梶川伸「ちょっと歩き四国遍路・のんびり湯ったり編」(毎日新聞旅行「ちょっと歩き四国遍路・のんびり湯ったり編」の先達メモ)(5)

  

              梶川伸・毎日新聞旅行「ちょっと歩き四国遍路・のんびり湯ったり編」先達(「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会副会長)

              

   ◆◇ちょっと歩き四国遍路・のんびり湯ったり編(5)◇◆
(毎日新聞旅行「ちょっと歩き四国遍路・のんびり湯ったり編」の先達メモ)


 毎日新旅行の遍路旅シリーズ「ちょっと歩き四国遍路・のんびり湯ったり編」が続いている。私が先達を務める第9シリーズとなった。とは言っても、前シリーズ「のんびり逆打ち」が途中で立ち消えになったので、今回はその穴埋めも兼ねている。
 
 行程は私が考えた。1泊2日ずつ16回に分けて、四国88カ所と高野山に参拝する。基本はバスを使った霊場の参拝だが、昔から続く良い遍路道の一部を歩くので、「ちょっと歩き」と銘打っている。以前はたくさん歩いたが、私が年齢を重ね、何かトラブルがあった時に、参加者を十分にサポートする力が衰えてきているという自覚があり、このところ「ちょっと歩き」に変更している。
 
 また、遍路は四国の風土を抜きには考えられないという私の考えから、霊場以外にも寄り道をする。四国の良いところを知ってもらいたいと思う。昼食はなるべく地元の料理、食べ物を選んだが、これも四国全体を体感してもらいたい、という思いからだ。
 しかもシリーズのタイトル通り、せかせか回らず、ノンビリと余裕を持って回る。宿もできるだけ温泉に泊まる。日本人は少し急ぎすぎているので、ゆっくりと四国を回って、人生や自分を見つめ直すきっかけになればいいと思っている。そんな遍路旅の、先達メモをお届けする。


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   ◆第13回(65番・三角寺〜70番・本山寺)
     =2018年4月13日〜14日


 毎回同じ表現になってしまうが、今回もまた雨を何とか免れた。何と幸運な遍路だろう。出発前には、2日目は雨を覚悟した。ところが、最後のお参りをしている時にやっと雨が降ってきた。

 以後は翌朝まで雨が降り続いたが、遍路の仲間にとっては帰りのバスの中から雨を見ていればいいだけだった。このシリーズは今回で13目。傘がどうしてもいるような本格的な雨には、1回も遭っていない。


【昼食】

 いつも通り、午前8時に大阪・西梅田の毎日新聞社前をバスで出発した。翌日が雨の予報などとは考えられないほどの好天だった。ビルの前にシャガが満開になっている。

 瀬戸大橋ルートで四国へ入った。今年は瀬戸大橋ができて30年になる。本州と四国を結ぶ連絡橋では、最初に開通した。当初は大橋効果で、たくさんの人が香川県を訪れた。

 金比羅宮のある琴平町の入り込み客は、1日に1万人にものぼったということを、高松で勤務していたときに聞いたことがある。また、高松市・屋島の下のうどん屋「わら屋」の経営者からは、「1日3000人の客が来たことがあった」とも聞いた。そんな話を、バスの中で披露した。

 昼食は丸亀市の茶芸館夢回廊。もともと中国からの輸入品を扱う人が、住宅を使って飲茶の店をしている。シュウマイなどの蒸し物が5つ、それに中華のおかゆが中心で、野菜の蒸し物、木の芽和え、高野豆腐の煮物。鶏の南蛮漬けがついている。さらにデザート、飲み物。

 民家を使っているので、テーブルが整然と並んでいるわけではない。それが、アットホームな感じにさせる。店員はみんな普段着で、経営者のおじさんも料理を運んでくる。店内には中国のシルクの服などを展示して販売していて、その混然とした風情もいい。

      ↑夢街道のランチ


【65番・三角寺】。

 65番・三角寺は標高450メートルの高さにあり、バスで登った。駐車場から石段を上がる・山門の前のモミジの木があり、葉は春に赤くなる種類。太陽を浴びて、秋の紅葉のように見える。

 境内には「是でこそのぼりがひあり山桜」の一茶の句碑が立っている。そのそばに、大きな桜の木がある。支柱の助けを得て立っている。4月の中旬にはなっていたが、もしかすると桜が残っているかもしれないと期待していたが、今年は全国的に桜が早く、句碑のそばの桜もすべて花を落としていた。

 その代わり、本堂や大師堂の裏にはシャガがたくさん咲いていた。バスで出発する時にシャガに送られ、最初のお参りでもシャガ。ちょうど時期がよく、この2日間はシャガをいたるところで見た。

      ↑三角寺境内のシャガ

 山門の近くに1本、花をつけている八重桜の木があった。花びらは薄い黄緑で、真ん中はピンクに染まっている。参加者が花を見上げていると、石段を登ってきた女性遍路が声をかけてきた。女性遍路は桜の種類を「御衣黄(ぎょいこう」と教えてくれた。知らない者同士がすぐに打ち溶けるのが遍路の良いところ。話を聞きながら、大阪の造幣局の通り抜けで、御衣黄と鬱金(うこん)が緑の花だったことを思い出した。

      ↑三角寺境内に残っていた黄緑の桜


【戸川公園】

 三角寺からは遍路道を歩いて下った。これが今回の「ちょっと歩き」で、逆打ちのコースになる。

 逆打ちは時々、道を間違えることがある。三角寺からはしばらく平坦な道を行き、途中で細い遍路道に折れて下りていく。この分岐点がわかりにくい。道しるべが小さく、遍路道は細いので、わかりにくいからだ。以前、同じコースを歩き、参加者と話しながら歩いていて、この道しるべを見落として、そのまま真っ直ぐ進んでしまったことがある。今回は別れ道の地点に、大きな標識ができていて、間違うことはなかった。

 ここは良い遍路道が残っている。木立の中を進んでいく。気温も快適で、落ち葉も積もっていて足に優しく、歩いていると心地よい。

      ↑木立の中の遍路道

 山道が終わると、視界が開け、海まで見える絶好の展望ポイントもある。チューリップも植えてあって、ちょっと一休み。そこからは集落の中を進む。三角寺には一茶の句碑があったが、今度は民家の庭に、一茶が腰掛けたと伝えられる石があった。

 この道ではしばしば外国人遍路に出会う。前回も出会い、片言の英語で小さな国際交流をした思い出がある。今回は三角寺で2人、下り道で2人だった。互いにあいさつをしただけだったが、遍路道では相手の方が「こんにちは」と日本語を使ってくれた。

 ゆっくり歩き、バスが待っている戸川公園まで約1時間20分。公園はこのあたりの人のお花見の場所だが、桜は1輪も残っておらず、代わりにツツジが咲始めていた。

      ↑戸川公園


【別格13番・仙龍寺】

 この遍路旅はお参りだけでなく、四国全体を知ってもらおうというコンセプトがあるので毎回、札所以外の場所も訪ねている。今回は当初、三角寺の後は翠波高原で一面の菜の花を見るつもりだった。ところが、道が狭くバスで行くのは大変だといことになり、それに当てていた時間を別格3番・仙遊寺の参拝に振り替えた。結果的に正解だったと思う。花全体が早く、菜の花が盛りを過ぎていたかもしれないからだ。

 実は仙遊寺への道も狭い。しかもカーブ連続の山道。運転手さんは大変だった。同時に、車酔いする参加者もいた。

 寺は切り立った山肌にへばりついて建てられている。老舗の大きな旅館のようなたたずまいで、靴を脱いで奥の方に入って行くと、本堂の部屋に着く。

 お参りの後、寺の人と雑談をした。今年の冬は寒く、−7度を記録して、水道が凍ってしまったという。このため、1週間ほど水が使えなかったそうだ。雪は10センチ程度だが、体験したことないような寒さだったらしい。

      ↑仙龍寺


【宿】

 遍路はここで、香川県に入る。宿も香川県観音寺市のかんぽの宿観音寺。温泉に入ってから夕食で、席に着くと。座卓の上にメニューを書いた紙が置いてあった。メニューの最後に、「お大師さまが辿りし道を 今は往来します どこか懐かしい街 よう観音寺へおいでました」と書いてあった。私たちのためのような添え書きだった。

 料理はオリーブオイルとしょうゆを使ったブイヤベースがメーンで、造り、ローストビーフ、タケノコのはさみ揚げ、釜飯など盛りだくさんだった。鮭は地元の川鶴を飲んだ。地酒を飲めるのは旅の楽しみでもある。遍路旅での同様だと、勝手に考えている。

 翌朝起きると、今にも雨が降ってきそうな空模様だった。「2日目は雨か」と、この時はあきらめた。朝ご飯までの間、宿の周りの「母神山(はがみやま)ミニ88カ所」を少し歩いた。説明板を読むと、文久3(1863)年ごろにできたと書いてある。明治維新の5年前だから結構古い。

 説明板には1周5キロと書いてあった。そんな時間はないので、香川県のあたりを歩いた。札所は石仏で、本尊1体のところと、本尊と大師像がセットになったところもある。彫り方もさまざまで、レリーフ状のものもあれば、丸彫りのものもある。レリーフも石全体に掘ったものや、一部だけのものもあった。

      ↑母神山88か所の石仏

 朝食はバイキングだった。品数は豊富で、その中に香川県らしく、うどんも用意してあった。「まんばのけんちゃん」という高菜を使った郷土料理もあった。ただ、その料理は地味なうえ、知っている人は少なく、手を出す人は多くはない。郷土料理を知らせる表示がほしかったような気がした。

      ↑まんばのけんちゃんと讃岐うどん


【66番・雲辺寺】

 66番・雲辺寺へ向かう途中で、麦畑を見る。香川県の西部は麦畑が結構ある。昔はそれを米穀店で精麦してもらう際に、うどんにして返してもらうことがあったようだ。それほど香川県民はうどん好きだった。そのために麦も栽培していた。

 ところが小麦の生産大国のオーストラリアが、讃岐うどん用の小麦を開発した。消費量が多いからだろう。讃岐うどんに適していること、値段が安いことで、香川の小麦は押されていった。そこで、香川県の農業試験場が讃岐うどん用の小麦「さぬきの夢2000」を、遅ればせながら開発した。名前でもわかるように、2000年前後のことだった。これらは、高松に住んでいることに知った。

      ↑麦畑

 ロープウエイで登る。上の雲辺寺の駅に着くと、気温の表示は10度だった。もう1組の団体が乗っていたので、本堂での参拝がかち合うの避けるため、こちらは五百羅漢を巡り、少し回り道をした。

 雲辺寺にしても、5番・地蔵寺に隣接する五百羅漢寺にしても、それぞれの顔が違っていて見飽きない。京都・嵯峨野の奥の愛宕念仏寺も、亡くなった西村公朝住職の指導でたくさんの人が作った石仏が境内に所狭しと並んでいるが、どの石仏の表情も面白い。

      ↑五百羅漢

 本堂でお参りの後、すぐ横のお頼みナスへ。おみくじがたくさん結ばれた輪をくぐり、ナスの形のいすに座って願い事をするとかなうのだそうだ。私も含め、何人かがお願いをした。こういったアイデアはうける。

 お参りの後は、毘沙門天の像を配した展望台に登った。建物の中のらせん状のスロープと階段を登っていく。展望台は屋上のようになった建物の外。早朝の今にも雨が降りそうだった空模様は、晴れ間が見えるほどに回復していたが、ややもやっていて、それほど視界が良いわけではなかった。下りていくと、外国人の女性が登ってきた。最近は外国人遍路は珍しいわけではないが、本堂、大師堂以外にも寄り道をする好奇心に感心する。

 ロープウェイで下る。時間待ちをしている時に、30代と思われる男性としばらく話すことになった。神奈川県の会社に勤めている。精神的に苦しい状況になり、休職中だった。彼に言わせると、原因の一部は会社側にあり、休職期間は3年と長く、その間に遍路をしている。

 間もなく休職期間が切れるが、「復職できそうです」と話した。遍路の効果なのだろう。1つのきっかけは、別格のある寺の住職の話だという。今回はその住職を訪ねたが、たまたま留守だったそうだ。

      ↑おたのみナスの前の輪


【豊稔池】

 ロープウエイで下りる際に気温表示を見ると、13度に上がっていた。下の駅に着いて、その後の行程を少し変更した。予定より早く下りてきたからだ。

 当初の予定では67番・大興寺→昼食→68番・神恵院・69番・観音寺の順番だった。神恵院・観音寺をすませてから昼食なら都合がいいのだが、店からは「正午から午後1時までは混むので、早にきてほしい」と頼まれていた。変更した場合には、避けてほしいと言われた時間帯に入ってしまう。

 一方、行程表通りに進めると、11時前に店に到着してしまい、さすがに早すぎる。そこで豊稔池の見学を行程に加えることにした。

 ロープウエイの駅からバスで10分あまりの場所にある。大正15年に着工し、昭和4年に完成したダムで、コンクリートのアーチ式堰堤が、石を積み重ねたように見え、ヨーロッパ中世の城のような印象を与える。2006年に重要文化財に指定された。

 池の水は満杯に近く、堰堤から放水していた。ただ、水の勢いは弱くてアーチをえがくことはなく、堰堤伝い流れ落ちていた。堰堤の上から池を見たあと、本来なら次にダムの下まで歩いて行くのだが、そうすると昼食場所に行くのが遅れてしまう。そこで、上からの眺めだけでバスに乗り、ちょっと中途半端な見学になってしまった。

      ↑豊稔池


【67番・大興寺】

 67番・大興寺は小さな山門をくぐり、石段を登っていく。右手に樹齢1200年のカヤと大きなクスが堂々と立っている。いつもここでは、大木に触ったり抱きついたりして、その生命力をいただく。

 本堂も大師堂も、そのほかの堂も、花入れにはいつもたくさんの花がいけてある。花のそばで般若心経を唱える。随分暑くなってきた。この時点ではまだ天気も良い。

      ↑大興寺の本堂


【昼食】

 昼食は神恵院・観音寺から近い「かなくま餅福田」。このあたりで昼食を取るときは、ほとんどこの店にしている。もともとは餅屋で、うどん屋もやっているといった店だ。

 香川といえば讃岐うどん。香川に転居した人がびっくりするのは、お正月の雑煮。餅はあんの入ったものを使う。この2つの要素をうまく取り入れているのが、この店だと言える。

 べるのは、あん餅うどん。力うどんというものがあるが、その餅があん餅になっている。この店の場合、餅は販売しているのでお手の物。うどんも評価は高い。だから、あん餅うどんが成り立つ。ほかの店では見かけないから、なおさらいい。

 あん餅2つ、だし巻き卵、ワカメ、煮た揚げが入っている。あん餅をかむと、あんがつゆの中に流れ出る。私は慣れているが、初めての人はそれに違和感を覚えるようで、まずあん餅以外のものを食べ、最後にあん餅を口にする人がいた。
 さぬきうどんの店では、おでんがつきものになっている。そこで、おでんもセットにした。1人2つずつ好きなおでんを鍋から勝手に皿に取り、席に運んで食べる。さぬきうどんの店では、おでんなどのサイドメニューの代金は自己申告制で、その雰囲気の一端を味わってもらう思いもある。

 実はそのセットだけでなく、さらにエビのおこわも加えた。エビは干しエビ。観音寺市には、志満秀などエビせんべいで知られる店がある。それからの連想で初めて食べた時に気に入り、それからはいつも3点セットにしている。

 これは腹一杯になる。エビおこわはパックに入っているので、女性の参加者のほとんどは口をつけず、持ち帰った。私は全部食べた。しかし、その日の午後7時過ぎに大阪・梅田に着き、参加者を含めて4人で居酒屋に行ったが、まだお腹が一杯だった。

      ↑あん餅うどん


【68番・神恵院】


 苦しいほど満腹状態で、68番・神恵院にお参りをした。コンクリートの建物のコンクリートの階段を登って、本堂に行く。お経を唱えると、エコーがかかったように響き、心地よい。

 下りはスロープの道を通った。ツツジの美しい刈り込みの庭を通って行く。丸く刈り込まれたツツジの一部は花をつけていて、すでに初夏の雰囲気を漂わせていた。

      ↑ツツジの刈り込みの庭


【69番・観音寺】

 神恵院と同じ境内に、69番・観音寺はある。本堂は朱塗りの建物。周りにアカメの生け垣がある。春になって赤い葉が出て、本堂と連動しているようでおもしろい。

 大師堂は神恵院の大師堂と隣同士になっている。お参りをすませ、神恵院の方の大師堂を見ると、屋根に菜の花がはえていて、ユーモラスな光景だった。

      ↑生け垣とと本堂の色が連動


【寛永通宝の砂絵】

 観音寺から坂道を10分ほど登る。琴弾公園の巨大な砂絵の寛永通宝を見下ろす展望台へ。砂絵は直径100メートルもある。正確な丸ではなく、上から丸に見えるように、少し楕円になっているらしい。

 前回は下の公園に行って、寛永通宝をそばから見た。高さは1メートルもある。ところが近すぎて、何のことだかわからない。周辺の松林は散策するにはいいが、砂絵がわからないのは寂しい。その反省もあって、今回は上からの見学にした。

      ↑寛永通宝の砂絵


【70番・本山寺】

 今回の打ち止めは70番・本山寺だった。観音寺からはバスで10分。独立して建っている重要文化財の八脚門をくぐる。背の低い本堂が目の前にある。その左手は五重塔だが、現在は改修工事中でシートがかけられ、見ることができないのが残念だった。

 最後の最後、大師堂での読経の最中に、雨ははっきりと降ってきた。傘を持ってきている人はいない。今回の打ち止めを参加者に告げると、みんな小走りでバスにも戻った。本当に天気運に恵まれた遍路旅だった。

 女性の参加者は買い物が好きだが、今回は買い物できる施設が都合のいい場所にはなかった。そこで高速道路をいったん下りて、高松市牟礼町の道の駅「源平むれの里」で買い物タイムを作った。帰りはずっと雨だった。しかし、バスの中なので濡れることはなかった。

      ↑本山寺の山門



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   ◆第14回(71番・弥谷寺〜79番・天皇寺)
     =2018年5月11日〜12日


 今回の参加者は11人だった。2日とも好天。しかも気温は高かった。ただ、放射冷却のためか、朝は寒い。当初は半袖のTシャツを着たうえで、作務衣を着る予定だった。

 しかし、午前6時過ぎに自宅を出る時は少し肌寒く、長袖のTシャツに変えた。2日目用には、半袖を用意したが。


【昼食】

 明石海峡大橋−淡路島−大鳴門橋−高松道のコースで進んだ。昼食は善通寺市の偕行社カフェを選んだ。

 偕行社は旧陸軍幹部の親睦団体。社交場の建物も偕行社と言い、師団のある各地にあった。旧善通寺偕行社は明治36年に竣工した。

 旧善通寺偕行社は善通寺市役所の駐車場の一角にある。木造平屋建てで、柱はきゃしゃで細く、淡い水色に少し緑と灰色が混じっている。壁は白。爽やかな建物で、重要文化財になっている。

      ↑旧善通寺偕行社

 ランチは料理のの中心は鶏のグリルで、タケノコ、ニンジンなどが添えてあり、下にトマトソースが敷いてあった。キノコと野菜のスープ、野菜サラダ、干し大根の煮物、五穀米を混ぜたご飯、デザートとしてゼリー、コーヒーか紅茶。人気があるようで、席が空くのを待っている人もいた。

 食事の後は、旧偕行社な内部を見学した。無料だが、入り口に職員が配置されている。パンフレットも用意してあった。翌日に結婚披露宴が入っていて、大広間には丸テーブルがすでに並べられ、引き出物の袋も用意してあるのが見えた。

 参加者の1人が語ったことがおもしろい。亡くなった夫は大阪の追手門学院の小学校の卒業で、その小学校の前身は、将校らの子弟の教育をした大阪の偕行社だったそうだ。昼食場所から、参加者の歴史へとつながっていった。

      ↑偕行社カフェのランチ


【71番・弥谷寺】

 駐車場にバスを停め、歩いて71番・弥谷寺に登っていく。木に包まれた山道。ゆるい階段になっている。歩いていると暑い。汗が出てくる。ウグイスの鳴き声が聞こえる。山の寺を実感する仕掛けが整っている。

 本堂に着くと、見晴らしがいい。天気が良いので、遠くまで見通せる。本堂に続いて大師堂へ。空海が子どものころに勉強をしたという言い伝えのある洞窟を活用した建物で、靴を脱いで中に入る。お参りの後は、勉強部屋である洞窟を見た。75番・善通寺が空海の生まれた場所とされるので、弥谷寺をはじめこのあたりの寺は、空海にまつわる逸話が多い。

 下りてきて、道の駅「ふれあいパークみの」に寄った。今回の行程では、買い物をする場所が少ないからだ。まだお参りは1カ寺だけの段階だが、野菜を買い込む女性参加者がいた。小さめだが玉ネギが5か6個入って100円あまりだから、買いたくなる気持ちもわからないではないが。


      ↑弥谷寺への遍路道


【73番・出釈迦寺】

 72番・曼荼羅寺より先に73番・出釈迦寺を目指す。途中にある鳥坂(とっさか)峠の名物、鳥坂まんじゅうを買って、みんなで食べる。それが、ここを通る時の恒例になっている。小さな一口サイズの酒まんじゅうで、できたての温かいものを食べられるのがいい。

 出釈迦寺の裏は我拝師山が屏風のように立っている。空海が子どものころ(幼名・真魚)、「仏門に入って衆生を救わんと欲す。願いが成就するなら釈迦現れよ」と唱えて、我拝師山から身を投げた。釈迦如来が天女とともに現れて、真魚を受け止めたという。そんな逸話が残っている。

 駐車場から寺に向かうと、参道の草抜きをしているグループがあった。話しかけると、年に4回しているという。ありがたいことだ。

 本堂にお参りをする。線香立てに、金属の筒がつけられ、中に種火が入っている。その上に金属のフードのようなものが取り付けてある。これなら、風が吹いても火をつけやすい。寺の心遣いを感じた。

 寺の前には、うどん屋「すずめ庵」ができていた。お遍路さんのお参りが中止の寺なので、商売になるのだろうか、と心配になった。


      ↑種火の工夫


【72番・曼荼羅寺】

 出釈迦寺から72番・曼荼羅寺にまで、だらだらした坂を歩いて下りていく。ミカンの白い花が咲いていて、香りが流れてくる。ビワの木がたくさんあり、実にオレンジや青の袋がまぶせてある。その袋が花のようにも見える。

      ↑ビワの実には袋がかけられていた

 フランスからの女性のお遍路さんと、短い距離を一緒に歩いた。フランス語などしゃべれないので、片言の英語と日本語で小さな国際交流。彼女はこの日が53日目だという。歩き方はしっかりしていて速いのだが、日数はかけている。「スリープ、ゼンツウジ」「ミー、ツー」などと、簡単な単語を並べて話した。その言葉の通り、75番・善通寺の宿坊で、彼女と再会した。
 寺でのお参りの最中、大変印象に残る光景があった。本堂でも大師堂でも、老夫婦のお参りと相前後した。夫は腰は45度くらい曲がっている。足も弱っているようで、堂の段を上り下りするのがおぼつかない。妻の方が懸命に支えている。腰を下ろしてお経を唱えるが、座ったり立ち上がったりが大変で、これも妻の助けがなければ無理。

 大師堂での般若心経の光景が目に焼き付いた。結縁の紐がある堂の前の石段の端に夫は腰をかけ、経本を開いている。ただ、声は聞こえない。聞こえるのは妻の声だけ。妻も経本は右手に持っているが、心経の声に合わせて閉じたままの経本で夫の背中をさすり続けていた。

 参拝は私たちとほぼ同時に終わり、歩きながら駐車場の方に向かう途中、「どちらからですか」と声をかけてみた。徳島の夫婦だった。妻が車を運転して回っている。納め札の色が赤だったの見たので、「何回目ですか」と聞いた。13回目だという。私も10回以上回っている。

 4巡以上し、寺を通して申請して、1日の講習を受ければ、四国八十八ヶ所霊場会の先達になれる。私が先達の輪袈裟と杖を持っていたためだろうが、妻は自分の方から言った。「先達の資格をとるつもりはありません。夫の世話だけで精一杯で、ほかの人のお世話までできません」
 この老夫婦が今回の遍路の中心テーマになっていく。

      ↑大師堂の取り付けられた結縁の紐


【74番・甲山寺】

 74番・甲山寺までは、バスで行けば5分ほど。本堂へ向かうには数段の石段を上る。段の端の石には、「明治二十五年」の文字が掘ってある。また、本堂へ上がる石段には「明治四十五年五月」の文字が彫ってあった。何気なく使う石段ではあるが、長い年月がたっている。

      ↑明治二十四年の文字


【76番・金倉寺】

 当初の計画では、甲山寺から75番・善通寺に行って、宿坊に泊まる予定だった。しかし、順調に参拝できて時間に余裕ができたこと、2日目の日程が少し窮屈なんことを考えて、2日目に予定していた76番・金倉寺を1日目に繰り上げることにした。

 この寺はいくつもの仕掛けを作っている。大きな数珠を本堂の前の屋根からつるしている。それを引っ張ると、カタカタと音をたてて数珠が回り、その間に祈願をする。金箔(きんぱく)を張り付ける大黒天もある。

 前回参拝した時以降に新しくできたものとして、干支の鐘がある。小さな自分の干支の鐘をたたいて祈願する。

 境内では翌日の春祭りの準備が行われていた。テントを張る用意ができていた。出店の準備をしている人もいた。

 境内を歩きながら、参加者の女性と話をした。その女性は、私が初めて毎日新聞旅行の遍路旅の先達役(まだ先達の資格を取る前)を頼まれたシリーズに、途中から参加した人だった。娘を25歳の誕生日の5日前に、事故で亡くした。心が空っぽになっていた時、瀬戸内寂聴さんを訪ね、「遍路にでも行ってみなさい」と言われたのが、遍路旅に加わったきっかけだった。2003年のことだった。

 彼女とは久し振りに顔を合わせた。今回参加した理由は想像がつくが、それは後で書くことにする。

 境内を歩きながら話したのは、曼荼羅寺で見かけた老夫婦のことだった。お互いに気になっていたことだが、私は「あの夫婦が、遍路の1つのパターンかもしれない」と感想を述べた。パターンというのは、本質に結びつくのだが、私はそれを病気平癒の思いだと考えていた。ただ、どうも違和感を覚えていたし、何で1つのパターンだと思ったのかは漠然としていて、自分でははっきりと説明できなかった。

      ↑干支の鐘


【75番・善通寺】

 75番・善通寺に着いたのは、参拝ができる午後5時の少し前だった。そこでこの日は本堂にだけ参拝することにした。宿坊に泊まると、朝のお勤めが御影堂(大師度)であるので、大師堂参拝はそこでできるからだ。

 本堂では終わりの時刻が迫っているので、ろうそく、線香は取りやめた。本堂に入り、薬師如来に手を合わせたが、般若心経は堂の外で唱えることにした。唱えている最中に、門限がくると思ったからだ。

 外でお経を唱えていると、堂への入口側の扉が閉まった。少しして女性2人が出口側から出てきて、扉を閉めた。2人はそのまま、出口の外でじっと立っている。それが視野に入り、「何をしているのだろう」と思いながら、お経を進めていった。唱え終わると2人はやっと動き出し、私たちの前にある窓のような開き戸を閉めた。私たちが読経している間、本尊と私たちつなぐ扉を閉めるのを待っていてくれたのだ。その心遣いに感謝した。

 天気はいい。本堂に近い五重塔は青空を背景に、すっきりと立っていた。樹齢1200年とされるクスノキも仰ぎ見て、宿坊に入った。

      ↑善通寺の五重塔

 善通寺の宿坊の風呂は温泉である。このシリーズのコンセプトの1つは、「できるだけ温泉の宿」にしている。このため、2カ所をのぞいて、ほかは温泉の宿にした。

 温泉に入ったあとは夕食。うどんの鍋、ローストポーク、ひろうす、コンニャクの田楽などがメニューだった。

 夕食の席でも、老夫婦のことが食卓の話題になった。「印象に残る光景だったが、何で印象に残るのかがわからない」。私はそう話した。どうもモヤモヤしたものが続いていた。

 2日目は午前5時半から、御影堂で朝のお勤めに参加した。最初は樫原禅澄館長の法話だった。この日は京都である結婚式に出る予定だったといい、夫婦のことから話が始まった。「愛していても、長いこと夫婦をしていると、辛抱しなければいけにこともあるし、あきらめも出てくる」などと軽妙な語り口で話を進めた。そして、行き着くところが「いたわりと感謝」とまとめた。

 その言葉を聞いて、老夫婦についてモヤモヤしていた気持ちがスッキリと晴れた。経本で夫の背中をさすっていたのは、妻のいたわりの現れではなかったか。愛や辛抱や諦めを経験した後で到達した境地が、夫の背中を経本でさすることだったに違いない。

 夫が妻の体ににもたれて心経を唱えている時の穏やかな顔は、感謝の気持ちのよるものではないか。妻に支えられて段を上り下りしている時、思わず助けに行こうかとも思うほど、足元はフラフラしている。

 それでも夫は安心しきっている。手を差し伸べようと思いながそうしなかったのは、夫の妻に対する信頼には勝てるはずもないと直感したからにほかならない。感謝は信頼へと昇華している。そんな関係に、入り込む必要はない。

 お勤めの後は、戒壇めぐりだった。御影堂の下が真っ暗な戒壇になっている。左手で壁をさわりながら一周する。母親の胎内から生まれてくることを再体験する場で、蘇りの場だと、私は考えている。

 娘を亡くした女性が久し振りに参加したのは、戒壇巡りが理由だと思う。最初に戒壇を巡った時、彼女は真っ暗な中で怖さを覚え、「こんな時に娘がいてくれたら」と考えた。すると娘が現われて、出口へと導いてくれたと、結願した後で語っていた。  そんなことがあるはずもない。しかし、彼女には見えたのだ。娘への強い思いが、そうさせたに違いない。今回も娘に会いにきたのだろう。結果は聞かなかったが。

【金比羅宮】

 今回は遍路以外の楽しみを2つ用意した。1つは金比羅宮。善通寺をバスで出発し、2日目の最初に参拝した。本殿まで785段の石段を登っていく。

 足に自信のない2人が下で待つことになった。残りのメンバーは、それぞれのペースでゆっくりと登っていった。しかし、ほぼ中間点の門に着くと、「足の調子がよくない」などの理由で、3人リタイヤし、先に石段を下りた。

 本殿への最後に石段の下には「文化八年」と刻まれた石碑が立っている。登り切ると、本殿に着き、まずは参拝。本殿前の広場からの見晴らしはいい。2日目も好天で、「讃岐富士」と呼ばれる飯野山も見える。ただし、少しもやがかかり、カメラの収めると、あまりはっきりしなかった。

      ↑金比羅宮の本殿


【国営まんのう公園】

 金比羅宮に続いて、2つ目のお楽しみは国営まんのう公園。ネモフィラなどの花を見ながら、広い公園の一部を散策する計画だった。

 行く道筋の道路脇に、麦畑が広がっている。緑色だった麦は黄金色に代わり、そろそろ麦秋に近づいていた。讃岐うどの原料にする「さぬきの夢2000」という新しい品種かもしれにない。

      ↑黄金色の麦畑

 公園に着くと、当初の計画を変更することになった。たまたま、B級グルメの大会を開いている。参加者に中にはB級グルメに興味を示す人が半数いて、散策とB級グルメとの二手に分かれて行動することになったのだ。

 私は散策組を案内した。途中でローラー式の長いすべり台があって、年がいもなく順番に滑って下りた。とはいえ、B級グルメも気になる。バスでの集合時刻の15分ほど前にB級グルメの会場に着き、短い時間で食べ物を物色した。

 私が見つけたのはオリーブ豚のスペアリブのグリル。香川県・小豆島がオリーブの産地で、香川ではオリーブハマチ、オリーブ牛など、オリーブの葉などを飼料に混ぜて育てる方法が盛んだ。オリーブ豚もその1つで、脂分もあって好みの味だった。ただ、大きかったのが後々、こたえることになる。

      ↑まんのう公園ではB級グルメの大会が開かれていた


【昼食】

 香川県で昼食といえば、うどんがおもしろい。今回は公園からバスで5分ほどの場所にある小縣家。しょうゆうどんが名物で、それプラス、好みのおでんを3つ選ぶセットだった。

 座席にはまず大根とおろし金が、1人に1つずつ運ばれてくる。深めの皿にうどんが運ばれてくるまで、それぞれが自分で大根をする。うできた大根おろしをどんに乗せ、スダチを絞り、ネギ、ショウガなどをの薬味を加え、テーブルの上にあるしょうゆを一回りさせながらかけ、混ぜて食べる。

 うどんは何とかなったが、大きなスペアリブの後で、おでん3つはきつい。大根のおでんも撮ったが、は大きなものが2つ串に刺してあり、苦しいほどお腹がいっぱいになった。

      ↑しょうゆうどん


【77番・道隆寺】

 2日目の最初のお参りは午後になり、77番・道隆寺へ。この寺にはいつも花がたくさんある。手水にはランが活けてあった。プランターに花が植えてある。大師堂の前には、マーガレットがてんこ盛りで咲いていた。

 境内にはブロンズの観音像が並んでいる。そのいくつかには、植物の数珠玉で作った首飾りがかけてあった。そばにユリオプスデイジーが植えてあり、黄色い花を添えていた。
      ↑マーガレットがてんこ盛りで咲いていた


【78番・郷照寺】

 バスの駐車場から5分ほど歩いて、78番・郷照寺へ向かう。途中で地元のウオーキングのグループと出会った。コースの中に郷照寺も入っていて、寺まで一緒に歩いた。寺に近い場所に堂があり、色彩のはっきりした閻魔(えんま)大王が安置されている。グループの1人が、「帰りにぜひ見ていきなさい」としきりと薦めてくる。四国では最大級の閻魔像だからだろう。

 本堂、大師堂は少し高い場所にある。暑くなってきたが、風が通ると心地よい。本堂の参拝所は、格子天井になっていて、木の彫刻の花が格子を埋めている。細かい細工には、色づけがしてある。

 寺は宇多津町にあり、地元では「厄除けうたづ大師」と親しまれている。地元グループがコースに組み込んだのも、そんな親しみのためかもしれない。
      ↑郷照寺は厄除け大師と呼ばれている


【79番・天皇寺】

 今回の打ち止めは79番・天皇寺だった。ここも駐車場から歩き、10分ほどかかる。神社と一体となった寺。保元の乱で敗れた崇徳上皇が讃岐に流され、ここの行宮を構えた。そんなことから、天皇寺の名がついたのであろう。

 神社は白峰宮。本殿のそばに大きなクスノキがあり、根元に紫のアイリスが咲いていた。

      ↑大きなクスノキと根元に咲くアイリス

 この地区は八十場(よそば)という。バスまで少し遠回りをして、「八十場のところてん」を食べに行った。清水屋といのが店の屋号。湧き水が小さな池をつくり、その横に床几台(しょうぎだい)を並べて店開きをする。春から秋までの店。ところてんは湧き水で水で冷やす。それだけで冷たい。夏になると、池のそばにいるだけで涼しい。

 清水屋ではいろいろな食べ方ができるが、関西風の黒みつで食べる人も多かった。高知県中土佐町・久礼市場のところてんは、だしで食べた。清水屋はだしも用意していた。私は酢じょうゆと辛子にした。大盛りにしたのが失敗で、ここでまたお腹がいっぱいになってしまった。

 バスで大阪に向かう途中、参加者がお接待として、イチゴやトマトを配ってくれた。家に持って帰りにくい食べ物なので、それも食べた。ますます満腹になった。

      ↑八十場のところてん


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   ◆第15回(80番・国分寺〜88番・大窪寺)
     =2018年6月8日〜9日

 今回の遍路旅は、結願の回となった。88番・大窪寺まで参拝するからだ。7月に高野山にお礼参りに行くが、四国へは最後となる。参加者は10人。みんな名残惜しい気持ちを抱えての遍路のようだった。皆勤の人にしてみれば、1泊2日ずつ15回、計30日も共に過ごした仲間、しかも少人数で親しくなった仲間なので、その思いも当然だろう。

 このシリーズは毎回、天気が課題だった。今回も同様。予報はコロコロと変わったが、前日の予報では、2日間のどちらの日も、雨の不安があった。しかも大雨の。ところが実際には、今回もおおむねセーフ。つまり15回すべて、雨をかろうじてすり抜けたわけで、奇跡の30日間といえる。

【86番・長尾寺】

 梅雨入り直後の遍路だった。大阪・梅田の毎日新聞社前を出発する時には、雨は降っていなかった。しかし、明石海峡大橋を渡り、淡路島を走っているうちに、細かい雨がフロントグラスに当たり始めた。しかし、ワイパーを動かし続けるほどではない。これなら、何とか初日は持ちこたえるかもしれない、と楽観的な判断をした。

 ただ、2日目も心配なので、雨が降らないうちにできるだけ参拝しようと考え、当初の行程をかなり変更することにした。今回は80番・国分寺から88番・大窪寺までのコース。変更するなら大胆にと考えて、まず87番・長尾寺のお参りという変則遍路にした。

 この遍路は、札所などでゆっくり時間を取る方針なので、急がねばならない時には融通がきく。変更の大きな点は、参拝順もさることながら、参拝する寺の数を1日目に1つ増やし、2日目に1つ減らす前倒しだった。

 山門前に大きな経幢が2つ。経文を入れておく容器で、日本では鎌倉時代中期から造られたと説明にある。この寺のものは石造りの大きなもので、重要文化財に指定されている。

 山門を入ると、右手に大きなクスノキ。幹回りの太さが特に目立つ。本堂へ行く。雨はかけらもなくなった。それどころか、日が出てきて暑い。本堂の前面はガラス張りで、天気が良くなったので、手を合わせる自分姿が写っていておもしろい。

 本堂の壁を、イモリがはっていた。その動きを目がとらえながら、般若心経を唱えた。

 本堂の屋根の下は彫刻で装飾してある。さまざまなものを彫り出しているが、その中にほうきがある。これは釈迦の弟子に関する逸話に由来する。弟子のチューラパンダカは物覚えが悪かった。釈迦は1本のほうきを与え、「ちりを払おう、あかを除かん」と唱えながら掃除をするように指示した。毎日毎日掃除をしていたが、やがて「心のちりを払い、あかを除く」ことだと悟った。彫刻のほうきは、そんな話に基づいている。

 このストーリーには、「茗荷(みょうが)を食べると、物忘れする」という俗説につながる。チューラパンダカは自分の名前さえ覚えられず、名前を書いた札を首からぶら下げていたが、それでも覚えられなかった。「名前を荷なう(になう)」ので茗荷となる。

 この寺は、静御前が剃髪した寺とされる。その像がある。静御前の顔はめの絵を描いた板もあり、この辺は今風だと思った。

 長尾寺に参ると、甘納豆の大福を買うことにしている。売っているはずの売店が閉まっていて、諦めていた。すると添乗員さんが朱印を押してもらう経所にから帰ってきて、「納経所で売っていた」と言い、参加者分の大福を買ってくれていた。あんに比べれば甘納豆は量が少なく、そのためにあっさりしていて、好きなタイプだ。京都市・出町柳の「ふたばの豆餅」を連想させる。

      ↑ほうきの彫刻


【73番・一宮寺】

 次のお参りは73番・一宮寺。駐車場から田の間を通り、カエルの声を聞きながら寺へ入る。山門をくぐったところに、小さいながら石庭が設けてある。黄色になった梅の実が敷き詰められて白い小石の上に数個落ちていて、無彩色の中のアクセントが目をひきつけた。

 本堂の前には、ここにも大きなクスノキがあった。大師堂でお参りをしようとすると、敷石の上にぼんやりと黒い線が細かく動いている。よく見るとアリの道。普通に見るアリよりも小さく、膨大な数で動いている。黒い線は5メートルほど伸びていた。アリたちを踏まないように気をつけて、般若心経をあげた。

      ↑アリの列


【昼食】

 香川に入ると、昼食はうどんが増える。今回の初日もそうだった。綾川町の「山越」。讃岐うどんブームを牽引した店の1つだ。郊外の店だが、客は多い。半分、セルフサービスの店で、最初にうどんの玉の数と食べ方の種類を注文しておく。トッピング用の天ぷらなどを選んで皿に乗せて、丼に入ったうどんを受け取り、さらに進んで計算してもらう。その上で、注文したのがかけうどん(素うどん)ならば自分で丼につゆを注ぎ、名物のかまたま(釜揚げうどんに生卵を落とした食べ方=卵かけご飯のうどん版)ならしょうゆを回しかける。

 店は午後1時半までしか開いていない。昼食までに2カ寺を回ったので、店に着いたのは午後1時少し前。遅くなった分、客の数は少し落ち着いていて、うどんを受け取る客の列は十数人だった。店の外まで列が伸びていても、すぐに順番は回ってきた。

 それぞれ、うどんを何玉頼んでもいいし、トッピングも何をいくつ取ってもいい、という方式にしたので、参加者の食べる組み合わせはバラエティーに富んでいた。ちなみに、私はうどん2玉のかまたまで、トッピングはゆで卵の天ぷら、竹輪の天ぷら、串に3つさしたエビの味の丸い練り物。私のものも含め、参加者の代金は添乗員さんが一括して払ったので、私の値段ははっきりしないが、600円か700円だった。満腹。
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      ↑山越のうどん


【80番・国分寺】

 また天気がはっきりしなくなった。初日の「ちょっと歩き」をどうするか迷っていたが、縮小することを決断し、80番・国分寺に着いた。早めに決断したのは、余った時間を国分寺で使うためだった。

 山門をくぐると、本堂まで松林が続いている。木の間に奈良時代の礎石が並び、ミニ八十八カ所の石仏も続いている。暑いのだが、松の木陰を歩くと心地よい。

 本堂は鎌倉時代の建物で、重厚な印象を与える。大師堂では寺の人が、新たな大日如来建造への協力を呼びかける話をした。前回のシリーズの際も、そうだったような気がする。

      ↑国分寺の山門

 生み出された時間を使って、本堂北側にある奈良時代の国分寺跡を見ることにした。当時の伽藍を10分の1のスケールにして石で再現した模型が屋外に造ってある。驚くのは、塔が五重ではなく八重だったことだ。僧坊は1棟復元している。僧たちの学問所で、中に入ると、勉強部屋が並んでいるような造りになっていた。

      ↑復元された僧坊の内部


【81番・白峯寺】

 バスで五色台に登り、81番・白峯寺へ行く。下に見える瀬戸内海がけぶっている。少しずつだが、空が怪しくなってきた。

 アジサイの参道を走る。まだ咲き始め。境内にもアジサイの株は多いが、これも花の数はポツポツだった。緑の多い石段を上って本堂に着く。蒸し暑いが、風が時折通るので、ましだった。ただ、ポツリと雨が当たったので、ちょっと嫌な予感がした。

      ↑白峯寺はアジサイが多い


【根香寺への遍路道】

 白峯寺から82番・根香寺までは、歩き遍路の道で4.5キロほどある。アップダウンはあるが、地元の人たちが手入れをしていて、大変良い遍路といえる。

 2004年に歩いた時、町石の役割の地蔵はエプロンを着せてもらい、それに青いリボンがついていた。青いリボンは、拉致事件の象徴だった。

 2002年9月17日、当時の小泉純一郎が訪朝し、金正日・朝鮮労働党総書記は拉致を認め謝罪した。後日、5人の帰国が実現する。

 この日は、私にとってはじくちたる思いの日である。その日の朝刊のコラムに、拉致問題を取り上げる記事を書いた。被害者の1人、有本恵子さんの両親に事前に取材をしていて、両親の思いを訪朝の日の新聞をぶつけたのだった。

 有本さんは横田めぐみさんらとともに、拉致被害者の象徴のような存在だった。そのため私は、有本さんは日本に返されるだろうと踏んでいたのだ。その見込みははずれてしまった。コラムに有本さんを取り上げたことに、ごこか後ろめたさがある。

 地蔵の青いリボンを見たのは、それから1年5カ月ほどたった時だった。今回の遍路は、トランプ大統領と金正恩委員長の米朝会談(2018年6月12日)を直後に控えた時期だったので、昔を思い出していた。

 白峯寺からの遍路道は3.5キロ歩くと、いったん自動車道に出る。ちょうど足尾大明神をまつっている場所で、トイレもある。当初はこの区間を歩く予定だった。「ちょっと歩き」はゆっくり歩くので、1時間20分を予定していた。しかし、天気が心配なのと、前日も降っているので道がぬかるんでいる恐れもある。そこでそのコースは断念した。

 ただ、全く歩かないのは残念だ。そこで思いついたのは、足尾大明神から根香寺まで1キロの遍路道を歩くことだった。この道はおおむね緩やかな下り。6月だというのに、ウグイスの声を聞きながら歩いた。やはり一部はぬかるんでいたので、注意しながら歩を進めた。そんなことを考えると、結局は歩く区間を短い方に変更して良かったのかもしれない。

      ↑根香寺への遍路道

 途中でヘンロ小屋51号・五色台子どもおもてなし処(高松市中山町)の前を通る。小屋の前にテーブルが置いてあり、お菓子とハーブティーが用意してあった。そこで一休みし、レモングラスのお茶をいただいてから、根香寺に向かった。歩く間、何とか雨は降らずにすんだ。

      ↑お接待のハーブティーを飲んで一休み


【52番・根香寺】

 52番・根香寺に着いたのは午後4時半を過ぎていた。蒸し暑い。歩いたせいもあるが、本堂で読経をしていると、汗がしたたり落ちる。

 心経が終わるころ、ついに雨が降ってきた。しかも強い雨。雷まで鳴ってきた。大師堂に向かう間も傘がいる。堂の前のキキョウも激しく雨に打たれている。しかし、大師堂の前は屋根があり、読経の時に雨に濡れることはなかった。何と運の良いこと。本堂と大師堂の間、大師堂と駐車場の間を歩く時間だけ雨に遭遇しただけになる。

 この寺は香川県では紅葉の名所で知られる。イロハモミジの木が多い。お参りの際は山門からいったん下ったあと再び石段をのぼるので、初夏の美しい緑の谷を通っていくことになる。普段なら心地良い紅葉の谷だが、とうとうやってきた雨で、爽やかさを楽しんでいる間はなかった。
      ↑大師堂の前のキキョウ


【宿】

 宿は五色台の上のニューサンピア坂出。かんぽの宿が廃止になり、その建物をそのまま使っている。ただ、客は少なかった。整備も行き届いているし、食事もよかったが、同じように五色台の上にある自然休養村に客が流れているらしい。

 夕食は充実していた。前菜は少しずつだが、豊富な品揃えだった。ジュンサイ、トマトのクリーム寄せ、アナゴ、スズキの焼き物、モズク酢、合ガモロース、金山寺キュウリ、ナス豆腐、ウニ、オクラ。つくりの3種盛り、黒豚の陶板焼き、野菜の煮物、ハモの梅肉あえ、ツブガイ酢みそ、枝豆ご飯、デザート。満腹になる。

 翌朝目がさめると、外は霧。しかし、何とか雨は上がっていた。夜の間に降り、朝はやんでいるケースが、このシリーズでは何回かある。ついている。

 朝食はバイキングだった。メニューの中に、小豆島のオリーブ卵があった。飼料にオリーブを混ぜて育てたニワトリの卵。卵かけご飯用だった。黄身は黄色の系統。オリーブの効果はわかりはしないが、白身が少し黄色に見えたのは、気のせいだろうか。

      ↑オリーブ卵


【84番・屋島寺】

 2日目の最初の参拝は、84番・屋島寺だった。台形に張り出した岬の小高い場所にある。バスで登っていく。前回来た時、道は有料道路だったが、無料になっている。その代わり上の駐車場は無料から有料に変わっていた。

 寺に着くと、良い天気に変わっていた。寺は赤い色が目立つ。駐車場からの山門は赤く塗られている。本堂は朱塗り。朱塗りのとうろう、朱塗りの鳥居がいくつもある。大師堂の近くには、アジサイが植えてあった。5分咲き程度だった。いつもながら、石の大きなタヌキが愛嬌を振りまいていた。

      ↑石の大きなタヌキ


【85番・八栗寺】

 85番・八栗寺へは、ケーブルカーで登った。下の駅で女性が駅員に、近くの池のホテイアオイがいつごろ咲くか聞いていた。

      ↑八栗ケーブル

 奈良県橿原市の元薬師寺跡にある池は、ホテイアオイが一面に咲き、私は見に行くことがある。ホテイアオイは開花時期が結構長いので、ヒガンバナと一緒に撮ることができる。そんな話を女性に告げ、ホテイアオイの花の時期はもう少し後だと伝えた。

 ケーブルの上の駅から寺までは、緑に包まれて歩く。気温は上がって暑いのだが、ここは涼しい。本堂の前のボダイジュが咲いていると教えられて行ってみると、5分咲きだった。カメラを向けると、ケーブルの下の駅で会った女性が先に、写真を撮っていた。聞くと香川の人で、お参りではなく、ボダイジュの花を撮るのが目的でやって来たという。

      ↑八栗寺のボダイジュ


【八栗寺からの遍路道】

 八栗寺からケーブルの下の駅まで歩いた。今回の2つ目の「ちょっと歩き」。歩く時間は30分弱。途中で25%くらいの斜度の部分があり、これを登るのはしんどいが、こちらは下りだから楽だ。

 登って来る人のためのお迎え大師が、山門の近くにある。ここからは屋島や高松方面を展望できる。下りていくと、木々の緑の下なので涼しい。「クーラーの中を歩いているみたい」と、一行の1人が言った。暑い日の緑はありがたい。

 「イノシシ目撃地点」の看板がある。やがて、お接待所の「仁庵」。女性が下からやって来て、お接待をしている。これまでも何度も休ませてもらった。

 庵を眺めていると、女主人が一行を招き入れてくれた。お茶を用意してくれ、お菓子もすすめてくれた。最近は外国人の遍路が増えたという話を聞きなが、一休みした。

      ↑仁庵

 そこから少し下った場所に、ヨモギ餅の店があ。ここは顔なじみ。おばちゃんが注文を受けてから、あんをヨモギ餅に包んでくれる。大きめの餅をそれぞれ頬張りながら、バスまで歩いた。
      ↑ヨモギ餅の店


【平賀源内の墓】

 いよいよ終わりが近づいてきて、最後から2つ目の寺へ。87番・長尾寺は前日に行っているので、86番・志度寺に参る。山門の前の小さな寺の墓地に、平賀源内の墓がある。志度出身の江戸時代のスーパースターで、エレキテル(電気)の発生装置を考案した科学者であり、土用の丑(うし)の日にウナギを食べることを広めた医者であり、画家でもある。墓に手を合わせてから志度寺に入った。

      ↑源内の墓


【86番・志度寺】

 86番・志度寺は植物園のような寺だ。たくさんの植物が植えてある。アジサイ、シモツケ、キンシバイ、イソトマブルー……。木々も多いから、ここも涼しい。

 納経所の裏は庭園になっている。白い小石と岩で造った石で、京都・竜安寺の庭を思わせる。ただ、じっくり眺める時間はなかった。

      ↑源内の墓


【昼食】

 昼食はバスで少し戻り、道の駅「源平の里むれ」にある海鮮食堂「じゃこ屋」だった。本来、志度寺の近くの店を考えていたが、休業したので変更した。

 一品ものがおもしろいのだが、こちらは少数ながら団体なので、セットになっている瀬戸内御膳を頼んでおいた。刺し身はタイ、オリーブハマチ(飼料にオリーブも混ぜて養殖したハマチ)など。天ぷらはエビと野菜。ナスの煮物、ブリの照り焼きなどが並び、今日もお腹がいっぱいになった。人気の店で客が多く、ザワザワとした庶民的な店だが、それが魅力とも言える。

      ↑瀬戸内御膳


【大窪寺への遍路道】

 88番・大窪寺へ向かう途中、おへんろ交流サロンに寄った。江戸時代の収め札など、遍路に関する飼料が展示してある。

 ここからの遍路道はいくつもある。有名なのは「女体山越え」という道で、ゆっくり行けば4時間ほどかかる。この遍路は「ちょっと歩き」だから、このルートは取らなかった。代わりに選んだのは、寺の前3キロでバスを降り、バス道からそれて行く緩やかな上りの遍路道。最後なので話ながらノンビリ歩き、遍路の締めくくりを楽しんだ。
      ↑大窪寺への遍路道


【88番・大窪寺】

 88番・大窪寺に着くと、仁王門は修理中だった。バスに預けていた参拝用品を取りに行った人,足が弱く歩かずにバスで移動した人もいた。全員そろって寺に入るため、山門の前の土産物屋で時間待ちをした。すると、満願まんじゅうの試食を勧められ、お茶も入れてくれた。参拝前に満願まんじゅうを食べるおかしさ。

 大窪寺の境内には、サツキがまだ残っていた。天気は持ちこたえた。本堂に参り、最後の般若心経を大師堂で唱えることになった。そこで、遍路を簡単に振り返って話し、それを前置きにした。スタートは2017年2月。初日は途中から雪になり、6番・安楽寺の宿坊に着いた時は一面の雪景色だった。その後は天気に恵まれたこと、出会いや思い出に少し触れてから、最後の読経をした。

 お参りをすませて、休憩していると、男性の歩き遍路が近づいてきた。私のスタイルから先達と分かったからだろう。彼は何か言いたそうだったので、こちらから声をかけた。

 年齢は26歳。32日目で、女体山を越えて大窪寺に入ったという。今の気持ちを尋ねると、「大窪寺に着いて、知らない人に『お疲れさん』と声をかけられた時に、号泣しました」と語った。きっと、このことをだれかに伝えたかったのだろう。

 私たちの遍路は「ちょっと歩き」で、それほどしんどいことはない。それでも各人で思い出はたくさんできたと思う。遍路の時だけでなく、日ごろから連絡を取り合っている人たちもいる。それも、同じ道を歩き、同じ食事を食べた遍路のもたらしたものだろう。

      ↑大窪寺はサツキが残っていた




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   ◆第16回(高野山奥の院へお礼参り)
     =2018年7月13日〜14日

 遍路旅は前回で結願し、今回の高野山へのお礼参りで、「ちょっと歩き四国区遍路・のんびり湯ったり編」をしめくくることになった。せっかくなので、高野山で一泊することにした。

 参加は12人。このシリーズは雨を奇跡的に避けてきた。今回も最後のふさわしい好天。ただ下界よりは7〜8度低い高野山でも、30度ほどあり、猛烈な暑さを経験することになった。


【慈光院】

 いつも通りに大阪市・西梅田の毎日新聞社前を午前8時にバスで出発した。四国に比べれば、高野山は近い。ノンビリと休みながら行く。

 和歌山県に入り、京奈和自動車道から下りる前に、かつらぎ西サービスエリアで休憩した。女性メンバーの楽しみの1つは、地元の野菜などの買い物。ここ小さいながら、地元野菜の売り場があり、それが安い。さっそく買い求める人もいた。

      ↑かつらぎ西サービスエリア

 世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」は、奈良県中部から和歌山県の南まで、広い範囲に散らばっている。高野山の周辺には固まっていて、それを訪ねて回った。まず、九度山町の慈尊院。空海の母が空海を訪ねるが、高野山は女人禁制で、母は慈尊院に留まることになる。空海は月9度、山を下りてきて母に会った。その逸話から九度山という地名が生まれたという。

 寺は女性の信仰を集める。子授け・安産祈願、乳がん快癒の祈願など、おっぱいをあしらった絵馬に願いを書いて奉納する。

 本堂で寺のビデオを見ていると、住職が説明をしに来てくれた。話し好きの住職で、前にも話を聞かせてもらったことがある。お得意なのは犬のゴンちゃんの話。境内に居着くようになった犬を飼うことにし、ゴンと命名した。ゴンは南海九度山駅から参拝客を寺まで案内するようになり、やがては町石道を歩いて登る参拝客を、高野山の上まで案内するようになった。新聞やテレビで何度も取り上げられた人気者になった、というストーリーだ。話のあとであいさつをすると、「いつも同じ話で申し訳ない」と恐縮していた。

スーパーにバスで乗り付け、衣類や靴下の着替えを買い求めた。

      ↑住職の話を聞く


【丹生官省符神社】

 お参りをすませ、境内の石段を登っていく。34段登った所から細い道が伸び、高野山へのメーンルートである町石道が始まる。入り口に最初の百八十町石が設置してある。

 空海は、壇上伽藍への道しるべとして、1町(109メートル)ごとに、木の卒塔婆を立てたという。その数180。鎌倉時代に、高さ3メートル近い五輪塔型の石造りの卒塔婆に建て替えられた。その後、新しくなったものもあるが、150基ほどは当時のまま残っている。町石は1つずつ数字を減らし、壇上伽藍に一町石がある。  町石道には思い出がある。最初は取材で登った。メモを取ったり、出会った人の話を聞きながらいき、7時間もかかってしまった。

 先達として十数人を案内した時は大変だった。ノンビリした歩きにし、初日は六十町石から登り、高野山の宿坊で一泊した。翌日は六十町石から慈光院まで下った。歩き始めは晴れていたが、天気が急変した。曇空を通り越し、晴のち土砂降り。細い町石道は濁流の川となり、ひどい場所は水深が20センチもあり、靴もズボンもずぶ濡れになった。慈光院に着くやいなや、みんなでスーパーにバスで乗り付け、衣類や靴下の着替えを買い求めた。

      ↑百八十町石

 今回は町石道は歩かない。石段をそのまま登り、上の丹生官省符神社へ。ここも世界遺産だが、参拝者は私たち以外には夫婦と思われる1組だけだった。帰りは石段を下りず、わずかではあるが、町石道を歩いた。

      ↑丹生官省符神社


【真田庵】

 慈光院から近い道の駅「柿の里くどやま」にバスを駐め、昼食場所のそば処幸村庵まで歩いた。当初の計画では九度山の町をブラつき、真田幸村が一時期住んだとされる真田庵を見て、隣の幸村庵に入る予定だった。所要時間は30分ほど。

 しかし、歩き出すと暑い。街並み散策は断念し、そのまま真田庵へ。長屋門から入ったが、ここも見学どころではない。涼しげに見えるはずのキキョウも見る余裕はなく、幸村庵へ飛び込んだ。

      ↑真田庵


【昼食】

 幸村庵の開店は午前11時。その5分前に着いてしまい、店にお願いし、ともかく店内で待たせてもらった。

 ざるそばに、天ぷらと卵焼き、スイカがついたセットを食べた。そばは二八そば。細くてしっかりしている。つゆは甘みを抑えたシンプルな味だった。天ぷらは量が多かった。エビ2尾、シイタケ、カボチャ、シシトウ、大葉。ゆっくり食べ、体を冷やす時間にもあてた。

      ↑幸村庵の大助御膳


【丹生都比売(にゅうつひめ)神社】

 バスに乗り、次も世界遺産の丹生都比売神社へ。太鼓橋を渡っていくが、ここも参拝客は多くはない。本殿は正面の拝殿のあたりからは見えにくい。以前、「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会のメンバーで訪ねたことがあり、その時は宮司に案内してもらったことがある。高野山との関係が深い神仏習合の要素をもつ神社だという説明を受けた。

 今回は自分たちだけでの参拝だった。拝殿の左端の方に、本殿が垣間見える所がある。そこから眺めるだけに留めた。

 境内には石造の五輪卒塔婆4基がある。修験行者との関係が濃いとされる。その横には光明真言の石碑。神道に限らない広がりがわかる。

 池にはスイレンが咲き、残りのスペースを、小さな黄色い花をつけた水生植物が占めている。コウホネだと思って神社の人に確かめると、ヒメコウホウネだと教えてくれた。

      ↑丹生都比売神社の本殿



【高野山奥の院】

 いよいよお礼参りで、高野山奥の院へ。一の橋でバスを降り、広大な墓地の中の杉木立の参道を歩いた。山の上なのに暑い。それでも木立のおかげで、汗が噴き出すほどではない。さまざまな武将の墓、浅井3姉妹の1人で徳川秀忠と結婚したお江の墓も見て、約30分で奥の院着いた。

 空海の廟の前で、般若心経を3回唱えて、遍路のすべてを終えた。これまで心経をあげる時に混み合っていることがよくあったが、今回は私たちだけ。唱え終わってゆっくりしていると、先達に導かれた数人のグループがやってきた。他の人の般若心経を聞いたのは、そのグループだけだった。

 空海の廟の前で、般若心経を3回唱えて、遍路のすべてを終えた。これまで心経をあげる時に混み合っていることがよくあったが、今回は私たちだけ。唱え終わってゆっくりしていると、先達に導かれた数人のグループがやってきた。他の人の般若心経を聞いたのは、そのグループだけだった。

      ↑奥の院の杉の参道



【金剛峯寺】

 続いて、金剛峯寺も拝観した。広い建物の中を歩く。ふすま絵を中心に、各部屋をのぞいていく。狩野元信の松の絵もある。

 豊臣秀次の自刃の間も見る。白い小石と岩を配したに庭は、すっきりとしている。お菓子をもらい、自分でお茶をくんで、広間で法話を聞く。

 寺の表と裏の掃除を任された2人の若者の話だった。表を担当した若者は参拝者からよくほめられた。裏の若者は参拝者に見られることもないので、表側がうらやましい。そこで変わってもらった。そこまで聞いて、出発時間になったので、広間を出た。その後の展開は何となくわかるような気がしながら。

      ↑金剛峯寺の庭



【壇上伽藍】

 宿は総持院の宿坊。壇上伽藍のすぐ前。荷物をいったん玄関に置いて、壇上伽藍を少し散策した。夕方になっているので、暑さは少しましになった。

 金堂、根本大塔を外から見る。御影堂は背が低く、横への広がりが特徴で美しい。軒に吊り下げられた灯ろうの列も風情がある。

      ↑壇上伽藍


 御影堂の前に三鉆の松がある。普通は2本の松葉だが、3本のものが混じる。空海が唐から持ち帰った三鉆杵にちなんで、三鉆の松と呼ばれる。どちらも先が3つに別れているからだ。

 みんなで3本松葉を探す。だが、見つからない。すると、参加者の1人がバッグの中から紙に包んだ3本松葉を見せ、数が多かったのでみんなに分けた。以前、ここに来た時に、拾った人にたくさんもらい、いつも持っていたのだという。

 散策していると、僧侶の列が整然として歩いているのを見た。翌朝は、総持院の前で同じような列を見た。

      ↑僧見かけた僧の列



【総持院】

 宿に総持院宿坊を選んだのは、精進料理が評判だからだ。その分、料金は高いが、今回の遍路旅の締めくくりなので、ぜいたくをした。

 お楽しみの夕食のメニューを、料理に添えてあった「御献立七月」で紹介する。

 先付けは胡麻豆腐。これはねっとりとしてこくがある。この寺で作っているそうで、買って帰る人もいた。

 八寸は胡瓜大葉翁巻き司、新甘藷甘煮、氷山桃、蓮根利休二段流し、白瓜雷干し。見るのも楽しい。

 油物は丸茄子、SOYハムはさみ揚げ、伏見唐辛子、紅葉卸し天つゆ。SOYハムの原料は大豆だった。

 冷やし鉢は檸檬饂飩、檸檬、彌猴桃、蕃茄、冷やしつゆ。檸檬饂飩はつめたいうどんで、うどんの上にレモンの輪切りが乗っているが、それだけではなく。トマトとキーウィフルーツも使ってあって、意外性があった。

 平椀として冬瓜、玉蜀黍志の田巻、針人参、三度豆、加減つゆ。巻物はがんもどきのような雰囲気があった。

 後汁は茗荷、結び湯葉、三ツ葉、粉山椒、赤出し仕立て。

 御飯は新蓮根御飯、梅肉。シンプルで控えめな味がした。

 香物は胡瓜糠漬、沢庵、紫蘇漬け。

 果物は檸檬ゼリー。

 精進の中に、洋風な風情を感じた。宿坊の宿泊客の7割は外国人だそうで、もしかすると、そんなことが関係しているのかもしれない。

      ↑胡麻豆腐と八寸


 翌朝は午前6時から朝のお勤めだった。お勤め参列すると、外国人が多い。それでも法話の中で、「いつもは外国人の方が多いのに、今日は逆」との話があった。

 住職、副住職が留守だということで、法話は別の僧が受け持った。前回泊まった時も同じ僧だった。年齢は高いが、この寺に入ったのは古いことではないと自己紹介の仲で語った。

 22歳で治らない病気なり、地獄を味わったという。33歳で高野山に入った。治りたいの一心だった。すると、助けてやろという人がいて、信じることで頑張ることができ、55歳で治ったそうだ。

 命をもらったので、自分の人生はこれからだという。「いいことがあると、前向き考えることができるようになったのが良かった」。それが話の締めくくりだった。



【立里荒神社】

 2日目はまず立里荒神社を訪ねた。高野山からバスで30分あまり。高野山は和歌山県だが、立里荒神の所在地は奈良県野迫川村となる。荒神は火を司り、台所の神様として信仰を集めているる。

 立里は清荒神(兵庫県宝塚市)と笠山荒神(奈良県桜井市)とともに、日本三大荒神の1つとされる。また立里は空海が勧進したとも伝わる。そんなこともあって、遍路旅に組み込んだ。山深い場所で行きにくく、参拝した経験のある人は少ないのも、大きな理由だった。

 バスを駐車場に駐め、そこから鳥居が連なる参道の階段を登っていく。京都・伏見稲荷に似ている。しかし、伏見は鳥居が赤いが、立里は色を塗っていない。だから地味に感じる。

      ↑鳥居の参道


 本殿は歩いて10分ほどで着く。それほど大きな建物ではない。ただ正面には高い木の階段が設けてあり、それを上っていって手を合わせる。

 本殿は3年前に新しくなった。背の高い木が屋根を貫いている。屋根を丸くくりぬき、その間に木が通っている。一方、本殿の前はコンクリートプラットホームになっていて、こちらも丸い穴があり、下からの木が貫通している。深い山の中の神社を実感させる。

      ↑立里荒神の本殿


 神社は6重、7重の山並みが取り囲んでいる。鳥居の階段の前にある案内板を見ると、大台ヶ原の山も描いてある。ただ、少しもやっていたので、どの山かはっきりしなかった。

      ↑立里荒神からの眺め



【昼食】

 立里荒神からバスで一旦高野山に戻った。参加者の中に、ゴマ豆腐を土産にしたいという人が何人もいたので、浜田屋という店に案内した。高野山から下りる際、屋外の温度表示板を見ると、30.5度。まだ午前中の高野山なのに、何という暑さ。

 京奈和自動車道に乗って、奈良県の五條インターで下りた。昼食場所を五條市に決めていたからだった。五條市といっても、中心街ではない。平成の大合併で五條市に吸収合併された旧西吉野村。結構山に入っていく。道が狭くなり、最後はバスを降りて、10分近く坂道を登っていく。これでまた汗が噴き出す。

 昼食の場所は、市街地から300メートル余り登ったところにある。名前は農悠舎王隠堂。昔は薬草を集めて大阪・道修町に卸すような仕事をしていた大きな家で、その建物を使って地元の野菜にこだわった食事を出している。

      ↑農悠舎王隠堂の門


 猛暑の中をたどり着き、広い畳の部屋に通されたが、冷房設備がない。その代わり窓を開け放してあり、風がと通る。扇風機も回っている。2台だったか3台だったか。やがて汗はひき、クーラーの冷気ではない、自然の心地よい空気を感じるようになる。下界が見える景色もいい。

 料理は農産物ばかり。食前にプラムのジュース。最初に用意されていたのは、オカヒジキ、ピリ辛ゴボウ、がんもどきの梅酢おろし、ヒモトウガラシ、ヤマトマナ、キュウリの酢の物。炊き合わせとして、ズッキーニ、カボチャ、揚げナス、ニンジン、モロッコ豆。

 それから次々に料理が運ばれてくる。ソラマメの冷たいスープ、野菜コロッケ。天ぷらは、ズッキーニ、サンド豆、大和当帰(ヤマトトウキ)など。大和当帰は初めて食べた。薬草として使われていたが生産量が減り、それを復活させているらしい。生薬としては使わない葉の活用を考え、天ぷらにしたという。野菜サラダはよくあるようにフワッと盛ってあるのではなく、巻きずし状に巻いていた。カリカリ梅のご飯、吸い物、漬け物。肉も魚もないのだが、お腹いっぱいになった。

 ノンビリとした時間だった。まだしばらくボケーッとしていたいが、そうもいかず、また炎天下に出て、バスまで歩いた。

      ↑地元の野菜を使った料理の一部



【五條市民俗資料館】

 最後の目的地は五條市の新町地区。市の中心部に近く、江戸時代以降の古い建物がたくさん残っていて、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。江戸時代の建物も多いのだが、それほど観光地化されていない。そこを散策するつもりだった。

 もう1つ、ここには明治維新の前史がある。維新の5年前、尊皇攘夷の流れの中で、土佐を脱藩した吉村寅太郎らの天誅組が、五條にあった幕府の代官所を襲う。天皇の大和行幸が計画されていて、その先鋒を担う形で天誅組は出発したのだった。代官所襲撃は尊王攘夷派の初めての武装蜂起で、吉村らは代官所で新政府の樹立を宣言し、天皇の行幸を待つことになった。1863年8月17日のことだった。

 ところが翌18日、京都で政変が起きた。尊皇派を排除し、公武合体へとかじを切った。このため、天皇の大和行幸は中止となり、天誅組は一夜にして逆賊となった。討伐軍に追われて天誅組は吉野の奥深く逃れていくが、やがて全滅して終わる。天誅組の変といわれる。

 そんな地を歩くのは良いアイデアと思っていた。ところが暑すぎる。考えた結果、散策はやめて、散策コースの終着点と考えていた五條市立民俗資料館に直行することにした。ここなら涼しいだろうし、天誅組に関心のある人は展示を見ることもできる。

 ところが甘かった。何と、資料館には冷房がない。涼むどころではない。資料を見ていても汗が流れる。やむをえず、そうそうにバスに乗った。

      ↑五條市民俗資料館



【道の駅かつらぎ】

 予定を変更したので、時間があまった。さて、どうするか。猛暑では、屋外は避けた方がいい。女性が多い遍路旅なので、結局は奈良県葛城市の道の駅かつらぎにした。

 2016年11月にオープンした新しい施設。規模は大きく、野菜など地元産品の販売だけでなく、レストランや子どもが遊ぶスースも備えている。涼しい中でゆっくり買い物をして、大阪に向かった。駐車場から直接南阪奈有料道路に入ることができる造りにしてあった。

      ↑道の駅かつらぎ


 大阪市・梅田に着いたのは午後5時前。これで、「ちょっと歩き四国遍路・のんびり湯ったり編」はすべて終了した。2017年2月から16回にわたる遍路で、仲の良いグループとなった。住所や連絡先を書いた名簿を作り、コーピーして持ち合ほどに。