写し霊場と新規霊場開設の実態について



              柴谷宗叔・高野山大学密教文化研究所受託研究員

              密教文化・第221号

                          (2008年12月11日発行)

                  

序論
 
 巡礼研究を進めて行くにあたって全国各地に成立した西国三十三所・四国八十八ヶ所の写し霊場の存在は無視することができない。また、昭和後期から現在にかけ不動、薬師等の新規霊場の開設も相次いでいる。しかしながらこれら地方霊場についての包括的かつ本格的な研究論文はほとんどないといってよい 。(顱砲海里燭畆詑屬鯆敢左Φ罎垢詆要があると考えた。写し霊場とは、西国あるいは四国に真似て作った地方の霊場のことであり、前者は三十三観音、後者は八十八か所となっているのが特徴である。霊場の再興あるいは開設は大きく分け四期にわたってその波がある。第一期は江戸時代中期から後期にかけての写し霊場の開設。第二期は明治の廃仏毀釈の後の再興である。第三期は巡礼が盛んになった昭和の戦前である。そして第四期は昭和四十年代後半から各地写し霊場の再興と新規霊場開設が相次ぐ。これについては霊場創りの〈仕掛け人〉が関わった例も見受けられる。またこの過程で同一地域に複数の同名霊場が併存する事態も生じた。たとえば、大阪府の旧河内国内には西国の写し霊場として同名別個の二霊場が現存する。交野・枚方・寝屋川周辺の河内西国三十三所霊場(以下「北河内」)と、東大阪・八尾周辺の河内西国三十三所霊場(以下「中河内」)である。なぜ同名の霊場が成立したか調べていくうち、上記の現存二霊場以外にも河内西国霊場があったことがわかってきた。少なくとも五つの系統があり、同系統の札所の変遷を加えれば十種類が確認できた。時代の流れで衰退と再興を繰り返すうち、いくつかの系統の札所が現れ、相互に干渉のないまま、別系統の霊場が同名を名乗るということが起こった。河内西国の同名霊場の成立を中心に、地方霊場の開設あるいは再興がどのように行われたのかを明らかにしたい。

 第一節 霊場開設の時期

 まず、霊場の再興、開設が行われた時期について考察してみる。大きく分け四期にわたってその波があることがわかる。霊場の規模は国単位、郡単位、郷村単位とさまざまで、中には一寺の境内に作られたものもある。が、ここでは郷村単位以上で各札所に堂のあるものを対象とする。
 写し霊場の最も古いものは鎌倉時代初期に成立した坂東三十三所である。源頼朝開設は伝承にしても、天福二年(一二三四)沙門成弁三十三所巡拝八溝寺(坂東二十一番)参籠の記録が残っているのでそれ以前の成立は確実である 。(髻砲気蕕房篠時代までに秩父三十四所が開設されている。また室町時代後期以降各地に西国の写し霊場が成立していくが、確認の取れるものは多くない。数多くの霊場が創られたのは江戸時代以降である。
 第一期は、江戸時代中期から後期にかけてである。四国遍路、西国巡礼が、それまで僧侶の修行であったものが、一般庶民に普及した時期である。多くの民が巡拝するようになったとはいえ、実際何か月もかけて故郷を離れるというのは、ごく一部の富裕層に限られ、多くの人にとっては夢のまた夢であった。講を作って代表が参拝するという形式もとられたが、みんなが回れるようにという願いをかなえるために考え出されたのが、写し霊場である。四国あるいは西国に模した霊場を近くに作ってしまおうというものである。領民が他国に流出するのを嫌った為政者が関わった場合もあるという。
 近松門左衛門の曽根崎心中(元禄十六年=一七〇三)で有名な大坂三十三所をはじめ、 播磨西国(寛文五年=一六六五)、洛陽三十三所(寛文六年=一六六六以前)、和泉西国(元禄三年=一六九〇)、阿波西国(東)(宝永七年=一七一〇)、近江西国(享保年間=一七一六-三六以前)、摂津国三十三ヶ所(享保年間)、江戸三十三観音(享保年間)、河内西国(弘化二年=一八四五以前)などの西国写し霊場、小豆島八十八ヶ所(貞享三年=一六八六)、摂津国八十八ヶ所(安永六年=一七七七)、淡路四国(天明四年=一七八四)、伊予大島准四国(文化三年=一八〇六)、知多四国(文政七年=一八二四)、篠栗八十八ヶ所(嘉永七年=一八五四)などの四国写し霊場のほか、寛政十二年(一八〇〇)には真言宗の四国に倣って創られた浄土宗の祖師巡礼である法然上人二十五霊場も成立する 。(鵝
 第二期は明治の廃仏毀釈の後である。多くの寺院が廃寺となるなか、巡拝の便を考えて霊場の復興が図られる。四国八十八ヶ所もそうであった。高知県は特にひどく影響を受けなかった札所はないといっていいほどであったが、明治二十年頃までに再興された(平成六年まで札所確定ができなかった三十番旧土佐一宮を除く。なお、三十番は明治九年に安楽寺となっている。現在の札所は善楽寺)(堯 。同様のことは各地の写し霊場でも行われた。力のない小さな寺院ほど影響は大きかった。中には札所のほとんどが壊滅した地域もあったようだ。河内西国(北河内)もその一つである。それが明治二十年に再興されたのである。多くの札所が無くなってしまい、新たに創る形での再興しかなかったのであろう。篠栗八十八ヶ所も本寺がなくなってしまったのを高野山から南蔵院を迎え同三十二年に再興している。巡拝者の復活に併せ霊場の新設も行われ、島四国である周防大島八十八ヶ所(同二十二年)、因島八十八ヶ所(同四十一年)などが開設されている 。()
 次に巡礼が盛んになったのは昭和の戦前である。比叡山へのケーブルの開通が昭和二年、高野山が同五年であることからも、各地の寺社への参詣が盛んであった時代であることがわかる。大正デモクラシーから続く経済成長、第二次世界大戦に突入するまでその繁栄期は続き、その時期に合わせて新たな霊場も創られたのである。昭和七年に近畿全域を対象とした新西国三十三所霊場が地方新聞社合同の企画として開設される。河内西国(中河内)が創られたのも同五年である。一種のバブルともいえる戦前の一時期である。短期間ではあったが同時期に各地で霊場の再興、開設が行われた。南知多三十三観音(同四年)、佐渡新四国(同六年)、多摩八十八ヵ所(同九年)などである 。()これを第三期とする。が、戦争で巡拝どころではなくなり、ほどなく衰退してしまう。
 そして、昭和四十年代から、各地写し霊場の再興と霊場開設が相次ぐ。これが第四期である。戦後の高度成長がピークを迎え、経済的に豊かになった時代で、マイカーでの観光旅行がもてはやされた時期でもある。霊場巡りも観光要素が強くなり、西国三十三所、四国八十八ヶ所などへの参拝者が年々増えてきた。旅行社のバスツアーも数多く出るようになる。それと同時に忘れ去られていた写し霊場の再興が盛んになった時期でもある。
 阿波西国(東)(昭和四十七年)、播磨西国(同四十九年)、河内西国(中河内)(同五十年)、さぬき三十三観音(同五十四年)、摂津国三十三ヶ所(同五十五年)、摂津国八十八ヶ所(同五十五年)などが次々と再興された 。()
 また、四国八十八ヶ所の番外霊場の中で由緒寺院を結んだ四国別格二十霊場が同四十二年に開設された。それに漏れた番外寺院を中心に結成された新四国曼荼羅霊場も平成元年に誕生した。さらに、こうした巡礼ブームを当て込んで、新たな霊場を創ろうという動きも起こった。従来の観音、弘法大師という範疇を超え、新たな本尊巡礼として、不動、薬師などが考案されたのであった。また、真言系の寺院を中心に七福神、十三仏といった札所は少ないながら複数本尊を回る手軽な巡礼も各地で盛んに開設された。 こうした中、同地域に全く同名の霊場が並立するという事態も起こった。大阪府の旧河内国地域にある河内西国がそれで、第二節で詳述するが、江戸時代以降五系統十種類を確認した。徳島県にも同名の阿波西国三十三所霊場が二つある。徳島市周辺北部(東)と、美馬・三好市周辺(西)である。本稿では(東)(西)で区別した。(東)は、徳島市周辺南部にある阿波秩父霊場、阿南市以南にある阿波坂東霊場とセットで阿波百観音を形成している。
 四国、西国等のメジャーな霊場を回り終えた人たちが、さらなる心の癒しを求めてか、はたまた観光スタンプラリーか、いずれにせよ次々と霊場を求めて巡るのである。坂東、秩父を皮切りに、地方の移し霊場を発掘して回り始める。私自身もそうであった。それに呼応するかのように各地霊場のツアーも企画される。千葉県銚子市・満願寺住職の平幡良雄師が主宰する「巡礼の会」などが最たるものであるが、同師は地方霊場発掘と併せて、その巡拝のためのガイド本の発刊も多数している。こうした中、仕掛け人として登場した下休場由晴氏や冨永航平氏が新しい霊場開設と、そのガイド本著述に傾倒するのである。これについては第三節で述べる。
 
第二節 複数の河内西国三十三所霊場について

 私が河内西国霊場を巡拝したのは平成五年のことである。この時点で同名の二霊場があることを知っていた。「北河内」は、寝屋川の実家に『西山浄土宗在家勤行式』() という経典があり、その巻末に「北河内」の札所の御詠歌の一覧が載っていた。また、西国五番葛井寺に参拝したときに寺内に掲示してあった案内により「中河内」の存在を知った。葛井寺で「中河内」の納経帳(寺の住所入り)を購入し、一枚ものの案内図と併せて参考資料とした。「北河内」には専用納経帳がなく、白紙納経帳に集印した。実家の檀那寺であった二十四番光林寺(交野市星田)の紹介で『河内西国三拾三所観世音めぐり』(B2)という小冊子を入手、参考にした。
 全国各地の霊場巡りをするうち、単に参拝するだけでなく巡礼研究へと首を突っ込むこととなったわけだが、河内の同名霊場の存在は常に気がかりであった。そこで、なぜ同名の霊場が成立したかを調べようと思い立った。
 摂津、和泉、播磨等各国の写し霊場は各国一つが通例である。それより小さな単位の郡単位あるいは村落単位の写し霊場は多くあるが、一国単位の写しといえば一国に一つというのが当然と考えていた。ところが河内には複数ある。それが不思議で調べていくうち当初考えていた二箇所のみならず少なくとも五種類の系統があり、未確認のものも含めればそれ以上になるということである。なぜ河内でそういうことが起きたのかを調べてみた。
 現存する霊場の歴史からその推移を見てみる。
 「北河内」は、明治二十年(一八八七)、大阪・高麗橋の足袋店・岩木屋の津田元治郎(一八一四―八九)が発起人となり、現在の札所に観音像を奉納して回ったのが始まりである。各札所には本尊とは別に元治郎が納めた観音像が安置されているのを私は確認している。観音堂が本堂と別にある寺は観音堂本尊としている場合もあるが、多くの寺は本堂脇陣に安置している。この観音像は西国三十三所(以下「本西国」)本尊の写しである。従って「北河内」の場合この観音像は本西国の札所番号の本尊と同じである、御詠歌も同様である。各寺独自の御詠歌は無い。浄土系の寺が多いこともあって本堂本尊は阿弥陀如来がほとんどである。あくまで観音は付け足しであることがわかる。特に浄土真宗の寺では宗旨上原則阿弥陀一尊ということもあり、観音は大事にされていない場合もあるようだ。
 枚方市の郷土史家・中島三佳氏方に保存されている明治二十年発行の『河内西国三拾三所観世音順拝詠歌』(B)の奥付には、「信州善光寺大本願講 発起人津田元治郎 世話方講中」とあり、元治郎は講元をしていた信心深い人であったのであろう。元治郎は文化十一年(一八一四)磯島村(現枚方市)の神野家の二男として生まれ、のち岩木屋に婿養子に入ったとされる 。()中島氏によると、故郷に恩返しをする意味で、江戸時代にあったという河内西国霊場の復興を志し、観音像を奉納して回ったという。扁額や納経用の木版も同時に奉納したという。
 「北河内」は明治、大正期にはよく巡拝されていたが、昭和になって廃れ、戦後は参拝する人もいなくなっていた。昭和五十三年に中島氏がこの詠歌集を自宅で見つけ、大塚日出男氏らと「宿場町枚方を考える会」を結成、参拝者を再び増やそうと再興を試み、同六十一年にガイド本『河内西国三拾三所観世音めぐり』(B2)を発刊した。しかし寺院側からの霊場会結成の動きはなかったという。
 私が巡拝した時(平成五年)には無住の寺があり() 、全ての納経はできなかった。また兼務住職で不在がちの寺もあり、納経に困難が伴う。檀家寺がほとんどで、一部の寺以外は巡拝者受け入れに熱心ではなかった。浄土真宗の寺では観音経や般若心経があげられない (顱砲覆鼻⊇簀甸超は良くなく、現在ではまたお参りする人がほとんどいない状態になっている。私が巡拝した時もある札所寺院(髻 で「納経するのは三年ぶり」という話を聞いたぐらいである。こうしたことから納経に関する苦情も多く、寺院側の霊場会がない状態では受付窓口が機能しないので、ボランティアでガイド本を出した宿場町枚方を考える会では、相次ぐ苦情と問い合わせに音を上げ、事務局機能を代行することもできず困惑。ガイド本発行だけでは済まないとして、初版本三千部完売後絶版とし、再版を断念したという。以来、北河内の巡礼は事実上廃れてしまっている。現在も自坊のホームページで河内西国の紹介をしている寺(鵝 にしても「現在は巡礼する者はまずいない」と言っているほどである。
 「中河内」はどうか。河内西国霊場会発行の『やすらぎの古里河内西国巡礼こころの散策ガイド』(D6)によれば「もともと江戸時代からあったものですが……」とある。そこでその典拠を調べていったのだが、これは取材を進めるうち、現存札所のことを指したものではなく「河内西国」という名の霊場が江戸時代にあったということを述べているに過ぎないことが分かった。
 現存の札所の原型となったのは、意外に歴史が新しく、昭和五年であるという。縄手村(現東大阪市)の往生院の豊島英海師が中心となり旧中河内郡内の寺院に呼びかけ結成した。その設立には当時珍しかった大型オートバイを使って東奔西走したというエピソードが残っている 。(堯貌映、同院から発行された『河内新西国三十三霊場順拝のしほり』(D)には「河内新西国」とあるから、発足当時は「新」の名をかぶせ、別の「河内西国」が存在していたことをうかがわせる。
 しかし戦中戦後は衰退し、巡拝する人がいなくなっていたという。そこで昭和五十年に至って八尾市の山田大氏によって再興が計画される。山田氏はガリ版刷りで『しほり』を復刻、同五十一年には寺院側が「河内西国霊場会」を結成した。「新」が入っていないことに注目してほしい。山田氏によると、結成総会時に別の「河内西国」があることは知らなかったという。丁度「北河内」が衰退していた時期にあたり、知らなかったとしても止むを得ないだろう。つまりここに同名霊場が併存する事態となったのである。また、この時に不在がちで納経困難な一部の札所の差し替えが行われた。朱印のない札所には新たに作って配った。山田氏は奉賛会を結成、同五十二年からマイクロバスでの巡礼を企画し、巡礼者増への努力を続けている。同五十四年には専用の納経帳も作製された。その後、巡拝者の便を考え納経困難な一部札所の差し替えが何度か行われた。
 その結果、現在では南河内までを含む広範囲の霊場となっており、巡拝バスを含め一定の巡拝者を確保している。が、皮肉なことに開創に関わった本家本元ともいえる往生院は納経困難寺院として差し替えられ、現在は札所から外れている。しかし、なぜ元々中河内だけだったのが南河内まで広がったのか。
 山田氏からの取材では「私的には北河内の存在を知った今になって思えば本来、北、中、南の別霊場ができて百観音巡りができるのが良かったと思うのだが、中河内にいつの間にか南河内の寺院が入ってきてしまった。私の知らないうちに決まっていた。寺院側の都合だったようだ」という。少なくとも昭和五十一年再興時の設立総会議事録() には南河内の寺院の名は無い。同議事録では納経困難寺院の問題点を指摘しており、札所差し替えを示唆している。が、五十一年時点での差し替えではまだ中河内にとどまった。  寺院側に取材したところ、南河内に広がったのは昭和五十六年。同年十月に八尾西武百貨店で出開帳をすることとなった。その企画中に納経困難かつ出開帳に非協力的な寺院を差し替えることとなったという。そのおり、一部寺院から「巡拝者を増やすために、自力で客を集めることのできる有名寺院を入れよう」との提案があったという 。()その結果、南河内地域にある叡福寺と楠妣庵が加入することとなった。番外も三か寺から五か寺に増やした。しかし札所選定については、一部寺院からの圧力があったことが推定できるものの確認できていない。
 現在の「中河内」の札所本尊は「北河内」と異なり、本西国を踏襲していない。あくまでもそれぞれの札所寺院本尊が本尊である。従って一部寺院では本尊が観音でない場合もある。地蔵とか阿弥陀とか、観音霊場としては不思議な形である。「北河内」の場合本堂本尊が阿弥陀であっても必ず元治郎の納めた観音を札所本尊として記載している。ところが「中河内」の場合、ガイド本に堂々と観音以外の本尊を記しているのである。脇持に観音が祀られている、あるいは本堂とは別に観音堂があるというわけだが、記述が統一されていない。観音巡礼というより三十三所を回ることに重きが置かれているようである。
 御詠歌については本西国とは別のものを各札所が持っている。元々から有った寺院もあるであろうし、昭和五年の「新西国」開設の際に作られたのもあるだろう。一部寺院は後述する別の系統の河内西国、或いは全く別のリーグともいえる河内飛鳥等の霊場の札所と重なっており、それとも共通する御詠歌である。また、昭和後期以降に新設された大阪十三仏等の霊場に新たに参加した場合も踏襲しているということもある。。
 また「中河内」の場合、再興時の経緯から、納経して回るということに重きを置かれている。このため、住職または代理人が寺院に不在がちで納経不能あるいは困難な寺院を排除するのに、たびたび札所の差し替えを行っている。その経緯は別表に記しておいた。
 その他の「河内西国」については、上野勝己氏が『石川三十三所の成立と変遷』() の中で言及している。氏は河内西国関係の関連文献として次の資料を挙げている 。()
 A 上山昭則『河内三十三所詠歌と十七番宇山村奥堂院』(『まんだ』二十八号、平成八年() )所収の『弘化二年改 河内西国三拾三所詠歌』
 B2 大塚日出男『河内西国三拾三所観世音めぐり』(昭和六十一年、宿場町枚方を考える会)所収の『河内西国三拾三所観世音詠歌集』
 C 『河内一州三十三所霊場案内』(明治前・中期、妻谷民三郎編)
 D 川口蓮海『河内新西国三拾三霊場順拝のしほり』(昭和五年、往生院)
 D1 『河内西国三十三所設立総会議事録』(昭和五十一年)
 D3 『やすらぎの古里河内西国巡礼案内記』(昭和五十年以降、河内西国霊場奉賛会編)
 D5 『河内西国巡礼案内図』(昭和末頃、河内西国霊場奉賛会編)  F 田中智彦『近畿地方における地域的巡礼地』(『神戸大学史学年報創刊号』平成八年、神戸大学史学研究会() )
 G 北川宗忠『全国「三十三所巡礼」総覧』(平成七年、流通科学大学)所収(顱 の
  G1 『河内西国巡礼案内記』などによる十七世紀後半の「河内国三十三所」
  G2 『河内一州三十三所順礼道中記』(文化九年)
  G3 明治二十年の「河内西国三十三所」(Bによる)
  G4 昭和五年の「河内新西国三十三所」(Dによる)
  G5 昭和五十年頃の『河内西国巡礼案内記』(D4)
 私の当論文では、さらに、次の資料を追加する。
 B 『河内西国三拾三所観世音詠歌集』(明治二十年、津田元治郎)(B2の元資料、中島氏所蔵)
 D2 『河内新西国霊場御案内』(昭和五十年頃、山田大編)
 D6 『やすらぎの古里河内西国巡礼案内こころの散策ガイド』(平成十五年、河内西国霊場会)
 E 『河内西国順拝コース』(昭和初頃か)
 上野氏によると、弘化二年(一八四五)の『河内西国三拾三所詠歌』に記された札所寺院が北河内にあり(A)、それと地域と一部寺院が重なるものの番付から見て別の系統といえるのが現在の「北河内」(B)、明治前期の『河内一州三十三所霊場案内』に見える旧河内国全体に広がる広域霊場(C)、現在の「中河内」の原型(D)といった四系統があることがわかる(表参照)。
 河内西国の歴史について田中智彦氏は『近畿地方における地域的巡礼地』で承応三年(一六五四)以前としている(F)が、札所の詳細が述べられていないので、どのようなものであったかを確定するのは困難である。上野氏は元文三年(一七三八)に枚方中宮の西方寺に河内西国三十三度回向の如意輪観音石仏が造立されたこと、Aの資料を示した上山昭則氏がFをAと把握したのは妥当と評価していると述べている。このことからFはAにつながる系統であることがいえる。また、北川宗忠氏は『全国「三十三所巡礼」総覧』(G)で文化九年(一八一二)の『河内一州三十三所巡礼道中記』(G2)を挙げている。これについても詳細ははっきりしないが、上野氏はこれをCにつながるものではないかと推測している。
 次にAとBの関係である。これについて上野氏は別のものであるとしている。確かに札所の番付などからはそういえるであろう。中島氏を取材したところ、A十四番の万年寺が明治の廃仏毀釈で廃寺となりB三番の浄念寺に仏像を移管していることを指摘、全ての検証が済んでいるわけではないがAには廃仏毀釈で無くなった寺が多いという。私の調査でも、廃寺となったA十六番観音寺本尊がB十九番西雲寺に、A二十八番観音寺本尊はB番外光明寺に移管されたことが判明した。またB番外須弥寺にはA三十一番だったころの額が残されている。Bを作った津田元治郎氏は「復興」と言っていることから、Aを復興しようとしたが、札所の寺の多くが廃仏毀釈で無くなってしまっていたため、やむなく明治二十年当時現存していた寺院を札所として再編成したのではないかということである。今後の検証が必要ではあるが、地域的には重なるので推測としては成り立つであろう。
 また、松原市文化情報振興事業団の出した小冊子『第十八回特別展河内西国巡礼と松原』(平成十九年)にはCとDを足して割ったような一枚物の案内図『河内西国巡拝コース』(E)という資料も示されている。富田林・浄谷寺に保管されていたもののコピーが松原市・西方寺にあったという資料である。
 Cに重なる寺院も半分近くあるが札所番付が全く異なる。書かれた住所、駅名などから昭和初期に作られたもののようだが、上野氏の示した四系統以外のものであることは札所番付などからみて明らかである。これについても詳細は今後の検証が必要である。いずれにせよ、さまざまな「河内西国」の巡礼があったことは確かなようだ。CもEも現在確認できるのはコピーの資料であり、それぞれの論文が書かれた時点では原本が有ったらしいのであるが、現在では原本の所在が分からなくなっているとのことで存在自体が確認できなかった。つい最近の資料ですらこのような状態であるのが写し霊場関係の研究の困難さである。それゆえに今分かっていることを書き留めていく必要性を感じるのである。
 以上をまとめると、まずAの「河内西国」がFの延長線上に江戸時代に北河内に成立、さらにAの区域を外したCの前身とみられるG2の「河内一州」が江戸後期に中・南河内に開設される。明治の廃仏毀釈を経て、Aが廃れ明治二十年にBの「河内西国」が開設される。昭和五年になってDの「河内新西国」が中河内に開設される。同時代に別系統のE「河内西国」も存在するがあまり知られなかった。Cは昭和五十年頃の三宅徳和会(松原市)の奉納幕(髻 を最後に衰退して無くなってしまう。Dは昭和五十年「河内西国」として再興、札所の差し替えを行いながら現在に至る。この間一部札所の異なる六種の番付ができる(D 、D2、D3、D4、D5、D6)。一方、衰退していたBを紹介する冊子B2が昭和六十一年にでき一時的に「北河内」が再興したが、現在また衰退の道をたどっている。これが現時点での私の結論である。
 問題は昭和初期に中河内に並存していたC、D、Eの扱いである。この時期、衰退していたとはいえ北河内のBを加え四系統が存在していたことになる。C、Eについては南河内を含んだ霊場である。Cは「一州」の名を冠し別霊場であることを確認できるが、同一寺がからんでいることから、それぞれ時代的には微妙にずれていると考えるのが妥当であろう。同名霊場の違う札番に同じ寺が加入しているとは考えにくいからである。Dは「新」を冠せているので別と考えてもCとEの関係が不明である。地域的に重なり半数近くの札所が重なるということから改組とも考えられるが、それにしては番付などが違いすぎるのである。CがG2からの改組と考えられるということは前述したが、旧札所の西方寺(松原市)からの取材で、明治の廃仏毀釈で近在の神宮寺(現屯倉神社)から本尊を移したという話を聞いたことからも証明できる。G2については札所番付が確認できないが、廃仏毀釈以前の札所が判ればCとの関連がはっきりするであろう。また同様のことが各地で行われているはずである。北河内でも廃仏毀釈での札所移動があったことは前述の通りである。

 第三節 新規霊場開設の実態について
 
 河内西国「中河内」の再興が昭和五十一年、「北河内」は同六十一年であることを前節で記した。戦後の高度成長が終わり経済的に豊かになった時代でマイカーでの観光旅行がもてはやされた時期でもある。霊場巡りも観光要素が強くなり、西国三十三所、四国八十八ヶ所などへの参拝者が年々増えてきた。旅行社のバスツアーも数多く出るようになる。それと同時に忘れ去られていた写し霊場の再興が盛んになった時期でもある。近畿地方でも播磨西国(昭和四十九年)、摂津国三十三ヶ所(同五十五年)、摂津国八十八ヶ所(同五十五年)など次々再興された。また、こうした巡礼ブームを当て込んで、新たな霊場を創ろうという動きも起こった。従来の観音、弘法大師という範疇を超え、新たな本尊巡礼として、不動、薬師、愛染などが考案されたのであった。
 昭和後期から平成にかけ、こうした新霊場開設に尽力したのが、元河内長野市助役で古寺顕彰会を設立した故下休場由晴氏(一九二七―二〇〇三)と大阪市在住の宗教ジャーナリスト冨永航平氏(一九三六―)である。また、真言系の寺院を中心に七福神、十三仏といった札所は少ないながら複数本尊を回る手軽な巡礼も各地に盛んに開設された。
 昭和四十年代以降の新設霊場については、現段階では学問的にはあまり大きな意味を成さないかもしれない。ただ、調べていくうち明治から昭和にかけて開設された霊場について、すでに背景ほかがわからなくなっている場合が多いことがわかった。資料がほとんど残っていないのである。歴史学的には意味がないということで残されないのである。寺院あるいは仏具店、観光業者等の金儲けのために作られたという経緯もあるかもしれない。巡礼者も一時期のみで廃れているという例もある。実際、平成になってからも京阪、近鉄など電鉄会社がその年限りの沿線の巡礼コースを作って観光客を集めた例がある。
 とはいえ、巡拝した人が居るという事実。実際何人が回ったかという数値的把握は困難ではあるが、それを事実として書き留めておかねば、歴史に残らないという危機感を持ったのも事実である。そこで、最近の社会現象として把握するため、昭和後期以降に開設され現在まで続いている霊場について、その典型例を取材した結果を記した。現時点での調査報告である。
 下休場氏は昭和四十六年の尼寺三十六所巡礼を皮切りに、近畿三十六不動霊場(同五十四年)、西国四十九薬師霊場(平成元年)、近江湖北二十七名刹霊場(同四年)、西国愛染十七霊場(同五年)などの開設を手がけた 。(鵝
 尼寺巡礼は、下休場氏と親しい中橋久代さんが夫の家出を悩み尼僧を志し昭和三十年代に尼寺を巡拝。夫の帰宅、死去を経て、かつて久代さんが回った尼寺巡拝を広げたいという夫の遺志に沿って、当時新西国三十三所観音霊場のガイドブックを執筆していた下休場氏に依頼があり、霊場の組織化を行ったというもので他の霊場とは成り立ちが違う。
 その後はまさに霊場を創設というのがふさわしく、本尊巡礼であれば、その地域の著名な寺をピックアップ、霊場開設を働きかけるといった風で仕掛け人として動いたという。霊場ができれば古寺顕彰会(のち巡礼顕彰会と改称)で納経帳、掛軸などを作製。御詠歌のない寺には作ってあげたともいう。
 巡礼顕彰会の事務局で下休場氏を支えてきた曽和静代さんは言う。札所の寺院は真言、天台を中心にいろんな宗派があるので、しがらみがあってまとまりにくい。在家が事務的なことをすることで維持しやすい面があるとか。だが、ガイド本の印税と納経帳等のグッズの売り上げで会の運営をしてきたが、下休場氏の死去以後、本の版権が遺族に移ってしまい、会の運営は苦しいという。霊場会に運営を任せてしまう下記の冨永氏とは運営方法が異なり、今後とも同様の形態が維持できるかは不明である。
 一方、冨永氏は昭和五十七年開設の中国三十三観音霊場をはじめ、九州八十八ヶ所霊場(同五十九年)、九州三十六不動霊場(同六十年)、東北三十六不動尊霊場(同六十二年)、関東三十六不動霊場(同六十二年)、四国三十六不動霊場(同六十三年)、新四国曼荼羅霊場(平成元年)など矢継ぎ早に霊場開設に関わり(堯 、現在まで続いている。 冨永氏の場合は、自ら仕掛けるというより、霊場を開設しようと考えている寺からの相談を受けたのが始まりという。昭和四十年代後半に岡山、広島の真言宗の寺を中心に山陽路に観音霊場を作ろうという機運があった。その段取りをしているうち、山陰も含めた中国地方全域に広げていくことになり、現在の中国観音霊場が出来上がったのが同五十七年である。その後、全国各地の不動、薬師などの霊場創りを手がける。
 冨永氏が霊場創りをする時に札所選定の条件があるという。)榮欧遼楝困泙燭呂修遼楝困鱆る別堂があること⊇賛Δ常に居ることB膩織丱垢瞭れる道と駐車場があること――である。,亘楝砂篶蕕任△襪里馬道ではだめだということでこれは哲学としてわかる。△肋鏤納経ができないのなら参拝者が困る、は団体バス巡礼を想定してのことである。選定に当たっては必ず自分で参拝する。相談を受けた時点でまず霊場発足の期日を決め、半年ぐらいで作ってしまうという。当初リストになかった寺院が加入したいということもたびたびだという。そのあたりは寺院側との関係で、多くは語らない。が、見えない面があるのは事実である。
 そして霊場会が発足すると寺院側に管理を任せてしまう。自らはガイドブックを出版するだけである。印税だけは確保し霊場運営には関わらない。このあたりが下休場氏と手法が違う点である。また、下休場氏が関西中心の活動であるのに比して全国にわたっているのが特徴である。
 東北から九州までの霊場創りをした昭和六十年代、四国に新しい八十八ヶ所を創る事業と取り組んだ。「新四国八十八ヶ所」と銘打ち「最後の仕事のつもりだった」という。リストを作り前記の条件で札所を選定していく。弘法大師ゆかりの神社も含めた神仏混交の霊場である。さらに、別格二十霊場と提携して百八霊場を作ろうという話にもなった。ところが冨永氏の弁によると四国八十八ヶ所霊場会から再三圧力がかかったという。辞退する寺院、冨永氏と衝突する寺院等もあり、たびたび札所を入れ替えたという。四国霊場会とは、最終的に「八十八ヶ所」の名称を使わず「新四国曼荼羅霊場」とすることで折り合い、平成元年に発足させる。
 しかしこれが冨永氏の最後の仕事とはならず、その後も、道元禅師を慕う釈迦三十二禅刹巡拝(平成八年)、中国四十九薬師霊場(同九年)、九州四十九院薬師霊場(同十一年)、中部四十九薬師霊場(同十一年)、東海四十九薬師霊場(同十二年)など、新たな霊場創りは止むことがない。
 冨永氏に取材にあたった時に、この本尊の霊場はまだこの地域だけできていないという例の話を聞いた。ということはその地域にまだ開設の余地があることを言っているにほかならない。もっとも、下休場氏の場合も、病床で近畿地蔵霊場の開設を考えながら果たせずに死去、いまだそのままになっているという話を曽和氏から聞いた。手がけながら未完の霊場、まだ誕生する余地はありそうだ。
 こうして新霊場が全国各地で誕生している訳だが、その背景には四国遍路にみられる隆盛を見て、納経料収入を得たいという寺院側の計算も見え隠れする。つまりは金儲けである。が、霊場の札所になったからといって、儲かるとは限らない。四国遍路と異なり同じ人が何度もというのはめったにない。従って開設当初は多くの参拝者でにぎわっても、数年すると閑古鳥ということにもなりかねない。
 実際、新四国曼荼羅霊場では日に数人、場合によっては参拝ゼロという日もあると聞く。「儲かるどころか手間ばかりかかって」という声も聞く。原則巡拝者受け入れ態勢を常時整えているというのが札所選定の条件だったはずである。しかし、こうなってきては納経のために住職あるいは代理人が必ず寺に常駐しているというのは困難である。私が参拝した時にも留守という寺がいくつもあった。納経ができないと巡拝者から苦情が出る。いきおいその霊場の評判が下がり、さらに巡拝が減るという悪循環である。
 また、住職が病気で入院したり、死去後の代替わりがうまくいかなかったりということも起きてくる。尼寺三十六所巡拝では、代替わりで男性が晋山し尼寺でなくなった所もある。尼寺でないと意味がないので、霊場会では適宜札所の入れ替えを行っているというが、一時的に札所空白ができたりしている。また、あまり頻繁に札所が変わると巡拝者が戸惑うということにもなりかねないし、設立当初の趣旨からかけ離れてくる懸念もある。
 再興されたマイナーな写し霊場も同様の問題を抱えている。元々小さな寺院が多い上、兼務住職あるいは一部無住というケースも有る。納経帳をバインダー形式にして、不在の時は箱の中に入った朱印済みの用紙を持ち帰ってもらうように工夫している霊場 ()もあるが、盗難のおそれが常につきまとう。管理上やむを得ないのであろうが、堂は閉め切ったままで仏像も見えないなど興醒めである。寺院側が熱心でない場合もあり「最近では回る人がいない」(北河内)のような状態になってしまう。

 結論
 
 第一節で、多くの霊場開設の時期は江戸中期〜後期、明治二十年代以降、昭和の戦前、昭和四十年代〜現在の大きく四期に分かれることを明らかにした。いずれも四国、西国巡拝がブームになった時期と重なっており、本札所にあやかり霊場が創られていった、あるいは衰退していた霊場を復興したというものである。巡拝ブームの時期とその背景を考察すると、戦争などで疲弊した中からまず経済復興が行われる。その後生活に余裕が出てくると巡拝に向かう。さらに高度成長が止まり停滞期にさしかかったころに、心の癒しを求めて巡拝に出る。最初は四国、西国の本札所がにぎわい、その後ブームを当て込んで写し霊場ができるという構図が見えてきた。つまり経済成長とは少しタイムラグがあるのである。
 第二節では、河内西国で同名霊場が並立した実態を明らかにすることができた。歴史的には「北河内」の方が古くからあったが、「中河内」が昭和五十年の再興時に北河内の存在に気付かず同名霊場が誕生することになったのは、本論文で述べた経緯の通りである。そして同六十一年に「北河内」が再興されると、併存することとなったのである。そして「北河内」が再興当時の札所を固守しているが故に一部納経困難で衰退しているのに比して、「中河内」は巡拝者優先で納経困難札所を適宜差し替えながら、その範囲を南河内に広げ名刹を取り込むことによって、巡拝者に魅力的な霊場としてPRし、新たにガイドブックも作り、現在なお巡拝者を多く集める霊場として存続しているという対照的な推移をたどっていることも報告しておきたい。また、江戸時代以降、河内だけで少なくとも五系統十種類の西国写し霊場があったことも確認できた。歴史的な経緯の中、明治の廃仏毀釈を境に江戸時代とは札所を差し替えた札所再興が行われたことも確認できた。このことは河内以外の地域にも言えることであると思う。検証はできていないが、昭和期に再興された霊場の多くは、明治の廃仏毀釈を経て、江戸時代の元々の霊場とは札所が異なった形で再興されているのではないかということである。全国各地の写し霊場について同様の調査を行うのは膨大な時間を必要とするので、今後の課題としたい。
 第三節では、現在次々名乗りを上げている新規霊場について〈仕掛け人〉の存在を明らかにした。歴史研究では今を軽視しがちであるが、今回の研究を進めてきて、明治―昭和といった近過去の資料が意外に保存されていないことが判明したことにかんがみ、現状を書き留めておくことが、将来の研究に必要であると判断したからにほかならない。昭和四十年代以降の巡礼ブームに乗って、不動、薬師といった新たな本尊を主体とする霊場が次々創られていった。そこには寺院の金儲けといった側面もあるが、下休場、冨永両氏という〈仕掛け人〉がいたことが大きな要因ともなっている。また両氏が関わった霊場以外に、岩坪眞弘・前高野山真言宗教学部長らが中心となって昭和四十六年に開設された淡路島七福神など寺院主導で設立した霊場も少なくない。さらに平成十三年に開設された役行者霊蹟札所巡礼のように寺院主体ながらその接着剤的に動いた白木利幸氏(一九六三―)といった新進の仕掛け人も出てきている。また、同二十年には近畿圏百五十二の寺院と神社が手を組んだ神仏霊場が開設された。が、紙幅の関係から本稿では省略した。
 新規霊場開設や霊場再興には〈仕掛け人〉の存在がある。ところが限定された地域のみでの活動だと、他の霊場の存在を知らずに同名霊場が並存する事態になることを河内西国の例で明らかにした。関係資料が少なく聞き取りによる取材しかできなかった部分もあるが、これまで本格的な研究がなされてこなかったといってよい分野だけに、開設にまつわる経緯の調査研究そのものが新規分野の開拓という意義があるものと考える。
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饕亙霊場についての研究は、個々の霊場の地域的な研究や調査報告は多いが、包括的にとらえた論文は田中智彦氏の遺稿集『聖地を巡る人と道』(岩田書院、二〇〇四)ぐらいである。また現在の新設霊場までを対象とした、本格的な研究はほとんどなされていない。
鯤‥膰棚倉町の都々古神社の十一面観音像の台座に「右成弁修行三十三所観音霊地之間於八溝山観音堂上院参籠三百ヶ日(中略)天福二年七月十九日」との日付入りの記載がある。新城常三『新稿社寺参詣の社会経済史的研究』(塙書房、一九八二)pp466‐467
鹽鎮翆夘А慇暫呂鮟笋訖佑汎察戞粉篥捗餘 二〇〇四)pp227‐238
 『全国霊場巡拝事典改訂新版』(大法輪閣、二〇〇七)pp91‐92、140、154、259‐262、281‐283、294‐297、309‐315、438‐439
 『全国霊場大事典』(六月書房、二〇〇〇)pp638‐642、680‐683、699‐702、710‐717、923‐924
 拙著『公認先達が綴った遍路と巡礼の実践学』(高野山出版社、二〇〇七)pp124‐155
堯惴認先達が綴った遍路と巡礼の実践学』pp216‐217
『聖地を巡る人と道』pp227‐238
 『全国霊場巡拝事典改訂新版』pp281‐284、303‐308
 『全国霊場大事典』pp707‐709
 『公認先達が綴った遍路と巡礼の実践学』pp124‐155
『聖地を巡る人と道』pp227‐238
 『全国霊場巡拝事典改訂新版』pp136‐137、150‐154、222‐224、290‐293
 『全国霊場大事典』pp467‐468、484‐487、611‐614、688‐691
 『公認先達が綴った遍路と巡礼の実践学』pp124‐155
『聖地を巡る人と道』pp227‐238
 『全国霊場巡拝事典改訂新版』pp177‐179、259‐262
 『全国霊場大事典』pp489‐490、655‐658
 『公認先達が綴った遍路と巡礼の実践学』pp124‐155
昭和後期、交野市・想善寺発行
『磯島と明照山正光寺』(正光寺、一九八〇)pp16‐18
二十一番雲林寺
饐土三部経以外の読経を拒否された
鮟住揚崟省寺
鷭熟使崛杼瓜
堯愆簑躬咳生院六萬寺史』(往生院六萬寺、一九七九)p8
昭和五十一年十一月二十日、於勝軍寺
現札所寺院からの聞き取りであるが取材源秘匿のため省略
『太子町立竹内街道歴史資料館館報』第八号(同館、二〇〇二)pp81‐99

A、B等の記号については、当論文構成上の整理で付け直したので上野氏の論文とは異なる
pp72‐75
p49
顳陦陦隠隠院升隠隠
髻峅脇皸貊 」五番龍泉寺(富田林市)など複数の札所に奉納。幕には「楽な巡礼溢るる功徳河内西国」と記され「一州」の字はない。三宅徳和会は昭和三十八年の結成で、現在に至るまで四国・西国ほか各地の霊場を巡礼している。昭和五十年代に河内西国以外にも四国八十八ヶ所などに幕を奉納している。なお、Cの編者妻谷氏の孫が同会にいて、当時すでに廃れていた「一州」の記述に基づいて札所に奉納したと上野氏が推測しているが、妥当であると思える。しかしながら、今回妻谷氏の曽孫である妻谷信氏に取材したところ「父や曽祖父から何も聞いていない」とのことで確認は取れなかった。同会の資料にも四国八十八ヶ所奉納の記録は残っていたが河内西国に関する記録は確認できなかった。上野氏論文でも推定されるように、奉納当時すでに「一州」巡拝は廃れていたこともありうる。明治の妻谷氏の案内書(C)に基づいて奉納したものの、実際は別の(D2またはD3)しか機能していなかったということが考えられる。
鵝愼寺三十六所法話巡礼』(朱鷺書房、一九八八)ほか
堯愎兄郵駲懈戸緡郛譴鯤發』(新人物往来社、一九九〇)ほか
さぬき三十三観音霊場など

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