四国遍路の目的意識―澄禅『四国辺路日記』と現在との比較―



              柴谷宗叔・高野山大学密教文化研究所受託研究員(「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」
を支援する会役員)

              宗教研究第84巻第4輯(第367号)

                      (2011年3月発行)

                  
 人はなぜ、四国遍路に出るのか。その目的意識を探った。四国遍路の本格的資料としては現存最古ともいえる澄禅(1613−80)の『四国辺路日記』(承応2年=1653)と現在を比較して意識の違いを探った。
 智積院の学僧であった澄禅はなぜ遍路に出たのか。当時巡礼・遍路や修験をするのは行人、聖が中心で、学侶は珍しい。日記には残念ながら出立の動機に触れた記述は出てこない。
 焼山寺(十二番、徳島県神山町)から、一宮(十三番大日寺、同県徳島市)に向かわず、恩山寺(十八番、同県小松島市)へ直行する経路を取った経緯について記述したくだりがある。
 予ハ元ト来シ道ヘハ無益也ト順道コソ修行ナレト思テ此谷道ヲ通也。
 ここに「修行」という言葉が出てくることに注目したい。つまり澄禅は僧として修行のために遍路に出たと言ってよいだろう。
 江戸時代は、それまで僧の修行が中心だった遍路が庶民に広まった時期だとされる。実際澄禅の日記にも、伊予・戸坂(愛媛県西予市鳥坂)の庄屋清右衛門が数回遍路したことなど、庶民が遍路をしている様子がいくつか書かれている。清右衛門は「無隠後生願ナリ」とあるので来世の往生を願っていたか。つまり庶民の遍路の動機は信仰であったといえる。
 寛政12年(1800)の『四国遍礼名所図会』では、途中海を渡り安芸(広島県)の宮島に参詣するなど、観光的要素が入ってくる。庶民が豊かになり物見遊山を兼ねた遍路が出てきた左証である。
 現在の遍路はどうか。私が平成16年(2004)から17年にかけ現地でアンケート調査した結果、ゞ〕棕毅掘鵝↓⊆分探し35%、Lし29%などが上位を占め、以下た仰14%、ド袖な震13%、Ψ鮃増進13%、他の願掛け11%、┫儻9%、修行8%などとなっている(複数回答なので100%を超える)。
 過半数の人が親・子・配偶者などの供養のために回っている。多くは車(バス、タクシーを含む)での遍路である。一方、徒歩遍路は自分探しや癒しが動機という人が多い。講などでバスで回るグループには信仰を動機とする人が多いが、現在は講自体が高齢化で衰退してきている。また、少ないながらも修行を目的とする人も一般人がほとんどで、僧侶は1%にも満たない。札所で僧衣を見かけても徒歩修行でなくバス団参の先達がほとんどである。
 昭和44年(1969)にまとめられた前田卓『巡礼の社会学』(ミネルヴァ書房、1971)では、信仰52%、先祖供養8%、精神修養5%などとなっており、昭和後期にはまだ根強かった信仰が現在は減っているのがわかる。また、癒し、自分探しといった動機は平成になって初めて出てきたもので、早稲田大学道空間研究所が平成8年(1996)に行った調査(『現代の四国遍路』学文社、2003)のその他の項目の中に散見される。「平成の哲学遍路」(2002年の「お遍路シンポジウム」で早坂堯氏が提唱した新概念)の萌芽といえる。
 江戸時代前期に僧侶の修行から、庶民の信仰に広がった。次第に物見遊山という観光的要素も入ってくる。昭和期には供養が主流になり修行の要素は減る。そして平成に入って自分探しという新たな動機が台頭、さらにウォーキングが目的化するなど、信仰の割合が減少してきたといえる。

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