受け入れているなどが理由として挙げられる。「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会が休憩所の建設場所を探すために、神山町へ調査に行ったことがある。事前に町長に協力をお願いしていたら、調査当日は町長自らも場所探しに同行してくれた。そんな親切さが、町全体にあるのではないか。

 栗カフェのオーナーも、6年前に移ってきたという。出身は兵庫県西宮市で、転勤族だったそうだが、そば屋だった店が閉じ、そこでカフェを営むためにIターンで入ってきた。神山町の魅力を聞くと、「ずべてです」という答えが返ってきた。
 アイスクリームは専門家が、神山町産の原料を使うなどして作っている。神山町はスダチの産地で、1番人気はスダチアイス。ポポーという変わったものもある。バナナとマンゴーの中間のような味がする果物で、神山町では昔から栽培していると教えられた。

 小さな店だった。このため、玄関には「本日貸切です」の表示がしてあった。


      ↑玄関には貸切の表示が


【おやすみなし亭】

 次は13番・大日寺だが、その手前に地元の人が作ったお遍路さんのための休憩所「おやすみなし亭」がある。私たちの「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」で建設している休憩所はほぼ吹き曝しだが、ここは小さな家になっている。

 休憩所に入ると、外国から来た男性遍路2人がいすに座っていた。カタコトの英語で話すと、フランスからの遍路だった。ニコニコ笑って、やはりカタコトの英語で答えてくれた。大阪にも2泊し、オオサカ・キャッスルにも行ったらしい。

 備え付けのケースの中から、お接待のミカンをいただこうとしていると、地元の人も入ってきた。手にしたミカンを見て、「いくらでも持っていきなさい」と言って、建物の外に連れて行ってくれた。そこには、ミカン、ハッサク、ポンカンの3種類が段ボール箱にたくさん入っていた。言葉に甘えて、メンバー分以上ものをもいただいた。


      ↑おやすみなし亭で小さな国際交流


【13番・大日寺】

 大日寺はおやすみなし亭からバスで2分ほど。狭い境内だが、ほかの遍路グループも参拝していて、結構人が多く感じる。そのグループとは、お互いに邪魔にならないように配慮しながら、般若心経をあげた。

 本堂は工事中だった。境内には子どもをたくさん連れた地蔵、両手を合わせた中に安置されているしあわせ観音などがある。シキビが花をつけていたのも印象に残った。


      ↑たくさんの子どもを見守る地蔵


【14番・常楽寺】

 大日寺から15番・国分寺までは、今回の最後の「ちょっと歩き」。暖かくなってきて、歩きやすい。スミレ、ホトケノザ、ナズナ、ウスイエンドウ、カラスノエンドウと言った花を眺め、春本番が近いことを実感する。


      ↑常楽寺への遍路道

 常楽寺が運営する養護施設の前を通る。毎日新聞旅行で私が初めて先達を務めた際のメンバーで、その後もよく出会う遍路仲間の男性がいる。その人は大先達の資格をもらうほど何度も遍路を重ね、常楽寺に参るたびにこの養護施設に寄り、寄付金を置いてくるそうだ。

 常楽寺は阿波の青石の上に立つ寺で、参拝客であふれていた。遍路の春が始まっている。

 ここでも外国人遍路に出会った。小さな子どものいる家族連れで、オランダ人だという。抱かれている子どもはハイタッチが好きなようで、私たちのメンバーと入れ替わり手を合わせた。

      ↑常楽寺は参拝客が多かった


【15番・国分寺】

 常楽寺から国分寺までは10分足らず。寺が混雑しているためか、逆打ちで歩いている団体がいくつもあった。おもしろいことに、知り合いの先達2人に出会った。歩いていても、春の遍路シーズン到来をまた実感した。

 国分寺に着くと、先ほどのオランダ人家族がいた。車で先に着いたのだろう。紙でヘリコプターを作って子どもに渡し、小さな国際交流をした。

 国分寺もお遍路さんが多かった。本堂は修理中で、別の堂が借り本堂になっていた。そのせいか、普段は有料の本堂裏の庭園を無料で見せていた。石をたくさん使った枯山水の庭で、少し荒々しい水墨画のような風情がある。

 今回の遍路はここで打ち止め。いくつもの出会いに感謝し、大阪に向かった。出発時は寒く、帰阪時は暖かい。1泊2日の間に春はさらに近づいた。


      ↑国分寺の庭園



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   ◆第3回(16番・観音寺〜20番・鶴林寺)
     =2017年4月7日〜8日


【淡路島サービスエリア】

  四国遍路「ちょっと歩きシリーズ」の「のんびり・湯ったり編」の第3回は、とても幸運な2日間だった。それは参加者11人全員の思いだったと思う。

 まずは、ほとんどと言っていいほど、雨が降らなかったこと。事前の天気予報はころころ変わったが、おおむね5日〜9日は雨マークだった。予報がはずれたうえ、桜のとてもいい2日間だったのだ。

 午前6時すぎに自宅を出た。雨が降っていた。普通の長い傘にするか、折りたたみにするか、迷うところだった。リュックサックとずだ袋を下げ、金剛杖を手にしているので、できるなら持ち運びやすい折りたたみにしたい。ただし、雨が強かったり、風がきつかったりしたら、折りたたみでは役にたたない。結局、天気が快方に向かうことを期待して、折りたたみにした。

 出発点の大阪市・西梅田の毎日新聞社前に着いた時には、雨がやんでいた。その代わり、桜の花びらが雨で散り、道路を埋めていた。メンバーの中に自称「晴れ女」がいて、みんなが「気象台長」とあだ名をつけていた。前回は不参加だったが、今回は参加し、「私が来たから、もう雨は大丈夫」とおどけて言い、何となく安心した気になった。

 明石海峡大橋を渡り、淡路島に入ってすぐにサービスエリアで休憩した。その間に、土産物を見ていると、びっくりするようなレトルトカレーを見つけた。神戸牛ステーキカレーと名づけてあって、値段は何と5400円。ひとしきりバスの中での話題となった。淡路島の高速道路の横の山は桜が満開だった。車窓から桜を眺めるのも、良い時間の過ごし方となった。

 


      ↑毎日新聞の近くの桜は雨に打たれて花びらを散らしていた


【阿波十郎兵衛屋敷】

 四国を知ってもらう今回の企画の1つは、人形浄瑠璃だった。徳島市の阿波十郎兵衛屋敷で毎日簡単な公演をしていて、行程の関係でまずそれを観覧に行った。1回目の公演は午前11時からだったが、10時40分ごろ到着した。そこで公演まで、人形の展示を見ることにした。案内役がいて、阿波では木偶(でく)を「でこ」と呼ぶこと、人形の目などを動かす装置のばねにはクジラのひげが使われていることなどを教えてもらった。

 阿波の人形浄瑠璃は農村舞台で演じるため、大阪の文楽に比べると、人形が大きい。男の人形は両方の目とまゆと口の5か所が動く。女の人形のほとんどは、目と口の3カ所。なじみ深い演目の傾城阿波鳴門のお弓の人形は3キロ、お鶴は1.5キロ。徳島には農村舞台が90カ所も残っている。そんな知識も得てから、公演を見た。

 演目は当然ながら傾城阿波鳴門で、巡礼お鶴が母親のお弓に出会う段。「ととさまの名は、阿波の十郎兵衛と申します」の台詞で知られる。物語の中では、十郎兵衛は盗賊というこになっていて、お鶴を祖母に預けて阿波から逃れてきていた。お鶴は母を探して西国巡礼をしている。お弓はお鶴に、自分が母親だと名乗りたいが、それでは娘に災いがふりかかると考え、名乗らずに別れるという筋書き。30分たらずの公演時間だが、ハンカチで目を抑える女性の後ろ姿が見え、この演目の人気の度合いを再確認した。

 施設は板東十郎兵衛の屋敷跡を使っている。この十郎兵衛は、他藩からの輸入米のトラブルで責任を取らされ処刑された。阿波十郎兵衛のモデルになっている。公演の後、みんなで人形と一緒に記念撮影をした。


      ↑お弓とお鶴


      ↑人形と一緒に記念撮影


【昼食】

 昼食も徳島ならではのものにした。徳島ラーメンの店「巽屋」で、肉玉ラーメンとライス。ラーメン・ライスを取り入れているツアーは、ほかにはないだろうという変な自信がある。しかし、徳島のソウルフードの1つだと思い、冒険だとは思いながらも選んだ。

 徳島ラーメンの最大の特徴は、チャーシューの代わりに、甘辛く煮た薄切りの豚肉を使用していることだ。巽屋のものはスープの色が濃くて、焦げ茶色をしている。色の印象ほどの濃い味付けではなく、ついついたくさん飲みたくなる。参加者から「おいしい」とも「まずい」とも聞かなかったので、「まずまずだった」と勝手に都合のいい解釈にした。


      ↑巽屋のラーメン


【16番・観音寺】

 最初のお参りは16番・観音寺だった。雲は厚いが、幸いなことに雨は降っていない。住宅地の狭い道に面して、寺はある。山門は2層の造りで、どっしりとしている。黒ずんできているので、なおさら重量感を見せる。

 境内は狭い。本堂のすぐ前の左側に、仏足石が設置してある。こんなに堂に近い場所に設置しているのは、珍しいような気がする。右側には子どもを4人を従えた地蔵の石像。さらに大師堂の横には、夜泣きを治す地蔵がある。その横には石板、百度石、石仏と、石の造作が目立つ寺だ。


      ↑本堂のすぐそばに仏足石


【17番・井戸寺】

 バスで移動したので、17番・井戸寺まではすぐ。ここの山門も大きい。柱は朱で塗られ、仁王像を囲む柵は緑色。観音寺の門とは随分と違う。

 本尊は7体の薬師如来。中央の1体が金色の体で、両側の6体は体の一部が黒く塗られている。本堂でお守りなどを売っている女性が、話をしてくれた。1968年に寺は火災に遭い、中央に据えられた薬師如来は運び出したのだという。その際、胸の部分にほのかに影のような灰色がついてしまった。じっと目を向けていると、その影は菅笠をかぶって歩いている空海に見えてくる、という。そう言われれば、そう見えなくもないので不思議だ。

 その女性は、本堂の中で般若心経を唱えるように勧めてくれた。そういえば、毎回のようにそんな言葉をかけてくれたような気がする。

 寺の名前からも分かるように、空海が掘ったとされる井戸がある。上からのぞいて、自分の姿が水に写って見えれば、部病息災だと伝えられている。しかし、井戸の中は暗く、そして深いので、よく見えない。「見えない」「見えた」と、参加者が順番にのぞき込んでは、ワイワイと話していた。

 境内の刈り込まれた木がオブジェのようで面白い。寺のそばには菜の花の畑があって、山門と組み合わせると、春の札所の写真が撮れる。寺の隣の神社は桜に包まれていて、春の明るさを演出していた。


      ↑オブジェのような刈り込み


      ↑菜の花と山門


【18番・恩山寺】

 18番・恩山寺の参道は、桜の道だった。しかも、満開。曇ってはいるが、気温も上がってきた。春の浮き浮きした気持ちで、本堂への坂を登る。境内に入る手前に、大きな空海の像が立っている。その周りも満開の桜だった。

 境内に入ると、今度は小さな子どもが足にあしにじゃれついているような地蔵菩薩のブロンズ像があった。子ども1人は左手で抱いている。観音寺の石像とよく似た形だった。


      ↑桜に包まれた空海像


【19番・立江寺】

 恩山寺から弦巻峠を越えていくのが、初日の「ちょっと歩き」だった。屋島の戦いに向かう源義経の軍勢が通ったと伝えられる道。低い峠なのだが、竹林の道の雰囲気が良く、心地良い遍路道だ。レンゲ、黄ケマンといった花が春らしい色を見せている。「義経ドリームロード」と名づけれられているのだが、この名前はどうもピンと来ない。

 パラパラと雨が降ってきた。そこで峠から下りて、しばらく歩いてから、バスを呼んだ。ただ、雨といっても、傘をさす必要のないくらいのもので、天気はよく持ちこたえてくれる。

 19番・立江寺に着く。山門のそばに枝垂れ桜。これも満開。しかし、ここの花の主役は、本堂の前のリキュウバイだった。白い可憐な花を木一杯につけていた。

 本堂にお参りをして、天井絵ものぞき込んで見る。大師堂に参った後は、お京さんの髪の毛なるものを見た。お京さんは不義を働いていたため、立江寺に参ると、髪の毛が鐘の緒に巻きついた。そこで立江寺で剃髪したという、ちょっと怖いような話が伝わっている。怖いもの見たさで、不気味な髪の毛を順番にのぞき込む。

 再び雨がパラついた。しかし、バスに乗り込む寸前のこと。後は宿に向かうだけ。運がいい。


      ↑弦巻坂の遍路道


      ↑満開のリキュウバイ


【月ヶ谷温泉・月の宿】

 宿泊は徳島県上勝町の月ヶ谷温泉・月の宿。この遍路の特徴の1つは、疲れを癒すため、できる限り温泉に泊まることにしている。今回も温泉だった。このシリーズで温泉でないのは、愛媛県宇和島市と高野山の宿だけなので、「のんびり・湯ったり編」と名づけている。

 上勝町は山間地の町だ。宿に向かう途中、ほのかなピンクに染まる桜や紅枝垂れ、赤やピンク、白の花モモなどが、のどかな山里を彩っていた。宿は勝浦川に面している。建物の周りにも、対岸にも桜があふれていた。

 夕食は地のものがたくさん使ってあった。食前酒はヤマモモのワイン。前菜にはカブラや菜の花、つくりにはアメゴ(徳島ではアマゴをアメゴと言う)やマスにコンニャク。アメゴの塩焼き、ボタン鍋、ニジマスのカルパッチョ、ソバ米汁、番茶ゼリー。徹底している。地元のものを食べてもらうという遍路旅の狙いにピッタリだった。

 日本酒を注文すると、薦めてくれたのが、「上勝の棚田米と湧き水と負けん気でこっしゃえた純米吟醸原酒」だった。ラベルを見て、名前の長さに驚いた。また、販売元が高鉾建設酒販事業部となっていて、さらに驚いた。

 上勝町は山の中の町だが、注目を集めている。料理に添えるモミジの葉や花などの「葉っぱビジネス」で有名になった。担い手はおじいちゃん、おばあちゃんで、そんな年配者がパソコンを使いながら事業を展開し、元気な姿がテレビで紹介されたり、映画になったりもした。株式会社組織にしていて、その事務所が宿の一角にある。そんな元気さの延長線上に、この酒もあるのかもしれない。

 夜の間に少し雨が降ったらしい。朝起きると、宿の前の地面が濡れていた。しかし、すでに上がっている。そのまま1日持ったのだから、うれしい限り。


      ↑月の宿の夕食


      ↑宿の周辺の桜も満開


【別格3番・慈眼寺】

 2日目はまず、別格3番・慈眼寺へ。ここが今回のハイライトといいってもいい。別格はこのシリーズからは外れているが、ここだけは組み込むことにした。穴禅定(あなぜんじょう)という、ほかにはない修行の場があり、過去のシリーズの参加者が1番印象に残る場所として挙げるからだ。

 月の宿からさらに山を登っていく。桜、レンギョウ、ユキヤナギ、菜の花、花モモといった花が咲き乱れ、春は満開。やがて本格的に山道に登り、空気感が変わっていき、山の寺の大師堂に着く。

 ここで、穴禅定に入るための準備をする。穴禅定は鍾乳洞で、修行の場とされている。中が極端に狭いからだ。長さ150メートルほどの通路を進み、突き当りの少し開けた場所に安置されている大師像に般若心経を唱えて、また同じ道を引き返してくる。

 大したことはないと思う人がいるかもしれないが。しかし問題は、通路があまりにも狭いことだ。このため、先達の女性の指示通りにしないと、体のいろいろな部分が引っかかって前に進めない。中は真っ暗で、それぞれろうそくを手にして進む。

 修行のための白衣を寺から借りる。岩壁ですれて汚れてもいいようにするためでもある。白衣は上着なので、100ショップで買ってきた雨具のズボンを、普通のズボンの上に重ねてはく。これも汚れ防止策。

 続いて2枚平行して立ててある石板の間を通る。その間隔は25センチほど。通り抜けることができないと、穴禅定には入れてもらえない。それほど中は狭い。しかも石板のように平板ではなく、凸凹している。幅の広い部分を探しながら、体をねじり、しゃがみ、寝そべり、体を岩にすりながら少しずつ進んでいく。先達の指示で左から入らなければいけない個所を、間違って右から入ると、その部分を抜けられない。進行方向に向かって右側の岩壁が突起にように張り出していて、そこに腹を当てれば腹はへこむが、反対に入って背中を当ててもへこまないことがある。そんな難所がいくつもあるからだ。

 私はこれまで5回穴禅定に入っているが、今回は取り止めた。腰の具合が悪かったためだ。もし痛みが出れば、難所を通り抜けられないし、自分だけでなくほかの人も洞窟に閉じ込めてしまう恐れがあり、安全策を取った。

 大師堂から急な坂の山道を登っていく。これが2日目の「ちょっと歩き」だが、結構しんどい。道の端に石仏が並んでいて、手を合わせながら歩く。幸い雨は免れたが、気温が上がっていき、汗をかいた。10分あまりで本堂に着くが、ぜいぜいする。全員で本堂にお参りした後、穴禅定に入るグループと残るグループに分かれた。

 穴禅定組は岩場を登っていく。夜の雨で濡れていて、滑って危ない。先頭の先達が「左の手すりを持って」「両側の手すりを持って」「石の上には登らない」などと次々と後の人に指示を与え、それを伝言ゲーム方式で伝えていく。それは穴な中でも同様で、そうしないと後に続く人が動けない。残留組の中で私だけが岩場を登り、穴禅定の入り口で送った。

 それから1時間10分。入洞組が下りてきた。普通よりも少し時間がかかった。中で苦労した人がいるのだろう。男性の1人の顔を見ると、ほおにすり傷があり、白衣にも血がついている。声をかけると、「生きた心地がしなかった」の一言。落ち着いてから、ひざやひじがあざだらけになっていると明かしてくれた。

 もう1人の男性は100円ショップのズボンがビリビリ。「引き返したかったが、それもできないし」が第一声。きっと穴禅定は忘れられない場所になることだろう。


      ↑慈眼寺の本堂


      ↑穴禅定まで登っていく入洞組


      ↑先達の説明を聞く


【灌頂ヶ滝】

 山を下りる途中、灌頂ヶ滝(かんじょうがたき)に少しだけ寄った。高さ80メートルもある。しかし、水量が少なく、流れ落ちる途中で霧散し、その風情が良い。途中まで石段で登っていくと、上がるほどに水がはっきり見えてくる。

 ただし今回は極端に水量が少ない。目を凝らしても、1番上の流れ落ちる部分にかすかに水が見える程度。これでは石段を登っても、あまり変わらないので、早々に滝を後にした。
 焼山寺の後は、同じ神山町の大きな梅林を訪ねた。「阿川梅の里」という。

 山間の梅林。1万6000本もの梅の木があり、徳島県内では最大らしい。梅まつりののぼりがたくさん立っているが、交通の便が悪いためか、客は少ない。


      ↑水が極端に少なかった灌頂ヶ滝


【淵神の塔】

 上勝町は現代アートによる町おこしをしている。「里山の彩生」と名づけ、作家と地域住民の共同作業で、野外アートを作り、それをずっと展示している。灌頂ヶ滝を下りて山里に入る直前に、國安孝昌氏の作品「淵神の塔」があり、バスを止めた。

 すぐ近くに、「おん淵」「めん淵」という川の流れがある。作品は水の神、竜神を造形化している。作品は木材を組み合わせ、竜神が家のようなものに巻き付いているように見える。スケールも大きく。訴える力がある。作品は風雨にさらされ色を失っている。しかし、すぐそばに緋寒桜のような赤い桜の木が花をつけていて、春の明るさを添えていた。


      ↑淵神の塔


【昼食】

 勝浦町まで下りて、昼食は「ふれあいの里さかもと」でとった。穴禅定をコースに組み込んだ場合のお決まりの場所だ。「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会とも縁が深い。

 到着すると、ふれあいの里のメンバーが2人、入り口で出迎えてくれた。人懐っこい笑顔で、気取らないもてなしが、ここの特徴でもある。遍路道からかなり離れているが、送り迎えをしてくれる親切さもあって、お遍路さんの宿泊も増えている。

 廃校になった小学校を活用した山あいの宿泊施設で、地域の人たちが町おこしで運営している。その日のメニューはばらずしのセットだった。

 勝浦町は規模の大きなひな祭りで知られる。ばらずしはひな祭りにちなんだものであろう。シイタケ、タケノコ、レンコン、ニンジン、キヌサヤのほか、サトイモと金時豆が使ってあり、金糸玉子と紅ショウガで飾ってあった。ほかに、コンニャクの刺し身、山菜などの天ぷら、酢の物、特産のミカンを練り込んだそうめんのおつゆ、デザート。天ぷらには、タラノメではなく、タラの葉を使っているのが新鮮だった。山里の春の喜びが詰まった昼ご飯に思えた。


      ↑ばらずしのランチセット


【20番・鶴林寺】

 ふれあいの里さかもとの周辺も桜の木が何本もあり、いずれも満開だった。大きな枝垂れ桜の木の前では、わざわざバスを止めて写真を撮った。しかし、もう少し下った場所にある東とくしま農協よってネ市・道のえきひなの里かつうらの周辺で、「かつうら桜祭り」をしていたので、寄り道をすることにした。そこは20鶴林寺への登り口だが、お参りをすました後で桜を見ることにした。

 鶴林寺は標高550メートルの場所にあり、ミカン畑をバスで登っていく。寺に近づくと、霧が出てきた。山門をくぐると、境内は霧の世界だった。コケが美しいが、もともと湿気の強い場所なのだろう。

 霧に包まれて本堂にお参りした。三重塔が少しぼやけて見える。パラッと雨がきたが、瞬間的で助かった。


      ↑霧に包まれた鶴林寺


【勝浦さくら祭り】

 バスで下りていき、大きな道に出る直前、勝浦川の支流、生名谷川にぶつかる。その堤防の道がさくら祭りの会場で、スタート地点だった。幅の狭い川で、そのために両岸の桜並木が枝を張って川の上にせり出し、桜の天井を持った川になっている。桜並木は700〜800メートルあるのではないか。

 ここも満開だった。川をせき止めて、観桜船を出している。アメゴ釣りを子どもたちが楽しんでいる。人は出ているが、混雑しているわけではない。地域のさくら祭りののどかさがあった。最後までは歩かず、コースの3分の2地点にあるよってネ市まで歩き、買い物をしてバスに乗った。


      ↑勝浦さくら祭り


【弁天山】

 大阪に帰る途中、道筋近くの2カ所に寄った。1つは徳島市の弁天山。日本1低い自然の山とされている。国土地理院の定めた山の三角点のうち、自然にできている山としては1番低い。標高は6.1メートル。大阪の天保山は4.52メートルでもっと低いが、これは安治川の浚渫(しゅんせつ)土を積み上げた人工の山。

 赤い鳥居をくぐって登る。時間にして10秒あまり。頂上には小さなほこらがある。扉が開くようになっていて、中に記帳するノートが置いてあった。その壁には、ノートのあるページが掲示してある。福山雅治が参拝したらしく、掲示してあったページには福山の名前と写真が張ってあった。

 一行が登山をしている間に、添乗員さんが登山証明書をもらってきてくれた。証明書はすぐ近くのラーメン屋でもらえる。証明書は弁天山保存会の発行で、名前と日付は本人が書くことになっていた。


      ↑日本1低い自然の山・弁天山


      ↑弁天山の登山証明書


【北島町チューリップ公園】

 寄り道のもう1つは、北島町チューリップ公園だった。以前に1度、訪ねたことがある。春らしい場所なので、今回も遍路旅の最後に取り入れた。

 到着すると、どうも様子が違う。規模が以前の3分の1程度に縮小されていた。公園の周囲の道から見ることはできるのだが、中には入れない。張り紙があって、園内がぬかるんでいるので、休園にしたと書いてあった。奇跡的に雨を免れた遍路旅だと喜んでいたのだが、事前の雨の影響がこんな風に現れるとは、何とも皮肉な締めくくりだった。



      ↑規模は縮小さてていたが、見ごろではあった



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◆梶川伸とゆく「ちょっと歩き四国遍路・のんびり湯たり編」第4回
 
●日時=2017年5月26日(金)〜27日(土)

●参拝札所=21番・太龍寺〜26番・金剛頂寺
●費用=37800円
●内容=21番・太龍寺へはロープウェイで上り、車内からの眺めは最高。空海が修行をしたと伝えられる岩も見ることができます。遍路の途中、猫をまつったお松大権現にも参拝します。宿は海を見下ろす小高い場所に立ち、朝日も見もの。2日目は高知県・室戸岬を歩き、岬の上に立つ標24番・最御崎寺にも参ります。天気が良ければ雄大な海を見下ろす道をゆっくりと下りていきます。昼食は人気の金目丼です。
●申し込み・問い合わせ=毎日新聞旅行06−6346−8800