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◆第15回(80番・国分寺〜88番・大窪寺)
=2018年6月8日〜9日
今回の遍路旅は、結願の回となった。88番・大窪寺まで参拝するからだ。7月に高野山にお礼参りに行くが、四国へは最後となる。参加者は10人。みんな名残惜しい気持ちを抱えての遍路のようだった。皆勤の人にしてみれば、1泊2日ずつ15回、計30日も共に過ごした仲間、しかも少人数で親しくなった仲間なので、その思いも当然だろう。
このシリーズは毎回、天気が課題だった。今回も同様。予報はコロコロと変わったが、前日の予報では、2日間のどちらの日も、雨の不安があった。しかも大雨の。ところが実際には、今回もおおむねセーフ。つまり15回すべて、雨をかろうじてすり抜けたわけで、奇跡の30日間といえる。
【86番・長尾寺】
梅雨入り直後の遍路だった。大阪・梅田の毎日新聞社前を出発する時には、雨は降っていなかった。しかし、明石海峡大橋を渡り、淡路島を走っているうちに、細かい雨がフロントグラスに当たり始めた。しかし、ワイパーを動かし続けるほどではない。これなら、何とか初日は持ちこたえるかもしれない、と楽観的な判断をした。
ただ、2日目も心配なので、雨が降らないうちにできるだけ参拝しようと考え、当初の行程をかなり変更することにした。今回は80番・国分寺から88番・大窪寺までのコース。変更するなら大胆にと考えて、まず87番・長尾寺のお参りという変則遍路にした。
この遍路は、札所などでゆっくり時間を取る方針なので、急がねばならない時には融通がきく。変更の大きな点は、参拝順もさることながら、参拝する寺の数を1日目に1つ増やし、2日目に1つ減らす前倒しだった。
山門前に大きな経幢が2つ。経文を入れておく容器で、日本では鎌倉時代中期から造られたと説明にある。この寺のものは石造りの大きなもので、重要文化財に指定されている。
山門を入ると、右手に大きなクスノキ。幹回りの太さが特に目立つ。本堂へ行く。雨はかけらもなくなった。それどころか、日が出てきて暑い。本堂の前面はガラス張りで、天気が良くなったので、手を合わせる自分姿が写っていておもしろい。
本堂の壁を、イモリがはっていた。その動きを目がとらえながら、般若心経を唱えた。
本堂の屋根の下は彫刻で装飾してある。さまざまなものを彫り出しているが、その中にほうきがある。これは釈迦の弟子に関する逸話に由来する。弟子のチューラパンダカは物覚えが悪かった。釈迦は1本のほうきを与え、「ちりを払おう、あかを除かん」と唱えながら掃除をするように指示した。毎日毎日掃除をしていたが、やがて「心のちりを払い、あかを除く」ことだと悟った。彫刻のほうきは、そんな話に基づいている。
このストーリーには、「茗荷(みょうが)を食べると、物忘れする」という俗説につながる。チューラパンダカは自分の名前さえ覚えられず、名前を書いた札を首からぶら下げていたが、それでも覚えられなかった。「名前を荷なう(になう)」ので茗荷となる。
この寺は、静御前が剃髪した寺とされる。その像がある。静御前の顔はめの絵を描いた板もあり、この辺は今風だと思った。
長尾寺に参ると、甘納豆の大福を買うことにしている。売っているはずの売店が閉まっていて、諦めていた。すると添乗員さんが朱印を押してもらう経所にから帰ってきて、「納経所で売っていた」と言い、参加者分の大福を買ってくれていた。あんに比べれば甘納豆は量が少なく、そのためにあっさりしていて、好きなタイプだ。京都市・出町柳の「ふたばの豆餅」を連想させる。
↑ほうきの彫刻
【73番・一宮寺】
次のお参りは73番・一宮寺。駐車場から田の間を通り、カエルの声を聞きながら寺へ入る。山門をくぐったところに、小さいながら石庭が設けてある。黄色になった梅の実が敷き詰められて白い小石の上に数個落ちていて、無彩色の中のアクセントが目をひきつけた。
本堂の前には、ここにも大きなクスノキがあった。大師堂でお参りをしようとすると、敷石の上にぼんやりと黒い線が細かく動いている。よく見るとアリの道。普通に見るアリよりも小さく、膨大な数で動いている。黒い線は5メートルほど伸びていた。アリたちを踏まないように気をつけて、般若心経をあげた。
↑アリの列
【昼食】
香川に入ると、昼食はうどんが増える。今回の初日もそうだった。綾川町の「山越」。讃岐うどんブームを牽引した店の1つだ。郊外の店だが、客は多い。半分、セルフサービスの店で、最初にうどんの玉の数と食べ方の種類を注文しておく。トッピング用の天ぷらなどを選んで皿に乗せて、丼に入ったうどんを受け取り、さらに進んで計算してもらう。その上で、注文したのがかけうどん(素うどん)ならば自分で丼につゆを注ぎ、名物のかまたま(釜揚げうどんに生卵を落とした食べ方=卵かけご飯のうどん版)ならしょうゆを回しかける。
店は午後1時半までしか開いていない。昼食までに2カ寺を回ったので、店に着いたのは午後1時少し前。遅くなった分、客の数は少し落ち着いていて、うどんを受け取る客の列は十数人だった。店の外まで列が伸びていても、すぐに順番は回ってきた。
それぞれ、うどんを何玉頼んでもいいし、トッピングも何をいくつ取ってもいい、という方式にしたので、参加者の食べる組み合わせはバラエティーに富んでいた。ちなみに、私はうどん2玉のかまたまで、トッピングはゆで卵の天ぷら、竹輪の天ぷら、串に3つさしたエビの味の丸い練り物。私のものも含め、参加者の代金は添乗員さんが一括して払ったので、私の値段ははっきりしないが、600円か700円だった。満腹。
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↑山越のうどん
【80番・国分寺】
また天気がはっきりしなくなった。初日の「ちょっと歩き」をどうするか迷っていたが、縮小することを決断し、80番・国分寺に着いた。早めに決断したのは、余った時間を国分寺で使うためだった。
山門をくぐると、本堂まで松林が続いている。木の間に奈良時代の礎石が並び、ミニ八十八カ所の石仏も続いている。暑いのだが、松の木陰を歩くと心地よい。
本堂は鎌倉時代の建物で、重厚な印象を与える。大師堂では寺の人が、新たな大日如来建造への協力を呼びかける話をした。前回のシリーズの際も、そうだったような気がする。
↑国分寺の山門
生み出された時間を使って、本堂北側にある奈良時代の国分寺跡を見ることにした。当時の伽藍を10分の1のスケールにして石で再現した模型が屋外に造ってある。驚くのは、塔が五重ではなく八重だったことだ。僧坊は1棟復元している。僧たちの学問所で、中に入ると、勉強部屋が並んでいるような造りになっていた。
↑復元された僧坊の内部
【81番・白峯寺】
バスで五色台に登り、81番・白峯寺へ行く。下に見える瀬戸内海がけぶっている。少しずつだが、空が怪しくなってきた。
アジサイの参道を走る。まだ咲き始め。境内にもアジサイの株は多いが、これも花の数はポツポツだった。緑の多い石段を上って本堂に着く。蒸し暑いが、風が時折通るので、ましだった。ただ、ポツリと雨が当たったので、ちょっと嫌な予感がした。
↑白峯寺はアジサイが多い
【根香寺への遍路道】
白峯寺から82番・根香寺までは、歩き遍路の道で4.5キロほどある。アップダウンはあるが、地元の人たちが手入れをしていて、大変良い遍路といえる。
2004年に歩いた時、町石の役割の地蔵はエプロンを着せてもらい、それに青いリボンがついていた。青いリボンは、拉致事件の象徴だった。
2002年9月17日、当時の小泉純一郎が訪朝し、金正日・朝鮮労働党総書記は拉致を認め謝罪した。後日、5人の帰国が実現する。
この日は、私にとってはじくちたる思いの日である。その日の朝刊のコラムに、拉致問題を取り上げる記事を書いた。被害者の1人、有本恵子さんの両親に事前に取材をしていて、両親の思いを訪朝の日の新聞をぶつけたのだった。
有本さんは横田めぐみさんらとともに、拉致被害者の象徴のような存在だった。そのため私は、有本さんは日本に返されるだろうと踏んでいたのだ。その見込みははずれてしまった。コラムに有本さんを取り上げたことに、ごこか後ろめたさがある。
地蔵の青いリボンを見たのは、それから1年5カ月ほどたった時だった。今回の遍路は、トランプ大統領と金正恩委員長の米朝会談(2018年6月12日)を直後に控えた時期だったので、昔を思い出していた。
白峯寺からの遍路道は3.5キロ歩くと、いったん自動車道に出る。ちょうど足尾大明神をまつっている場所で、トイレもある。当初はこの区間を歩く予定だった。「ちょっと歩き」はゆっくり歩くので、1時間20分を予定していた。しかし、天気が心配なのと、前日も降っているので道がぬかるんでいる恐れもある。そこでそのコースは断念した。
ただ、全く歩かないのは残念だ。そこで思いついたのは、足尾大明神から根香寺まで1キロの遍路道を歩くことだった。この道はおおむね緩やかな下り。6月だというのに、ウグイスの声を聞きながら歩いた。やはり一部はぬかるんでいたので、注意しながら歩を進めた。そんなことを考えると、結局は歩く区間を短い方に変更して良かったのかもしれない。
↑根香寺への遍路道
途中でヘンロ小屋51号・五色台子どもおもてなし処(高松市中山町)の前を通る。小屋の前にテーブルが置いてあり、お菓子とハーブティーが用意してあった。そこで一休みし、レモングラスのお茶をいただいてから、根香寺に向かった。歩く間、何とか雨は降らずにすんだ。
↑お接待のハーブティーを飲んで一休み
【52番・根香寺】
52番・根香寺に着いたのは午後4時半を過ぎていた。蒸し暑い。歩いたせいもあるが、本堂で読経をしていると、汗がしたたり落ちる。
心経が終わるころ、ついに雨が降ってきた。しかも強い雨。雷まで鳴ってきた。大師堂に向かう間も傘がいる。堂の前のキキョウも激しく雨に打たれている。しかし、大師堂の前は屋根があり、読経の時に雨に濡れることはなかった。何と運の良いこと。本堂と大師堂の間、大師堂と駐車場の間を歩く時間だけ雨に遭遇しただけになる。
この寺は香川県では紅葉の名所で知られる。イロハモミジの木が多い。お参りの際は山門からいったん下ったあと再び石段をのぼるので、初夏の美しい緑の谷を通っていくことになる。普段なら心地良い紅葉の谷だが、とうとうやってきた雨で、爽やかさを楽しんでいる間はなかった。
↑大師堂の前のキキョウ
【宿】
宿は五色台の上のニューサンピア坂出。かんぽの宿が廃止になり、その建物をそのまま使っている。ただ、客は少なかった。整備も行き届いているし、食事もよかったが、同じように五色台の上にある自然休養村に客が流れているらしい。
夕食は充実していた。前菜は少しずつだが、豊富な品揃えだった。ジュンサイ、トマトのクリーム寄せ、アナゴ、スズキの焼き物、モズク酢、合ガモロース、金山寺キュウリ、ナス豆腐、ウニ、オクラ。つくりの3種盛り、黒豚の陶板焼き、野菜の煮物、ハモの梅肉あえ、ツブガイ酢みそ、枝豆ご飯、デザート。満腹になる。
翌朝目がさめると、外は霧。しかし、何とか雨は上がっていた。夜の間に降り、朝はやんでいるケースが、このシリーズでは何回かある。ついている。
朝食はバイキングだった。メニューの中に、小豆島のオリーブ卵があった。飼料にオリーブを混ぜて育てたニワトリの卵。卵かけご飯用だった。黄身は黄色の系統。オリーブの効果はわかりはしないが、白身が少し黄色に見えたのは、気のせいだろうか。
↑オリーブ卵
【84番・屋島寺】
2日目の最初の参拝は、84番・屋島寺だった。台形に張り出した岬の小高い場所にある。バスで登っていく。前回来た時、道は有料道路だったが、無料になっている。その代わり上の駐車場は無料から有料に変わっていた。
寺に着くと、良い天気に変わっていた。寺は赤い色が目立つ。駐車場からの山門は赤く塗られている。本堂は朱塗り。朱塗りのとうろう、朱塗りの鳥居がいくつもある。大師堂の近くには、アジサイが植えてあった。5分咲き程度だった。いつもながら、石の大きなタヌキが愛嬌を振りまいていた。
↑石の大きなタヌキ
【85番・八栗寺】
85番・八栗寺へは、ケーブルカーで登った。下の駅で女性が駅員に、近くの池のホテイアオイがいつごろ咲くか聞いていた。
↑八栗ケーブル
奈良県橿原市の元薬師寺跡にある池は、ホテイアオイが一面に咲き、私は見に行くことがある。ホテイアオイは開花時期が結構長いので、ヒガンバナと一緒に撮ることができる。そんな話を女性に告げ、ホテイアオイの花の時期はもう少し後だと伝えた。
ケーブルの上の駅から寺までは、緑に包まれて歩く。気温は上がって暑いのだが、ここは涼しい。本堂の前のボダイジュが咲いていると教えられて行ってみると、5分咲きだった。カメラを向けると、ケーブルの下の駅で会った女性が先に、写真を撮っていた。聞くと香川の人で、お参りではなく、ボダイジュの花を撮るのが目的でやって来たという。
↑八栗寺のボダイジュ
【八栗寺からの遍路道】
八栗寺からケーブルの下の駅まで歩いた。今回の2つ目の「ちょっと歩き」。歩く時間は30分弱。途中で25%くらいの斜度の部分があり、これを登るのはしんどいが、こちらは下りだから楽だ。
登って来る人のためのお迎え大師が、山門の近くにある。ここからは屋島や高松方面を展望できる。下りていくと、木々の緑の下なので涼しい。「クーラーの中を歩いているみたい」と、一行の1人が言った。暑い日の緑はありがたい。
「イノシシ目撃地点」の看板がある。やがて、お接待所の「仁庵」。女性が下からやって来て、お接待をしている。これまでも何度も休ませてもらった。
庵を眺めていると、女主人が一行を招き入れてくれた。お茶を用意してくれ、お菓子もすすめてくれた。最近は外国人の遍路が増えたという話を聞きなが、一休みした。
↑仁庵
そこから少し下った場所に、ヨモギ餅の店があ。ここは顔なじみ。おばちゃんが注文を受けてから、あんをヨモギ餅に包んでくれる。大きめの餅をそれぞれ頬張りながら、バスまで歩いた。
↑ヨモギ餅の店
【平賀源内の墓】
いよいよ終わりが近づいてきて、最後から2つ目の寺へ。87番・長尾寺は前日に行っているので、86番・志度寺に参る。山門の前の小さな寺の墓地に、平賀源内の墓がある。志度出身の江戸時代のスーパースターで、エレキテル(電気)の発生装置を考案した科学者であり、土用の丑(うし)の日にウナギを食べることを広めた医者であり、画家でもある。墓に手を合わせてから志度寺に入った。
↑源内の墓
【86番・志度寺】
86番・志度寺は植物園のような寺だ。たくさんの植物が植えてある。アジサイ、シモツケ、キンシバイ、イソトマブルー……。木々も多いから、ここも涼しい。
納経所の裏は庭園になっている。白い小石と岩で造った石で、京都・竜安寺の庭を思わせる。ただ、じっくり眺める時間はなかった。
↑源内の墓
【昼食】
昼食はバスで少し戻り、道の駅「源平の里むれ」にある海鮮食堂「じゃこ屋」だった。本来、志度寺の近くの店を考えていたが、休業したので変更した。
一品ものがおもしろいのだが、こちらは少数ながら団体なので、セットになっている瀬戸内御膳を頼んでおいた。刺し身はタイ、オリーブハマチ(飼料にオリーブも混ぜて養殖したハマチ)など。天ぷらはエビと野菜。ナスの煮物、ブリの照り焼きなどが並び、今日もお腹がいっぱいになった。人気の店で客が多く、ザワザワとした庶民的な店だが、それが魅力とも言える。
↑瀬戸内御膳
【大窪寺への遍路道】
88番・大窪寺へ向かう途中、おへんろ交流サロンに寄った。江戸時代の収め札など、遍路に関する飼料が展示してある。
ここからの遍路道はいくつもある。有名なのは「女体山越え」という道で、ゆっくり行けば4時間ほどかかる。この遍路は「ちょっと歩き」だから、このルートは取らなかった。代わりに選んだのは、寺の前3キロでバスを降り、バス道からそれて行く緩やかな上りの遍路道。最後なので話ながらノンビリ歩き、遍路の締めくくりを楽しんだ。
↑大窪寺への遍路道
【88番・大窪寺】
88番・大窪寺に着くと、仁王門は修理中だった。バスに預けていた参拝用品を取りに行った人,足が弱く歩かずにバスで移動した人もいた。全員そろって寺に入るため、山門の前の土産物屋で時間待ちをした。すると、満願まんじゅうの試食を勧められ、お茶も入れてくれた。参拝前に満願まんじゅうを食べるおかしさ。
大窪寺の境内には、サツキがまだ残っていた。天気は持ちこたえた。本堂に参り、最後の般若心経を大師堂で唱えることになった。そこで、遍路を簡単に振り返って話し、それを前置きにした。スタートは2017年2月。初日は途中から雪になり、6番・安楽寺の宿坊に着いた時は一面の雪景色だった。その後は天気に恵まれたこと、出会いや思い出に少し触れてから、最後の読経をした。
お参りをすませて、休憩していると、男性の歩き遍路が近づいてきた。私のスタイルから先達と分かったからだろう。彼は何か言いたそうだったので、こちらから声をかけた。
年齢は26歳。32日目で、女体山を越えて大窪寺に入ったという。今の気持ちを尋ねると、「大窪寺に着いて、知らない人に『お疲れさん』と声をかけられた時に、号泣しました」と語った。きっと、このことをだれかに伝えたかったのだろう。
私たちの遍路は「ちょっと歩き」で、それほどしんどいことはない。それでも各人で思い出はたくさんできたと思う。遍路の時だけでなく、日ごろから連絡を取り合っている人たちもいる。それも、同じ道を歩き、同じ食事を食べた遍路のもたらしたものだろう。
↑大窪寺はサツキが残っていた
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◆第16回(高野山奥の院へお礼参り)
=2018年7月13日〜14日
遍路旅は前回で結願し、今回の高野山へのお礼参りで、「ちょっと歩き四国区遍路・のんびり湯ったり編」をしめくくることになった。せっかくなので、高野山で一泊することにした。
参加は12人。このシリーズは雨を奇跡的に避けてきた。今回も最後のふさわしい好天。ただ下界よりは7〜8度低い高野山でも、30度ほどあり、猛烈な暑さを経験することになった。
【慈光院】
いつも通りに大阪市・西梅田の毎日新聞社前を午前8時にバスで出発した。四国に比べれば、高野山は近い。ノンビリと休みながら行く。
和歌山県に入り、京奈和自動車道から下りる前に、かつらぎ西サービスエリアで休憩した。女性メンバーの楽しみの1つは、地元の野菜などの買い物。ここ小さいながら、地元野菜の売り場があり、それが安い。さっそく買い求める人もいた。
↑かつらぎ西サービスエリア
世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」は、奈良県中部から和歌山県の南まで、広い範囲に散らばっている。高野山の周辺には固まっていて、それを訪ねて回った。まず、九度山町の慈尊院。空海の母が空海を訪ねるが、高野山は女人禁制で、母は慈尊院に留まることになる。空海は月9度、山を下りてきて母に会った。その逸話から九度山という地名が生まれたという。
寺は女性の信仰を集める。子授け・安産祈願、乳がん快癒の祈願など、おっぱいをあしらった絵馬に願いを書いて奉納する。
本堂で寺のビデオを見ていると、住職が説明をしに来てくれた。話し好きの住職で、前にも話を聞かせてもらったことがある。お得意なのは犬のゴンちゃんの話。境内に居着くようになった犬を飼うことにし、ゴンと命名した。ゴンは南海九度山駅から参拝客を寺まで案内するようになり、やがては町石道を歩いて登る参拝客を、高野山の上まで案内するようになった。新聞やテレビで何度も取り上げられた人気者になった、というストーリーだ。話のあとであいさつをすると、「いつも同じ話で申し訳ない」と恐縮していた。
スーパーにバスで乗り付け、衣類や靴下の着替えを買い求めた。
↑住職の話を聞く
【丹生官省符神社】
お参りをすませ、境内の石段を登っていく。34段登った所から細い道が伸び、高野山へのメーンルートである町石道が始まる。入り口に最初の百八十町石が設置してある。
空海は、壇上伽藍への道しるべとして、1町(109メートル)ごとに、木の卒塔婆を立てたという。その数180。鎌倉時代に、高さ3メートル近い五輪塔型の石造りの卒塔婆に建て替えられた。その後、新しくなったものもあるが、150基ほどは当時のまま残っている。町石は1つずつ数字を減らし、壇上伽藍に一町石がある。
町石道には思い出がある。最初は取材で登った。メモを取ったり、出会った人の話を聞きながらいき、7時間もかかってしまった。
先達として十数人を案内した時は大変だった。ノンビリした歩きにし、初日は六十町石から登り、高野山の宿坊で一泊した。翌日は六十町石から慈光院まで下った。歩き始めは晴れていたが、天気が急変した。曇空を通り越し、晴のち土砂降り。細い町石道は濁流の川となり、ひどい場所は水深が20センチもあり、靴もズボンもずぶ濡れになった。慈光院に着くやいなや、みんなでスーパーにバスで乗り付け、衣類や靴下の着替えを買い求めた。
↑百八十町石
今回は町石道は歩かない。石段をそのまま登り、上の丹生官省符神社へ。ここも世界遺産だが、参拝者は私たち以外には夫婦と思われる1組だけだった。帰りは石段を下りず、わずかではあるが、町石道を歩いた。
↑丹生官省符神社
【真田庵】
慈光院から近い道の駅「柿の里くどやま」にバスを駐め、昼食場所のそば処幸村庵まで歩いた。当初の計画では九度山の町をブラつき、真田幸村が一時期住んだとされる真田庵を見て、隣の幸村庵に入る予定だった。所要時間は30分ほど。
しかし、歩き出すと暑い。街並み散策は断念し、そのまま真田庵へ。長屋門から入ったが、ここも見学どころではない。涼しげに見えるはずのキキョウも見る余裕はなく、幸村庵へ飛び込んだ。
↑真田庵
【昼食】
幸村庵の開店は午前11時。その5分前に着いてしまい、店にお願いし、ともかく店内で待たせてもらった。
ざるそばに、天ぷらと卵焼き、スイカがついたセットを食べた。そばは二八そば。細くてしっかりしている。つゆは甘みを抑えたシンプルな味だった。天ぷらは量が多かった。エビ2尾、シイタケ、カボチャ、シシトウ、大葉。ゆっくり食べ、体を冷やす時間にもあてた。
↑幸村庵の大助御膳
【丹生都比売(にゅうつひめ)神社】
バスに乗り、次も世界遺産の丹生都比売神社へ。太鼓橋を渡っていくが、ここも参拝客は多くはない。本殿は正面の拝殿のあたりからは見えにくい。以前、「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会のメンバーで訪ねたことがあり、その時は宮司に案内してもらったことがある。高野山との関係が深い神仏習合の要素をもつ神社だという説明を受けた。
今回は自分たちだけでの参拝だった。拝殿の左端の方に、本殿が垣間見える所がある。そこから眺めるだけに留めた。
境内には石造の五輪卒塔婆4基がある。修験行者との関係が濃いとされる。その横には光明真言の石碑。神道に限らない広がりがわかる。
池にはスイレンが咲き、残りのスペースを、小さな黄色い花をつけた水生植物が占めている。コウホネだと思って神社の人に確かめると、ヒメコウホウネだと教えてくれた。
↑丹生都比売神社の本殿
【高野山奥の院】
いよいよお礼参りで、高野山奥の院へ。一の橋でバスを降り、広大な墓地の中の杉木立の参道を歩いた。山の上なのに暑い。それでも木立のおかげで、汗が噴き出すほどではない。さまざまな武将の墓、浅井3姉妹の1人で徳川秀忠と結婚したお江の墓も見て、約30分で奥の院着いた。
空海の廟の前で、般若心経を3回唱えて、遍路のすべてを終えた。これまで心経をあげる時に混み合っていることがよくあったが、今回は私たちだけ。唱え終わってゆっくりしていると、先達に導かれた数人のグループがやってきた。他の人の般若心経を聞いたのは、そのグループだけだった。
空海の廟の前で、般若心経を3回唱えて、遍路のすべてを終えた。これまで心経をあげる時に混み合っていることがよくあったが、今回は私たちだけ。唱え終わってゆっくりしていると、先達に導かれた数人のグループがやってきた。他の人の般若心経を聞いたのは、そのグループだけだった。
↑奥の院の杉の参道
【金剛峯寺】
続いて、金剛峯寺も拝観した。広い建物の中を歩く。ふすま絵を中心に、各部屋をのぞいていく。狩野元信の松の絵もある。
豊臣秀次の自刃の間も見る。白い小石と岩を配したに庭は、すっきりとしている。お菓子をもらい、自分でお茶をくんで、広間で法話を聞く。
寺の表と裏の掃除を任された2人の若者の話だった。表を担当した若者は参拝者からよくほめられた。裏の若者は参拝者に見られることもないので、表側がうらやましい。そこで変わってもらった。そこまで聞いて、出発時間になったので、広間を出た。その後の展開は何となくわかるような気がしながら。
↑金剛峯寺の庭
【壇上伽藍】
宿は総持院の宿坊。壇上伽藍のすぐ前。荷物をいったん玄関に置いて、壇上伽藍を少し散策した。夕方になっているので、暑さは少しましになった。
金堂、根本大塔を外から見る。御影堂は背が低く、横への広がりが特徴で美しい。軒に吊り下げられた灯ろうの列も風情がある。
↑壇上伽藍
御影堂の前に三鉆の松がある。普通は2本の松葉だが、3本のものが混じる。空海が唐から持ち帰った三鉆杵にちなんで、三鉆の松と呼ばれる。どちらも先が3つに別れているからだ。
みんなで3本松葉を探す。だが、見つからない。すると、参加者の1人がバッグの中から紙に包んだ3本松葉を見せ、数が多かったのでみんなに分けた。以前、ここに来た時に、拾った人にたくさんもらい、いつも持っていたのだという。
散策していると、僧侶の列が整然として歩いているのを見た。翌朝は、総持院の前で同じような列を見た。
↑僧見かけた僧の列
【総持院】
宿に総持院宿坊を選んだのは、精進料理が評判だからだ。その分、料金は高いが、今回の遍路旅の締めくくりなので、ぜいたくをした。
お楽しみの夕食のメニューを、料理に添えてあった「御献立七月」で紹介する。
先付けは胡麻豆腐。これはねっとりとしてこくがある。この寺で作っているそうで、買って帰る人もいた。
八寸は胡瓜大葉翁巻き司、新甘藷甘煮、氷山桃、蓮根利休二段流し、白瓜雷干し。見るのも楽しい。
油物は丸茄子、SOYハムはさみ揚げ、伏見唐辛子、紅葉卸し天つゆ。SOYハムの原料は大豆だった。
冷やし鉢は檸檬饂飩、檸檬、彌猴桃、蕃茄、冷やしつゆ。檸檬饂飩はつめたいうどんで、うどんの上にレモンの輪切りが乗っているが、それだけではなく。トマトとキーウィフルーツも使ってあって、意外性があった。
平椀として冬瓜、玉蜀黍志の田巻、針人参、三度豆、加減つゆ。巻物はがんもどきのような雰囲気があった。
後汁は茗荷、結び湯葉、三ツ葉、粉山椒、赤出し仕立て。
御飯は新蓮根御飯、梅肉。シンプルで控えめな味がした。
香物は胡瓜糠漬、沢庵、紫蘇漬け。
果物は檸檬ゼリー。
精進の中に、洋風な風情を感じた。宿坊の宿泊客の7割は外国人だそうで、もしかすると、そんなことが関係しているのかもしれない。
↑胡麻豆腐と八寸
翌朝は午前6時から朝のお勤めだった。お勤め参列すると、外国人が多い。それでも法話の中で、「いつもは外国人の方が多いのに、今日は逆」との話があった。
住職、副住職が留守だということで、法話は別の僧が受け持った。前回泊まった時も同じ僧だった。年齢は高いが、この寺に入ったのは古いことではないと自己紹介の仲で語った。
22歳で治らない病気なり、地獄を味わったという。33歳で高野山に入った。治りたいの一心だった。すると、助けてやろという人がいて、信じることで頑張ることができ、55歳で治ったそうだ。
命をもらったので、自分の人生はこれからだという。「いいことがあると、前向き考えることができるようになったのが良かった」。それが話の締めくくりだった。
【立里荒神社】
2日目はまず立里荒神社を訪ねた。高野山からバスで30分あまり。高野山は和歌山県だが、立里荒神の所在地は奈良県野迫川村となる。荒神は火を司り、台所の神様として信仰を集めているる。
立里は清荒神(兵庫県宝塚市)と笠山荒神(奈良県桜井市)とともに、日本三大荒神の1つとされる。また立里は空海が勧進したとも伝わる。そんなこともあって、遍路旅に組み込んだ。山深い場所で行きにくく、参拝した経験のある人は少ないのも、大きな理由だった。
バスを駐車場に駐め、そこから鳥居が連なる参道の階段を登っていく。京都・伏見稲荷に似ている。しかし、伏見は鳥居が赤いが、立里は色を塗っていない。だから地味に感じる。
↑鳥居の参道
本殿は歩いて10分ほどで着く。それほど大きな建物ではない。ただ正面には高い木の階段が設けてあり、それを上っていって手を合わせる。
本殿は3年前に新しくなった。背の高い木が屋根を貫いている。屋根を丸くくりぬき、その間に木が通っている。一方、本殿の前はコンクリートプラットホームになっていて、こちらも丸い穴があり、下からの木が貫通している。深い山の中の神社を実感させる。
↑立里荒神の本殿
神社は6重、7重の山並みが取り囲んでいる。鳥居の階段の前にある案内板を見ると、大台ヶ原の山も描いてある。ただ、少しもやっていたので、どの山かはっきりしなかった。
↑立里荒神からの眺め
【昼食】
立里荒神からバスで一旦高野山に戻った。参加者の中に、ゴマ豆腐を土産にしたいという人が何人もいたので、浜田屋という店に案内した。高野山から下りる際、屋外の温度表示板を見ると、30.5度。まだ午前中の高野山なのに、何という暑さ。
京奈和自動車道に乗って、奈良県の五條インターで下りた。昼食場所を五條市に決めていたからだった。五條市といっても、中心街ではない。平成の大合併で五條市に吸収合併された旧西吉野村。結構山に入っていく。道が狭くなり、最後はバスを降りて、10分近く坂道を登っていく。これでまた汗が噴き出す。
昼食の場所は、市街地から300メートル余り登ったところにある。名前は農悠舎王隠堂。昔は薬草を集めて大阪・道修町に卸すような仕事をしていた大きな家で、その建物を使って地元の野菜にこだわった食事を出している。
↑農悠舎王隠堂の門
猛暑の中をたどり着き、広い畳の部屋に通されたが、冷房設備がない。その代わり窓を開け放してあり、風がと通る。扇風機も回っている。2台だったか3台だったか。やがて汗はひき、クーラーの冷気ではない、自然の心地よい空気を感じるようになる。下界が見える景色もいい。
料理は農産物ばかり。食前にプラムのジュース。最初に用意されていたのは、オカヒジキ、ピリ辛ゴボウ、がんもどきの梅酢おろし、ヒモトウガラシ、ヤマトマナ、キュウリの酢の物。炊き合わせとして、ズッキーニ、カボチャ、揚げナス、ニンジン、モロッコ豆。
それから次々に料理が運ばれてくる。ソラマメの冷たいスープ、野菜コロッケ。天ぷらは、ズッキーニ、サンド豆、大和当帰(ヤマトトウキ)など。大和当帰は初めて食べた。薬草として使われていたが生産量が減り、それを復活させているらしい。生薬としては使わない葉の活用を考え、天ぷらにしたという。野菜サラダはよくあるようにフワッと盛ってあるのではなく、巻きずし状に巻いていた。カリカリ梅のご飯、吸い物、漬け物。肉も魚もないのだが、お腹いっぱいになった。
ノンビリとした時間だった。まだしばらくボケーッとしていたいが、そうもいかず、また炎天下に出て、バスまで歩いた。
↑地元の野菜を使った料理の一部
【五條市民俗資料館】
最後の目的地は五條市の新町地区。市の中心部に近く、江戸時代以降の古い建物がたくさん残っていて、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。江戸時代の建物も多いのだが、それほど観光地化されていない。そこを散策するつもりだった。
もう1つ、ここには明治維新の前史がある。維新の5年前、尊皇攘夷の流れの中で、土佐を脱藩した吉村寅太郎らの天誅組が、五條にあった幕府の代官所を襲う。天皇の大和行幸が計画されていて、その先鋒を担う形で天誅組は出発したのだった。代官所襲撃は尊王攘夷派の初めての武装蜂起で、吉村らは代官所で新政府の樹立を宣言し、天皇の行幸を待つことになった。1863年8月17日のことだった。
ところが翌18日、京都で政変が起きた。尊皇派を排除し、公武合体へとかじを切った。このため、天皇の大和行幸は中止となり、天誅組は一夜にして逆賊となった。討伐軍に追われて天誅組は吉野の奥深く逃れていくが、やがて全滅して終わる。天誅組の変といわれる。
そんな地を歩くのは良いアイデアと思っていた。ところが暑すぎる。考えた結果、散策はやめて、散策コースの終着点と考えていた五條市立民俗資料館に直行することにした。ここなら涼しいだろうし、天誅組に関心のある人は展示を見ることもできる。
ところが甘かった。何と、資料館には冷房がない。涼むどころではない。資料を見ていても汗が流れる。やむをえず、そうそうにバスに乗った。
↑五條市民俗資料館
【道の駅かつらぎ】
予定を変更したので、時間があまった。さて、どうするか。猛暑では、屋外は避けた方がいい。女性が多い遍路旅なので、結局は奈良県葛城市の道の駅かつらぎにした。
2016年11月にオープンした新しい施設。規模は大きく、野菜など地元産品の販売だけでなく、レストランや子どもが遊ぶスースも備えている。涼しい中でゆっくり買い物をして、大阪に向かった。駐車場から直接南阪奈有料道路に入ることができる造りにしてあった。
↑道の駅かつらぎ
大阪市・梅田に着いたのは午後5時前。これで、「ちょっと歩き四国遍路・のんびり湯ったり編」はすべて終了した。2017年2月から16回にわたる遍路で、仲の良いグループとなった。住所や連絡先を書いた名簿を作り、コーピーして持ち合ほどに。