江戸時代の四国番外札所――澄禅『四国辺路日記』を中心に――



              柴谷宗叔・高野山大学密教文化研究所受託研究員

              印度學佛教學研究第58巻第2号

                          (2010年3月20日発行)

                  

 (一)はじめに
 
 四国遍路の本格的資料としては現存最古ともいえる澄禅(1613―80)の『四国辺路日記』(顱 (承応2年=1653)に記載された行程をたどり、現地調査をすることで、ルートの確定を試みた。日記に記載されている地名、寺社名、所在地について現在のものにほぼ比定できた。本論では、日記に記載された全ての寺社について、他の史料も比較しながら検証した。現在の八十八ヶ所札所寺院と、明治初年の神仏分離・廃仏毀釈以前に札所であった神社を本札所とし、それ以外を番外札所として論を進める。真念『四国邊路道指南』(髻 (1687、以下『道指南』)には現在残る番外札所の多くが登場する。澄禅と真念以後の著作とを比較し、江戸時代から現在に至る変遷を調べることで、番外札所が認知されていく過程をあぶりだした。

 (二)澄禅日記の番外札所

 澄禅の日記に登場する寺社・霊跡は165か所ある。このうち本札所は90。現在の六十二番に相当する伊予一ノ宮(一宮神社)と保寿寺(宝寿寺)、六十四番に相当する石鎚山(石鎚神社本社)と前神寺が、ともに登場するためである。残りは75か所となる。
 澄禅の日記に登場する寺社・霊跡は百六十五か所ある。このうち本札所は九十。現在の六十二番に相当する伊予一ノ宮(一宮神社)と保寿寺(宝寿寺)、六十四番に相当する石鎚山(石鎚神社本社)と前神寺が、ともに登場するためである。残りは七十五か所となる。
 記述を元に検証すると、「札ヲ納ム」と書かれているのが、海部ノ大師堂(弘法寺、徳島県海陽町四方原)、佛崎(高知県室戸市佐喜浜町水尻谷)、岩屋寺の鉄鋳厨子(奥の院迫割禅定、愛媛県久万高原町七鳥)、石鎚山遙拝所の鉄ノ鳥居(星が森、西条市小松町石鎚星森峠)の4か所。「横道ノ札所」と記載された、ヲツキ(月山神社、高知県大月町月山)、ヲサヽ(篠山神社、愛媛県愛南町正木)の2か所。記述の詳細から札所と認識していたと思われるのが三角寺の奥院(仙龍寺、四国中央市新宮町馬立)、海岸寺(香川県多度津町西白方)、三角寺(佛母院、多度津町西白方)、金毘羅(金刀比羅宮、琴平町琴平山)と金光院(松尾寺、琴平町琴平)。崇徳天皇(天皇寺の旧札所白峯宮)は誤りで本来の札所と指摘している金山ノ薬師(瑠璃光寺、坂出市西庄町)。さらに、案内人を雇って「巡礼」した焼山寺の奥ノ院禅定(徳島県神山町下分地中)、太龍寺の奥院(南舎心、阿南市加茂町竜山)と岩屋(太龍窟=現存せず、阿南市加茂町黒河)も含めてよいだろう(鵝 。以上で15か所となる。本論ではこれを第1群とする。
 佛崎は、他の文献に現れず現在も当該の番外札所はないが、現地調査の結果、国道55号沿いに高知県東洋町から室戸市佐喜浜町に入って200メートルのあたりに佛崎と思われる場所を見つけた。海に突き出た自然の岩が仏像のように見え、石仏も祀られている。日記記載の距離とも合致する。
 澄禅が宿泊以外で立ち寄った先であるが、室戸岬の愛満権現を祀る岩屋(御蔵洞)、求聞持堂(現存せず)、如意輪観音を祀る岩屋(観音窟)、神峯(神峯寺の旧札所神峯神社)麓の寺(養心庵)、土佐一ノ宮(善楽寺の旧札所土佐神社)西方の社(掛川神社)、清滝寺麓の八幡宮(松尾八幡宮)、青龍寺奥の院の不動堂(浪切不動)、窪津の海蔵院、宇和島の八幡宮(八幡神社)、歓喜寺、熊手八幡宮、野沢ノ井(八十場の水)、洲崎堂跡(洲崎寺)の13か所を挙げることができる。立ち寄ったかどうか不明な記載が鶴林寺の奥院(慈眼寺)、柏寺(善法寺)、志度寺近くの新珠島(真珠島)の3か所。この16か所を第2群とする。
 澄禅が宿泊した寺院は持明院(廃寺、跡に常慶院滝薬師)、地蔵寺(廃寺)、千光寺(廃寺)、野根ノ大師堂(明徳寺)、菩提寺(母代寺=廃寺)、田島寺(廃寺)、安養院(廃寺)、常賢寺(廃寺)、随生寺(随正寺=廃寺)、見善寺(廃寺)、正善寺(廃寺、跡に大師寺)、瀧厳寺、慶宝寺(宝満山慶宝院=廃寺)、瑞安寺、円満寺(廃寺)、三木寺(御幸寺)、神供寺、浦ノ堂寺(隆徳寺)、興願寺、弥谷寺麓の辺路屋(八丁目大師堂)、実相坊(実相寺)の21か寺である。このほか宿泊はしなかったものの「辺路屋」と記載のある円頓寺(廃寺)、馬目木大師、青色寺の3か所を加え24か所となる。これを第3群とする。
 このほか、文中に登場する寺社が、願成寺、海部の観音寺(廃寺)、藥師院(薬師寺)、唱満院(廃寺)、常通寺(廃寺)、永国寺(廃寺)、宇和島の地蔵院(延命寺=廃寺)、龍光院、八幡(日尾八幡神社)別当の如来院、三島ノ宮本社(大山祇神社)、吉水寺(廃寺)、馬頭院(廃寺)、鷲峯(鷲峰寺)、喜楽院(克軍寺)、六万寺、萩原ノ地蔵院(萩原寺)、勝間ノ威徳院(威徳院)、長尾ノ法蔵院(極楽寺)、与田ノ虚空蔵院(与田寺)の20か所挙げられる。これを第4群とする。

 (三)真念以降との比較

 真念『道指南』、寂本『四国徧禮霊場記』(堯法複隠僑牽弘譟以下『霊場記』)と比較してみる。第1群では、篠山、月山、仙龍寺、金毘羅、金山薬師が両本と、弘法寺、海岸寺が『道指南』と、焼山寺奥院、南舎心、太龍窟、岩屋寺奥院、星が森、松尾寺が『霊場記』と共通する。どちらにも記載のないのは佛崎、佛母院の2か所のみである。第2群では、慈眼寺、御蔵洞、求聞持堂、観音窟、養心庵、八十場の水、洲崎寺が両本と、宇和島の八幡神社が『道指南』と、青龍寺奥院、真珠島が『霊場記』と共通する。このあたりが江戸時代前期の代表的な番外札所であった可能性が強い。また金毘羅についての記述が詳しいのが目立つ。『霊場記』も同様で、88の本札所並みに扱っていたことがうかがえる。
 第3群では、円頓寺、明徳寺、馬目木大師、青色寺、八丁目大師堂が『道指南』と共通するのみで、澄禅は「辺路屋」と記載している。他は澄禅が泊まったという記述に過ぎず、以後の文献に登場しない。第4群では、大山祇神社のみ両本と共通で、日尾八幡が『道指南』に見えるだけである。澄禅自身は参拝しておらず、聞いて知った有名寺社を日記に書きとめただけであろう。大山祇神社は森瀬左衛門『四国中遍路旧跡并宿附帳』()(1777、以下『宿附帳』)や九皋主人写『四国徧礼名所図会』 (1880、以下『名所図会』)()にも登場することから番外札所として回られていたことがわかる。

 (四)現在との比較
 
 現在の番外札所との比較を試みる。遍路が立ち寄る番外札所の定義は困難であるが、参考資料として番外の記載が多い宮崎建樹『四国遍路ひとり歩き同行二人』解説編第6版()(以下『ひとり歩き』)を用いる。第1群の南舎心、篠山、月山、岩屋寺奥院、星の森、仙龍寺、海岸寺、佛母院、金毘羅、松尾寺の10か所が記載されている。現在まで残っている番外札所の原型といえるであろう。『ひとり歩き』記載外でも太龍窟、佛崎を除く3か所は現在巡礼する遍路がいることを確認している 。()第2群は慈眼寺、御蔵洞、観音窟、青龍寺奥院、八十場の水、洲崎寺の6か所のみ共通。第3群は明徳寺、馬目木大師。第4群は龍光院、大山祇神社、萩原寺、鷲峯寺、六万寺、与田寺である。合計24か所。澄禅記載の75か所のうち23か所は現存しないので、現存52か所のほぼ半分が江戸時代前期も現在も番外札所として回られていることになる。
 現在、番外札所の代表とされる別格二十霊場との比較では、共通するのは、第1群の仙龍寺、海岸寺、第2群の慈眼寺、第四群の龍光院、萩原寺の5か寺のみである。うち第4群は前項で考察したように江戸時代前期は札所とは考えにくいことから、実質は3か寺にとどまる。『道指南』には鯖大師(八坂寺)の元となる行基伝説、大善寺とみられる大師堂、徳盛寺の由緒となる「八ツ塚」、生木地蔵(正善寺)が登場する。十夜ヶ橋(永徳寺)は『宿附帳』『名所図会』に至って記述に現れる。以上の10か寺は江戸時代から番外と認知されていたことがうかがえる。つまり半分であり、番外の栄枯盛衰を感じざるを得ない。同霊場の開創は昭和42年であり、昭和40年代当時有力であった番外寺院を集めたのだが、江戸時代の有力番外とは異なっていることが明らかとなった。
 『道指南』にはこのほか、柳の水(柳水庵)、右衛門三郎塚(杖杉庵)、くろ藪(釈迦庵)、取星寺、星谷岩屋寺(星谷寺)、千光密寺(花山神社)、真念庵、満願寺、寿松庵(楽水大師堂)、室岡山(蓮華寺)、世田薬師(栴檀寺)、仏生山(法然寺)、園子尼の寺(地蔵寺)、護摩山(胎蔵峰寺)といった、現在の『ひとり歩き』に登場する番外札所の原型というべき札所が記載されている。また『霊場記』には、花蔵院(建治寺)、行道所(行当岬不動岩)に触れた記載が登場する。現在につながる番外札所が形成されつつあった証といえる。

 (五)結論

 澄禅の日記に記載された寺社・霊跡は大きく二つに分けられる。意識して立ち寄った札所(本論の第1群、第2群)と、単に宿泊したか有名寺社を記録しただけの所(第3群、第4群)である。前者は『道指南』以降の記述とも合致するところが多く、現在にもつながる番外札所であるといえる。一方、後者はその後の文献にほとんど現れない。現在まで連綿と続く番外札所は、金毘羅、月山、篠山、仙龍寺、海岸寺、慈眼寺などである。『道指南』以後、鯖大師など現在につながる番外札所の原型が漸次登場する。しかし、現在主要な番外とされる四国別格二十霊場と重なるのは半分にも満たず、澄禅の記載と合致するのは実質3か寺にすぎない。同霊場はあくまで昭和40年代に有力だった番外を集めて作ったということ。そのことからも、番外札所は時代とともに栄枯盛衰するものであることがわかった。

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顱嵎奸廚呂靴鵑砲紊Δ膨察「辺」の異体字。本論では以下「辺」と表記。底本に宮崎忍勝『澄禅四国遍路日記』(大東出版社、1977)を使い、近藤喜博『四国遍路研究』(三弥井書店、1982)、伊予史談会『四国遍路記集』増訂3版(伊予史談会、1997)を参照、塩竃神社(宮城県塩釜市)所蔵の正徳4年(1714)写本の影印本(高野山大学図書館所蔵)を参照し校訂した。
魄僕住肪眠顱愡郵駟從記集』増訂3版を底本とした。
鷭蚕蠅砲弔い討魯侫ールドワークを導入した研究方法を採っている筆者としては、その一々について表記すべきと考えており()内に示した。澄禅日記に記載のある札所のすべての住所は現在の地名に比定している。以下、紙福の関係で省略する。
伊予史談会『四国遍路記集』増訂3版を底本とした。
鷲敷町古文書研究会翻刻、2006
伊予史談会『四国遍路記集』増訂3版を底本とした。
へんろみち保存協力会、2007
札所の詳細は拙著『公認先達が綴った遍路と巡礼の実践学』(2007、高野山出版社)

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