宿では三重県鈴鹿市の年配の夫妻と、話をする機会があった。車で遍路をしているという。この宿に泊まる人はほとんどがお遍路さんで、前提が一緒なのですぐに打ちとける。
夫妻は遍路について語る。10年間で7周目。前回は体調を崩し、22番平等寺から引き返した。今回は11月5日から回っている。22日までの予定で、四国が終われば高野山にお礼参り。その前後に西国三十三観音霊場の1番〜4番を参る予定で、紀伊半島を回って帰宅する。遍路に来ると、なぜか落ち着く。ゆっくり、のんびりの遍路で、その土地のものを食べて楽しんでいる。香川に入ったら、讃岐うどんが楽しみ。
良い話も聞いた。遍路は7回目ではあるが、四国の道に精通しているわけではない。そこで、地元の人によく道を聞く。ある時、タクシーの運転手に道を尋ねた。すると、客が乗っていなかったこともあって、しばらく先導してくれ、曲り角でウインカーを点滅させて合図し、自分はそのまま真っ直ぐ走っていったそうだ。
「のんびり、ゆったり、地元のものを食べる」は、私たちの遍路旅と一緒。私は高松市に1年5カ月住んだことがあり、その間に409軒のうどん屋で食べたことがある。そこで、その中から、あん餅うどんの店「かなくま餅福田」、自分で大根をおろして食べる「小縣(おがた)家」をピックアップして、店の名前にほか、住所、電話番号をスマートフォンで調べてメモ書きにし、翌朝の食事の際に手渡した。
宿泊客はほとんどがお遍路さんと書いたが、声をかけてくれた年配の男性は違った。松山市に住み、5年前までは毎年、車で紅葉見物に古岩屋を訪れた。車を手放したので今回はバスに乗り、1泊で紅葉狩りに来たという。古岩屋は愛媛の代表的な紅葉スポットということだろう。
バスに乗る前に、前日とは反対側になる宿の裏手の方を散策した、目的は、岩壁の中ほどのくぼみに安置された不動明王に会いに行くことだった。歩き遍路の夫妻と宿の玄関で一緒になり、行くことを誘ってみると、少し遍路道から外れるだけなので、行こうと考えていたという。その夫妻も案内しながら、不動明王を目指した。
夫妻は横浜から来ていた。この2人もそれなりの年齢と思われ、ゆっくりと歩いて回っているとか。歩きながら話す。1日に30キロ歩いた日に奥さんが足を痛め、それから20キロを上限と決めている。出会った日で、1カ月だというから、確かにゆっくり目だ。ここまでで印象に残ったことを聞くと、奥さんが「そりゃあ、12番の遍路転がし」と即座に答えた。「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会の名刺を渡してプロジェクトのPRをすると、「何度もお世話になった」と言い、休憩所の小屋が役に立っているのを喜んだ。
不動明王を見上げる。大きいものだが、離れているので小さく見える。手前の黄色のモミジのきがうまい具合にあって、秋の明王を演出していた。
↑岩屋不動
【44番・大宝寺】
2日目の最初のお参りは、44番・大宝寺だった。88カ所のちょうど半分だから、「裏関所」と呼ばれるらしい。ただ、この遍路旅のシリーズは全16回で、そのうち最後の1回は高野山へのお礼参りになっているので、四国では15回。ということは、すでに前回で半分を超えている。
この日も次第に空は晴れていったが、実は夜のうちに雨が降っていた。宿を出て、道路が濡れていたので、それに気づいた。本当に運がいい。それから回復に向かうかどうか、少し心配だったが、大宝寺に着くころには、青空が見え始めていた。
バスを降りて、ちょっと歩く。大きなわらじがかけてある山門を通り、杉とヒノキの間を少し登っていく。ヒノキは400年〜500年、杉は800年〜1000年のものがいくつもあると、説明板に書いてある。巨木の片側だけをコケが覆っている巨木もあった。そんな木を見ながら歩いていると、心が鎮まる。
大宝寺は黄色い秋だった。モミジも黄色に色づいているのが主流で、イチョウも葉を黄色く染めている。石段も黄色い落ち葉で飾られている。ただ、修行大師の像の上のモミジは赤かったが、染まり始めたところで、黄色の世界を乱すほどではない。
まだ午前9時ごろなので、境内はひんやりしている。その雰囲気には、赤よりも黄色が似合う。誰かがついた鐘の音が聞こえるが、音はさえている。秋が深まって空気が澄んでいるからに違いない。
本堂と大師堂の間には十一面観音がある。ロクショウが浮いていて、その緑が寺に溶け込んでいて、いつも写真を撮る。今回は黄色のモミジとのセットの写真になった。
↑修行大師
【46番・浄瑠璃寺】
参加者は女性が多い。女性は買い物が好きだから、道の駅や産直の店には、休憩を兼ねてよく立ち寄る。大宝寺を出て少し走った所にある道の駅「天空の里さんさん」が、今回の1番の買い物所だった。私は地元のお茶と宇治茶を使った抹茶大福を買って、味見をしてみた。地元のものをつまみ食いするのは旅の楽しみだと思っているので、どんどん食べてみることにしている。
高原を下り、46番・浄瑠璃寺へ。入り口の短い石段の上に1本モミジの木があり、少し赤くなっていた。しかし、境内の木全体が染まっているわけではない。
↑浄瑠璃寺の入り口
境内の一角に、ハス池がある。初夏に来ると、ハスの白い花を眺めるのが楽しみだ。今は枯れて茶色になり、花の後の「ハチの巣」も種がすでに抜け落ちているように見える。わびしい冬の姿だが、それはそれでいいとも言える。
境内の木のベンチがおもしろい。背もたれに四国の形がくり抜いてある。そばで、庭の手入れをしている女性がいた。「こんにいちは」と声をかけると、身の上話を始めた。15年前に脳出血になった。回復してから、浄瑠璃寺の庭の世話をするようになった。スムースな口調でないのは、後遺症のせいかもしれない。参加者は先に行き、私だけ取り残されたので、「もう行きます」と告げると、「お気をつけて」の言葉に送られた。
↑浄瑠璃寺の境内にあった木のベンチ
【47番・八坂寺】
浄瑠璃寺から47番・八坂寺まで1キロ弱。今回の「ちょっと歩き」の場所の1つだった。穏やか日和で、歩いていると背中が太陽で温まってくる。野菊が残り、ススキの穂が輝いている。田は枯れた色だが、ひこばえがわずかに緑を見せる。「こんなのどかなの、いいね」と、参加者の声が聞こえた。
↑八坂寺へののどかな道
八坂寺は短い石段を上る。途中に鐘楼があり、その周りに「南無大師遍照金剛」と書かれたのぼりが林立している。ますます天気はよくなり、読経をしていると、背中が日を浴びて、ポカポカするほどだった。大師堂には、結縁の紐がついていて、弘法大師の像と結ばれていた。それは浄瑠璃寺もそうだった。
境内に「念ずれば花ひらく」の石碑があった。言葉は仏教詩人、坂村真民のものだ。真民は砥部町に住んでいたこともあり、愛媛県の札所ではよく石碑を見かける。
別の人の「お遍路の誰もが持てる不仕合せ」の石碑もあった。確かにこの遍路旅の参加者もさまざま思いを、心の底に沈めているようだ。特に「愛別離苦」を感じている人が多い。夫を亡くした人、夫を亡くしたうえに遍路の宿で姉の病状の悪化の連絡が入り泣き出した人、妻と母を相次いて亡くし、「何度ビルから飛び降りようとしたか」と話した人もいた。それらのことが遍路に導いたのだろうが、遍路の仲間といることが大事な時間に変わってきたように見える。
↑真民の石碑
【昼食】
2日目の昼食は、松山市の青空食堂だった。前回のシリーズで初めて食べ、気に入ったので今回もお世話になった。
地元野菜を中心にたランチにした。大きなボール状の皿に入った野菜サラダがメーン料理で、お代わり自由だった。食べ終わってお代わりを頼むと、同じ量のものが運ばれてきた。ほかにも少しずつ6品セットになっていて、小さな鶏のから揚げ、小さなサバの煮つけ以外は野菜ばかり。カボチャのスープに、もち麦の粒が入っているのが珍しかった。ほかにご飯とみそ汁がついていた。
↑青空食堂のランチ
【淡路花さじき】
淡路島から明石海峡大橋を渡り、高速道路で大阪に帰る。いつも土曜日の夕方から夜にかけての時間帯なので、阪神高速神戸線が必ずといってよいほど渋滞する。渋滞8〜12キロはざらで、ひどい時には20キロも車が連なる。このため、通常は淡路島ハイウェイオアシスでトイレ休憩を取る。今回は少し早めに四国を出て、淡路花さじきで花を見ることとトイレ休憩を兼ねた。
花さじきは小高い場所にあり、海に下る斜面一面に花が植えてある。着いたのは午後4時半。少し寒くなる時間帯だったが、昼間が暖かかったので、別に気に留めていなかった。バスから降りて驚いた。風が強くて寒い。これは予想外だった。
花のはざかい期だったが、遅咲きのコスモスが残り、2色のサルビアが斜面を覆っていた。1つはブルーサルビア。前日、淡路島ハイウェイオアシスで、正式名称はサルビアインディコスパイアと教えられた花だった。もう1つは、赤いサルビア。これは強烈な色のインパクトがあった。しかし、寒すぎて15分ほど見て、バスに戻った。