【22番・平等寺】
遍路を再開して、22番・平等寺へ。ここは花を上手にあしらっている。手水には季節の花を浮かべている。今回はアジサイの花と、青モミジの葉。何とも涼やかだ。本堂に左前には、花を供えるボックスがある。中には供花が並んでいる。
この寺には、1人のノンフィクション作家との強烈な思い出がある。
私が初めて遍路をしたのは、1995年12月だった。そのしばらく前に、ノンフィクション作家の柳原和子さんと酒を飲んだのがきっかけだった。柳原さんは私よりも確か1歳年下だった。若い時に歩き遍路をして、とても印象に残ったと話した。その話に感化され、遍路に始めることを決めた。
50歳の直前で人生の節目を迎えていたこと、その年の1月に阪神大震災があって、おびただしい死の取材をしたことなど、後から考えれば、遍路を志す下地はあった。しかし、引き金は柳原さんの言葉だった。
彼女とは仲間でよく遊んだし、医療過誤の問題を取材するといういう意味では、立場は違うが共通の土壌にいた。やがて彼女はがんを発症した。卵管がんという特異な部位にできたがんで、京大病院で手術したが、京大病院では2例目だったそうだ。
がん発生時、私は転勤で大阪から高松に移っていた。抗がん剤で食べ物がのどを通らないと聞き、「うどんならば」と考えて、月に1回の割合で讃岐うどんを送っていた。
再び大阪勤務になると、彼女のがんは一段落していて、仲間とともにまた楽しい時間を過ごすようになった。
がんを患ってから、彼女はテーマをがんに絞って取材、執筆活動を続けた。「がん患者学」という患者側から見たがんの専門書を書き上げた。分厚い本だったが、東京の紀伊国屋で一時期、売れ行きのベスト20に入るほど評判になった。
彼女の結論の1つは、「がんは環境の変化に弱い」というものだった。がんが巣くっているということは、自分の体ががんにとって都合のいい環境にあるからで、都合の悪い環境に変えてしまえば、がんは退散するという考えだった。
彼女は自分の結論を実践し、それまでの生活をガラリと変えた。代替医療にも強い関心を示し、できることは何でもやった。自宅から近かった京都・南禅寺に行っては寝そべって、その場の気を体に入れた。巨木に抱き着いて、その生命力を得ようとした。
NHKががんをテーマにしたキャンペーンを繰り広げた年があったが、彼女も番組作りの裏にいた。他人のことを書いてきたノンフィクション作家が自分を対象にノンフィクションを書き、自分をテレビにさらしていた。
しかし、がんは容赦なかった。がんが転移し、東京のホスピスに入院した。彼女は覚悟をしたのだろう、親しくした人を集めた会を自ら催した。ちょうどその日は、毎日新聞旅行の先達で四国へ行き、参加できなかった。
大阪に帰ってきてすぐ、チケットの安売り屋で東京までの往復の新幹線の切符を買い、「会には遅れたが、今から会いに行くと」と告げた。ところが彼女はかたくなに断った。「大阪で濃密な時間を過ごしたから」というのが理由だった。やむをえず、東京への切符を売りに行った。
ややあって、私は歩き遍路に出た。平等寺に参拝した際、本尊の薬師如来のお札をもらおうと考えた。ところが、ホスピスということがふと頭をよぎり、なぜかお札をもらうのをやめてしまった。平等寺を後にして20分ほどたった時、彼女がさっき亡くなった、という電話が入った。
何ということだろう。お札をもらわなかった時間帯っではないか。がく然として、大阪に帰ろうかとも考えたが、追悼の遍路に切り替えて歩いた。
そんな思い出も、バスの中で語った。すると、新しく参加した人は柳原和子ファンだった。「がん患者学」も読み、彼女の出ているテレビ番組も見ていた。これも出会いの不思議さだと感じた。
↑平等寺の手水
【23番・薬王寺】
1日目の最後の参拝は、阿波の国の最後の札所、23番・薬王寺で、到着したのは午後4時半だった。本堂に登ると、寺の人が片付けを始めていた。
夕方が近づいても暑いが、海からの風が心地よい。クスノキの巨木を見上げた後、境内の1番上まで行って、海を見る。亀のような岩が見えていた。
↑薬王寺境内のクスノキの巨木
【宿】
宿は徳島県海陽町の遊遊NASA。地区名が「なさ」で、アメリカ航空宇宙局のNASAの同じ音なのに目をつけ、遊び心でアルファベットにしたらしい。小高い場所にあり、海を見下ろす。
昼食は地元の食材が少なかったが、夕食は地元の海産物が豊富だった。刺し身こそタイ、マグろ、ハマチと一般的だったが、カツオのたたきがあり、サワラとそうめんのふしの部分の酢の物もあった。シラウのこうじ和え、大アサリの焼き物も用意されていた。しかし、1番はウツボのから揚げ。大阪ではあまり食べることがないので、ちゅうちょする参加者もいた。
以前、高知市のひろめ市場で昼食をとったことがある。屋台村のような施設で、たくさんの店が入っていて、そこで買ったものを、テーブルといすが並んでいる場所に持って行って食べる。私はお薦めとして、ウツボのたたきを挙げたが、食べたのは1組2人だけだった。
翌朝、日の出を見た。部屋からでは小さな山が邪魔をする。そこで宿を出て、山が邪魔にならない所まで5分歩いた。天気がよく、太陽が上がってくるのを写真に収めた。すがすがしい朝だった。
バスに乗る前に、ロビーの一角に設けられたオオウナギの展示場をのぞいた。オオウナギは同じ海陽町の母川に生息する。ウナギと名がついていて、形も似てはいるが、ウナギとは別の種類らしい。ともかく大きくい。水槽には太い管が沈んでいている。オオウナギはその管に頭を突っ込み、片方の口から少し顔を出し、別の口から尾の方の半分以上を出しているから驚く。
↑NASAの夕食。右上がウツボのから揚げ
↑朝日を写真に収めた
↑NASAに<展示されていたオオウナギBR>
【室戸岬】
室戸岬に向けてバスを走らせる。海の色が青くて気持ちがいい。
まず御厨洞(みくろど)へ寄った。空海がこの洞窟で虚空蔵求聞持法の修行をし、口の中に明星が飛び込んだとの逸話が残る。
残念ながら、今は閉鎖中。帰りに寄った室戸市世界ジオパークセンターの職員に理由を聞くことになるが。次のようなことだった。
洞窟の中で野宿をしている人がいた。そのそばに、大きな石が落ちてきた。修理をしたが、水がしたたり落ちて止まらず、閉鎖することになった。再開のめどはついていない。
↑御厨洞は閉鎖中だった
そこから室戸岬を1キロあまり歩く。堤防の海側の遊歩道ができている。黒い大きな岩が荒々しい景観をつくり、小さな岩もゴロゴロとあり、それらを見物しながら行く。ここも海の青さが際立ち、奇岩との対比を楽しむことができた。
一方、岬を見ると、一面の緑が青い空に向かって伸び、一面の青を切り取っている。岩にからみついたアコウ、黄色い花をつけたサボテン、ハマダイコンの薄紫の花、ウバメガシの緑の密集。見どころの多い散策だった。海岸から道路に戻ってバスと合流するが、道路に出る細い道の正面に中岡慎太郎の像が立っていて、私たちを迎えてくれた。
↑室戸岬のエボシ岩
【24番・最御住】
土佐は「修行の道場」とされる。最初の札所は24番・最御住だが、天気がいいので、参拝の前に、山門から近い室戸岬の灯台に寄った。岬の先端の高い場所にあるので、ウグイスの鳴き声が下から聞こえる。真っ白な灯台。海は青いが、やや緑も帯び、透明感が帯びて果てしなく広がる。気分がスカッとしてから寺に戻った。
↑室戸岬の灯台
暑くなってきたが、風があるので心地よい。境内に大きな鐘石がある。へこみがあって、小さな石が置いてある。その小石の方で、大きい石をたたくと、キーンと澄んだ音がする。
大師堂には結縁の紐がついていて、堂の中に安置されている大師像につながっている。紐に手をふれ、大師との縁を結ぶ。
↑境内の鐘石
バスで登った坂を、途中まで歩いて下っていく。海の眺めがいいからだ。この道は26番・金剛頂寺があるある岬の方面、つまり室戸岬の西側の海が見渡せる。ゆったりと歩いていくと、赤いハイビスカスの花が咲き始めていた。
↑最御崎寺からの下り道で見る室戸の海
【26番・金剛頂寺】
昼食時間の調整で、札所は1つ飛ばして26番・金剛頂寺からお参りをした。最御崎寺と同じように、岬の上にある。狭い山道をバスで登っていく。そんな札所がいくつかある。20番・鶴林寺、32番禅師峰寺もそうだ。バスは上り下りの際、寺務所と電話で連絡をとり、坂をほかのバスが走っていないことを確かめる。今回もそうで、寺務所からは「参拝中の団体がいる」との回答だった。しかし、参拝が終わるまでに寺に到着すると判断して、そのまま走らせた。
金剛頂寺には、「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会が大変お世話になった。お遍路さんの休憩所「ヘンロ小屋」を建設するための用地に関する情報があれば教えてほしいという文書を、各札所寺院に郵送した。ありがたいことに金剛頂寺が反応してくれて、寺と関係の深いNPO法人「室戸を元気にする会」の樽本善一理事長に連絡してくれた。元気にする会は、室戸市世界ジオパークセンターの花壇の手入れをするとともに、お遍路さんにお接待をしている。そのための東屋が、センターの駐車場にほしいと思っていたそうで、建設については市長のOKも取り付けていた。元気にする会と支援する会の思いが一致し、ヘンロ小屋建設計画が進むことになった。
4月16日にはプロジェクトの主宰者の歌一洋さんや支援する会の役員が現地に出向き、建設のための食料や調査をするとともに、樽本理事長らと打ち合わせをした。私は所用があり参加できなかったが、打ち合わせの結果、夏までには仕上げることになった。現在は建設資金の援助を呼び掛けている(連絡は「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会事務局(06-6264-2150)。
ご縁をいただいた寺なので、先達を離れて個人的に、感謝の気持ちを込めて般若心経を唱えた。境内には鯨の慰霊碑があった。捕鯨が盛んな土地柄を証明するものだ。天気はますます良くなり、暑くなってきた。バスの駐車場に小さな店があり、高知名物のアイスクリンを食べる人もいた。
↑金剛頂寺の境内にある鯨の慰霊碑
【昼食】
昼食は35番・津照寺(しんしょうじ)に近い「花月」という店だった。いつも私とコンビを組んでくれている添乗員が見つけた店だった。古い料亭で、2階建てだがそれほど広くはない。
メニューはキンメ丼。室戸は西日本では有数のキンメダイの漁獲量を誇る。それを丼にして、町おこしをしている。店は全部で10軒。それぞれオリジナリティーがあるが、値段は共通で1500円だった。
当初は別の店の海鮮丼を考えのだが、添乗員がしきりと薦めるので変更した。よほど、花月のキンメ丼が気に入ったのだろう。
2階の座敷に座って丼を食べた。キンメの切り身の照り焼きが6つ。それが丼の半分を占めている。ご飯との間には、金糸玉子と大葉。残り半分は刺し身で、皮をあぶったキンメが2切れ、それにタイとカンパチが2切れずつ。キンメの吸い物と漬け物がセットになっていた。
まず、刺し身の方を食べてみる。新鮮なのだろ、歯ごたえがある。続いて照り焼きだが、脂がのっている。あまり濃い味にしていないので、食べやすい。やがてキンメでとっただしが運ばれてきて、最後はお茶漬けで食べる。名古屋のウナギのひつまぶしにヒントを得ているかもしれない。店の人に聞くと、丼は5年ほど前からだそうだ。キンメにしては安いので、人気が出るに違いない。
↑花月のキンメ丼
【25番・津照寺】
津照寺へは花月から歩いて1分ほどで着く。山門をくぐってすぐに石段を登る。幅は狭く、角度は急で真っ直ぐに天を目指すように見える。途中に鐘楼があり、中門のようになっている。
本堂でお参りをし、大師堂は石段をまた下りた所にある。ここも大師像とを結ぶ紐がつけてあった。夫婦と子ども2人のお遍路さんが、一足先にお参りをすませていた。お揃いの輪袈裟をし、手元を見ると、金剛杖を持つ部分のカバーもお揃いで、これはきっとお母さんの手作りだろう。「お揃いですね」と声をかけると、お母さんが「はい」と答えた。
堂の横には、小学生が描いた寺の絵がたくさん張ってあった。ほとんどは石段の光景。津照寺はやはり、石段が象徴なのであろう。
↑津照寺の石段
【アクアファーム】
津照寺からは帰りの行程になる。とはいえ、せっかく室戸まで行ったので、休憩以外に2カ所に寄ることにした。まず、室戸市アクアファーム。室戸市は海洋深層水をくみ上げて給水、製品化している。その取水施設にあるPR館のようなもの。見学者は私たちだけで、たった1人の職員が説明してくれた。水槽があって魚が泳いでいたが、これは海洋深層水をくみ上げる時に、一緒に上がってきたのだという。
↑アクアファームを見学
【室戸市世界ジオパークセンター】
今回の遍路旅の最後の見学は、室戸市世界ジオパークセンターだった。旧室戸東中学校を改装した施設。室戸のジオパークに関するインフォメーションや、ビジターセンター、各種の展示を兼ね備えた施設になっている。展示は「大地との共生ゾーン」「大地と歴史文化ゾーン」「大地のいとなみゾーン」などに分かれ、大型スクリーンの「ジオシアターゾーン」もある。
滞在時間は少なかったが、参加者には展示を少しを見てもらった。私はヘンロ小屋建設の打ち合わせの時に参加できなかったので、現地を見ておくこと、そして職員にあいさつをするのが目的だった。
大阪へは徳島県美波町の道の駅ひわさ、淡路島ハイウェイオアシスを経由して帰った。梅田に着いたのは午後7時だった。
↑室戸市ジオパークセンターの駐車場。ここにヘンロ小屋を建てる
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◆第5回(27番・神峰寺〜29番・国分寺)
=2017年6月9日〜10日
このシリーズの5回目は、梅雨入り3日目のスタートだった。しかし、今年の梅雨は初日に雨が降ったものの、初期は雨とは無縁の日々が続いた。この遍路旅も雨を心配する必要がないどころか、2日間とも晴天のもとでの巡拝となった。
当初の参加者は13人だった。ところが当日になって、1人がキャンセル。当日キャンセルなので旅行代金が返ってこないはずで、本人にとっては残念なことだっただろう。
【淡路島ハイウェイオアシス】
今回は高知県東部を巡る。いつもの通り、淡路島ハイウェイオアシスで最初の休憩をした。ここは花が多いので楽しみにしている場所だ。月に1回の遍路旅で、おおむね第2金曜日、土曜日に決めている。前回は宿の都合で2週間遅かったため、今回までの間は2週間。前回オアシスに寄った際には、まだアジサイがわずかに咲き始めた時期だった。2週間の間に見ごろを迎えていた。
ほかに、建物の裏の花の谷ではメキシカンセージが青紫の花をつけていた。また建物の中の鉢植えはブーゲンビリアに代わっていて、なつの訪れが近いことを告げていた。
↑淡路島ハイウェイオアシスのアジサイ
【吉野川ハイウェイオアシス】
淡路島を抜けて徳島道を走る。沿道にはキョウチクトウの木が並び、赤と白の花がを咲き始めている。これも夏の花。鳴門レンコンの畑が高速道路の横に広がるが、まだ茎を伸ばし、葉を広げているが、花は見えない。
吉野川ハイウェイオアシスで2度目の休憩を取った。少し様子が変わっていて、小さな水車ができていた。日曜日には阿波踊りを見せる舞台のそばは、竹にペチュニアあしらった飾りが並んでいて、これも夏の風情。一方でキショウブは時期の終わりの花を少しだけ咲かせていた。
↑吉野川ハイウェイオアシスのペチュニアは夏仕様
【昼食】
バスは徳島道から高知道へ。高知道に入ると、昼食場所が限られる。南国インターを出て、近くの道の駅「南国」のレストラン「風良里(ふらり)」を昼食場所にした。ここはよく利用する。これまでは青ノリを使ったそばばかり食べていた。私が好きだからだ。
今回は趣向を変えてオムレツ牛すじカレーを選んだ。ルーの具が牛すじで、小さなオムレツが乗っている。できる限り地元のものを食べるのが、この遍路旅のコンセプトで、これでは地元性がないとおもうかもしれないが、実はオムレツがみそ。地元のブランド鶏、土佐ジローの卵2個を使っている。ただし、違いはわからないのだが。
↑オムレツ牛すじカレー
【29番・国分寺】
今回はお参りが3カ寺だけ。行程の都合で、逆打ちの参拝順になった。
最初は29番・国分寺だった。この寺は境内がよく整備されている。花も境内を彩る。特に、枝垂れ桜がいい。数は少ないが、清潔な寺のイメージに合う。
この時期はアジサイが咲いていた。数は少ないし、ほんの小さな株なので、取り上げるほどでもないのだが、その奥ゆかしさが気に入った。キキョウも咲き始めていた。
本堂は背の高さよりも横への広がりが特徴で、重文に指定されている。こけら葺きの屋根が、寺の趣を高めている。
好天のせいで暑い。だから時折吹く風がありがたい。大師堂の空海像は金色の厨子に入っている。お参りをすませて、隣の酒断地蔵に手を合わせた。参加者の中には、ビールや酒の好きな人もいて、宿では夕食の後、私の部屋で、テレビの野球でも見ながら、少し飲むのが恒例になっている。そのため、笑い話として、何人も地蔵に手を合わせていた。
寺の周りは田が広がっている。稲は30センチほどに伸び、毛足の長い一面のじゅうたんになっていた。田の中に遍路道が通っている。お遍路さんが稲の間を歩いている光景をこれまでに何度か見て、思わずカメラを構えてしまったが、今回はその構図に出会うことはなかった。
↑国分寺のアジサイ
【28番・大日寺】
28番・大日寺は、バスを停めた駐車場から参道の坂道を約5分登っていく。山門で頭をさげ、さらに石段を登る。
石段を登ると、左手の少し高くなった所に鐘楼が建っている。その下にサツキの刈り込みがあり、ピンクの花が十分残っていた。その横には、石仏が並んでいる。納経所への道には、ここもキキョウが紫の涼やかな花をつけていた。
↑サツキの刈り込みは花が残っていた
↑大日寺でのお参り
【絵金蔵】
お参りのほかに四国を知り、四国を楽しむのが、この遍路旅のコンセプトになっている。今回は香南市の絵金蔵が、お楽しみの1つだった。
絵金とは、江戸時代の絵師・金蔵のことを言う。江戸で狩野派の絵師、狩野洞白に師事し、戻ってから土佐藩の御用絵師となった。ことろが、狩野探幽の絵の贋作を描いたなどの嫌疑がかかり、行方をくらます。その後、赤岡(現・香南市赤岡町)に姿を見せ、その後は町絵師として活躍した。
作品は歌舞伎の舞台絵が多い。しかも、首を切られ、赤い血が流れている作品など、おどろおどろしい作品が目を引く。赤は辰砂(しんしゃ=水銀)を使っていて、赤は魔除けの色だという。このため、赤岡の商家が競って作品を買い求めた。画料は2両だったと、説明にあった。
絵金蔵は絵金を集めた施設というより、資料館のような性格を持つ。実際の作品は2点だけで、そのほかは赤岡の商家などが持っている。年に1度、7月の夜に、それらのを絵を家の前に並べる絵金祭りが繰り広げられる。いつか遍路旅に組み込みたい祭りである。
蔵の前は弁天座という芝居小屋がある。時間の関係で、外観だけを見て、バスに乗った。
↑絵金蔵の外観
【馬路温泉】
宿は馬路村の馬路温泉にした。海岸線を走る国道から40分ほど、安田川沿いに山に入っていく。細い道の部分が多く、バスの運転は大変だ。山の中なので、人家まばらだが、宿の周辺だけは建物が集中している。
宿は旧館と新館に分かれ、新館の方はログハウスのような雰囲気がある。夕食は旧館のレストランに用意された。下を安田川が流れ、水音を聞きながら、地元の料理を口に運んだ。アメゴ(高知県や徳島県ではアマゴを「アメゴ」と呼ぶ)の塩焼き、アメゴとコンニャクの刺し身、煮物(フキ、ゼンマイ、イタドリ)、ダイコンの酢の物、エビと鶏のから揚げ。
馬路村はユズの産地として知られる。食卓にはユズのドレッシングが置いてあり、用意された水にも、ユズが入っていた。ふろに入れば、シャンプーにもボディーソープにもユズが使ってあった。
↑馬路温泉の夕食
宿は川のほとりで、ちょうどホタルの時期。宿の人にホタルを見られるかどうかを聞いてみた。地元の人には当たり前すぎるのか、「少しですが飛んでますよ」とサラリとした答が返ってきた。そこで、夕食の後、懐中電灯を3つ借りて、ホタルを見に行った。場所は安田川に支流だが、支流は宿のところで分かれている。歩き始めて3分でホタルが光を放つのを見ることができた。支流を少しさかのぼると、川側にも山側にも小さな光が動いていた。宮本輝の「蛍川」のような乱舞ではないが、道筋に両側にずっと、3匹から5匹のホタルの光が見える。5分ほどで引き返したが、合計にすれば100匹にはなっただろう。普段ホタルを見ない私たちには、それで十分だった。
翌朝は少し早く起きて、散歩をした。宿のすぐ前に、観光用の森林鉄道や、木材を山から下ろしてくる作業用ケーブルカー。いずれも観光用に造ったもので、人を乗せる。ただし、土曜、日曜日しか運転していないようだ。
安田川に沿って歩くと、分かれ道で「にほんの里100選 相名(あいな)」の方向を示す標識があった。その場所まで、どのくらいの距離があるかわからない。行こうかやめようか思案していると、朝の散歩中の女性が歩いてきた。聞いてみると、15分ほどだという。それなら往復しても、朝ぶろ、朝ご飯には間に合うので、行ってみることにした。
歩いて行くと、JAのユズの加工場があった。コマーシャルでも流れて有名になったユズ飲料「ごっくん馬路村」も、ここで製造されているのだろう。
にほんの里の相名は、宿の次の集落だった。特別に何がどうなっているわけではない。山が迫り、川が朝日に光り、水音が絶え間なく聞こえ、その上をツバメが飛び、ウグイスとキツツキとスズメが鳴き声を競い、田の緑が広がり、ユズの木があちこちにあり、ランニングの男性が声をかけてくれ、朝歩きの女性が里の近くまで案内してくれただけの話である。
その女性にユズのことを聞くと、「10月、11月ごろは玉(ユズの実)がついているし、少し前なら白い花が咲いているが、今は何もないから、よその人には分からんが」と話してくれた。心地よい朝だった。
↑にほんの里100選の相名
【27番・神峰寺】
2日目最初のお参りは27番・神峰寺で、今回の遍路の打ち止めでもあった。標高450メートルの高さにある。山道が狭くて登れないので、マイクロバスとタクシーに乗り換えていく。
駐車場からさらに少し登る。日本の名水100選の湧き水が、手水になっている。ユキノノシタが咲いている岩の上から、水が流れ落ちる。手を洗いながら、飲んでみる。冷たくて、こくがあるように感じる。
↑神峰寺の湧き水
そこから石段を登る、その横は手入れされた庭園になっていて、サツキの刈り込みがいろいろな表情を見せるが、花はほぼ終わっていた。石段の横にはヒメヒオウギスイセンが群生しているが、まだ時期が早く、一輪も咲いていなかった。
お参りをすませ、帰りは歩いて下った。これが今回の「ちょっと歩き」。バスの場所まで3.5キロで、急げば1時間かからないが、この遍路は行程を緩く組んであり、1時間15分かけて、ゆっくりと歩いていった。
途中、傾斜のきつい場所もある。上りの場合、「真っ縦」だとか「遍路ころがし」と呼ばれる難所だ。下りも危ないので、滑らないようにゆっくりを足を進めた。それでも2人が尻餅をついてしまった。
道端の野イチゴを摘んで味わう。グミを食べている人もいた。ヤマモモがすでに赤くなっている。京都・奈良府県境の私の自宅そばにもたくさんヤマモモの木があり、毎年ヤマモモ酒をつくるが、実はまだ緑のまま。四国の方が随分と早い。5人ほどでたくさん摘み、みんなで分けて食べた。
里まで下ると、田があり、民家が点在し、細い田舎道が通り、その先に海が広がっている。この光景が目に優しく、のんびりと下りていくこの道が、四国の遍路道では1番好きだ。
↑神峰寺からの下り
「ごめんなはり線」の高架をくぐる。ちょうど列車が来たので、カメラを向けた。車両は1両だけ。ボディーには「がんばれ!われらの阪神タイガース」と大書されていた。近くの安芸市がタイガースのキャンプ地だからだろう。男性の参加者はタイガースファンばかりで、歓声が上がった。今年のタイガースはまずまず好調なこともあって。
↑タイガースの応援が書かれた列車
【伊尾木洞】
安芸の中心部の少し手前で、伊尾木洞に寄った。これも、四国を知ってもらう場所の1つ。国道から細い川に沿って200メートル行くと、そこが伊尾木洞と名づけられた洞窟になっている。
入口の手前で、子どもたちが川遊びをしていた。聞いて見ると、ナマズを取っているという。わざわざバケツの中を見せてくれ、のぞき込むと、ごく小さなナマズが2匹入っていた。子どもたちはカエルもつかまえて、私たちの方に差し出す。これも最近、都会ではあまに出会わないシーンに思えた。
↑ナマズを取っていた子供たち
洞窟は長さ100メートル足らずと短い。中は天井が高く、コウモウリも棲んでいる。そこを抜けると、変わった光景に出会う。シダの大群落で、岩肌を這い上っている。
↑伊尾木洞
↑シダの大群落
シダを見上げたあと、さらに川をさかのぼることにした。300メートル先に滝があると書いてあったからだ。足場が悪いので、希望者だけで進んだ。細い道を行き、水の中の石に足を乗せて川を渡る。浮き石に足をとられて、川に落ちた人もいたが、水量が少なく、ずぶ濡れは免れた。ロープを持っていく道、はしご段など、年配者には冒険のような個所を経て、滝についた。滝は高くはない。ただ小冒険の後なので、隠れた滝を見つけた感覚にとらわれた。
↑伊尾木洞から300メートルの場所にあった滝
【昼食】
安芸市の観光ゾーン、伝統的建造物群保存地域の土居廓中(かちゅう)にある廓中ふるさと館で昼食をとった。この地域はシラスの産地で、メニューもズバリ、チリメン丼。ご飯の上に大量のシラスを乗せ、大葉の千切りを散らし、ダイコンおろしを真ん中に盛っている。ごくシンプルな食べ物だが、あっさりしていて、いくらでも入る。
↑チリメン丼
昼食の後、土居廓中を散策した。ササの生垣がこのあたりの特徴の1つである。水切り瓦を施した建物がある。室戸岬との途中にある吉良川の伝統的建造物群保存地区が、水切り瓦の建物群で知られる。台風などの雨で壁が傷まないように工夫した小さな屋根状のもので、私は「ミニスカート」と説明する。それを、廓中でも見かける。瓦を積み上げた塀、石を積んだ塀も、この地区の伝統的は作り方らしい。観光名所の野良時計も見学した。
↑水切り瓦を施した建物
【岩崎弥太郎の生家】
今回の遍路旅の締めくくりは、三菱グループの創始者、岩崎弥太郎の生家だった。ここは、廓中からバスで5分の場所にある。岩崎弥太郎の出世を願った母が、この家から21日間、神峰寺に通って祈願したという話が残っている。神峰寺に参拝した後なので、大阪に帰る途中に訪ねてみた。
生家がそのまま残っている。弥太郎から3代が産声をあげた部屋あった。土蔵の壁には、三菱のマークが入っていた。
そばに簡単な案内所が設けてあった。お接待でビワが山盛りにしてあり、つまんでみた。ここも都会のような観光地ではなく、のんびりした場所だった。
↑岩崎弥太郎の生家の蔵の壁には三菱のマークが
帰りは再び、道の駅南国風良里に寄り、高知名物、久保田のアイスキャンディーを食べて、大阪に向かった。
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◆第6回(30番・善楽寺〜36番・青龍寺)
=2017年7月7日〜8日
このシリーズは毎回、天候でやきもきさせられる。九州の北部で、甚大な水害が出た時期に当たっていた。このため、雨は覚悟の上での遍路だったが、私たちのコースはほとんど雨に降られずにすんだ。その一方で、福岡県や大分県で、これほど大きな被害が出るとは、考えもしなかった。
【淡路島ハイウェイオアシス】
早朝のテレビニュースで、福岡県朝倉市が集中豪雨に見舞われていることを知った。しかし、大阪は雨が降っていない。やがて四国も雨になると予想し、ポンチョと傘の両方の用意をして自宅を出た。
大阪市・西梅田の出発場所、毎日新聞社の前に着くと、今回の参加者は10人と少なかった。前回のシリーズは途中で中止となった。打ち終わっていないメンバーの数人が、打ち残した札所に参るために今シリーズに参加している。そんなケースも想定し、逆打ちだった前回の後半と、順打ちの今回の前半は、各回ごとにお参りする寺を同一にして、救済措置とした。今回のコースは、前シリーズで実施しているので、すでに参り終わった人もいて、そのために参加者が少なくなったのだ。
バスに乗り込んだところに、参加者の座席表が張ってある。それを見て驚いた。知った名前がある。私が先達を頼まれた第1回のシリーズ(2004年〜2005年)に参加していた女性の名前だった。添乗員に聞くと、まさにその人。久し振りに彼女に会って、バスの中では昔話が続いた。
彼女は娘を25歳の誕生日の5日前に、事故で亡くした。その悲しみは大きく、京都市の寂庵に瀬戸内寂聴さんを訪ね、「遍路に行ってみては」と言われ、私たちの遍路旅に途中から参加したのだった。
悲しみの深さはみんなに伝わった。募集で集まったので、2組の夫婦と1組の友人をのぞけば、個人参加だった。関係の薄いメンバー同士だったが、彼女の悲しみを共有することで、仲間意識が生まれた。みんなが彼女のことを気にかけた。
娘の命日の前に家を訪ね、仏壇に手を合わせた人もいた。自宅に招いた人、自分の出身地の瀬戸内海の島の桜まつりに呼んだ人もいた。娘が好きだったという紅茶を渡す人もいた。それに対して、メンバーの中では若かった彼女は、ほかの人の手伝いをした。「1人はみんなのために、みんなは1人のために」というラグビーなどで使われる言葉を出して、バスの中で簡単に紹介した。
出発日は七夕の日だった。いつも通り、まず淡路島ハイウェイオアシスで休憩した。建物の中に、七夕のササ飾りが立ててあって、願いごとを書くように、色紙の短冊が用意されていた。当然のように、「雨が降りませんように」と、願いの文字を書いてササに取り付けた。たわもないことだが、この願いはかなうことになる。
↑淡路島ハイウェイオアシスのササ飾りに、雨がふらないようにと、願いの短冊を結びつけた
【昼食】
四国に入り、高松道を少し走り、いったん高速道を下りて、徳島道に乗り換える。高松道の周辺はレンコン畑が広がり、ハスの花が咲いている。
吉野川ハイウェイオアシスで休憩をとり、通常なら高知道に入る。しかし、今回は池田・井川インターで高速道を外れ、一般道で吉野川沿いに走り、大歩危小歩危を目指す。昼ご飯は大歩危の祖谷そばもみじ亭を選んだ。
店は川に面している。駐車場にバスを停め、店まで短い距離だが大歩危の渓谷を眺めながら行く。川面にはゴムボートがたくさん浮かんでいた。1つに4〜5人が乗り、声をかけながら、オールをこいで川下に進んでいく。途中にちょっとした瀬があって、急にスピードが速まる。ラフティングだった。そばにモンベルの店があり、そこが主催していた。
↑大歩危のラフティング
昼食は、そばの定食。祖谷そばはぶつぶつ切れている田舎そば。ほかに、祖谷豆腐にコンニャク。どちらも少量だが、地元のものを意識している。豆腐はとても固く、それが地元の豆腐の特徴だった。天ぷらがついていて、シイタケ、ニンジン、インゲン、ゴボウ、サツマイモ。これも地元の食材。それに古代米のおにぎりがついていた。
店の女性が、料理を簡単に説明してくれたので、地元ものばかりと分かったのだが、説明の途中で私を含め一行が大笑いをした。シイタケは干しシイタケを使ってあって、味をつけて煮たものを揚げていた。店の女性がシイタケに触れて、「にしもとさんのシイタケを使っています」。地元を強調したいのだろうが、私たちは、にしもとさんがどんな人か知らないのだ。
店は結構大きかったが、食べている途中で中国か台湾の団体が入ってきて、満員になった。インバウンドの人たちの好奇心は、大歩危まで足を延ばすのかと、ちょっと驚いた。
食べている最中、参加者の1人が美空ひばりの歌について話し始めた。そこで、寄り道をすることにした。
↑地元のものばかりの昼食
【杉の大杉】
計画では、大豊インターから高知道に戻るはずだった。そこを少し通り過ぎて、「杉の大杉」を見学することにした。「杉」は地名だ。美空ひばりが幼いころ、この近くで事故に遭った。その際、大きな杉を見つけ、立派な歌手になりたいと、願いを託しそうだ。
小さな神社の境内に大杉はある。樹齢は3000年だそうで、「日本一の大杉」と表示がある。幹は根本から2つに分かれ、高さは60メートル。幹の一部は雷などでやられ、補修され、無残な一面を見せる。しかし、ほかはまだ力をみなぎらせている。見上げると果てしない時を思い、崇高な気分になる。
寄り道で30分から40分、余分に時間を使った。しかし、行程はゆるく組んであり、ほとんど支障はなかった。それが、この遍路旅の特徴でもある。シリーズのタイトルに、「のんびり・湯ったり編」と銘打っているゆえんでもある。
↑杉の大杉
【30番・善楽寺】
今回の最初の札所は30番・善楽寺だった。天気はかろうじてもっている。その代わり暑い。境内の端にアジサイが並んでいて、青い花をつけていて、それが少しの涼しさを送ってくる。
本堂でお参りをすると、外壁に御詠歌の講員を募集する張り紙があった。私が最初に遍路に出たのは、2015年11月だった。自転車遍路で、1カ月に1回、2泊3日ずつ回った。善楽寺に参ったのは、1996年1月で、張り紙を見て、その時のことを思い出した。
21年前、善楽寺の境内に入ると、庫裏から御詠歌の声が流れてきたのだった。寺の女性に聞くと、住職の奥さんの声だとか。「きれいな声ですね」言うと、「3月3日にお祭りがあるので練習しているんです。よく通る声ですが、『きれいな声』ですか。ありがとうございます」と答えた。声があまりにも印象的だったせいか、よく覚えている。
今回の遍路で久し振りに再会した彼女と、バスの中で話していたら、御詠歌をやっているそうだ。善楽寺は御詠歌に縁がある寺だと、つくづく思った。
↑御詠歌のお知らせが張ってあった
【31番・竹林寺】
31番・竹林寺はいつ参っても、風情がいい。山門をくぐると、緑の空間が広がる。頭の上は青紅葉。参道の両側はコケがしっとりと地面を覆う。石段を上るが、横幅が広いので、ゆったりとした気分になる。
本堂の前には、ササ飾りが据えてあった。お参りの後、参加者がそれぞれ、短冊に願いを書いて、ササに結びつけた。私は座右の銘にしている「颯爽と生きる」を書いたが、漢字がサッと出てこず、颯爽とは正反対の自分を思い知らされてしまった。
境内を少し散策した。半夏生が葉を白く染め、ソテツも大きな茶色い花をつけていた。まだ天気はもっている。休憩所に入ると、冷たいお茶が用意されていて、ありがたく飲み、さらにお代わりをした。同じように2杯目を口にするメンバーもいて、みんな暑さにうんざりしていることが分かる。
↑しっとりしたコケの庭
↑本堂の前のササ飾りに願いごとを託した
【32番・禅師峰寺】
竹林寺をバスで出て、32番・禅師峰寺へは10分あまりで到着する。バスを駐車場に止め、本堂への石段を上り始めると、雨が落ちてきた。傘をさして行く。少しずつ雨足が強まり、本堂でのお参りの際は土砂降りになった。
雨の当たらない場所を選んで般若心経をあげる。大師堂はすぐ横だが、その移動も大変なほどの降り。高知県四万十町から来ていた夫婦が「何という雨」と声をかけてきた。
ところが、大師堂での読経が終わるころは、雨はやんでしまった。まさに、「何という雨」。
寺は小高い場所にあり、境内から海が見える。木の剪定作業をしていた男性が雨宿りをしていたが、再び作業を始める。その前に、私たちのところにやってきて、桂浜や浦戸湾、35番・清瀧寺の場所を指差して教えてくれた。わざわざの説明で、そんな人懐っこさが四国の人にはある。
↑禅師峰寺で突然の雨に見舞われた
【宿】
宿は土佐市の三陽荘だった。お遍路さんがよく利用するし、毎日新聞旅行でも何度か泊まった。36番・青龍寺への足場が良いことも関係している。。風呂は温泉で、男女1日交代だが、露天風呂もある。
夕食は高知らしく、カツオが主役だった。刺し身はカツオとカンパチ。カツオのなまり節の煮つけ。天ぷらはキスと野菜。エビやタケノコ、魚の子の煮物。つみれ鍋。酢の物など。
翌朝は早く起きた。宿の前はすぐ海になっている。浜に出て、朝日の写真を撮った。ヤシの木が植えてあり、太平洋の国のような雰囲気の写真になった。2日目も雨は心配されたが、少なくとも朝は大丈夫だった。
↑三陽荘の夕食
↑三陽荘の前の浜で見る朝日
【36番・青龍寺】
宿が36番・青龍寺に近いので、2日目は青龍寺からの逆打ちにコースを組んだ。まず青龍寺へは、宿のマイクロバスで送ってもらった。
本堂へは、長い石段を上る。午前8時を回ったばかりなので、まだ暑いという状況ではない。石段の横にアジサイが残っていて、涼しげにも見える。しかし、石段を上っていくと、汗が吹き出した。
↑石段に横にはアジサイの青い花が
参拝して石段を下り、宿に止めてあるバスまでは、歩いていった。今回の「ちょっと歩き」の1つだった。
道筋には湿地帯が広がっている。薄い青のホテイアオイが、群れて咲いている場所もあった。ホテイアオイは池を埋め尽くすほど生命力が強く、昔は嫌われ者だった。
ところが、奈良県橿原市の元薬師寺跡(現在の奈良市の薬師寺は、この場所から移築したとされている)は、一面のホテイアオイを売り物にしている。夏の風物詩として、その写真がよく新聞の1面を飾る。開花期が長いので、ヒガンバナと一緒の写真を撮ることもできる。
ここの遍路道のホテイアオイは、それほどの密集度はない。ほかの野の花と、ささやかに遍路道に彩りを添えている風情だった
↑遍路道のホテイアオイ
【35番・清瀧寺】
35番・清瀧寺は標高180メートル場所にある。山道は細く、バスでは登れない。そこで、ふもとからマイクロバスとタクシーに分譲して登った。
太陽が昇るに従って、気温が上がってきた。般若心経を唱えていると汗が出る。本堂の横に小さな滝があり、修行場になっている。参拝の後、みんなで行ってみた。わずかな水なのに涼しく、離れがたい気持ちになる。
境内に大きな観音像が立っていて、その下が真っ暗な戒壇のような場所になっている。左手で壁をさわりながら、1周する。当然、久し振りの参加の彼女も、暗闇に入って行った。その状況を見て、75番・善通寺の御影堂(大師堂)の下に設けられた戒壇を思い出した。第1シリーズの時のことで、彼女も参加していた。
御影堂は大きな建物で、堂の下の戒壇も長い。彼女は暗闇が怖くなり、「こんな時に、娘(実際には娘の名前)がいてくれれば」と願った。そうすると、闇の中に娘が現われた。結願した後の宿で、彼女は「遍路をして娘に会えた」と、そのような話をした。非現実的な話ではあるが、娘のことを強く思っているので、彼女には見えたのであろう。
↑滝の行場
清瀧寺からの下りは歩き、これが今回のメーンのちょっと歩きだった。寺から石段で下り、さらに傾斜のきつい山道を歩いていく。それも全体の3分の1ほどの距離で、あとは車も通る道を、のんびりと歩いた。
下り切る少し手前に、この遍路道で1番好きなポイントがある。民家の土間で、その天井にたくさんのツバメの巣の跡があるのだ。巣の跡には、何年にできた巣なのかが、書いてある。ある時、その家の主人からその話を聞き、優しさに感じ入って、以降ここを通る際は、「ツバメのマンション」と説明し、一行に見てもらうことにしている。家のそばでツバメが飛んでいるのを見たので、今年も巣を作っているのだろう。
↑清瀧寺から下り
↑ツバメのマンション
【34番・種間寺】
バスで34番・種間寺に向かった。1カ月早ければ、その道はアジサイ街道だった。しかし、花の時期は終わり、それどころか来年に向けて、すでに刈り込んであった。
種間寺の本堂には、さわり大黒が待っている。参加者は次々に大黒さんをなで、ご利益をもらう。
本堂の横には、ナギの木があった。ナギは和歌山県新宮市の熊野速玉大社のご神木だ。京都市の東福寺のそばに、熊野神社がある。ある時参拝すると、申し出た人にはナギの小さなナギを渡していたので、いただいて帰ったことがある。ベランダのプランターでしばらく育ててみたが、結局はうまくいかなかった。
の寺は安産祈願の寺でもある。ひしゃくの底を抜いてもらい、安産を願うというユニークな信仰がある。安産のお礼なのか、たくさんの底抜けひしゃくが奉納されていた。境内にもう1つ、名物がある。枝垂れ赤松で、枝を横に広げて、境内の一角を独占していた。
駐車場のバスに戻る。駐車場では、パラソルの下で、高知名物アイスクリンを売っていた。暑さの中で、この誘惑には勝てず、高知名物のショウガを使ったアイスクリンを食べた。
↑枝垂れ赤松
↑高知名物アイスクリンの店
【33番・雪蹊寺】
今回の遍路旅の打ち止めは、33番・雪蹊寺だった。参拝は昼前だったが、帰りに時間がかかるので、午前中の打ち止めもやむを得ない。
雨は結局、2日目はすべてセーフだった。これがありがたい。大師堂にお参りすると、わに口から下がっている紐に、結縁の紐が接続してあった。結縁の紐は堂の中の空海像につながっている。四国開創1200年の年には、このような紐を本尊や大師像に結びつけている札所が多かったが、それから2年たって、随分と減ってしまったような気がする。
境内にはカンゾウのオレンジ色の花が咲いていた。今回もまた、境内の露店が店開きしていた。
↑大師堂の結縁の紐
【昼食】
お参り全部すませて、昼食は高知市の鏡川に面した料理旅館「臨水」だった。贅沢な作りの建物で、すき焼き御膳を食べた。土佐の赤牛を、1人用の鍋で好き焼きにして食べる。鍋のほかに、小鉢もいくつかついていた。
臨水も因縁のある場所だ。これも久し振りの再会に彼女がからむ。第1シリーズのある回が終わり、彼女は大阪駅のホームで、帰宅するための列車を待っていた。金剛杖を持っていたせいか、遍路の帰りと分かって、京都府福知山市の女性に声をかけられた。その人も遍路に行ってみたいと言うので、私たちの遍路旅の誘い、参加することになった。
ある遍路の際、昼食を臨水で食べたことがある。その回には、福知山の女性も参加していて、しきりと古い記憶を呼び起こそうとしていた。そして、ハタと思い出した。その女性が新婚旅行で泊まった宿だったそうだ。
実はその女性とは、前々回の遍路の帰りの5月27日、淡路島ハイウェイオアシスで偶然にも出会ったのだった。今回久し振りに再会した彼女のお陰で、さまざまな関連性がでてきて、思い出深い遍路になった。