梶川伸「ちょっと歩き四国遍路・のんびり湯ったり編」(毎日新聞旅行「ちょっと歩き四国遍路・のんびり湯ったり編」の先達メモ)(3)

  

              梶川伸・毎日新聞旅行「ちょっと歩き四国遍路・のんびり湯ったり編」先達(「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会副会長)

              

   ◆◇ちょっと歩き四国遍路・のんびり湯ったり編(4)◇◆
(毎日新聞旅行「ちょっと歩き四国遍路・のんびり湯ったり編」の先達メモ)


 毎日新旅行の遍路旅シリーズ「ちょっと歩き四国遍路・のんびり湯ったり編」が続いている。私が先達を務める第9シリーズとなった。とは言っても、前シリーズ「のんびり逆打ち」が途中で立ち消えになったので、今回はその穴埋めも兼ねている。
 
 行程は私が考えた。1泊2日ずつ16回に分けて、四国88カ所と高野山に参拝する。基本はバスを使った霊場の参拝だが、昔から続く良い遍路道の一部を歩くので、「ちょっと歩き」と銘打っている。以前はたくさん歩いたが、私が年齢を重ね、何かトラブルがあった時に、参加者を十分にサポートする力が衰えてきているという自覚があり、このところ「ちょっと歩き」に変更している。
 
 また、遍路は四国の風土を抜きには考えられないという私の考えから、霊場以外にも寄り道をする。四国の良いところを知ってもらいたいと思う。昼食はなるべく地元の料理、食べ物を選んだが、これも四国全体を体感してもらいたい、という思いからだ。
 しかもシリーズのタイトル通り、せかせか回らず、ノンビリと余裕を持って回る。宿もできるだけ温泉に泊まる。日本人は少し急ぎすぎているので、ゆっくりと四国を回って、人生や自分を見つめ直すきっかけになればいいと思っている。そんな遍路旅の、先達メモをお届けする。

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   ◆第10回(48番・西林寺〜53番・円明寺)
     =2017年12月8日〜9日


 ちょっと歩き四国遍路「のんびり、湯ったり編」も回を重ねて10回目となった。師走となり、あわただしさを感じる時期ではあるが、タイトル通り「のんびり、湯ったり」の2日間だった。

 出発地点の毎日新聞に行くまでは、冷たい雨が降っていた。ところがバスが動き出すと雨はやむ。毎回のように、天気は幸運に恵まれるのだが、今回もそうだった。結局、傘を使ったのは、バスに乗るまでだけだったのだから。

 瀬戸大橋経由で香川県に入った。昼食場所の関係で、淡路島―高松道よりも少しだが、かかる時間が短いからだ。途中、山陽道の竜野西サービスエリアで休憩をした。クリスマスムードがいっぱいで、アイスクリームの広告看板にもクリスマス飾りがしてあった。


【淡路島サービスエリア】
 
 昼食は丸亀市、一鶴の骨付鳥にした。なるべく地元のものを食べるのが、この遍路旅のコンセプトになっている。遍路のことを知るには、四国そのものを知る必要があると思うからだ。

 香川県の食べ物では、骨付鶏はうどんに次いで人気があるのではないか。だから各シリーズで、必ずといってよいほど組み込む。スパイスをきかしてローストした骨付きの鶏のもも肉をかぶりつく。

 おおむね好評ではあるのだが、鶏肉は好き嫌いがはっきりしているので難しい。今回も、鶏がダメな人がいた。ところが、この店は骨付鶏以外は鶏めし、鶏のスープなど、ほとんどが鶏のメニュー。申し訳なかったが、サラダとおにぎりのような粗末な昼食で我慢してもらった。


      ↑一鶴の骨付鶏


【石鎚山ハイウェイオアシス】

 今回も遠い場所の遍路なので、昼食の後も松山道の石鎚山サービスエリアで1度休憩をとった。ここも淡路島ハイウェイオアシス、吉野川ハイウェイオアシスと同様、サービスエリアに併設されている。しかし、石鎚山の場合は、オアシスは次第に寂れていっている気がする。だから、ある時期から、オアシスには行かず、サービスエリアの方を休憩場所にしている。

 <バスから降りて周囲を見た。山はうっすらと雪を被っていた。師走の遍路を再確認した。日が照れば暖かく、曇ればブルルと寒い、そんな遍路だった。BR>

      ↑石鎚山サービスエリアから見た山はうっすらと雪を被っていた。


【48番・西林寺】

 今回の最初のお参りは48番・西林寺だった。「本尊十一面観音」の銘の入った鐘を打って、今回の遍路がスタートした。境内はあまり広くない。本堂までの間に、枯れ木を利用した屋根だけの傘型の簡単な堂があり、傘の下に石仏が安置されていた。

 大師堂には大師につながる結縁のひも取り付けてあった。そばにはサザンカの木が2本。初冬の赤い色だが、風に花びらが散る。風が吹けば寒い。自然と寺にいる時間が短くなる。バスに早めに戻る参加者が多いが、私は山門のそばの正岡子規の句碑を見てからにした。

 「秋風や高井のていれぎ三津の鯛」。「高井」は地名で、「ていれぎ」は刺し身のつまにするような水辺の植物。「クレソンのよう」と説明してくれた人がいる。このあたりも空海の水にまつわる伝説がある。水に恵まれた地で、ていれぎの産地でもあったに違いない。「三津」は漁港がある場所の地名を詠んでいる。この句碑に限らず、今回は俳句に縁のある遍路だった。正岡子規の住んだ松山だからだろう。


      ↑正岡子規の句碑


【杖が淵公園】

 遠くの山の雪を見ながら、バスで杖が淵公園に移動する。とはいっても、すぐ近くではあるが。

 空海の杖によって水が湧いたという伝説はいたるところにあり、ここもその1つだ。今は松山市が整備して、親水公園として市民に親しまれている。日本の名水100選にも入っている。

 訪ねたのは2回目で、前回は初夏だったので、公園は家族連れであふれていた。しかし今回は12月。寒さの中では人の姿はほとんどない。昼食のころに比べて、気温が下がってきたように感じる。駐車場もガラガラだった。

 公園に入ると、人工的な流れが作ってある。その先には池。コイが泳ぎ、カモが遊んでいた。天気がよくなったので、池の水が青い。池の中央に小島があり、道と橋でつながっている。島には小さな社があり、空海の像も立っている。

 島への渡り口に、また子規の句碑があった。「ていれぎの下葉浅黄に秋の風」。また、ていれぎを詠んだものだった。


     ↑杖が淵公園の池


     ↑子規の句碑


【49番・浄土寺】

 49番・浄土寺も鐘を打ってから参拝した。ここの鐘には南無釈迦如来」の文字がある。ここにも子規の句碑があった。「霜月の空也は骨に行きにける」


      ↑空也を読んだ子規の句碑

 この寺には空也が滞留したことがあり、空也の像も安置されている。見ることはできないが、本堂のそばに説明板があり、写真とともに空也について書いてある。像は口から6体の阿弥陀如来を吐き出しているもので、京都の六波羅蜜寺に似たものが安置されている。一行は写真を見ながら、京都にも思いをはせた。


      ↑空也像の説明板

【50番・繁多寺】

 浄土寺から0番・繁多寺までは。バスで行けば10分もかからない。山門の前に池があり、ここでもカモがノンビリと泳いでいた。ナンテンやマンリョウの実が境内に赤い色を添えている。冬は花が少なく、赤い実が寺の貴重な色だ。



      ↑境内のナンテン

 鐘楼の天井画をみんなで見る。中国の二十四孝子の絵で埋められている。親を襲っているトラに自分の手を差し出し、親の身代わりになろうとする孝行息子などが描かれている。これは極端だが、参加者からは「親孝行な子どもは最近はいない」の声出た。

 その時に思い出したのが、福井県丸岡町(現在は福井県坂井市丸岡町)が募集し、優秀作を本にした「日本一短い母への手紙」だった。覚えていた入選作のいくつかを、バスの中で紹介した。改めて本から抜粋してみる。

 「洗濯機の件。泣く場所がなくなるから、かあさん、全自動はやめたほうがいい」「就職は 母さんのふるさとに決めた 風邪ひいちょらんね?」「お母さん、寂しくなったら鏡見てみ。きっとその中に同じ顔した私がおるさかい」「おっぱいとってよかったじゃん かわりに命がのこったで 大事にせにゃならんに」「おふくろ、死ぬなよ。いいと言うまで死ぬなよ。親孝行が全部終わるまで死ぬなよ」

 これを読むと、今でも親孝行な子どもは多いと思のではないか。最後の手紙など、読んでいて涙が出そうになる。


      ↑二十四孝子の絵が描かれた鐘楼の天井


【宿】

 宿は松山市・道後温泉の椿館別館で、初めて泊まる宿だった。道後温泉は今、変貌を遂げている。地震対策もあって、いくつかの旅館・ホテルが建て替え中なのだ。毎日新聞旅行の定宿もそうで、すっかり建物がなくなっていた。道後のシンボルの道後温泉本館(坊っちゃん湯)も近く大がかりな改修工事が予定されている。そのため、本館に代わるものとして飛鳥之温泉(あすかのゆ)も直前にオープンしていた。

 宿に早めに着いたので、風呂や夕食の前に、希望者を案内して道後のまちを散策した。さすがに夕方になって寒くなってきたので、40分ほどのまち歩きだった。

 タルトの店「六時堂」に寄った。10個も買って送っている仲間がいて驚いた。伊予鉄道の道後温泉駅に着くと、売店はスターバックスに代わっていた。ホームにはスターバックスの店のデザインを施した列車が入ってきて、思わずカメラを向けた。


 ↑スターバックスのデザインの電車

 駅の前に、からくり時計がある。午後5時に合わせたからくり見た。時計の塔の下に足湯があり、何人かが足を暖めていたが、寒さの中では足をつけてみる勇気はなかった。

 宿に戻って一風呂浴びた。内湯と露天風呂がある。寒かったが露天にも入った。湯船につかっていると、20代の若い人が声をかけてきた。「よく来られるのですか」

 若い人の方から声をかけられることは少ない。ちょっと驚いたが。人なつっこい人で、しばらく話をした。遍路で来ていることを告げたが、あまり反応がない。ひょっとすると、遍路を知らないのかもしれない。

 本人は広島市の会社に勤め、この日は職場の忘年会だという。全員で午後から休みを取り、車に分乗して来たとそうだ。土曜日にかけての1泊での忘年会で、毎年どこかに行っているらしい。「お先に」と言って湯船を出ていったが、おもしろい体験をしたと感じた。

 食事はバイキング。1人鍋やステーキ、カニなどバラエティーに富んでいた。なかでもミカンずしが変わっていた。金糸玉子、キュウリなどを使った簡単なばらずしで小皿に乗り、周りに甘いミカンが並べてある。さすがミカンの産地。やや抵抗感があったが、食べてみると、結構いける。ドリンクのコーナーには、当然のようにポンジュースが置いてあった。

 朝は早めに起きて、改修を控えた道後温泉本館へ。午前6時の開館に合わせて行ったが、すでに何人も寒さの中で待っていた。宿への帰り、椿館本館に寄った。別館の客は本館の風呂にも入れるからだ。道後では3つの風呂に入ったことになる。


      ↑夕食のバイキングは料理の種類が豊富だった


【51番・石手寺】

 2日目は51番・石手寺の参拝から始まった。寺に着いたのは午前8時すぎなので、境内はすがすがしい。寺の人が地面に竹ぼうきの跡をつけている。読経の声が流れてくる。赤い花をつけたサザンカの木が何本もある。それらすべてが、初冬の寺の朝を演出していて、寒さも含めて身が引き締まる思いがする。


      ↑竹ぼうきの後が境内に

 本堂のお参りをすませ、洞窟になっている通路を通って奥の院に行く。ここもサザンカがたくさんある。再び洞窟通路を通って戻り、大師堂などを巡る。三重塔の前には千羽鶴を奉納する場所があり、十善戒の1つ目の「不殺生」が力強く墨書してある。それは日本が戦争の方向に向かっているのではないか、という警告と読み取れる。


      ↑大書された不殺生の文字

 境内の一角に、性善寺建立のための募金箱を見つけた。性善寺は「四国88ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会の仲間の僧、柴谷宗叔さんが建てようとしている寺だ。「性的マイノリティーの人が相談に来られるような寺をつくりたい」というのが、自身も性同一性障害を克服した柴谷さんの念願で、実家を改造して寺にすることを決め、2018年から建設に入る。

 そのための寄金を呼びかけていて、石手寺の住職が賛同してくれたようだ。私も仲間として、建立のための発起人に名を連ねているで、びっくりした。柴谷さんは「住職がそこまでやってくれているとは」と、感動していた。

 バスに戻る途中、塔頭の地蔵院に寄った。山頭火の句碑があり、「うれしいことも かなしいことも 草しげる」と刻んであった。


      ↑性善寺建立の寄進を求める募金箱


【52番・太山寺】

 52番・太山寺に向かう途中、車窓から瀬戸内海が見える。天気が良いので、海の色が青い。寺は駐車場から高い木に包まれた参道を登っていく。ここの雰囲気がいい。道はそれなりに幅があり、傾斜もそれほどきつくはないので、ゆったりした気分で歩いていける。道ばたには句碑がいくつか設置してあり、「月の虫や月の照らざる側にも虫」という変わった句が目につき、作者を見ると徳永山冬子とあった。

 最後に石段をの登り、登り切ると国宝の本堂が目の前にある。堂々としていて、四方に広く屋根を広げる。ここでもゆったりとした気分になる。大師堂は一段高いところに立ち、そこから本堂を見ると、屋根の広がりがよくわかる。しかも青空。気分が晴れる。

 若い3人組の女性グループが参拝していた。私たちのグループの読経と重なり、こちらも気を使ったが、あちらも邪魔にならないような唱え方で、その礼儀正しさに感心した。

 ここの鐘楼にも天井画がある。鐘楼は2階建てで、鐘は2階にある。ロープが垂れ下がり、それを引っ張って打ち鳴らす。天井画はの1階の天井部分で、ロープが下りてくる中央部は、天井が切れていた。

      ↑太山寺の鐘楼の天井画


【53番・円明寺】

 バスなので、53番・円明寺までは5分かかるかかからないかで、すぐに着く。山門をくぐり、さらに中門をくぐって本堂へ行く。お参りの後、説明板を見る。本尊の阿弥陀如来、厨子、1650年の銅板の納め札の写真と説明文が掲示してある。いずれも見ることができないものばかりなので、それで見るしかない。


      ↑本堂の前の説明板


【ニューマートよしの】

 円明寺の参拝の後に、楽しみがあった。寺のすぐそばに、小さなスーパーのような、八百屋のような商店「ニューマートよしの」がある。そこが安いとテレビ番組で紹介していたからだ。行ってみると、確かに野菜や果物が安い。バナナ3袋100円、カイワレが1パック10円には仰天した。

      ↑ニューマートよしのの商品は安かった


【昼食】

 昼食場所は、西林寺の子規の句碑にあった三津=三津浜。店の名前は「鯛や」。料理は「鯛めし御膳」。古い民家を使った店だった。暖房は火鉢で、懐かしいし、風情もあった。

 その日の朝、三津浜で獲れた鯛を使う。料理は1人用の朱塗りの膳(ぜん)に乗って運ばれてくる。鯛の刺し身が、おかずのメーンで、厚く切ってあり、シコシコと歯ごたえがいい。鯛のかまの吸い物がついているが、身がたくさんある。トラハゼの南蛮漬け、小鉢が3つと漬け物。結構にぎやかな御膳ではあるが、主役は鯛の炊き込みご飯だ。

 しょうゆの色のついたご飯に、鯛のだしがしみこんでいる。その上にほぐしたまっ白な鯛の身が乗っている。それに細いコンブというシンプルな組み合わせ。それが1合もある。食べきれる量ではないので、店の人は最初から「残ればお握りにします」と話していた。こちらの人数が多いので、「それは申し訳ない」ということになり、ラップをもらってそれぞれで包んで持って出た。ただ私は、根性を出して食べ切った。

      ↑鯛やの鯛めし御膳


【松山城】

 この遍路は、参拝だけでなく、四国の良い所を見てもらうことを目的にしている。今回は松山城を遍路旅の最後に組み込んだ。ロープウェイで上まで登り、さらに天守閣に上がった。屋根の灰色の瓦と白い壁、黒い板塀の組み合わせが美しく、しかも組み合わせがさまざまで、その姿に見とれてしまう。

 帰りはリフトで下りた。年齢が高い人が多く、リフトは久し振りなのか、結構はしゃいでいた。


      ↑松山城


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   ◆第11回(54番・延命寺〜59番・国分寺)
     =2018年2月9日〜10日


 「ちょっと歩き四国遍路 のんびり、湯ったり編」の11回目は、初日は好天、2日目は雨だった。このところ、きわどいところで雨を逃れてきた。その幸運はまだ続いているようで、2日目の雨もお参りをしている時は小雨で、傘なしでも何とかなる状態。バスで帰る際になってから本格的な雨。何と運のいいことか。

 今回の参加者は12人。私は2003年に、初めて毎日新聞の遍路旅の案内人を務めた。その時の参加メンバーのうちの4人が、今回顔を揃えたのでびっくりした。


【しまなみ海道】

 真冬のことなので、寒い朝だった。バスに乗り込み、今回は山陽自動車道、しまなみ海道を通って四国に入る。午前8時に大阪・梅田を出て、しまなみ海道に入ったのは正午ごろ。その間に竜野西、福山のサービスエリアで休憩を取った。

 バスの中で時間があるので、お遍路さんのための休憩所づくりしている「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会のことを少し話した。実は昨年(2017年)12月に、2代目会長をお願いした元朝日新聞論説委員の辰濃和男さん、その10日後に初代会長の早坂暁さんが相次いで亡くなり、大変びっくりしてので、そのことに触れた。

 早坂さんとは1996年だったか97年だったか、香川県で2度会ったことがある。私は毎日新聞の高松支局で勤務していた。原爆をテーマにした早坂さん原作の映画「夏少女」が、全国で自主上映されていた。香川県でもその動きがあり、中心になっていた女性は知り合いで、微力ながら手伝いをした。

 上映にあたり、早坂さんを香川県に2回巻いた。1回は80番・国分寺のそばにある彼女の家で集まった。上映前の打ち合わせという名目ではあったが、食事をしながらの懇親会のようなものだった。そこで知ったのは、早坂さんはお酒を飲まないということだった。

 もう1回は坂出市の瀬戸大橋の下の屋外の広場だった。香川県といえば讃岐うどん。その中でも、ドジョウの打ち込みうどんで、もてなすことを計画した。打ち込みうどんとは、煮込みうどんのこと。ドジョウを具とだしに使うのも、讃岐うどんの1つのジャンルで、祝いごとなどの時に、大勢で楽しむ。

 早坂さんは初めての味だったようで、大きな鍋で煮込むと、集まった10人あまりの仲間と談笑しながら、讃岐の味を楽しんでいた。バスの中では、そんな思い出話を披露した。

【昼食】

 しまなみ海道を通ったのは、大三島の大山祇(おおやまずみ)神社に寄るためだった。神社のそばに食堂「大」があり、そこが昼食の場所だった。魚料理が人気の大衆食堂然とした店で、昼ご飯の時間帯時はいつも客が列を作っている。今回もそうだった。しかし、食堂の前の土産物屋さんの経営者と添乗員さんが知り合いになり、経営者の口利きで、予約をしてもらえるのがありがたい。

 乗ってきたバスは土産物屋の止め、店の女性が一行を食堂に案内してくれた。横断歩道を渡りながら、女性が話し出す。「この島は歩行者優先ではないですから」。自動車に乗る人が、交通ルールをあまり守らないということを言いたかったようだ。人なつっこい人だった。

 この店で食べる時は、決まって海鮮丼を選ぶ。口は広くはないが、深い丼に酢飯が入っていて、金糸玉子を敷いた上に、海鮮が並べてある。エビ、イカ、マグロ、ハマチ、ミニホタテ、サーモン、トビッ子。それにカニのみそ汁がついていた。丼が深いせいか、見た目よりもご飯がたくさん入っていて、満腹した。


      ↑海鮮丼


【大山祇神社】

 ここに参拝する目的の1つは、国宝館を見ることだ。国宝や重要文化財に指定されている武具類の4割がここにある。

 まずお参り。境内にではクスノキが目につく。樹齢3000年とされる木の説明には、最古のクスノキとあった。幹はほとんど皮ばかりになっている。それなのに、水や栄養を運び、生きている。命というものの力強さを知る。樹齢2600年のものもあった。

 本殿で手を合わせ、一宮巡りをしている女性は、朱印をもらっていた。ここが伊予の一宮だからだ。

 続いて国宝館へ。参加者の中には、歴史好きの男性がいて、バスの中でも楽しみにしていることを話していた。国宝館には、教科書で習った武将が奉納した武具もたくさんある。北条時宗が奉納した太刀、源義経の刀、巴御前のなぎなた。弁慶のものもあったが、説明には「伝弁慶」と「伝」がついていた。護良親王、後村上天皇、山中鹿之介、平重盛、源頼朝の太刀やよろい……。目がくらんでしまう。

 国宝館の横に海事博物館がある。時間がないので、チラリとだけのぞいてみようと思った。中に入ろうとすると、係の女性が話しかけてきた。「今日は朝から、ピーヒョロと鳥が鳴くんです。何の鳥でしょうね」。「ピーヒョロなら、トンビなのではないですか」と、いい加減に答えてみた。すると女性は「今年初めてです」と話を続ける。結局、中を見ずにバスに向かうことになった。


      ↑樹齢3000年とされるクスノキ


【56番・泰山寺】

 今回の四国霊場の参拝は54番・延命寺から60番・国分寺まで。順番に回る予定だったが、順番を入れ替えた。2日目に「ちょっと歩き」を計画していたが、雨の予報だったからだ。1日目は好天なのに、とは思いながらも、最近の天気予報はよく当たるので、お参りの順番を入れ替えることにした。

 初日は、56番・泰山寺からスタートとなった。寺は駐車場から少し歩く。石垣を右に見ながら行く。この石垣が新しくなって6、7年だろうか。最後は少し石段を登る。

 暖かくなってきた。そう感じながら手水に行くと、水受けの下の方に雪が残っていて、私たちが四国へ行く直前まで寒かったことを教えてくれた。

 本堂に続いて大師堂に行くと、その横の小さな池に氷が張っていた。参加者の1人が小さな石を氷の上に投げたが、びくともしない。それなり厚さがあるのがわかり、ここでも、この日の暖かさとそれまでの寒さとの落差を知ることになった。


      ↑大師堂の横の池は氷が張っていた


【57番・栄福寺】

 57番・栄福寺も、バスを降りてからしばらく歩く。風がなく、歩いていても暖かい。 鐘をついてみる。余韻が長く続き、かすかになっていく音を聞いていると、心が落ち着いてくる。

 本堂の前には、新しい仏足石が設けてあった。前回の遍路旅のシリーズで参った時にあったのだろうか、と思ったが、思い出せない。ただ、いずれにしてもまだ新しい。その横に、本尊とを結ぶ結縁のひもが延びていた。

 大師堂の前面には、ガラスが入っている。中が暗いので、鏡のようになり、お参りをしていると、自分は外の景色が写る。背中側には、修行大師の像が立つ。像の前には、四国八十八カ所の砂が埋めてあり、「お砂踏み」の場になっている。

 ガラスの鏡には、堂の外の修行大師が写っている。堂の中にも大師の像がある。前後2つの大師を同時に拝むような不思議な空間だった。


      ↑大師堂で手を合わせると、背後の大師も写って見える


【58番・仙遊寺】

 バスで58番・仙遊寺の山門に行く。今回の「ちょっと歩き」の1つが、ここから本堂までの参道だった。日程を変えたのは、このためだった。軟弱な遍路ではあるかもしれないが、参加者の年齢層や状況を考えると、正解かもしれない。

 歩くのは10分あまりで、たいした距離ではない。しかし、ずっと上るし、傾斜も急なので、ストレッチ運動をしてから歩くことにした。

 ストレッチの指導役は、1回目のシリーズに参加し、今回も顔を見せた男性だった。1回目の時、何も知らない私を見て、「梶川さんにストレッチを指導してもらうのは忍びない」と言って、自らリーダーを買って出た。以来、「ストレッチの先生」のあだ名がついた。


      ↑まずストレッチ

 境内の参道をゆっくり登っていく。途中に「弘法大師のお加持水」と呼ばれる湧き水がある。ひしゃくも置いてあるが、暖かいとはいえ冬だということもあり、だれも飲んでみることはしなかった。

 少し汗ばんできたころ、本堂の高さの地点に着いた。鐘楼のそばの地面は、雪が覆っていた。しまなみ海道の橋をはるか下に見る場所なので、下界と比べれば大分寒いのだろう。


      ↑境内には雪が残っていた

 境内には子宝観音と名づけられた大きな石像が立っている。2003年のメンバー4人のうちの1人の女性は、この観音に会うために今回参加したのだろうと想像した。  彼女は娘を25歳の誕生日の5日前に、交通事故で亡くした。悲しみの中で私たちの遍路に参加してきた。当時もバスと歩きを交えた遍路だったが、昔ながらの良い遍路道はほとんど歩いたので、しんどさは格段と上だった。

 標高300メートルの道を登り、子宝観音の顔を見上げた時、彼女は「娘に会った」と感じた。仏像の表情に、娘の面影が重なったという。

 寺に聞くと、この仏像は私たちが仙遊寺を訪れた1年前に寄進された。寄進したのは、子宝に恵まれなかった老夫婦だった。私たちがその仏像に出会う1月ほど前に、何と老夫婦は相次いで亡くなったそうだ。そのことを知り、彼女は別の機会に、老夫婦の墓に手を合わせるために、寺を訪れたと話していた。子宝観音は娘を亡くした彼女のために建てられ、彼女に引き継がれたようなものだった。

 彼女は娘に会ってから、仏像の彫刻を習い始めた。15年たっても続けている。娘を彫っているのだろう。だから、仙遊寺がコースに含まれている遍路旅に参加したのではないか。


      ↑子宝観音


【宿】

 宿は今治市の奥座敷と呼ばれる鈍川温泉郷の鈍川温泉ホテルだった。毎日新聞旅行の遍路旅でこのあたり行くと、宿はここに決めている。

 初めて泊まった時のことだった。参加していた夫婦に大阪から電話があった。母親の容体が悪くなったという。夫婦は宿の女将に大阪に帰る方法を聞いたが、夜になっているので、列車ではその日のうちには間に合わない。そこで女将が言った。松山市・道後温泉から夜行バスで出ているので、バス亭まで自分が車を運転して送る、と。

 女将の気遣いが心に残り、感謝の意味も込めて、以後はこの宿に泊まる。車で送ってもらった夫婦は結局、その時は止まることはなかった。しかし次のシリーズでこの宿が組み込まれている回だけ夫婦で参加し、女将をお礼を言ったのを覚えている。

 宿に着くと、女将の第一声は「お元気でしたか」だった。コーヒーを1杯お接待してくれ、小さなお盆に乗せて運ばれて来たが、ミニの花瓶に生花が活けてあった。いつもの心遣いでもある。

 私が参加している「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会は、2018年3月3日に松山市で、第12回総会兼記念講演会を開く。その案内チラシを10部あまりコピーして持参していたので、女将に「フロントのカウンターの上に置かせてもらえないか」と頼んだ。

 女将はしばらくチラシをながめてから、口を開いた。「行ってみたいのですが、用事がありまして」

 私としては参加をお願いしたわけではない。チラシを置いてもれえればありがたいと考えていただけだ。それなのに、自分が行けないかどうかも考えてくれ、私に謝りながらチラシをカウンターにセットしてくれた。

 夕食の席にも、女将が現れてあいさつをした。ひざが悪く、正座ができないことをわびた。なかなかできる人だと思う。

 メニューはイノブタの紙鍋、タイのカルパッチョ、イカ・シイタケ・ナスの串揚げ、刺し身、タイのかぶと煮。イノブタは雄のイノシシと雌の豚を掛け合わせたもの。今治市の名物でもあるが、最近は養殖業者が減ってきたと、若女将が話していた。

 翌朝目が覚めたのは5時半すぎだった。6時から朝風呂に入るので、その前にテレビをつけた。「あの人に会いたい」という番組が始まった。亡くなった人を取り上げるもので、何と早坂暁さんが主人公だった。

 不思議な縁だと思い、番組に見入った。原爆をテーマにした「夢千代日記」「夏少女」と、遍路をテーマにした「花へんろ」の3作品が中心だった。番組の中で早坂さんが語っていたことが心にしみる。

 早坂さんは海軍兵学校に入った。広島に新型爆弾(原爆)が投下されたことを知り、松山の実家に帰る。その途中、広島を通り、「何百、何千ものリンが燃えていた」と思い出す。リンは遺体から出たもので、その光景が忘れられず、体内被曝の問題を扱った夢千代日記へと結実していく。

 早坂さんの実家は商家で、小さいころから親に命じられ、米をお遍路さんに渡すなどのお接待をしていた。そのことが花へんろの下敷きなった。記憶に残っているのは、膝にタイヤのゴムを巻いたお遍路さんで、這うようにして回っていたという。早坂さんは「人はだれでも悲しみを持って生きている」と語り、その意味で「人生は遍路」とも言った。

 「夏少女」は早坂さんに会いに行こうとした妹が原爆に遭い、12歳で命を失った。妹は実の妹ではなく、捨てられていた女の子を、早坂家で育てたと明かしていた。早坂さんは妹が原爆に遭遇したことを、「運が悪かった、ですませてはいけない」と訴えていた。

 バスの中で早坂さんの話をして翌朝、この番組を見るとは。毎日新聞旅行の3回前のシリーズは「ちょっと歩き・花へんろ」で、早坂さんの作品の題名を勝手に拝借して名づけたものだった。その遍路旅の参加者の中には、ご主人を亡くした女性がいた。妻と母親を相次いで亡くし、「死んでしまおうか」と何度も考えたという男性もいた。早坂さんが言うように、悲しみ抱えて遍路をしている人は多い。そんなことを考えながら、番組を見終わった。

 2日目は予報の通り、朝から雨だった。朝風呂に入り、朝食をとった。湯豆腐や焼き魚、サラダ、煮物など、たくさんのものが少しずつセットになっていて、ついつい全部食べてしまった。


      ↑朝ご飯


【54番・延命寺】

 宿を出る時は、雨はパラパラと行った程度だった。2日目の最初のお参りの54番・延命寺に着くと、傘がほしい降りになった。バスを降りて池のそばを歩く、山門を2つくぐる。鐘楼も2つある。

 参加者の1人の女性は1つの鐘をつき、丁寧に鐘向かって手を合わせていた。お参りの後、私は小高い所にあるもう1つの鐘楼にも行った。先の女性がついてきて、手を合わせている。

 鐘楼への登り口のあたりには、アシビの木が何本も植えてあり、小さな赤いつぼみをたくさんつけていた。その女性と「いつごろ咲くのだろう」といった会話をしながら、バスに戻った。


      ↑少し登った場所にある鐘


      ↑境内のアシビ


【糸山公園】

 しまなみ海道から四国に入ったが、橋の上を走っているだけで、橋をじっくりと見ていない。そこで、四国側の高台にある糸山公園に行き、目の前で来島海峡大橋をながめた。

 橋は小雨にけぶっていた。自転車に乗ったグループが、橋を渡っているのが見える。雨の中で長い間見てはいられないので、公園に設けられた展望館に入って、架橋に関する資料を見た。


      ↑糸山公園からの眺望


【55番・南光坊】

 55番・南光坊の山門は鐘楼も兼ねている。2階に鐘があり、撞木のロープが2階からぶら下がっている。そのロープを下向きに引っ張って、鐘を鳴らす。

 境内には句碑がいくつもある。「ものいへば唇寒し秋の風」の芭蕉の句碑もあった。私が好きなのは「花尊し」。自宅では庭や小さな花壇で、少し花を育てている。時々考えることがある。「花はなぜ美しいのか」。勝手に考えた結論がある。

 花が美しいと感じるのは、自分の中の遺伝子の一部と花の中の遺伝子の一部で、共鳴するもの、あるいは同じようなものがあるからではないか。共通するものは、命というものに対する捉え方ではないか。「命や生きていくことは美しい。それを人間n知らせるために、花は美しくある」。好き勝手な解釈だが、遍路をしていて、ますますそう感じるようになった。

 本尊は大通智勝仏。「勝」の文字にちなんでか、本堂の前の「勝守(かつまも)り」を新たに作ったことを知らせる看板が立ててあった。


      ↑「花尊し」の碑



      ↑「花尊し」の碑


【さいさいきて屋】

 遍路旅とは言いながら。女性メンバーのお楽しみの1つは買い物だ。今治市のJAの産直施設「さいさいきて屋」が今回の買い物場所だった。ここは大変人気がある。農産物中心だが、カフェもある。

 建物の外で天ぷらを揚げながら売っていた。参加者の1人がエビ天を買って食べていたので、つられて食べてみた。大岡蒲鉾店のもので120円。揚げたてだからか柔らかく、エビの味が強い。エビせんべいを食べているような印象を受ける。

 建物に入る。私は特に買う物もないので、農産物の売り場や海産物の売り場をウロウロする。赤ナマコのパックを、のぞき込むように見ている遍路のメンバーがいた。延命寺で鐘にも手を合わせていた女性だった。「好きなんですか」と聞いてみる。

 「夫が好きだったんです。去年亡くなりましたが。酒とたばこが命を縮めたのかもしれません」。これも早坂さんが言った「悲しみ」で、そのための遍路なのだろう。


      ↑エビ天


【59番・国分寺】

 雨は少しずつだが、強さを増してきた。国分寺ではほとんどの参加者が傘をさした。境内に入ると、空海の石像が迎えてくれる。右手を差し出していて、握手を求めている。空海の握手会である。  般若心経を唱える際は、本堂でも大師堂でも、屋根のひさしの下を利用した。大師堂では他のグループともかち合ったので、縁側のひさしの下で、しかも正面ではなく、右の側面に回り込んだ場所で唱えた。


      ↑右手を差し出した空海の石像


 国分寺は奈良時代に、聖武天皇の命で全国に造られて。当時の礎石が、寺から300メートルほどの場所にある。小降りながら雨の中なので、見たい人だけを案内することにした。

 礎石見物をパスし、バスに向かっていた女性があわてて寺の方に引き返してきた。線香入れを忘れたという。礎石の案内をいったんストップし、女性と一緒に探しに行った。ちょうどかち合ったグループも境内から出る所だった。私たちが急いで寺に戻っているのを見て、忘れ物と悟ったらしい。

 「数珠ですか」と1人が聞く。数珠の忘れ物もあったようだが、こちらは「線香入れ」と答えた。すると別の人が「大師堂の縁の横に回り込んだ所にあった」と教えてくれた。私たちが般若心経を唱えた場所だった。そこに行くと、確かにあった。遍路同士の助け合いのおかげだった。
 それから礎石の場所に行った。丸い大きな石がいくつも集めてあった。しかし、雨がさらに強くなってきたので、早々にバスに向かった。参拝はここまで。2日目は雨になったが、小降りの状態だったので、実に運がいい。



      ↑奈良時代の礎石


【昼食】

 昼食は今治タオル美術館ICHIHIROにある中華レストラン「王府井(ワンフーチン)。国分寺からバスで10分ほどだが、着いた時には雨は本降りになっていた。

 レストランの前は庭園になっている。ムーミンの物語の登場者の像が、いくつも配置されている。天気が良ければ、食事の後の散策にはいいが、雨が本格的になったので、建物内のタオルの販売場や四国の土産物売り場をのぞいて、バスに戻った。

 ここは変わった施設だと思う。大きな4階建てのビルで、自社のタオルをうるのが主目的だろうが、有料の美術館を持ち、レストラン、カフェもあり、四国土産のコーナーもある。

 レストランの前は庭園になっている。ムーミンの物語の登場者の像が、いくつも配置されている。天気が良ければ、食事の後の散策にはいいが、雨が本格的になったので、屋根の下でながめるだけにした。建物内のタオルの販売場は見るだけ。実は私が住んでいる京都府木津川市のイオンモール中に、ICHIHIROの店が入っていて、そこでタオルは時々買っているからだ。


      ↑王府井のランチ


      ↑庭園にはムーミンのオブジェが置いてある


【あんみつ館】

 大阪への帰り、徳島県美馬市の「あんみつ館」に寄った。シンピジウムの品種改良では、世界的に知られる河野メリクロンの展示場だ。

 初めて作ったシンピジウムが漫画の「あんみつ姫」に似ていると社長が感じ、品種名を「あんみつ姫」とした。展示場を設ける際も、記念すべき第1号の名前をかぶせた。見学者の中には、あんみつを食べられると思ってくる人もいる。このため、軽食コーナーであんみつも出すようになった。これらは、説明役から聞いた話だ。

 施設は3つの建物に分かれている。その中にランの鉢が並ぶ。艶やかで美しく、見応えがある。バレンタインデーが近いので、私たちのメンバーの1人ずつに、シンピジウムを1房ずつプレゼントしてくれた。思いがけず、遍路旅の華やかな締めくくりとなった。


      ↑あんみつ館のラン


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   ◆第12回(60番・横峰寺〜64番・前神寺)
     =2018年3月9日〜10日

 「ちょっと歩き四国遍路 のんびり、湯ったり編」のシリーズは、毎回のように天候に翻弄される。今回もそうで、それどころかいつもに輪をかけた状態だった。

 事前の天気予報では、遍路の2日間は雨だった。ところが低気圧の通過が早まったようで、前日になって予報が変わった。出発の日は午前中こそ雨が残るものの、午後にはあがると。

 出発当日の朝に家を出ると、雨は降っていない。これはラッキーで、今回も幸運だと喜んだ。


【昼食】

 今回の参加メンバーは9人。瀬戸大橋経由で四国に入ることになった。時々パラパラと雨粒がバスのガラス窓にあたる。しかし、傘がほしいほどではない。

 昼食は香川県善通寺市の和食の店「魚七」。大きなざるの中に小皿が並び、少しずつだがたくさんの料理が載っている。

 ランチのメニューを紹介する。刺し身(マグロ、ハマチ)、天ぷら(レンコンのはさみ揚げ、シシトウ、ナス、ニンジン、サツマイモ)、煮物(エビ、サトイモ、ゆば、ウスイエンドウ)、トリのみそ焼き、サケの切り身の南蛮漬け、豆腐のゴマだれ、干しダイコン、ご飯、みそ汁、デザート。よくこんなにも食べさせてくれるものだと、驚いてしまう。


      ↑魚七のランチ


【60番・横峰寺】

 今回の遍路のお楽しみは、60番・横峰寺だった。四国霊場で3番目に高い場所にあり、標高は750メートル。バスをマイクロバスに乗り換えて登る。その連絡のため、添乗員さんがバス会社に電話をして、予想外の展開になった。横峰寺は雪が降っている。しかも、午後の方が強くなるというのだ。

 横峰寺を翌日に回すかどうか相談したが、山の下の雰囲気ではよくわからないので、マイクロバスへの乗り継ぎ場所まで行って判断することにした。黒瀬湖を見ながら、乗り継ぎ場所まで行く。そこでも雪はない。山上も少し降りが収まったようにも思われ、予定通りこの日に参拝することにした。

 バスが寺に近づくと、薄っすらだが雪景色に変わった。本堂は駐車上から10分ほど緩い坂道を下りていく。雪の降りはチラホラだが、道が滑りやすいので、注意しながら本堂へ向かった。

 本堂の周辺は薄い雪化粧だった。シャクナゲが林立している山の斜面も軽く雪を乗せている。本堂の屋根は積雪と言えるほどの層になっている。般若心経を唱えていると、屋根から雪がドサッと落ちてきて驚く。お参りの時は雪がほとんどやみ、温度も上がってきらからだろう。しかし、数珠を持つ手は冷たくなっていく。

 本来なら、奥の院の星ヶ森まで歩いていく行程になっていた。運が良ければ、そこから石鎚山が見られるからだ。しかし、道が滑りやすいことと、雪が再び強く降る恐れもあるので、安全策を取り、星ヶ森行きは断念した。行っても石鎚山が見えるはずがないことも、判断する1つの要素になった。


      ↑雪化粧の横峰寺


【光明寺】

  山から下りてきたが、星ヶ森を省略したので時間が余っている。そこで、西条市の光明寺に参拝することにした。

 安藤忠雄さん設計の寺。池に建てた浮御堂のような印象を受ける。西条市は水に恵まれ、「打ち抜き」という湧き水がいたるところにあり、寺の池はそれをイメージしたものかもしれない。本堂は木をたくさん使っている。外観は細めの角材を縦に並べたデザインになっている。このため、スッキリした印象を与える。

 本堂は池の外にある建物にいったん入り、靴を脱いで廊下を少し歩き、短い屋根つきの橋を渡っていく。本堂に入れる時間は限られていて、午後2時から4時。運のいいことに、3時半すぎだったので、本堂に入れてもらえることになった。外観だけでなく、内部も細めの角材が縦にふんだんに使われていた。


      ↑光明寺


【宿】

 この日の宿は、今治市のホテル・アジュール「汐の丸」だった。光明寺に寄ったものの、通常よりも早めの午後4時半すぎに宿に着いた。温泉でもあり、ノンビリすることに決めた。

 ゆっくりと温泉に入って、夕食となった。刺し身や天ぷらなど定番料理と鯛の釜飯など豊富なメニューだが、印象に残ったのは、前菜の中にあったケンツボの煮付けで、佃煮風にしてあった。知らない名前だったので、インターネットで調べると、どうもニシ貝のこの土地の方言のようだ。もう1つ印象に残ったのは塩鍋。水炊きに塩を入れたような1人鍋で、あっさりしているのでたくさん食べられる。さらにもう1つ、魚のすり身を丸めてユズの香りもつけたユズ団子もよかった。

 夕食の席で、参加者の男性が自分の家の「嫁と姑」の問題を語り始めた。昔からのテーマではあるが、年齢の高い参加者には少なからず似た体験があるようで、食卓の話題となった。そんな話が出るのも、普通のツアーとは違うところだろう。

 ホテルは桜井総合公園の中にある。グラウンドやテニスコートといったスポーツ施設や、子どもの遊び場もある。ホテルから海も近い。朝は公園を散歩した。ちょうど朝日が昇る時間帯で。海を入れた写真を撮ることができた。早起きが得意な人間の特権である。


      ↑桜井総合公園から見た朝日

 朝食はバイキングだった。気に入ったのは、さつま汁飯だった。さつま汁は愛媛県の郷土料理で、南予でよく食べる。焼いた鯛などの魚をほぐし、薄いみそ汁のようなものに混ぜてあって、それをご飯にかけて食べる。ひゅうが飯と言ったり、伊予さつまと言ったりする。対岸の九州の「冷や汁」とよく似ている。

 ホテルのさつま汁はちょっと変わっていて、鯛など数種類の生の魚がさいの目に切って、薄いみその汁に入れてある。それをご飯にかける。ぶつ切り刺し身を乗せたちらしずしに、薄いみそ汁をかけたような料理だが、魚をたくさん食べることができて、朝から得をした気分になった。

      ↑さつま汁飯

 バスでホテルを出発する。従業員の女性2人が、「またのお越しをまっとるけん」と書かれた大きな布を広げて送ってくれた。


      ↑ホテルの見送り


【61番・香園寺】

 2日目の最初のお参りは、61番・香園寺から始まった。この寺は何度行っても驚く。本堂が大きな四角いコンクリートの建物だからだ。ろうそく立てと線香立てが一体になっているのも変わっている。

 お参りは本堂の中で行う。そこは2階で、これまでは本堂に向かって左側の階段を登ったが、そこは通行止めになっていて、右側から中へ入っていった。そういえば、左側の階段の上り口のそばにあった納経所が、建て替え工事中で、このためかもしれない。

 境内の仏像の前には、シキビが供えてあった。白い花がついていて、春の訪れを感じる。前日の横峰寺の雪はここでは無縁で、天気も良く、気温も高くなってきた。


      ↑お供えのシキビは白い花をつけていた


【62番】

 通常なら次は62番・宝寿寺に向かう。ところが宝寿寺が四国88ヶ所霊場会と対立し、霊場会を脱退してしまった。このため霊場会は香園寺の第2駐車場に、仮りの札所を設置した。どちらにお参りしようかと迷ったが、結局は駐車場の方を選んだ。つまらない争いのために、お遍路さんは混乱している。

 第2駐車場に向かって歩くと、古い道標がある。これは当然宝寿寺への道を示している。第2駐車場の入り口には、「四国88ヶ所霊場会62番礼拝所」の新しくて大きな看板が出ていた。どうもしっくりしない。


      ↑香園寺を出たところにある古い道標

 礼拝所はプレハブで味気ない。しかも、「宝寿寺とは関係がありません」と無粋な表示がしてある。トラブルが根深いことはわかるが、遍路を身には何だか気分が良くない。


      ↑プレハブの62番礼拝所


【63番・吉祥寺】<

 バスに乗り、元の62番・宝寿寺の前を通って、63番・吉祥寺に行く。5分もかからない。駐車場にバスを止め、寺まで2分ほど歩く。白い土塀に沿って山門へ。塀の上から白梅が見える。セキレイが1羽、道に下りては飛び、門まで案内をしてくれた。

 境内にはいくつかの仕掛けがしてある。1つは中央に穴の開いた成就石。金剛杖を持って前に突き出し、願い事をしながら目をつぶって石の方に歩いて行く。杖が穴に入れば願いがかなうとか。参加者の2人が挑戦し、ほかのメンバーが声で方向を示し、2人とも成功して拍手がわき、にぎやかなお参りとなった。

 その横には、吉祥天女の門。これも願い事してくぐる。これは全員でくぐった。山門を出ると、またセキレイがヒュンヒュンと飛びながら、見送ってくれた。


      ↑願い事を唱え成就石へ


【石鎚神社】

  吉祥寺から64番・前神寺までは、今回の「ちょっと歩き」。街中の道ではあるが、国道から1本だけ入っているだけで、車はそう多くはない。大変暖かくなり、のどかな歩き遍路となった。

 遍路道の横に、ハッサクやレモンが実っている。たくさん落ちていて「もったいないね」など、たわいないことを話しながら歩いた。火の見やぐらを見上げて、「珍しいねえ」とも。出会った人が時折、「どちらから?」「お気をつけて」と声をかけてくれる。遍路の季節がやってきているのだ。


      ↑ノンビリと遍路道歩き


      ↑遍路道には火の見やぐらも7あった

 前神寺の手前に石鎚神社があり、時間に余裕があったので、ちょっとだけ寄ってみた。大きな門をくぐる。木に囲まれた参道、石段を登っていく。1番上の本殿まで行く時間はないので、途中でUターンした。

 石鎚神社から前神寺まではすぐ。寺の直前に、菜の花満開の場所があり、遍路の春らしい景色で迎えてくれた。


      ↑石鎚神社


【64番・前神寺】

 今回の遍路旅の打ち止めは、64番・前神寺だった。本堂に向かう途中に水に打たれている不動明王が立っている。不動に1円玉を投げ、その体にくっつけば良いことがあるという。みんな遊びで1円玉を投げた。くっついて歓声がわく。次の人は失敗して1円玉は滑り落ちるが、その際に前の人がくっつけた1円玉も道連れにし、また歓声がわいた。

 お参りをしたあと、お札などを売っている場所の前を通ると、かかしが座っていた。見ると、「神山のかかし」と表示してある。この遍路旅シリーズの2回目で、徳島県神山町に行き、地元の人に梅林を案内してもらった。その際に地元の人が作ったかかしをたくさん見た。前神寺のかかしも、そこからやってきたという。1年ぶりの再会みたいで、懐かしい感じがした。


      ↑前神寺にあった神山のかかし


【昼食】

 昼食はJR伊予西条駅前の「マルブン」。料理は西条ナポリタン。「できるだけ地元の食べ物を昼食に」が、この遍路旅の1つのコンセプトになっている。西条ナポリタンはパスタのナポリタンで、町おこしのようにいくつもの店で展開しているものだから、昔からあるものではない。だからコンセプトに当てはまるかどうかは微妙なところ。しかし、次第に知名度は上がってきている。

 この店のナポリタンは、量が多いこと、上に乗っている大きなソーセージ、下に敷いてある薄焼き卵が特徴。フランスパンもつけたので、満腹になってしまった。


      ↑マルブンの西条ナポリタン



【マイントピア】

 締めくくりは旧別子銅山の「マイントピア」だった。観光施設でもあり、道の駅にもなっている。坑道の一部が、銅山の紹介施設になっている。そこまでは、わずかな距離ではあるが、当時の鉱山鉄道をもじった小さな列車で行く。

 坑道に入ると、ジオラマ風に江戸時代や明治以降の様子を示し、説明文を掲示している。坑道の出入り口、鉄道の鉄橋、レンガ造りの建物などが、往時の雰囲気をしのばせる。


      ↑旧別子銅山の坑道の入り口


【大阪へ】

 吉野川ハイウェイオアシス、淡路島ハイウェイオアシスで休憩して、大阪へ向かった。吉野川は改装中で、土産物などの売り場が狭くなっていた。遍路道を歩いている時、ハッサクなどを見て食べたそうにしていたせいか、参加者の1人がブンタンを買ってみんなにお接待してくれた。この遍路グルーは、お接待が盛んだ。