江戸時代前期の四国遍路模様―澄禅『四国辺路日記』を中心に―



              柴谷宗叔・高野山大学密教文化研究所受託研究員

              (「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会役員)

              印度学佛教学研究第59巻第2号(第123号)

                      (2011年3月発行)

                  

 (1)はじめに


  四国遍路の本格的資料としては現存最古ともいえる澄禅(1613−80)の『四国辺路日記』顱幣輝2年=1653)に記載された内容を検証。これまでにルートの確定、現代地名・寺社名への比定、本札所と番外札所の当時と現在の違いなどを明らかにした。今回は日記に登場する人物を中心に当時の遍路とその周辺の様子を探った。


 (2)出会った人々


 澄禅は、多くの人達との出会いを日記に記している。まず遍路をしていた人達をみる。
 最初に、和歌山から徳島に渡る船中で「高野ノ小田原鮃埒予哀淵判粛梢容荏ゥ后廚箸△襦
 焼山寺(十二番 、徳島県神山町)では山上を巡礼するための先達を雇った。案内料は白銀二銭。同行の数十人で出し合った。ここで「其夜ハ高野小田原行人衆客僧マシリニ十三僧一宿ス」との記述があるので、高野小田原行人衆も遍路にきていたことがわかる。澄禅と一緒に回っていたかどうかは定かではないが、この後の記述では出てこないので、別行動であったと考えられる。
 太龍寺(二十一番、同県阿南市)では同行八人が引導の僧に2銭を渡して奥院・岩屋を案内させている。焼山寺の記録と合わせ先達案内料は二銭が相場であったことがわかる。
 野根(高知県東洋町)では「當国幡多ノ辺路衆ナト云合テ急キテ河ヲ渡ル也」とあり、幡多(同県幡多郡)の一般人が既に遍路をしていたことが分かる記述である。
 仁井田五社(三十七番旧札所、同県四万十町)への道について、行人から「北ノ山キワヲスクニ往ハ河荒シテ渡リ悪キ由、行人教ケル聞、左ノ大道ヲ往テ平節ト云川ヲ渡ル。此河ハ雨天ニハ中々渡ル事難成川ト也今日ハ水浅ケレハ歩渡リ也」とアドバイスを受けている。
 三崎(同県土佐清水市)の浜で「高野芳野ノ辺路衆、阿波国ヲ同日ニ出テ逆ニメクルニ行逢タリ」とある。徳島を同じ日に出て逆打ちをしていた高野吉野の遍路衆と会った。涙を流して再会を喜び合い、荷物を置いて一時間ほど話した。この記述からすでに逆打ちの風習があったことがわかる。高野吉野の遍路衆には、船で一緒だった高野の行人衆が含まれているかどうかは不明だが、徳島で一緒だったことはわかる。
 戸坂(愛媛県西予市鳥坂)の庄屋宅に泊った。「清右衛門ハ四国中ニモ無隠後生願ナリ、辺路モ数度シタル人ナリ。高野山小田原湯谷ノ谷、證菩提旦那也」とあり、この記述から一般民衆も庄屋クラスの豊かな人が遍路に出ていたことがわかる。それも1度ならず数回もめぐるという現在の重ね打ちにつながる行動がなされていたことが分かる。また、高野山にも参詣したのだろう。塔頭寺院との檀信徒の関係が高野山から遠く離れた伊予の地ですでにあったことがわかる。
 字和島本町(同県宇和島市)の今西伝介宅に泊まった。「無二ノ後生願ヒテ辺路修行ノ者トサエ云ハ何モ宿ヲ借ルヽト也」とあり、遍路への善根宿の原型と言えるだろう。

 (3)寺の人々


  僧侶については厳しく観察。批判したり褒めたり、澄禅は感じたままに率直に表現しており、興味深い。
 最初に訪れた札所である井戸寺(十七番、徳島県徳島市)の住持の僧については「無礼野鄙ナル様難述言語」と、さんざんこき下ろす。
 立江寺(十九番、同県小松島市)の「坊主ハ出世無学ノ僧ナレトモ世間利発ニシテ冨貴第一也」とあり、無学だが世間のことに通じていて金儲け主義であると書いている。破損した寺観を再興したともあり、やり手であったことが伺える。
 鶴林寺(二十番、同県勝浦町)の寺家の愛染院の僧も「無学無能ノ僧也」と記す。終夜の話も自分の私的なことばかりであった。
 宍喰(同県海陽町)には徳島藩が定めた宿泊支援施設である駅路寺(円頓寺=廃寺)があって、澄禅は辺路屋と記している。しかし「坊主慳貪第一ニテワヤクヲ云テ追出ス」とあり、泊まれなかった。
 神峯(二十七番、高知県安田町)の麓で泊まった。庫裏は麓にあり「無礼ノ僧ナリ」と記している。
 大日寺(二十八番、同県香南市)の住職は一旦隠居して弟子に寺を譲った。ところがこの弟子は女癖が悪いという世間の評判で、真偽のほどを確かめようとしていたところ、前年の夏に自殺してしまった。そこで隠居していた前の住職が復帰したという。そんな事情もあってか宿を借りようとしたが断られた。
 観自在寺(四十番、愛媛県愛南町)は「香花供養ノ役者ニ法師ノ形ノ者一人在ケレトモ由緒等無案内ナリ」とある。 
 三角寺奥の院(番外仙龍寺、同県四国中央市)は乗念という禅宗の出家者が住持していた。「ケ様ノ無知無能ノ道心者住持スルニ六字ノ念仏ヲモ直ニ申ス者ハ一日モ堪忍不成ト也」評している。
 以上のように、対応が悪かったり、話題が合わなかったりした場合は手厳しい。一方で褒めている箇所も多い。
 東寺(二十四番金剛頂寺、高知県室戸市)の住職は長谷寺で勉強した新義の僧で「上根ナル勤行者ニテ毎日護摩ヲ修セラル」と記す。
 大日寺の近所の菩提寺(母代寺=廃寺、同県香南市)で泊まった。水石老という遁世者がいた。元来は石田三成に仕えた侍で、雨森四郎兵衛といった。三成が切腹した時に共に切腹をするように言われたが、家康のはからいで切腹を免れ、三成の菩提を弔うため落飾して高野山の文殊院で修行していた。三年して土佐に来て山内一豊に仕えたが、隠居してここにいるという。「終夜ノ饗応中々面白キ仁也」と記している。
 眠リ川(国分川)の増水で足止めをくらい、(二十九番国分寺の対岸の)田島寺(廃寺=址に西島観音堂、同県南国市)に泊まった。八十余の老僧が住持していた。もとは長宗我部に仕えた侍だった。幼いころに出家して高野山にもいたという話をした。「天性大上戸ニテ自酌ニテ数盃汲ル丶也」とある。
 高知で五泊した安養院(廃寺、同県高知市)の住職は「殊勝成仁ニテ昼夜ノ馳走亭丁 也」と記している。弟子の春清房は常に護摩を修していた。  松山で泊まった三木寺(番外御幸寺、同県松山市)の院主については「無執如法ナル僧」と褒めている。
 今治で泊まった神供寺(番外、同県今治市)の院主は、空泉坊という高野山に長く住んだ古義の学者で、金剛三昧院の結衆であった。「予カ旧友ナレハ終夜物語シ休息ス」とある。
 国分寺(五十九番、同市)に至る途中の歓喜寺(番外、同市)で道を尋ねた。「住持ノ僧ハ慈悲心深重ノ僧也」と記している。わざわざ日記に記すほどであるから、よほど丁寧な応対を受け感激したのだろうと思われる。
 一宮の社僧・保寿寺(六十二番宝寿寺、同県西条市)の住職は、高野山で学んだ僧侶で「予カ旧友ナレハ申ノ刻より此寺ニ一宿ス」とある。この新屋敷村に甚右衛門という信心家がいて、明日の朝食を接待するから来てほしいといわれ、翌朝よばれてから出発した。
 道隆寺(七十七番、香川県多度津町)明王院に泊まった。住職は高野山の学徒である。檀家の横井七左衛門という人から光明真言の功徳などを聞かれ伝授する。「帰宅シテ手巾并ニ斎料ナト贈ラル」と礼を受け取っている。
 地蔵寺(五番、徳島県板野町)の住職は「慈悲深重ニテ善根興隆ノ志尤モ深シ」と褒めている。荷物を置いて黒谷(六番大日寺、同町)往復するのが良いとのアドバイスを受ける。
 ここで注目すべきは、高野山に関係のある僧侶が数多く出てきて、澄禅は好意的に見ていることである。旧友であるという記載もあり、澄禅がかつて高野山に留まっていたことを示す左証となる。澄禅が出発地に高野山を選んでいるのも、遍路のアドバイスを受ける目的があった可能性がある。高野山の学僧である寂本(1631−1701)の『四国徧禮霊場記』(元禄2年=1689)の序文には、澄禅の師である智積院学僧の運敞(1614−93)が序文を寄せており、同書に情報提供した真念(?―1692)も関わっていることから、高野山を中心に遍路のプロ集団が形成されていたかもしれないからである。
 菩提寺、田島寺のくだりでは、戦国武士が出家して高野山に落ち延び、その後隠居して高知の寺に入っているという現象もみられ、当時の落武者の姿の一端を示すものといえよう。
 保寿寺、道隆寺のくだりでは、お接待を示す記述が出てくる。
 このほか、各寺についての記載で興味深いのは、無住で山伏が住持していた寺が多いことである。地蔵寺(廃寺=址に稲観音堂、徳島県海陽町)、月山(廃寺=現在の月山神社、高知県大月町)、寺山(三十九番延光寺、同県宿毛市)、明石寺(四十三番、愛媛県西予市)、八坂寺(四十七番、同県松山市)の五か寺にのぼる。また、泰山寺(五十六番、同県今治市)のように「寺主ハ無シ、番衆ニ俗人モ居ル也」という例もある。戦国時代の荒廃から立ち直れずにいた寺の様子がわかる記載である。


 (4)まとめ


 澄禅が出会った遍路には高野山や吉野の行人衆がいた。このことは僧侶の遍路には回国聖もいただろうが、行人方が深く関わっていたことを示すものである。澄禅は高野山関係の僧と旧交を温めており、澄禅自身が高野山に留まっていたことを示す記述がうかがえる。庶民の遍路も珍しいものでなく、中には数回も巡っている富裕層がいた。閏年 ができる前から、逆打ちが既に行なわれていた。遍路に宿を貸す善根宿の原型ができていた。お接待に相当する行為もあった。


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 顱慂嬾日記』の「辺」は正しくは、しんにゅうに鳥。「辺」の異体字。本論では引用文は「辺路」と表記、地の文は一般的な「遍路」を使用した。底本に塩竃神社(宮城県塩釜市)所蔵の正徳四年(1714)写本の影印本(高野山大学図書館所蔵)を使い、宮崎忍勝『澄禅四国遍路日記』(大東出版社、1977)、近藤喜博『四国遍路研究』(三弥井書店、1982)、伊予史談会『四国遍路記集』増訂3版(愛媛県教科図書、1997)を参照し校訂した。
 鮠田原谷は現在の高野山の中心商店街のあるあたり。
 鷸ソ衄峭罎聾什澆里發痢澄禅の日記に記載はない。
 高野山證菩提院。現在は移転して親王院に合併されている。
 丁寧か。
 白木利幸「澄禅大徳の『四国遍路日記』」(『善通寺教学振興会紀要第五号』1998)74頁。
 現在は閏年に逆打ちすれば三倍の利益が得られるという信仰がある。太陽暦への改暦は明治6年(1873)。閏年はそれ以前にはなかった。

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